第1話 天使のラッパ (産婦人科)

 4月第1週の月曜日。教育棟1階のロッカールームに立つ男が一人。白いワイシャツに青いネクタイ、シワのない白衣には輝くネームプレート、そこにある名前は…同村重一。最後にもう一度鏡でチェック、問題なし。教科書とノートを脇に抱え、ポリクリ生・同村くんの完成だ。
「よし、いざ行かん」
誰にでもなく彼は言う。時刻は午前8時ジャスト、待ち合わせまではまだ十五分もあるが…初日ですもの、このくらいの余裕は必要だ。
さっそうと学生ロビーに踏み出す。学生ロビー、通称『学ロビ』は二十畳ほどの談話空間。低いテーブルとソファがいくつも置かれ、そこに白衣姿の同級生たちが溢れ返っている。壁には大きな窓が並び、射し込む朝の陽光がおろしたての白衣たちをまるで洗剤のコマーシャルのように白く白く輝かせている。その眩い光景に同村はしばし目を細めた。
「同村、こっちこっち」
呼ばれて振り向くと、壁際のソファには右手を上げた長、隣にはまりかも同じく白衣姿で座っている。
「おはようございます。二人とも早いんですね」
挨拶を返しながら班員たちのもとへと向かう。
「おはよう同村。遅刻しちゃまずいと思ったら、ついつい早くに目が覚めてな」
「俺もですよ」
同村はテーブルを挟んだ対面のソファに腰を下ろす。そこでまりかも「おはよう」と小さく言った。
「おはよう秋月さん。いよいよポリクリだね」
「そうね。初日だから…ドキドキしちゃう」
実はこんな可愛い発言もする彼女である。
「いや~、俺は絶対先生に年齢をいじられるよ」
長が苦笑い。確かに、容姿だけなら彼は中堅のベテランドクターだ。
「貫禄があっていいじゃないですか。俺なんかいかにも学生って感じですもん。それにしても、最初に回るのが産婦人科ってのも考え深いですね」
同村の言葉にまりかが頷く。
「私もそう思った。人間がこの世に誕生するところから勉強できるのはいいよね」
ポリクリは一年間かけて様々な科を回る。回る科の順番は班によって異なり、当然4月の最初に産婦人科を回る班もあれば、年度末の最後に回る班もあるわけだ。
「柔道部の先輩に聞いたんだけど、産婦人科のポリクリは必ず出産を見学して、最後にそのレポートを提出するらしいぞ」
「そうですか。あ、長さん柔道部なんですね」
「そうだぞ同村、いい歳して頑張ってんだ。お前は部活何かやってんだっけ?」
主人公は一瞬躊躇してから「文芸部です」と返す。するとまりかが興味を示した。
「へえ、すごいね。文芸部なんてあるんだ」
「いやいや、知る人ぞ知る弱小同好会だよ。この学年にも部員は俺だけ」
「文芸部ってことはきっと小説いっぱい読んでるんだよね。作家とかにも詳しそう」
「いや、それほどでも…」
才女からの思わぬリアクションにちょっと嬉しそうな同村。
「じゃあもしかして小説とか書いてるの?」
「あ、うん…一応」
「すごいな。そういえば医者しながら作家やってるって人、時々いるもんな。同村、今度読ませてくれよ」
「長さんまでそんな…。本当にたいしたものではないんで」
とか言いながらも、明らかに口元は綻んでいる。
「俺も文才が欲しいよ。ポリクリはたくさんレポート書くから、同村、才能を活かせるぞ」
「だといいんですけど…」
同村はおだてられてちょっとその気になっているらしい。考え過ぎですぐ思考の迷宮に入り込むこの男、感情面は意外に一本道なのかもしれない。
「秋月さんも本とか好きそうだよね?」
「そうね、ベタだけど太宰は結構読んだかな。特に憶えてるのは…あの、お姉さんが病気の妹を思い出す話。悲しいけどすごく綺麗だった」
「『葉桜と魔笛』かな。メロスもそうだけど、太宰は短編もいいよね。長さんは好きな作家います?」
「おっと俺にも訊くのか。そうだなあ、やっぱり宮沢の賢ちゃんかな。読んだのはガキの頃だけど…。あと作家はわかんないけど、シンドバッドの冒険とか好きだった」
「アラビアンナイトですね。俺も読みました」
しばし思い出の文芸トークで会話が転がるかに思われたが…のどかな朝に春一番は突然吹き荒れた。
「おっはよー!」
学生ロビーに響き渡る底抜けに明るくて大きな声。その主は…もう言うまでもなく笑顔100パーセントの遠藤美唄。また一部の女子から冷たい視線も注がれるが…まあご愛嬌ご愛嬌。
「おはよう美唄ちゃん。今日も元気だね」
長が片手を上げ、同時に「おはよう」と同村とまりかも続く。班員に迎えられながら、美唄はぴょんとジャンプして同村の隣に腰を下ろした。
「長さん白衣似合いますね。なんだかもう本物のお医者さんみたい」
「歳のせいだって。美唄ちゃんも女医って感じ」
「そうですか?ヤッター!でもあたし、産婦人科って苦手なんですよね。赤ちゃんが生まれる時の頭の回転とか、なかなか理解できなかったし」
「あれは俺も苦戦したなあ」
長はそこで腕組み。続いて美唄は隣に尋ねた。
「同村くんは産婦人科は得意?」
「いやいや…婦人科はともかく産科はさっぱり。どのホルモンが上がって下がってとか、いつ体温が上がって下がってとか、大混乱だった。あ、でも一番最初の授業で教授が言ってた言葉は憶えてる…『女性を見たら妊娠と思え』。あれはびっくりした」
「もし妊娠の可能性を確認せずに、レントゲンとかしたら大変ってことね。あれは私もインパクトあったな」
まりかも賛同。続けて長がおどける。
「そうだぞ同損、それが基本だ。お前はちゃんとさっき美唄ちゃんを見た時に妊娠の可能性を考えたか?」
「やだ長さん、何言ってるんですか」
美唄に何故か肩を叩かれ、同村は赤くなる。こんなことで赤面してたら産婦人科は大変だぞ、純朴青年よ。
「盛り上がってますね、みなさん」
続いて井沢も登場した。爽やかに白衣を着こなし、髪型も清潔に短くなっている。まさにポリクリモード。彼もまた挨拶を交わしながら腰を下ろす。
「長さん、どこの准教授かと思いましたよ」
「お前まで言うか。勘弁してくれよ」
みんなで笑う。さて、今のところ順調に集まっている14班メンバーだが…。

