第2話 百本の無駄骨 (外科)

 5月である。先月から始まった新5年生のポリクリも二ヶ月目。ゴールデンウイークは、溜まった疲れを癒すのにも、ようやく慣れてきた生活リズムを乱すのにも効果絶大。5年生には他学年のような夏休みがないので、これで連休はしばらくお預け。年末まで歩きっぱなしの長い旅がいよいよ始まる。
第2週の月曜日、14班のメンバーは学生ロビーに集合していた。時刻は7時半、無事に向島の姿があったことに、残り五人はまずは胸を撫で下ろす。
「みんな、なんか久しぶりだね。またよろしくー!」
相変わらず笑顔100パーセントでノリノリなのはもちろん美唄。
「元気だね、美唄ちゃん。またよろしくね」
長が眠たそうに返す。正直早朝から彼女のハイテンションはちょっときつい。
「でもあたし、MJさんがちゃんと来てくれて安心しました。感動です!」
「いや…休もうかなとも思ったんだけど、徹夜のついでにそのまま来たんだ。だから僕、今ナチュラルハイ」
ボサボサ頭に充血した目で答える向島に、「いや、休もうと思っちゃダメですって」と井沢が苦笑い。連休はまず実家で両親と会食、続いてサッカー部の合宿、最後は恋人とのお泊りデートとまさに寝る暇もなかった彼であるが、そんなことはおくびにも出さず爽やかなポリクリモードに戻っている。さすがである。
「向島さん、ゴールデンウイークも音楽ですか?」
同村が尋ねた。
「もちろん、ずっとスタジオ」
平然と答えるアウトローな先輩に、彼は「そうですか」と淡い羨望の眼差しを向ける…オイオイ。
「それでは、みなさんいいですか?」
まりかが少し声を張って言った。
「5月は外科系の実習が続きます。今週は整形外科、来週は心臓外科、最後の第4週は形成外科です。予定表を見た感じだと、手術の見学がメインかな」
「いよいよオペ室か…」
同村がまた考え深げな独り言を放つ。
「オペか~、心臓外科だとバチスタとかあるのかな。なんかドラマみたい」
今度は美唄。すいません、この物語はそっち系じゃないんです。
「じゃあ行きましょう。まずは整形外科の医局に集合」
「了解です、まりかちゃん!エイエイオー、エイエイオーイエー!」
美唄のエールがまだ人もまばらな朝の学生ロビーに響く。歩き出す六人。
「長さんは産婦人科でもオペ見たんですよね?」
教育棟を出ながら井沢が尋ねる。
「そう、カイザーのな。いやあオペ室入るのって大変だぞ、まあ後でわかると思うけど」
「まりかちゃんは連休何やってたの?」
美唄も隣を歩く班長に言った。
「う~ん、特に何も…実家に帰って、あとは外科の予習かな」
「さっすが!」
駐車場を抜けながら病院が近付いてくる。そこは連休明けで眠たいなんて許されない世界。気を引き締め直して頑張ってくれたまえ、14班諸君!特に今月は、オペ室という名の戦場が部隊なのだから。

 医局での朝礼に参加した彼らは、さっそく手術見学を指示された。着替えて8番オペ室に集合…と相変わらず不親切な説明だったが、これはもうポリクリのお決まり。六人はオペ室が並ぶ病院6階に到着する。
「ここだここだ」
長がその部屋を示すと、続いて井沢が解説する。
「先輩から聞きました。この更衣室でオペ着に着替えてから、さらに奥に入るんですよね。もちろんマスクと帽子も忘れずに。サンダルも置いてあるからそれに履き替えて」
「井沢くんがいてくれて助かる。ガッテン承知!」
美唄がガッツポーズ。
「本当だな。俺なんか産婦人科の時わからなくてしばらくうろついてたよ」
長も感心して言った。
「じゃあ、奥でまた集合ね」
まりかの合図で六人は男女に分かれて更衣室に入る。非常に残念ではありますが、ここは男チームを追っていくことにしましょう。
そこはフローリングの床にロッカーと棚が並ぶ八畳ほどの部屋。高い湿度と熱気の中、汗の臭いと消毒薬の臭いが絶妙なブレンドで漂っている。
「なんかプールの更衣室みたいだな。シャワーもあるし」
感想を述べる同村に、井沢が脱いだ白衣を空いた棚に入れながら答えた。
「オペは結構汗かくんだろうな。ほら、そこに新しいオペ着が積んであるだろ、それ自由に使っていいんだ。そんで、使い終わったやつはそっちのボックスに放り込む。サイズはMとLがあるから…長さんはLLですかね」
「おいおい、確かにちょっと腹が出てきてるけどな」
長が笑って上着を脱ぐ。その横で向島も黙々と着替える。同村も慌ててそれに続いた。井沢と長はさすがの体育会系。部活の減益は4年生で引退したとはいえ、まだがっちりとした肉体を保っている。逆に同村と向島の文化系コンビは貧相だ…というかこんな描写いりませんね、失礼しました。
「なあ井沢、教科書とかはここに置いていくのかな?」
「その方がいいぞ同村。前にオペ室で教科書読んでて、メチャクチャ怒られた学生がいるって聞いたから」
そのうちに本物のドクターたちも続々と更衣室を訪れてきた。四人は邪魔にならぬよう急いで着替えを済ませると、先ほど入ってきたのとは逆のドアに向かう。
部屋を出ると、そこにはすでに着替えた女子二人が待っていた。
「フフフ、みんな同じ格好だね」
オペ着に身を包んだ美唄が微笑む。いつもと違う彼女の姿に同村は一瞬ドキッとしたようだ。
ここで彼女をモデルにすずらんブランドのオペ着をご紹介しましょう。皆様、優雅なひと時をお楽しみください。プロフェッショナルな雰囲気の中にほのかな恥じらい、美しさとしなやかさが共演するオペ着は、ビーズやスパンコールは一切使わず、ボタンもコサージュもない無地の灰色、ボディラインにフィットした薄手の生地で、下は長ズボン、上は半袖シャツとなっております。腕周りも首周りもたっぷり余裕を持たせてあり、うなじもあらわ、そっと鎖骨も覗きます。ラフなパジャマのようなデザインでありながら、落ち着きと清潔さも演出し、軽くて動きやすい実用性にも配慮した仕立てとなっております。汗もしっかり吸収、目にも優しく、もちろん返り血の染みも洗えば綺麗さっぱり消える、アイロンいらずの新素材でございます。手術に彩りを添える美の結晶、皆様、すずらんブランドのオペ着をどうぞご賞味ください。
…とまあそんなファッションショーがあるわけないが、とにかくそういう服なので、同村がときめくのも自然な反応。この服にマスクと使い捨てのビニールキャップ、無菌サンダルを履いて出来上がりとなる。見学をする学生や、直接執刀をしないスタッフはこのスタイルが基本。ちなみにメスを握る人間は、このオペ着の上に厳重に緑色のオペガウンと手袋、布地の帽子やゴーグルなどを装着して、テレビドラマでもお馴染みの姿に変身する。
「では、行きましょう」
緊張した面持ちでまりかが歩き出す。立ちはだかったのは壁全体が動くような大きな自動ドア。その傍らには手洗い用の流し台があり、外科医と思われるたくましい男性が黙々と腕に消毒液を塗り込んでいた。六人も邪魔にならぬよう、端っこの方でそれに倣う。壁に書いてある手洗いのマニュアルを見ながらとりあえず見よう見真似。さすがに学生がメスを握らされることはないだろうが、オペ室は清潔空間、用心に越したことはない。
「なんだか…本格的って感じだな」
執刀前の外科医のポーズで、井沢が洗った両腕を掲げて見せる。
「ちょっと、緊張してきた…俺」
同村も神妙な顔。もはや美唄の綺麗な二の腕に見惚れている心境ではないらしい。彼らの横で向島は大あくび。
「みんな手洗い終わった?では…行きます」
改めてそう言ったまりかを筆頭に、六人はついに自動ドアをくぐった。

 そこはまさに聖域であった。医療に携わる人間でなければ、けして踏み入ることを許されない場所。2年生の時の人体解剖実習に続き、この手術見学は自分が医学部に来たことを実感させられる…学生にとっては二度目の衝撃なのだ。
自動ドアの先に続いていたのは、まっすぐで幅のある道…大通りと表現した方がよいかもしれない。その広い道の両側にオペ室の重いドアが立ち並んでいる。行き交うのはストレッチャーで運ばれる患者、オペに向かう医師、ポータブルのレントゲンや人工心肺の機器を押して歩く技師、忙しそうな看護師…。スタッフは全員マスクとキャップを装着し、病棟とは異なり会話の声などは全く聞こえない。足音とストレッチャーのタイヤ音だけが響いている。確かにここは多くの人が行き交う大通り…ただし華やかさは一切ない、沈黙の大通りだ。外向が全く入らず、人工照明だけの薄暗い色調とひんやりした空気が、さらに独特な異空間を醸し出している。
六人の無駄話もそこで完全に身を潜めた。しばしその場に立ち尽くす。
「…8番オペ室は奥の方ね」
最初に口を開いたのはやはりまりか。彼女に続いて縦一列で歩き出す。あの美唄でさえ、明るさや元気を振り撒くことはなく、その表情は固い。彼女は一番最後に歩き出したため、向島の後ろの最後尾をゆっくり追う形になった。そんな彼女を音楽部先輩は時々振り返っている。
そしてたどり着いた8番オペ室のドア。しかし今度は前に立っても自動で開かない。
「あれ、動かないな。ノブもボタンもないし…」
そう言う同村の隣で、長が壁の下にある穴に右足を突っ込んだ。シュルル…と静かにドアが開く。せっかく洗った手を汚さないための仕掛けだ。
中に入ると、すでに手術は始まっていた。おそらく執刀スタッフは朝礼前から準備をしていたのだろう。手術台の上には患者が仰向けに横たわり、3人のガウン姿の男がそれを囲んでいる。その中の一人が視線は術野から動かさずに言った。
「ポリクリだね。邪魔にならない所に立って見学してて」
六人は黙って部屋の隅に移動する。
「ちょっと、そこ邪魔!」
看護師の一人がきつい口調で井沢に言った。彼は「すいません」と飛び退く。病棟看護師とは異なり、『オペ看』と呼ばれる彼女たちはとても恐い。いや、もちろん病棟にも恐い人はわんさかいますが、オペ室ではその張り詰めた空気と相まって、さらに恐さが倍増される。顔がマスクとキャップで隠されて、鋭い目しか見えないから余計だ。もちろん恐くなるのも無理はない、ここでは一瞬の油断が患者の命を左右するのだから。
「三橋、そこもっと開いて」
執刀医が言った。三橋というのが先ほどポリクリに声をかけた医師。この手術の第一助手らしい。
「はい、こうですか」
「そう、そのまま動かすなよ」
患者は右下肢骨折の整復手術を受けている。室内には心拍を表すモニターの音が響く。
同村はマスクの下で口を横一文字に結び、手術に向き合う医者たちの姿を見つめていた。他の五人もそうだ。あの向島でさえ、あくびはおろか余所見をすることもなくその場で棒になっている。正直彼らの位置からは、主義を学ぼうにも術野はほとんど見えない。無影灯と呼ばれるライトの下に立つ男たちの背中が見えるだけだ。それでもまずはこの緊張感を学ぶ…それだけで今日の課題は十分だろう。