 やっぱりというか、またかというか、現れないのはあの男。時刻は8時22分を回っている。
「そろそろ行かないと、間に合わねーよ」
井沢が腹立たしげに言った。
「さっきから何回も電話してるんだけど、繋がらなくて…」
携帯電話を耳に当てて返す美唄。長もいささかあきれた感じで「初日から遅刻はまずいよな」と漏らす。同村はもちろん無言。
「しょうがない、行きましょう」
と、まりかが腕時計を見ながら歩き出した。みんなもそれに従う。
「遠藤さん、院内では携帯電話は切っておいてね」
「了解です!あ、呼び方は美唄でいいからね、まりかちゃん。よ~し、いざ出陣。エイエイオー!エイエイオーイエー!」
また美唄が大声で拳を振り上げる。井沢と長が「美唄ちゃん、落ち着いて」とさすがに制止。そんなやりとりをしながら五人は教育棟を旅立った。目指すは隣に聳える巨大な城…そう、すずらん医科大学病院だ。駐車場を挟んで50メートルほどの距離にある。
「医局に8時半だろ、間に合うかな」
焦った様子で井沢が言う。まりかが答えた。
「大丈夫。産婦人科の医局は3階だから、階段で行っても五分もかからないわ。先に場所を確認しておいたから」
「さすが班長!素晴らしい」
長が感心する。ちなみに君は副班長であることをお忘れなく。
「まりかちゃんが班長になってくれて、本当によかった。すっごく慣れてる感じだけど、前にも何かやってたの?」
「一応高校の頃に部活で…」
「やっぱりそうなんだ。ねえねえ、何の部活?」
「そんな、言うほどのものじゃ…」
女の友情を深めようとする美唄、それに対してまだ心を開くにはほど遠いまりか。しかしそんな無駄口も病院の正面玄関が近付いてくると自然に叩けなくなる。
大病院の正面玄関はまるで老舗ホテルのエントランスさながらで、徒歩で訪れる者だけでなく、タクシーで来院する者たちも引っ切り無しに乗り付けていた。
無言のまま、五人も人々の流れに乗って中に入る。脇にいる警備員たちがさり気なく彼らのネームプレートをチェックする。美唄だけが警備員たちに「おはようございます」と挨拶した。
いよいよ敵陣に突入。二つ目の自動ドアが開いてまず感じるのはモワッとした生暖かい空気、その中に漂う病院独特の薬品の香り。歩みを進めると、いくつものカウンターが並ぶ吹き抜けの大きな空間に出た。
そこにはあまりにたくさんの人間がたむろしていた。足早に行き交う白衣姿の医療スタッフ、カウンター内にはスーツ姿の事務スタッフ、そして長蛇の列をなす外来患者とその家族たち…。
「あっちよ」
人の波をうまくすり抜けながら、班長の先導のもと五人は奥へ奥へと進んでいく。八機分のドアが並ぶエレベーターホール、開いたドアを一瞬覗いたがすでにいくつもの疲れた瞳がこちらを向いており、とても乗れそうにない。エスカレーターも同様。素通りして階段の入り口にたどり着くと、足音を響かせながら薄暗い空間を上る。もし彼らの動きを上から見たら、きっと一列で移動するロールプレイングゲームのようだろう。
「それにしても、向島さんって…すごい人だよね」
ふいに同村が振り返って後ろの美唄に言った。彼女は少し顔を曇らせ、「悪い人じゃないんだけど…」と答える。
同村は別に向島に対して怒りや苛立ちは感じていなかった。多少あきれてはいたが、『すごい人』という彼の感想は批判的なニュアンスではなく、むしろその逆だった。

とかく医学部という所では、何よりも足並みを揃えることが要求される。それをこれまでの四年間で同村は思い知ってしまった。
入学した時、彼がまず驚いたのは同級生たちがみな同じ色に見えたことだった。もっとカラフルな個性の花園を想像していただけに、一面に同じ花が植えられているのは不気味な光景でさえあった。しかし、医学生たちは医者を目指す同じ道の上にいるのだから、当然といえば当然のこと。だって医学部は医者になるための学校。そんなことは入学前から百も承知の当たり前のはずだ。
いよいよここで主人公・同村重一の最大の秘密をお伝えしよう。なんっとこの男、その百も承知の当たり前を知らなかったのだ。人一倍読書家であるのだが、本の知識と実生活の知識は似て非なるもの。彼は『文学を学びたい人が文学部へ行く』のような感覚でここに来てしまったのだ。だから入学式で学長が「将来医者になる君たちは…」と挨拶を始めた時に、心の底から驚愕した。
え?それはもう決定事項なの?文学部に入った人がみんな文学者になるわけじゃないよ?医学のことをこれから学ぶのに、どうして医者になることが先に決まってんの?
…そう胸の中で問い返し、さり気なく周囲を伺ってもみたが、誰もそれに疑問を感じていないようだった。
案の定、その後の授業も、課題も、日常会話も、全ては将来医者になることを前提に繰り広げられる。とても「医者になる気はないけど興味があったから医学を学びに来ました、どうぞよろしく」なんて言える雰囲気ではない。同村はそれこそ太宰治の『人間失格』の主人公の如く、自らの正体を周囲に隠さねばならなくなった。彼が大学に入ってますます無口になったのは、実はそんな知られざる孤独も影響しているわけである。
同級生はみんな医者の卵。いくら容姿や年齢が違っていても、同村の目には彼らが全員同じ色に映った。しかもここは私立、国立とは学費のゼロが一つ違う。先祖代々病院をやっている家の二世や三世もゴロゴロいる。家庭環境や経済状況を見ても、振れ幅は小さい。
そしてその同類項の医学生たちからさらに個性を奪っていくのが、留年の恐怖だというのが同村の考察。ここにいる学生たちは極端に留年を恐れている…まるでそれが人生の終わりであるかのように。だからみんなと同じ資料で勉強し、同じようなレポートを書き、先生たちに目をつけられないようにする…それが留年しない秘訣だからだ。大多数と同じ知識で同じ点数を取れば、例えそれが低いものでも自分だけ落とされることはない。学校側から提示される課題が時に理不尽や矛盾を含んでいたとしても、逆らうことなくそれを受け入れる。さあ足並みを揃えましょう。みんなで一緒に歩きましょう。
もちろん学生なのだから勉強はしなくてはいけない。しかし、ここまでみんなと同じにすることはないんじゃないか?これでは毎年受験戦争をやっているようなものだ。
いつしか同村はそんなことを考えるようになっていた。みんなと同じ当たり障りないレポートを書くことに、彼はこれまで何度も抵抗を感じてきた。しかし弾圧に逆らって天草志朗のように闘う度胸も彼にはなかった。
彼が山田と気が合ったのも、山田もこのモヤモヤを理解できる人間だったからだ。山田も私立医学部という環境の弊害に気付いていた。ただし彼と同村の大きな違いは、割り切ることができるという点だった。同村のように果てなく葛藤するより、割り切って前進するのが山田の生き方。同村は幾度となく山田に叱咤され、煮え切らない彼にはそれが有難くもあった。
まあそんな同村だから、この春の進級試験にギリギリ合格した時も、嬉しい反面どこかがっかりもした。結局自分はまた流れに乗っている…医者になる覚悟もできていないくせに。もちろんそんなことを言っては留年した同級生たちに申し訳ないのだが。自分は器が小さい、偉そうな理想ばかりを語り結局現実に屈している…同村はそう自らを卑下している。
だから、説明会もポリクリ初日さえも平然と現れない向島が、彼にはどこか魅力的に感じてしまう。足並みを揃えず大多数から外れることをいとわない人間…まだ直接話したこともないエキセントリックな先輩に、同村は密かな期待を寄せていた。

おっと、主人公の胸の内はこのくらいにして話を戻しましょう。
五人は3階に到着し、産婦人科医局のドアの前に立った。
「では、行きます」
まりかがゆっくりドアをノックする。
「失礼します、ポリクリの学生です」
ドアをそっと開けて中に入る。注がれるいくつかの視線。学生は揃って「よろしくお願いします」とおじぎした。
恐る恐る顔を上げ、同村は唇を噛みしめる。さてさて頑張ってくれたまえ。君が矛盾や反感を感じている医学部の中枢を、ぜひその曇りのない瞳で見極めてくれ!

 間もなく医局では朝のミーティングが始まった。学生五人は小さくなって部屋の隅で見学する。初めて間近に見る大学病院医局の朝の風景。夜勤スタッフからの申し送り、本日の入院や退院の予定、業務連絡などが専門用語満載で飛び交う。何が何やらよくわからないうちに場は解散となり、ようやく五人の前に一人の医師が近付いてきた。
体格の良い40歳過ぎの男性。その涼しげな表情には自信と余裕だけでなく、時に厳しさも垣間見せる。学生時代は体育会系だったのかもしれない。
「こんにちは、ポリクリさん。学生指導の鮫島です、よろしく」
「よろしくお願いします」
また揃って頭を下げる。
「君たちは今日が初日なんだよね。まあそんなに緊張しないで。産婦人科のポリクリは、それほど忙しくないから。まずは病院の雰囲気に慣れてください」
鮫島は柔らかい声で話す。
「まず今週は産科を見てもらいます。君たち一人ずつオーベンに着いて、それぞれの指示に従ってください。あ、オーベンってのは指導医のことね」
五人は「はい」と合わせて返事。
「ええと、班長さんは…」
「私です」
まりかが一歩前に出る。鮫島は「じゃあこれ」と彼女にプリントを渡した。
「そこに誰がどのオーベンに着くか書いてあるから。各オーベンに着いて、今週のどこかで一回は分娩を見学してくださいね。それをレポートにして提出、レポートのチェックも各オーベンにしてもらってね。じゃあまた」
そこまで説明すると、鮫島は足早に医局を出ていった。仕事が詰まっているのだろう。大学病院の医師たちは日々の診療と研究に追われながら、学生指導までしなくてはならない。多忙は当たり前だ。
そんなわけで鮫島は質問時間も与えず去ってしまった。医局に取り残される五人。あまりの展開にみんなしばし呆然。向島が欠席していることさえおそらく気付かれていない。
「なんか放置プレイだけど、とにかく動こうよ。ね、まりかちゃん」
美唄が口を開いた。
「そうね。鮫島先生がおっしゃったように、このプリントに書いてあるそれぞれのオーベンの所へ行きましょう」
全員の視線が彼女の手元に集まった。
「そうだな。ええと、俺のオーベンは…」
同村もゆっくりとプリントを覗き込んだ。
…前途多難だが、ファイトです!

 午前9時。診療開始時刻となり、医局にはほとんど人がいなくなった。同村以外の四人はみんなそれぞれのオーベンを捕まえて一緒に出ていったが、彼だけまだ自分の指導医を見つけられずにいた。
さっそく出遅れてるね、同村くん。それでは君を追ってみることにしましょう。
プリントに書かれた彼のオーベンの名は志田という女医。同村は考える…今ここに女性の医局員の姿はない。つまり、ここに志田医師はいない。よって、捜しに行かなくてはならない。でも…一体どこへ?この29階建ての巨大な病院のどこにいるというのか?
もしかしたら迎えに来てくれるかも、と淡い期待で同村はもう少しその場に立ち尽くしてみたが、9時半を過ぎるとさすがに焦ってきた。どうやら志田医師が現れる様子はない。
「困ったな、こりゃ…」
おいおい、独り言を言ってる場合じゃないぞ。
「ポリクリさん?」
その時、後ろから声がかけられた。

 優しい医局秘書さんのおかげで、ようやく志田医師の所在を突き止め、同村は2階・産科外来へと向かった。こりゃまるで本当にロールプレイングゲームだ。受付の事務員に尋ねたところ、すでに志田医師の診療は始まっており、声をかけるのは診察の合間にしてくれとのことだった。というわけで、同村はまたそこで立ち尽くすこととなった。