 四時間後、執刀医から「術式終了」の声がかかる。そこでようやく室内の緊張が少し緩んだ。
「後は頼むぞ、三橋」
「はい、わかりました」
執刀医は手術台から降りると出口まで行き、そこで看護師に手伝ってもらいながらガウンと手袋を脱ぐ。別に甘えん坊さんなわけではなく、これらは自分1人では脱着できない仕組みなのだ。脱衣を終えると、執刀医は早足でオペ室を出ていった。おそらく次の仕事が待っているのだろう…学生はその後ろ姿に頭を下げる。
「おーいポリクリ、縫合見せるからこっち来て」
三橋が明るい声で言った。待ってましたとばかりに六人は手術台に近付く。ずっと立ちっぱなしだったので歩くと少し足がきしむ。
「よろしくお願いします」
口々に言う学生たちに、三橋は「じゃあよく見ててね」と皮膚縫合を披露する。一つ、また一つと素早く糸が通され結ばれていく。
「よし、完了っと」
全ての傷口が塞がれ三橋がそう息を吐いたところで、学生たちも何故かほっとなる。
「…亡き王女のためのパバーヌ」
ふいに天井を見て呟く向島。隣でそれを聞いた同村は、ようやく室内に小さくクラシック音楽が流れていたことに気付くのだった。

 午後2時、解放された六人は学生ロビーのソファで遅めの昼食にありついた。病院の売店で売れ残ったパンが本日のランチ。
「結構疲れましたね」
カレーパンをかじりながら同村が言う。アンパンと牛乳で長が答えた。
「そうだな、でも来週の心臓外科はきっともっときついぞ。十時間超えのオペもあるらしいから」
「学生がオペの助手に入ったりもするんですかね」
美唄がクリームパンを手に不安そうに尋ねた。
「時々はあるみたいだぜ。まあ助手って言っても、やらせてもらえんのはせいぜい縫合の糸結びくらいだけどな」
井沢が返す。そしてジャムパンをかじると、彼は少し不機嫌そうに続けた。
「くそ、さっきの看護婦め、偉そうに怒りやがって」
どうやらオペ室でのことを根に持っているらしい。そんな彼を同村は訝しげに見る。
「まあまあ井沢、気持ちはわかるよ。俺も産婦人科でオペ見学した時に怒られた。滅菌ガーゼに触っちゃって…いきなり不潔って怒鳴られたよ。あれは経こんだな」
長に続いて美唄も笑顔で言った。
「オペ室は触っちゃいけないとことか多いから大変ですよね。それに患者さんの命が懸ってるから、スタッフもみんなピリピリしてるし…。MJさんも気を付けてくださいね」
音楽部先輩は「はいはい」と答えながら、チョコパンを牛乳で流し込む。そして「僕ちょっとそこで寝るから」と奥のソファに横になってしまった。う~ん、マイペース。そろそろ徹夜が響いてきたのだろうか。
「じゃあ後で起こしま~す!次は何時だっけ、まりかちゃん」
「3時からまた手術見学。今度は椎間板ヘルニアね」
班長はメロンパンを片手に手帳をめくる。
「ヘルニアかあ…。後でオペのレポート書かなくちゃいけないから、しっかり見ないとね。さっきのはほとんどわかんなかったし」
「しっかり見るのはいいけど、遠藤さん、気を付けてね」
「え、何を?あたし何かにぶつかってた?」
真顔になる美唄にまりかは「ううん」と首を振る。
「あのオペ着、結構胸の所が開いてるから…あんまりかがむと覗かれちゃうよ?さっきも麻酔医のおじさんがやらしい目で見てたから」
まりかはもちろん怒っているわけではなく、むしろ悪戯っぽい表情だ。普段オシャレや色気を封印している彼女だが、意外に女性としての意識は高いのかもしれない。あ、意外にとは失言でした。
「え、やだ~最低!お金請求しようかな」
美唄も笑顔に戻って返す。そんな様子に同村はドギマギし、井沢は「ああもう、教えるなよ秋月さん!」とおどけて見せる。どうやら機嫌は治ったらしい。長も声を出して笑い、その後ろで向島はグーグー高いびき…。
結成当時から有名人揃いとうたわれた14班。これはこれでバランスがとれている…のかも?とにもかくにも、午後からのオペ室も頑張ってちょうだい!

 水曜日、整形外科三日目。本日は手術見学はなく、午前中はカンファレンスルームで自習となっていた。とはいえ遊んでいなさいというほどポリクリは甘くない、先日の三橋医師から金曜日にミニテストをやることが告げられたのだ。「去年の進級試験でもやってるから簡単でしょ?」と笑って言われたが、一度憶えたからといってそれを永遠に保存できるはずもない。14班諸君は机に向かい、それぞれ教科書と睨めっこしている。
「う~ん、マジかよ、ミニテストなんて聞いてなかったな」
と、井沢。
「そんなに難しくはないとは言ってたけど…やっぱりほとんど忘れてるな。暗記ものは正直オッサンにはきついよ」
長も頭を抱える。
「向島さんはいなくて大丈夫なんですかね」
隣で同村が尋ねた。そう、ミュージシャンは本日堂々の欠席である。
「あとであたしがメールしておくよ。う~ん、こういうふうに手をついたら起きるのがコレス骨折だっけ?」
机の上に手をついて実演しながら美唄が返す。
「そうそう。スミス骨折との違いに気を付けなきゃ」
「ありがとう、まりかちゃん。ああもう、バートン骨折とかジェファーソン骨折とか、外人さんの名前ばっかで混乱しちゃう」
彼女の嘆きもわかる。整形外科に限らずだが、医学には発見者や研究者、あるいは考案者の名前が付けられているネーミングが、病名・症状名から手技名・検査名まで数多く登場する。
「それぞれの骨折がどの部位のどんな骨折なのか、どんな症状や後遺症があるのか、どんな治療をするのかをまとめなくちゃいけないのよ。あと、好発年齢もね」
「俺、どうせ産婦人科医になるのにこんなん憶えて意味あんのかなあ?妊婦さんが転んで骨折したら整形外科に紹介すればいいのに。他にも何万人に一人の病気とか、一生のうちで出会う確率ほとんどないのに」
井沢もぼやく。まあこの悩みにはほとんどの医学生が一度は立ち止まると言っていい。教科書に並んだ星の数ほどの病名…そのほとんどは試験勉強で頭に詰め込む時しか出会うことはない。もっと出会う可能性の高い病気だけを整理してしっかり頭に入れた方が、よっぽど実用的で効率的…そう考えたくもなる。
「確かに…今頑張って頭に入れても、また忘れて国家試験の時に憶え直しだもんな。骨折だけでもこれだけあるのに…本当に全部の科が頭に入るのかな」
同村も言う。井沢がさらに続けた。
「そんで国家試験が終わったらまた忘れて…結局最後は自分の専門の科の知識だけになるって親父も言ってた。オペ見学もいいけどさあ、ほとんど手術が見えないのは勘弁だよな。昨日も五時間突っ立ってるだけで、何も見えなかった」
そこで長が「まさに骨折り損のくたびれ儲け」と呟く。美唄が「長さん、オヤジギャグ」とツッコミを入れる。
「ほらみんな、頑張らないと。骨折だけじゃないのよ。骨腫瘍だって名前と部位と好発年齢を憶えるんだから。それにレポート提出も金曜日だし、そっちもまとめていかなきゃ」
班長がたしなめた。他の四人もそこで口をつぐみ、それぞれの記憶力との格闘を再開する。
そう、勉学は学生の本分。とにかくやるしかないのです。

 翌日の木曜日、午前中はギプスの体験実習であった。ジャンケンで負けた同村が実際に左の前腕に装着して感触を確かめる。本来は数時間で外してもらう予定だったのだが、実習担当の三橋が緊急手術で呼ばれてしまい、結局同村はその日ずっとギプス姿で過ごすこととなった。当然病院内を歩いても、教育棟に戻っても、その姿は注目されてしまう。
「一気に有名人だな、同村」
昼休憩、学生ロビーのいつものソファで長が笑った。
「冗談じゃないですよ、まったく」
文学を愛する無言男は、このようにいじられることに慣れていない。
「でも腕を折った人の大変さがわかるでしょ?」
「まあね、これじゃ靴の紐も結べないし、パンのビニール袋も破れない。着替えも入浴も一人じゃできないよ」
美唄に言われて同村は答える。
「だよね。利き手じゃなくても、やっぱりないとすっごく困るよね。はいお茶」
美唄がペットボトルのフタを開けて渡してやると、井沢がひやかした。
「ヒューヒュー、優しいねえ美唄ちゃん。おい同村、うらやましいぞ」
「どこがだよ。もう、向島さんまで何を笑ってるんですか」
本日はちゃんと出席しているアウトローも、楽しそうに彼を見ていた。
「似合うよ、同村くん」
「やめてくださいよ。向島さんだってもしこんな状態になったら、ピアノ弾けませんよ?」
「…そうかな?例え半身不随になっても僕は音楽をやめないけどね。君もそうじゃない?片手だけでもやっぱり小説を書くでしょ?」
「そうかもしれませんけど…」
そんな謎のやりとりの中、パシャッとシャッター音。見ると美唄がまたデジカメを構えている。
「もう、遠藤さん、こんなところ撮らなくていいから」
「何言ってんのよ、これぞポリクリって写真じゃない」
「そうだ美唄ちゃん、もっと撮ってやれ!この無様な姿を」
井沢もはやし立て、その場に笑いが起る。まりかも口に手を当てて笑っている。いつも教室の最前列で黒板に向かっていた特待生の笑顔は、周囲のソファにいる同級生たちにも密かなどよめきを与えていた。
…同村くん、ファインプレイ!