 10時を回り、ようやく入れてもらえた診察室。志田は鋭い切れ長の瞳をした30台半ばの女医だった。大きなマスクをしているため、余計に眼光が印象に残る。
「同村先生ね、…了解。外来中だから相手できないけど、まあそこに立って見学してて」
女医は早口でそう言うと、すぐに机に向き直り同村に背を向けた。先ほどの鮫島といい、大学病院の医師たちはまるで倍速ビデオのように動いている。
「北澤さん、北澤千鶴さん、どうぞ診察室3番にお入りください」
志田はカルテをめくりながら机上のマイクに呼びかける。間もなく入ってきたのはまだ若い女性だった。
「こんにちは北澤さん。今日はどうされました?確か定期検診はまだ先でしたが…」
「先生、今朝転んでちょっとお腹ぶつけちゃって…それで心配になって来たんです」
「そうですか、それはご心配ですね。北澤さんは…妊娠19週…ですね」
志田はカルテを確認しながら優しく話す。彼女が作り出す雰囲気はとても暖かく、見学しているだけの同村にさえ安心感をもたらすものだった。
「では、診てみましょう。どうぞ横になってください」
診察台を促し患者を横にさせる。その一連の流れは実にスムーズで一切の無駄がない。一日に何十人もの患者をさばいていく大学病院においては、手際の良さも重要なスキル。
診察台の横で同村も持っていた教科書をめくった。妊娠19週の状態を調べようとしたのだ。しかし…。
突然志田が立ち上がり、同村の教科書を押さえつけた。何?何?どういうこと?
「患者さんの前で教科書は開かないで!」
志田は顔を近づけ、小声で、しかしきっぱりとそう言った。同村の背筋はその鋭い眼光に凍りついてしまう。まるでメデューサに石にされてしまったようだ。
次の瞬間、志田はまた先ほどの雰囲気に戻り、患者の横に腰掛けた。
「では、診察しますね…リラックスしてください。朝ごはんは食べてきましたか?」
「はい、一応…」
「それは結構ですね。はい、お腹に触りますよ」
同村はただ呆然とそれを見ているしかなかった。
う~ん、いきなりやっちゃったね同村くん。…ドンマイ!

やがて午前の外来が終わる…といってもすでに午後2時近い。何度もいうがここは都会の大学病院、患者の数が違う。午前の外来が午後に食い込むなんて日常茶飯事。
最後の患者のカルテを看護師に手渡すと、志田はようやく同村に向き直った。初めてマスクを外したその顔は、鋭い瞳に相応しい端正な造りをしている。
「お疲れ様、同村先生」
四時間も放置プレイで立ちっぱなし、ただ本当に石像のように見学していただけなので、正直同村は疲れていた。…が、学生がそんなことを言えるはずもない。いくらアウトローに憧れる彼でも、そのくらいの良識は持ち合わせている。それに目の前の大先輩は自分よりはるかに疲れているはずであることもわかっていた。
「いえ、大丈夫です。それにまだ僕は先生じゃ…」
「院内じゃ患者さんの手前もあって、学生さんのことも先生って呼ぶのよ」
答えながら志田は立ち上がる。
「ええと、じゃあ今から午後3時まで休憩!お昼ごはんとか食べててよ。3時になったら12階の産科ナースステーションに来て。勉強してもらう患者さんを決めるから。
…以上、かな。ハイ、じゃあ午前は終了!」
また倍速でそう言うと、女医は忙しそうに診察室を出ていった。
かっこいいね!働く女性の姿、できる女の姿である。それにしても…タフですねえ、お医者さんって。
それに引き換え、…またまたその場に立ち尽くす同村であった。

 教育棟。同村が自販機でパンとコーヒーを買って学生ロビーに戻ると、朝と同じソファに井沢と長の姿があった。周囲でも同級生たちがちらほら休憩している。誰も初めてのポリクリに少なからず疲労を漂わせていた。
「おう、お帰り同村」
白衣を脱いで一休みしていた井沢が軽く手を上げた。長も「お疲れ、どうだった?」と迎える。体面に腰を下ろすと、同村は大きく息を吐いた。
「いやぁ、足が棒になりましたよ」
「何やってたんだ?」
「外来の見学。でも、教科書見るなって怒られちゃったよ」
「俺もエコーの検査室で看護婦に怒られたよ。何か触っちゃいけない機材触ったみたいなんだけど…そんなのいきなりわかんねえって!検査室の場所とかも説明受けてないのに。学務課もそういうことをちゃんと教えとけっての」
不平を吐露する井沢に長もうんうんと頷く。
「井沢は検査見学か。じゃあ長さんは何してたんですか?」
「俺は患者さんにカイザーの手術の説明をする場に立ち会ったんだ。術式とか所要時間とか、あと起こりうる合併症とかさ」
「カイザーの合併症っていうと、腸閉塞とか肺塞栓とかですよね」
と、井沢。ちなみにカイザーとは帝王切開のことで、語源はもちろんかの帝王カエサル。
「そうそう。あと大量出血した場合の輸血の可能性とかな。まあ説明自体はかなり丁寧でわかりやすかったんだけど…。いや、すごくたくさんの同意書を患者さんに書かせるんだよ。それで終わった後でオーベンと話したんだけどな…」
そこで長は少しトーンを落とす。
「いや、なんか、こういうふうに説明しないと訴えられた時に不利になるとか、同意書は裁判に負けないようにとか、責任とらされないようにとかさ、…そんな話ばっかで、ちょっとがっかりしたな」
井沢が腕を組んで答えた。
「産婦人科は特に訴訟が多いですもんね。こっちも自分の身を守らないとやっていけないんですよ。親父もよくそう言ってます。うちも代々産婦人科なんで」
それを聞きながら同村は「世知辛いな…」とコーヒーでパンを流し込んだ。
訴訟大国アメリカでは、病院の入り口にまるでティッシュ配りのように弁護士が待機し、「必ずお金を取ってみせますから」と患者や家族に裁判を持ちかけるという。とんだキャッチセールスもあったものだ。そして今、日本でも医療訴訟はけして珍しいものではなくなっている。かの名作『白い巨塔』においても、原作小説では大学病院を訴えること自体が稀有な行為として描かれているが、近年のテレビドラマ版では訴訟は数多いものとしてニュアンスが変更されている。
そんな社会情勢の中、医師の意識が純粋に患者の病を治すことだけではなく、自己防衛に働いてしまうのも無理からぬこと。しかし彼ら学生はまだその現実をよく知らない。少なからずの憧れや理想を医療に抱いている。だから今まで教科書のどこにも載っていなかった訴訟という話題にいきなり暴露されれば、テンションが下がるのも無理はない。
同村の言葉を最後に、その場には沈黙が訪れた。

 火曜日、朝の学生ロビー。ポリクリ二日目にしてついにあの男が現れた。
「どうも、昨日はすいません。向島です、よろしく」
たいして後ろめたさもないその態度を、いきなり歓迎したのは美唄だけだった。向島は一応白衣姿ではあるが、寝不足そうな顔にボサボサの頭。みんなに話しているはずなのに、その瞳はまるで遠い空でも見ているかのように虚空を仰いでいる。
「もうMJさん、ちゃんとしてくださいよ!でもこれで14班全員集合ですね」
美唄は盛り上がっているようだが、本来は全員集合しているのが当たり前。
「ええと、今日も各自のオーベンに着いてその指示に従ってください。あと、午後4時から12階のカンファレンスルームでクルズスがありますから、そこは全員集合してください」
班長が明瞭に説明する。ちなみにクルズスというのは、ポリクリ中に院内で行なわれるミニ講義のようなもの。
「頼みますよMJさん、途中で逃げちゃダメですからね!」
美唄はそう言って先輩の背中をポンポン叩く。彼は「わかってるよ」と面倒臭そうに答える。井沢や長からは不信の視線が注がれていたが、同村だけはようやく出会えた稀代のアウトローを、興味深そうに見つめていた。

 そんなこんなで始まった二日目は、初日と同じくまたロールプレイングゲーム。同村は志田医師を求めて院内を探索。ようやく見つけて立ちっぱなしの見学。午後からは「自由にしてて」と解放されるがどこで過ごしてよいかもわからず、歩き回ると「そこは立ち入り禁止!」と看護師から大目玉を食らい、しょうがないので非常階段に腰掛けて人知れず自習する羽目となった。
午後4時からのクルズスでは六人全員揃ったが、ニヤけ顔の若い医師の講義はドン引きのセクハラ発言満載で、井沢と長はかろうじて愛想笑い、まりかは黙々とノートを取り、美唄は何も聞こえないふりでお澄まし、同村はもちろん無言で、向島は爆睡というなんともカオスな空間であった。

そして現在午後8時。クルズスの後、六人はそのまま12階のカンファレンスルームに残っていた。鮫島から、今夜出産しそうな妊婦がいると教えられたからだ。彼らは今週中に一度は分娩を見学しなくてはいけないわけだから、早く済むに越したことはない。しかしクルズス終了からもう三時間が経過、出産の時がきたら看護師が呼びに来てくれる手筈なのだが…。
実はすでに先ほど一度看護師が呼ぶのを忘れていて、分娩は終わってしまった。今はもう一人のタイミングを待っているところだ。
六人は最初は自習などしていたが、さすがに疲れて今なお教科書を読んでいるのはまりかのみ。向島は机に突っ伏して変わらず爆睡、残りの四人もぼんやりしている。それでも美唄は時々明るく話題を振っていた。
「それにしてもさっきの看護婦マジ有り得ねえよ。忘れてたって…こっちは何時間待ってると思ってんだ」
急に井沢が憤怒を漏らした。
「しょうがないよ、看護師さんも忙しいんだろうし…」
美唄が返す。まあ現場のスタッフは目の前の患者に全力投球していて当然、学生のことなんて二の次でも三の次でも責められないが…さすがにこの放置プレイはしんどい。カンファレンスルームの小さな窓からは、新宿の街のネオンが見える。眠らない街にはおいしい料理もうまい酒もあるだろう。でもここには半ば軟禁状態で、飢えと渇きに耐えている若者たちがいる。

 時計はさらに回って午後9時。全員の気力も尽きかけた頃…ついにドアが叩かれた。
「ポリクリさん、急いで!」
待ってました、と言わんばかりに全員が部屋を飛び出し分娩室へ走る。夢の中にいた向島もガバッと起き上がり、遅れて後を追った。
ついにきたのだ、待ちわびたこの時が!
先頭の井沢が分娩室のドアに手を掛ける直前、中から…。

「オギャーッ!」

高らかな産声が上がった。
顔を見合わせる井沢と長。…まさか、そう、どうやらそのまさかのようだ。
井沢はゆっくりドアを開ける。すると、そこには赤ちゃんを抱いた鮫島が母親にその子を見せている光景、笑顔でそれを囲むスタッフたち。
少しの間の後、鮫島がようやく学生たちに気付いた。
「あ、君たち遅いよ~。もう今夜は出産はないだろうから、今日はこれでおしまいね。大丈夫、また見学のチャンスはあるから」
早口にそう言うと、鮫島は赤ちゃんをあやしながらまた母親の方を見る。そこには至福の涙を浮かべた母親と、同じく嬉し涙で寄り添う夫。
何も言えずおずおずと廊下に引っ込む六人。お呼びでない、完全にお呼びでないね、こりゃまた失礼しました。
こんな世界一幸せな光景を見て落ち込む人間なんて、きっとポリクリ生くらいだろう。

「マジ有り得ねえって!」
爽やか青年のはずの井沢が、般若の形相で激しい怒りを吐き出している。教育棟への帰り道、すっかり夜の闇に包まれた駐車場を六人は歩いていた。
「絶対あれはまた忘れてたんだって!そんな、産気づいてすぐ生まれるわけねえし!」
「まあ明らかにそうだな」
長も疲れた顔で言う。
「ポリクリへの嫌がらせか?バカにしやがって、看護婦のくせに!出産なんて、俺、親父に頼めばいくらでも見られるのに!」
井沢は相当お冠のようだ。同村はそんな彼の態度を訝しげに見ていたが、ふと美唄の口数が少ないことに気付いて振り返る。彼女は向島の後ろ、みんなの最後尾を無言で歩いていた。心なしか元気がないように見える。
「遠藤さん…大丈夫?」
「え、何が?大丈夫よ」
そこでまた美唄はいつもの笑顔100パーセントでガッツポーズ。そんな彼女の様子に、向島は黙って小さく頷いた。