そして夕刻、無事ギプスは取り外される。美唄の言葉どおり、普段は意識していない左手の大切さを同村はひしひしと感じるのであった。
さらに翌日金曜日、ミニテストも全員でクリアし、整形外科の実習は終わったのでした。

 時は流れて5月第3週。14班は次なる戦場・心臓外科へと突入した。最初の月曜日は朝からいきなりオペ室、二つのチームに分かれての手術見学である。
まずはこちら4番オペ室では、同村・美唄・長が心臓の人工弁置換術に立ち会っている。整形外科でも経験してオペ室への出入りにはそれなりに慣れてきた彼らであったが、ここではさらにガウンテクニックも経験することになる。そう、執刀医と同じあの重厚な装備で手術台に上がるのだ。
その最初の一人に選ばれたのは、主人公・我らが同村だった。ガウンテクニックはいつものオペ着を着るのとはわけが違う。少しでも装着の手順を誤ると手袋やガウンが不潔になってしまうため、その場合は廃棄して最初からやり直し。内臓を開いた患者に触れるのだから、それだけ厳重な清潔操作が必要ということだ。同村もオペ看の厳しい指導の中、二着もガウンを無駄にしながらようやくその装着を完了した。そしてロケットに搭乗する宇宙飛行士さながら、彼は恐る恐る一段高くなっている手術台に上がる。
「頑張って」
美唄が後ろから声援を贈る。もちろん小声ではあったが当然それはオペ看の鋭い睨みを受けることとなり、長も「しっ」と指を立てた。彼女も慌ててマスクを押さえる。だがそんなせっかくの声援も届かないほど同村は緊張していた。
「よし、次は正中切開」
皮膚消毒の後、執刀医の藤岡が静かに言った。仰向けの患者の胸部は無影灯火の光の中、肌色ではなく白色に見える。手術台に上がる、といっても学生の同村がメスを握ることはない。彼の役目はただ一つ、目の前で繰り広げられる非日常…神の造形に対する人間の挑戦を網膜に刻み込むことのみだ。
室内を静寂が支配する。やがてメスを手渡して藤岡が言った。
「よし…バイタル変化ないな?次、開胸機」
藤岡はそれを受け取ると患者の開かれた胸にあてがう。そして静かに小さなハンドルを回した。キリキリ…と骨が動く音がする。再びメスを受け取った藤岡は更なる切開を加える。
「おい、ポリクリ、こっち来て見てみろ」
藤岡の手技に集中していた同村は、一瞬遅れて自分が呼ばれていることに気付く。
「あ、はい」
慌てて一歩術野に近付き、藤岡の手の先を見た。そこには…これまで想像でしか知らなかった物、何度も自分の胸に手を当てて存在を感じていた物の正体があった。
同村は言葉を失う。開かれた胸の真ん中に…激しく躍動するピンク色の塊。檻の中の猛獣よりも、何万馬力のマフラーよりも、ずっと獰猛で力強い生き物。
…心臓。
これが一人に一つずつ、体の中心に埋め込まれているのか。生命として誕生した瞬間から、一日も休むことなくこのポンプは働いているのか。脳や全身に血液を送り続けているのか。
同村は身震いした。この生命力の塊が、自分も、手術台にいる医師たちも、全ての人間を動かしているのだ。疲れ知らずの心臓は、こちらに飛び出してくるのではないかと思うほどに大きく脈打つ。文芸部で幾多の文章表現に触れ、決めゼリフがお得意の同村でさえ、今の感動を表す言葉が浮かばなかった。
「よし、いいか?じゃあ次はそっちのポリクリ二人、見てみろ」
同村はそこでまた一瞬遅れて反応する。彼が退いた空間に長と美唄がそっと歩み寄る。ガウンを装着していない彼らは手術台に上がるわけにはいかないが、乗り出せば十分術野は視覚に入る。
「よし、一人ずつ注意して覗いてみろ」
まずは長がそれを見た。いつも年上の余裕と包容力で場を和ませるムードメーカー…しかし今彼の表情にはそんなものは微塵もない。感情が吹き飛ばされたように、その二つの目を見開いている。そこにはただ驚愕の色だけがあった。
「よし…いいか?じゃあ次」
長と入れ替わりに美唄がそこに入る。彼女もまた、いつもの笑顔も元気も吹き飛ばされ、瞬きも忘れて魅せられている。その隣で同村もまた術野に目をやった。
「すごいだろう。いいかポリクリ、一生これを忘れんなよ」
藤岡の言葉に導かれるように、美唄がさらに一歩踏み込もうとした。術野を見ていた同村は彼女の服が他の医師に当たりそうになるのに気付く。
「危ない、遠藤さん!」
彼女の肩を掴み、なんとかその接触を防ぐ。美唄ははっとして後ろに退いた。
「あ、ごめんなさい!」
再びオペ看の睨みが彼女に向く。美唄は長と共に部屋の隅に戻った。つらそうな顔の彼女に、長は「気を付けなきゃ」と耳打ち。
「よし…じゃあ始めるぞ」
そんなことは気にも留めない様子で藤岡が言った。いよいよ弁置換手術が始まる…しかし、同村はここで手術台を降りなければならなかった。そう、彼女に触れてしまったからだ。そこに立つ人間は完全に清潔でなくてはならない…オペ着とはいえ不潔対象に触れた同村もまた不潔になってしまったのである。
「ごめんね同村くん。あたし、夢中になっちゃって、本当にごめんね」
今にも泣きそうに言う美唄に、同村は「いや、気にしないで」と返す。彼の心は今は美唄よりも、あの心臓の光景でいっぱいだった。藤岡の言葉ではないが、きっと一生の記憶になるであろうことを彼は確信した。そう、これがポリクリの醍醐味…教科書や授業では絶対に得られない学びなのだ。
部屋の隅に引っ込んだ同村に、先ほどのオペ看が声をかける。
「新しいガウン持ってきてあげるから、それ脱いで早く着替えなさい」
それは優しさだったのか、それともオペ室で泣かれてはたまったものではないという厳しさだったのか。とにかく次は一発で装着に成功し、同村は再び宇宙へ打ち上げられるのであった。