 学生ロビー。さすがにこの時刻ともなると他の同級生たちの姿はない。
「じゃあみんな、今日はお疲れ様でした」
と、まりか。すっかり班長が板に付いている。
「明日は教授回診なので、朝9時に12階ナースステーション集合だから…ここに8時半集合にしましょう」
「了解です!」
美唄だけが元気な返事。他は力なく頷く。本当にお疲れのようですな。
…パシャッ!
ふいにフラッシュがたかれた。それは元気娘・美唄のカメラだ。
「…遠藤さん?」
同村が驚いてそちらを見る。
「だってあたし、アルバム委員だもん!一年間、みんなの写真をバッチリ撮るからね!」
「こんなところも撮るんだ…」
「もちろん!夜の学ロビなんてレアでしょ」
笑顔のカメラマンに長は少し微笑んで伝える。
「美唄ちゃんのパワーって、本当にすごいな。おじさん、なんかちょっとだけ元気出たよ」
「そうですか?じゃあせっかくだし、みんなでどっか行きます?」
「え、今から?」
同村が驚く。彼は気付いていないが、美唄へのリアクションという形で口数が増えてきている。
「そうよ!だってこのまま今日帰っても、みんなバタンキューでしょ?こんな遅くまで残ったことに何か意味を持たせようよ」
「って言ってもなあ…飲み会とか?」
戸惑う同村。長も難色を示す。
「いや、そりゃまずいだろ。明日は教授改心だし、絶対遅刻できないぞ」
「そうですよね。じゃあなんかちょっとだけパアーッと遊びませんか?学ロビでだるまさんがころんだ、とか」
…美唄はどこまで本気なのだろう。だがその表情は笑顔100パーセント、完全にスイッチが入ってしまっている。
「私は早く帰りたいけど…」
「まあまあ、まりかちゃん。ちょっとだけ遊ぼうよ、今夜の記念に」
「じゃあ、近くのビルにあるゲーセン行く?そこ夜10時までだし、どうせあと一時間くらいだから」
井沢が提案する。さすがに色々よくご存じで。それにノリノリな美唄が賛同。
「うんうん、そうしよう!どう、みんな?」
「ゲーセンか…ま、こんなことでもないと行かないもんな。せっかく14班が全員揃ったわけだし、たまにはアルコールなしで健全にやりますか」
長も応じる。これぞ最年長の包容力。それにしても夜のゲームセンターははたして健全なのだろうか?
「おし、憂さを晴らすぜ!」
井沢も急にテンションを上げた。同村も「まあ、いいんじゃない」と頷く。向島は特に何も言わず、また虚空を見つめていた。
「決まりっ!じゃ、みんな、すぐ着替えてここに集合ね」
嬉しそうにそう言うと、美唄は合図のように再びシャッターを切った。

 最後まで渋っていたまりかを美唄が引っ張って、六人は近くのビルにあるゲームセンターに到着した。時刻は9時半、髪の色を原色に染めた若者たちが様々なゲームに興じており、店内には大音量のBGMが飛び交っている。
「うわ~、すげえ久しぶり。昔はよく通ったなあ」
長が第一声。
「長さんの世代だと、インベーダーゲームとかですか?」
「そうだなあ…っておい井沢、俺は古き良き昭和か!学生街の喫茶店か!」
漫才コンビのようなやりとりに、残る四人も思わず吹き出す。
「すいません長さん。それよりあと三十分です、何やります?」
そこで誰より先に「あ、あれやろう!」と美唄が宣言。彼女の指差した先は…クレーンゲーム。そう、あのぬいぐるみを取るヤツだ。
「君は…小学生か?」
思わずツッコミを入れる同村。
「もう何よ、クレーンゲームは大人もやるのよ。ほらみんな、こっちだよ!」
彼女に導かれるままに、六人はそのゲーム機の前に集まる。
「見て見て、500円で六回チャレンジできるって!ちょうど六人いるし、いいんじゃない?」
「うわ~本当に懐かしい。で、どのぬいぐるみを狙うの?」
「お、長さん乗り気っすね!」
井沢も食いついてくる。
「え~とね、あ、あの子とかいいんじゃない?」
美唄がゲーム機のガラスに顔を引っ付けて指差す。そこには、赤ちゃんのような天使がラッパを持っているぬいぐるみがあった。大きさ20センチほど、クレーンゲームの景品としては少々大きめな物だ。向島も瞳をまん丸に見開いて子供のように覗き込む。
「確かに、産婦人科っぽいね」
「ですよね、MJさん!」
「あれだけ一つしかないみたい。他のは同じのが何個かずつあるけど…」
同村が言う。
「うんうん!ほら、まりかちゃんも見てよ!どう、あの子」
みんなの後ろで黙っていた班長も、美唄に言われて覗き込む。
「うん…可愛い」
「だよね!じゃあ決定ね」
「それじゃ、僕が500円出すよ」
そう言って財布を持つ向島。長が「いいんですか?」と尋ねる。彼からすれば、向島は年下の先輩になる。
「いいよ、昨日はみんなに迷惑かけちゃったしね」
「じゃあ六回をうまく使って、あのぬいぐるみを穴まで引き寄せましょう」
まりかが号令。意外と好きなのかな?井沢も「了解です、班長!」と盛り上げる。
「14班、初めての共同作業だな」
文芸部・同村もシャレたことを言ってみせる。
「ではスタート!」
向島が硬貨を投入する。軽快な音楽が流れ始め、操作ボタンが点滅した。
「よし、では僭越ながら失礼します」
まず長がトライする。まるで子供にいいところを見せようとするお父さんのように真剣…だったが、クレーンのフックはわずかに獲物をかすめただけ。ぬいぐるみは少し揺れた程度。
「も~、長さん!」
嬉しそうに悔しがる美唄。続いて同村が珍しくやる気を見せてトライする。
「いけ、同村くん!」
と、向島もノリノリだ。同村はうまくフックを獲物にフィットさせるが、パワーが足りずぬいぐるみは少し浮き上がった程度でまた元に戻る。「あ~!」と美唄が悶えている。続いてまりかがトライ。
「長さんと同村くんのを見た感じだと、多分こうすれば…」
何やら分析めいたことを言いながら操作する才女。しかしそのフックは獲物の横に落ちる。みんなあまりに彼女がヘタクソなのかと思い、一瞬言葉を失うが…。
…コロン。
フックが元の位置に戻る時にぬいぐるみに当たり、一気に転がって大きく穴に近付いた。
「おお、すげえ!さすが特待生!」
「まりかちゃんすご~い!」
歓声を受けて照れ笑いのまりか。化粧っけのないその顔はとてもあどけない。
「よし、次は俺だ」
井沢のトライ。何でもそつなくこなす彼は、ここでも見事なアシストを見せた。ぬいぐるみは穴まであと5センチくらいまで迫る。
「行け、遠藤さん!」
続いて美唄のトライ。同村はまた気付いていないが、彼が山田以外の同級生にこんなふうに言葉をかけるのも初めてのことである。
美唄はぬいぐるみをじっと見ながら慎重にレバーを動かした。そしてついにぬいぐるみは穴まで2センチほどの位置に迫る!
最後の挑戦者は…そう、スーパーアウトロー、『僕はミュージシャンを目指します』の伝説でお馴染みの我らがMJKだ。
「頼みます、向島さん!」
長もガラスにへばりついて応援する。向島は何やら妙なポーズでレバーを握り、ミュージシャンらしい細長い指でそれを繊細に操る。
フックは見事にぬいぐるみに引っ掛かり…かけたが空振り。
「お願い、神様!」
美唄の声。みんな息を呑む。

…ストン。

フックは天使の持っていたラッパに引っ掛かり、見事にぬいぐるみは穴に落ちた。
「やったー!」
六人が一斉に叫んだ。…まあ周囲から見れば、いい歳して何やってんだというダメな大人たちだろうけど。
美唄が嬉しそうにぬいぐるみを取り出し、高く掲げてみせた。残る五人が拍手を贈る。
「いや~、うまくいったな」
満足そうな井沢。
「ほんと、出来過ぎなくらい」
同村も珍しく屈託のない笑顔を見せている。
「あ、名札がついてる。…ええと、『ラブちゃん』だって」
美唄が大事そうにぬいぐるみ…失礼、ラブちゃんを抱く。まりかも微笑んでラブちゃんの頭をナデナデした。
「よろしく、ラブちゃん。班長の秋月です」
「よろしく」
「よろしくな」
まりかに倣って、みんなもおどけて14班の新たなるメンバー(?)に挨拶する。そして、お互い顔を見合わせて笑うのだった。

まさかこんなふうに笑い合えるなんて、先週の説明会で対面した時には誰も予想できなかっただろう。だからこそ余計にそうなのかもしれない。幸せで自然で穏やかな空気が、いつしか彼らを包み込んでいた。

 その後も10時までの僅かな時間、彼らは楽しみに楽しんだ。井沢と長のレーシングゲーム対決、同村とまりかのクイズゲーム対決、美唄と向島の音楽ゲーム対決…どれも笑いが絶えなかった。そして美唄はそんな14版の仲間たちを、何枚もの写真に収めたのだった。

いきなりこんなに仲良くなるか?そんなことあるわけない、と感じる読者もおられるかもしれない。こんなのご都合主義だと思われたかもしれない。もしあなたがそう思うなら、それはきっと寂しいことですよ。
もちろん14班の六人がこれで心の底から打ち解けたわけではないでしょう。同村くんが人知れぬ孤独を抱えているように、知られたくないことや踏み込んでほしくないこと、隠していることはお互いたくさんあるでしょう。分かり合えないこと、すれ違いや衝突だってこれからいくつも出てくるでしょう。
でもね、隠し事があったとしても、分かり合っていなかったとしても、楽しさを共有することはできるのです。一緒に幸福の時を過ごすことはできるのです。
だって、人間は一人で生まれていつか一人で死んでいく。その道の上にいるのは自分一人だけ。寄り道しても結局は誰もが自分の道の上を歩かなくちゃいけない、歩くしかない。だからこそ、こんなふうな奇跡…道がクロスした交差点を大切にしなくてはいけないのです。

まあ今回の奇跡の正体は、医学的には疲労と空腹がもたらしたナチュラルハイだったのかもしれませんが。いいじゃないですか、幸せの種明かしなんて野暮なまねはやめましょうぜ。

 やがて閉店時刻となり、一同は解散した。
帰りの地下鉄、同村と美唄は座席に並んでいた。さすがにこの時刻となれば車内は空いている。
「いや、遠藤さんってやっぱりすごいね」
「え、何が?」
美唄は相変わらずラブちゃんを胸に抱いている。ラブちゃんは今日の記念に彼女が預かることになったのだ。夜の新宿の街にぬいぐるみを抱っこした22歳の女の子…解釈はご自由に。
「ポリクリの後あのまま帰ってたら、きっと疲れただけの日になってたよ。なんて言うか、大逆転してこんな楽しい日になるなんて…。君のおかげだ」
同村はごく自然に話している。昨年までの彼からすればとても信じられない姿だ。いや、むしろこれが本当の彼なのかもしれない。
「うん、あのまま帰っちゃうのはもったいない気がして。そういう時こそチャンスって気がするの…。あたし、可能性って好きなんだよね」
「…可能性?」
同村はそこで美唄の横顔を見る。
「そう…可能性ってすごい武器だと思うの。もちろん、可能性って絶対うまくいくっていう保証はないし、うまくいかないかもしれないんだけど…。だから、うちの班ってお互い今までほとんど絡んでなかったし、まだ仲が良いも悪いもないじゃない?可能性の塊だと思うんだよね。だから、これからが楽しみなの」
美唄はそこで同村を見て微笑んだ。
確かに、まだ何も出来上がっていない未知数…それが14班の最大の武器なのかもしれない。同村も素直にそう感じた。無個性な人間だらけのこの大學で自分だけが悩んでいるのだとどこかで思い上がっていた彼にとって、美唄の言葉は心に新鮮な感触を与えるものだった。
「そっか、そうだね…」
同村は優しくそう答える。美唄も続けた。
「それに今日ね、出産は見られなかったけどあの産声を聞いた時、なんか今日はいい日になる気がしたの。本当、天使のラッパみたいに心地良かった」
同村もあの産声を思い出す。
「そしたら、このラブちゃんがいたでしょ。ラッパを持った天使…この子のおかげで、一生の思い出ができたし、だから今日は素敵な日」
同村は考える。一生の思い出…というには大袈裟かもしれないが、少なくともこのラブちゃんを見ればみんな今夜のことを思い出せる。もちろん産声を聞いた後でこの天使のぬいぐるみを獲ったのは、単なる偶然だ。でも、奇跡なんてものがあるのなら、それはきっとこんな小さな偶然から始まるのだろう。
「確かに、ラブちゃんのおかげで俺も今日はみんなと仲良くなれた気がしたしな。…こいつは14班の守り神かも」
そう言って同村はラブちゃんを撫でる。美唄も嬉しそうに頷く。
「うまいこと言うね、さすが文芸部!」
「いや、そんなんじゃ…」
「そうだ同村くん、今度ライブ見に来てよ。新入生の勧誘で音楽部でやるの。MJさんも出るし、よかったらぜひ来て!」
そこで彼女は、今日最後のとびっきりの笑顔を見せた。
地下鉄は二人を乗せて静かな闇を走っていく。
…長い一日、お疲れ様でした!