 さてこちらはお隣の5番オペ室。井沢・まりか・向島が見学に入っている。すでに執刀開始から五時間経過。当初井沢がガウンを装着し手術台に上がっていたが、今はもう降ろされている。別に不潔になってしまったわけではない。同村たちが心臓の生命力に感動していたのに対し、壁一枚隔てたこちらには正反対の空気が立ち込めていた。
胸部大動脈瘤に対して予定された人工血管置換術は、もう一時間以上も中断されている。執刀医や助手医たちも手術台から離れ、何やら小声で話をするばかり。その表情から何らかのトラブルが起こっていることは明らかであった。室内にはモニターの音が冷徹に響いている。部屋の隅で、井沢は小声でまりかに問う。
「何か…あったんだね」
「多分…様態が悪くなったんじゃないかしら。あるいは想定外の何かが…」
彼女も消えそうな声で答えた。いくら勉強のためとはいえ、この雰囲気で学生が質問できるはずもない。向島はただ無言でモニターを見つめていた。

…さらに一時間が経過。学生は退室を命じられた。外科医たちは依然神妙な面持ちで何やら相談を続けている。井沢のお得意のポリクリモードをもってしても、とても話しかけられそうにない。
「あの、ありがとうございました」
ガウンを脱ぎ、ひとまず井沢は麻酔医の女性に声をかけた。麻酔医は大抵一つの手術に一人、モニターの近くに着席し、麻酔の導入と覚醒の処置、術中の全身管理を行なうのが主な職務。他のスタッフとは異なり、青色のオペ着だから一目でわかる。手術が中断された今、執刀医が方針を決定するまで、彼女はひたすら患者の現状を維持するしかない。
「あ、お疲れ」
彼女は意外なほど明るく返した。まりかと向島も井沢の横で頭を下げる。
「ずっと立ちっぱなしで疲れたでしょ。ゆっくり休んで」
マスクとキャップではっきりとはわからないが、顔にも声にもあどけなさが残る女医だった。
「あの…この手術はどうなるんですか?」
まりかが尋ねる。女医は「多分このまま中止だと思うけど…」と前置きしてから、笑顔を消して答えた。
「多分患者さんが目覚めることは…もうないと思う」
学生は言葉を失う。そこで執刀医が「福岡先生、ちょっといい?」と女医を呼んだ。彼女は「はい」とそちらへ向かう。
完全に居場所と戦意を喪失した三人は、人知れず一礼するとそのまま静かにオペ室を出た。

 午後4時、本日のポリクリ終了を告げられた彼らは学生ロビーにいた。時刻としては早上がりだが、疲労は十分だった。そのまま帰宅した向島を除き、五人はソファで今日の感想を語り合っている。
「そうか…そんなことが…」
井沢の話を同村がそう噛みしめる。隣でまりかも浮かない顔…無理もない。
「その患者さんだって…勇気を出して手術を受ける決意をしたんだろうな、病気を治すために。それが麻酔で眠って、もうそのままなんて…」
同村の言葉に、長も深く頷いた。
「全部の治療がうまくいくわけじゃないってわかってても…目の当たりにすると考えちゃうよな。家族だって笑顔で患者さんが出てくるのを待ってたんだろうし」
「せつないですよね…」
呟きながら井沢がテーブルの足に無数に結ばれた糸を触る。この時期になると、手術見学を経験した学生も増えてくる。するとこの糸結びの練習が所構わず行なわれるのだ。まるでおみくじのように、学生ロビーの椅子やテーブルのあちこちに糸が結ばれている。
「本当に…つらいね」
と、美唄。オペ室での失敗以来彼女は元気がない。そして彼女の言葉を最後に、その場には沈黙が訪れた。話すことがないのなら帰ればよいのだが…彼らはそこでぼんやり夕刻を過ごした。
…いいんじゃないかな?ゆっくり落ち込めるのも学生の特権。プロになったら立ち止まってなんかいられないんだから。あの外科医たちだって、今日の手術の結果がどうであれ明日にはまたメスを握る。ここはそういう世界、戦線離脱は許されない戦場。