 翌日の水曜日、彼らは無事出産に立ち会えた。そしてそれぞれのオーベンのもと、週の後半はレポートを作成する日々に追われた。
そして同村は、レポートの最後に『感想』という欄を勝手に作り、この1週間の思いを記入した。当然そんなことはオーベンから求められてはいない。実習要項のどこにも規定されていない。しかし、彼はそれを記した。今のこの心を書き残しておくことが、将来必ず役に立つと信じたのだ。それに、これまでずっとためらっていた自分ならではのレポートを書いてみたかった。怒られるかもしれない、でももしかしたら…。そう、『可能性』を使ってみたかったのだ。
彼はレポートの最後に勇気を込めてその一文を書いた。
…天使のラッパを聞いた、と。

 実習最終日となる金曜日、志田は医局の机で彼のレポートを読んでいた。もちろん、その横には判定を待って立ち尽くす同村。この一週間で立ち尽くすのもだいぶ慣れてきた。
読み終わると志田はレポートを机の上に置き、またあの切れ長の瞳を同村に向けた。学生は背筋を伸ばして構える。
「同村先生…」
「はいっ」
「…おもしろいね、君」
志田は静かに続けた。
「天使のラッパ、か。…うん、子供は世界の宝だもんね」
「そ、そう…思います」
同村は上ずった声で答える。
「君も実習中に聞いたかもしれないけど…正直最近、産婦人科医になろうって学生が少ないのよ。いつ産気づくかわからないから産婦人科医は旅行にも行けない。人手が足りないから週に何回も当直。おまけに訴訟も多い…本当は出産って母も子も命懸けなのに、みんな健康に生まれて当然だと思ってる。もし母子に何かあったら恨まれるのはいつも産婦人科医…」
志田は端正な口元を僅かに綻ばせて続けた。
「でも君のレポート読んで、産婦人科医になってよかったって思ったわ、久しぶりに。君、文章うまいね」
「そうですか、ありがとうございます」
同村もほっとして微笑む。そこで志田は「ただし!」と眼光を鋭くした。
「感想はどんなに文学的でドラマチックでもいいから、前半のデータ分析は感情を込めずにもっと事実だけを書きなさい。考察も科学的に行なうこと。医学は科学、君はちょっと感動的にし過ぎ!レポートは小説じゃないのよ」
「わ、わかりました」
志田はレポートの紙で同村の頭をポンと叩く。彼は再びメデューサに石にされるかに思われたが…。
「よし、以上。じゃあ…合格!同村先生、お疲れ様でした」
何百の命をこの世に誕生させた女医は、そう言って優しく微笑んだ。
「ありがとうございました!」
同村は頭を深く下げる。

こうして彼の、そして14班の、最初の実習が終わったのでした。

 その夜、同村は音楽部の勧誘ライブを見に行った。
場所は東新宿キャンパスの体育館。3年生以上は南新宿の教育棟で授業を受けるのだが、2年生までの基礎授業はそこから少し離れたこの東新宿の校舎で行なわれている。前に触れた、教育棟に3年生以上の教室しかない理由はここにある。
すずらん医科大学がこのように基礎授業の校舎を離れた場所に有するおかげで、学生たちは病院の目を気にせず部活や学園祭を楽しめる。音楽部も大きな音でバンド演奏を行なえるわけだ。

さてどうですか、同村くん?
彼が音楽部のライブを見るのはもちろん初めて。プロのミュージシャンのコンサートにだって行ったことはない。彼にとってはまさに人生初のライブ体験。
…飾り付けられた仮設ステージの上には、輝く美唄がいた。
眩いライトを浴び、露出の多い衣装で飛んだり跳ねたりしながら歌う彼女の姿。それは音楽という羽根をまとった悪戯な天使。
…すごい。
客席の隅でそれを見ていた同村は素直にそう思った。白衣の時の美唄とは違う、私服の時とも違う、全くリミッターをかけられていない彼女の魅力が所狭しと暴れまわる。その輝きは客席の新1年生たちの心を確実に掴んでいた。そして、美唄の後ろで踊り狂うようにキーボードを弾く向島。他のバンドメンバーたちも全員笑顔。
医学部はみんな同じ色を舌無個性な人間だらけだなんて…自分はなんて無知だったんだ。こんなに魅力的な人たちが、ここにいるじゃないか…。
同村はうっすらと涙を浮かべ、そんな未知の感動に浸っていた。そして思った。今日ここに来てよかったと、14班で美唄に出会えてよかったと。
医学部は医者になるための場所だと知らずに来てしまった愚かな男。それを言えないまま口を閉ざし、ただ趣味の小説執筆に逃げ込むしかなかった哀れな男。
彼女の伸びやかな歌声は、体育館内に…そして彼の心に響き渡っていた。
…さぁ、同村くんの春がやってくるのかな?

やがて曲が終わり、熱い拍手と歓声が贈られる。ステージの上の美唄はあんなに動いていたのに疲れをまるで見せず、火照った頬に光る汗を浮かべながら大きな声で叫んだ。
「ありがとうみなさん!1年生さん、医学部入学おめでとー!今日は楽しんで行ってね。興味があったらどんどん音楽部にウエルカムで~す!」
気が付けば同村も手が腫れるほど拍手をしていた。
「ありがとう!じゃあ次の曲、知ってる人は一緒に歌いましょう!MJさん、よろしく!」
軽快にイントロを奏で始める向島。サザンオールスターズの『希望の轍』だ。同村は、そのキーボードの上に置かれている物に気付いた。
「フフフ、ハ、ハ、ハハハ…」
彼は涙を浮かべながら思わず大笑いする。そして、輝くステージの上のそれを改めて見た。
14班の守り神は、このライブをも成功に導いてくれたようである。

5月、外科編に続く!