学生ロビーが夕闇の蒼さに染まる頃、まりかが「明日は10時の聴診器のクルズスから始まります」と沈黙を破った。長も「久しぶりに朝寝坊できるな」と続き、その場には幾分の明るさが戻る。
「おーっし、帰るぞ!」
長が先陣を切って腰を上げ、他の四人も続いた。
ロッカールームに向かう途中、美唄が同村に「今日は本当にごめんね」とまた謝る。同村は「そんな、気にしてないって」と返し、彼女の落ち込みを心配した。まさかこのまま大学をやめてしまうんじゃ…、と案じさせるほど、彼女の瞳には深い哀しみの色が浮かんでいた。

 まあ、それはいささか考え過ぎだったようで、一緒に帰る地下鉄ではいつもの笑顔100パーセントの美唄が復活していた。
「ポリクリって体力勝負だね。特に今月はオペが多いから、たくさん睡眠とってエネルギー充電しなくちゃ。なかなかタイミングがないけど、14班でいずれ必ずパーティやろうね。忘れないでよ、同村くん!」
「…了解です」
「声が小さーい!」
そんな彼女と話しながら、同村はまた遠藤美唄という人間について考えていた。向かう所敵なし、顰蹙買っても何のそののような豪快な元気を見せたかと思えば、再起不能に見えるほど小さな失敗で落ち込んだりする。かと思えばまたこうやって楽しそうに周囲も気にせずはしゃいで話す…。
本当の彼女はどこにいるんだろう。今自分が話している彼女は…彼女なのだろうか?
考え過ぎの男は、またこうやって思念を溜め込んでしまうのであった。これも一種の恋煩い…なのかな?

 翌日火曜日の聴診器のクルズス。ここで活躍したのは、意外にも向島…いや、ミュージシャンのMJKであった。使用したのは人間の上半身のみのマネキン。それはパソコンに接続され、数々の心臓や肺の音を流すことができる。パソコンを操るのは、このクルズスを担当する森広という男性医師。
「はい、みなさんじゃあ順番にマネキンに聴診器を当ててください。今から心臓疾患の心音を流すから、みなさんで何の疾患か当ててください。診察時間は一分間ね」
マネキンに聴診器を当てる姿は一見滑稽である。しかし、読者のみなさんも、心臓マッサージや人工呼吸を練習するためのマネキンを見たことあるでしょう。まだ患者に触れる術を持たない医学生にとって、マネキンは生ける師なのです。しかもこいつは聴診器を当てる部位によって、ちゃんと聴こえ方も変わるという優れ物。
彼らは順番に聴診器を当てるが、なかなか診断までは至らない。しかし最後に聴診器を握った向島は一発で心臓のどの弁が障害されているのかを言い当てたのだ。
「お見事!」
森広が舌鼓を打つ。向島はあのゲームセンターでぬいぐるみを獲った時のように、少し得意げな顔を見せる。
「じゃあこれはどうかな?」
森広はその後もいくつかの問題を出したが、向島はことごとく聴き分けた。診断名まで全てわかったわけではないが、どの音が亢進している、どの音が遅れているなどを向島が正確に指摘することで、まりかがその情報から病名を当てた。この二人の意外なコンビネーションによって、14班は見事全問をクリアしたのだ。
「いや、すごいね。優秀な班だ」
嬉しそうな森広。あまり活躍の場面がなかった他四人の中で、最も驚いていたのは井沢だった。
「む、向島さん、どうしてそんなにわかるんですか?どうやって勉強したんですか?」
「ん?まあ…聴き分けたり、リズム感じたりは日常茶飯事だから」
「さっすが、音楽家の耳!」
美唄も嬉しそうに先輩の背中を叩く。こうしてポリクリをサボりがちの問題児は、見事汚名返上を果たしたのであった。しまいには、森広を差し置いて聴診のコツまでレクチャーし始める始末。

そんなこんなで、明るさを取り戻した14班なのでありました。
…しかしながら、栄光の日々は短いもの。その後三日連続で遅刻をしたことで、ミュージシャンの名は再び地に落ちていくのです。

「MJさんには困っちゃうよね。遅刻して来ても、平然としてるんだもん」
心臓外科が無事終わった金曜日。帰りの地下鉄で美唄はそう笑った。
「井沢くんとか本当に呆れた顔してたね。いや、呆れたっていうより怒ってたかな?それなのにMJさん、いつも遠い目をして明後日の方を見てるんだもん。せっかく聴診器で活躍したのにね」
「まあね…」
隣の吊り革に手を掛けながら、同村が答える。無口だった彼が、この美唄との帰り道ではすっかり自然に話せている。
「でも向島さんの聴診は本当にすごかった。俺なんか、何回聴いても違いがわかんなかったのに」
「まあMJさんは、人生でヘッドホンしてる時間の方が長いような人だから」
「でもそう考えると、あの人の音楽への努力も…満更無駄じゃないよな」
「そりゃそうだよ」
そこで美唄は大きな瞳で同村を見た。
「何だって無駄じゃないよ。同村くんだってさあ…産婦人科でレポート誉められたって言ってたじゃん。あれだって、執筆頑張ってきたおかげでしょ?」
「まあ、そうかな…」
彼女の視線がまっすぐ過ぎて、同村はまたドギマギする。
「無駄なことなんかない、あたしはそう思ってる。確かに勉強でもさ、試験前にたくさん頑張って憶えてもどうせほとんど忘れちゃうし、お医者さんになっても一生使わない知識もいっぱいあるかもしれないけど…」
お医者さんになっても、という言葉が同村の胸を鈍く痛ませる。その決断が未だにできていない彼は、自分がたまらなく罪深い存在のように感じられた。
「あ、もうすぐ駅だね。今日はちょっと買い物したいから先にここで降りるね」
美唄が明るく言う。そこは新宿四丁目の駅。いつかデジカメを買った時のようにまたつき合ってと求められることを密かに期待した同村であったが…今回はその誘いはなかった。もちろん自分から言い出す度胸は彼にはない。
「じゃあお疲れ、遠藤さん。よい週末を」
「うん、同村くんもね。じゃあまた来週!」
ホームに降りた美唄は、窓の外から同村に大きく手を振る。
…嬉しいやら恥ずかしいやら、未だにそれには応えられない同村であった。

 アパートへの帰り道。同村はいつものコンビニに立ち寄る。特に週末の予定もない彼はしばらくそこで立ち読みを楽しんだ。そしてまた「無駄じゃない…か」と誰にでもなく独り言を漏らす。
三十分ほどしたところで、雑誌とインスタントラーメンを買って店を出る。するとその瞬間、大きなサイレンの音が聞こえてきた。これは…消防車の音だ。見ると交差点の向こうから赤い車体が近付いてくる。
慌てて周囲を見回す…が、特に火の手が上がっている様子はない。もっと遠方の火事だろうか?しかしそんな予想を裏切り、消防車は彼の目の前で止まるとあの銀色の服装の男たちが降りてきた。
「あの、御苑北のアキナーマートというのはこちらですか?」
隊員の一人に尋ねられ、「はい」と答える。それはまさに今彼が買い物したコンビニだった。
「う~ん、火事の様子はないですね…。ちょっとすいません」
男は中に入り、店員に何やら確認している。その後店内やコンビニ周辺を見回ったりもしていた。同村は興味を覚えそれを見守る。結局十五分ほどで隊員たちは戻ってきた。
「あの…大丈夫だったんですか?」
先ほど声をかけてきた隊員に同村は尋ねた。男は笑って答える。
「どうやら誤報…というかイタズラだったようです。火の手はありません、ご安心を」
「そうですか。…あの、こういう出動ってよくあるんですか?」
「え?ああ、空振りの出動ですか」
そこで男ははっきりと言った。
「ええ、しょっちゅうですよ。イタズラじゃなくても、勘違いの通報も多いですから。前にも、暗い家の窓にチラチラ炎が揺れているってんで急行したら、クリスマスツリーの照明でした。困ったもんです」
「骨折り損が多いんですね。それでも通報があればこうやって駆けつけるんですよね」
「はいもちろん。行って確認しなきゃ無駄かどうかはわかりませんし、それに万が一火事だったら一分一秒の遅れが人命に関わります。まあくたびれ儲けも多いですが、それが私らの仕事ですから、ハハハ」
声を出して彼は笑う。
「まあ万が一を考えたら、無駄骨の百本や二百本惜しんでられませんよ。
…では、戻って無事だったと報告しますので失礼します。お騒がせしました」
隊員たちが乗り込んだ消防車は、今度はサイレンを鳴らさずにさっそうと去っていく。それを見送る同村…みなさんのご想像のとおり、これは彼の心を解きほぐす出来事となった。
「そうか…そうだよな」
彼はまた誰にでもなく口にする。そしてふっと微笑みを浮かべた。
あのねえ、君が主人公の小説だからいいけど、これ現実だったら怪しい人だよ?

 日曜日の夜、明日からの実習を前に同村はテンションを高めていた。鍋でラーメンを作りながら、彼は一昨日の消防隊員の言葉を思い出す。
…万が一を考えたら、無駄骨の百本や二百本を惜しんでられない。
そう、そうなんだ。
俺らが今やってる勉強も、実習も、全部無駄じゃないんだ。確かに一生出会わないような病気もたくさん頭に詰め込んでる…でもそれだってもしかしたら出会うかもしれない。万が一のその時に知識がなければ、救える患者を救えないかもしれない。それを考えたら無駄骨の百本や二百本…いや千本でも足りないくらいだ。惜しんでどうする!
試験が終わったら忘れてしまう知識だって、少しは頭の片隅に残ってる。ほとんど見えなかったオペ見学だって、それでも学ぶことはある。もしかしたら…それがいつか役立つかもしれないんだ。そう、例え医者にならなかったとしても…!
そんな考えが同村を突き動かす。医者になる覚悟をせずに医学部に来てしまった男の苦悩はどこへやら。あるいはもっと広い視野で納得できたのかな?
「こうやって手をついたらコレス骨折。スミス骨折との違いは…」
彼は一人キッチンで整形外科の復習を始めた。悩んで悩んで動けなくなるくせに、答えが見つかると簡単に動き出す。難しいけど単純だねえ、でもまあそれが君の良い所でしょう。それでポリクリに身が入るのなら何より。
「そして高い所から落ちた時の骨折が…」
そう言いながらジャンプする同村の手が鍋に当たった。そう、高い所から落ちたのは鍋であった。
「うわあああ!」
孤独な叫びが上がる。一人ではしゃいで一人で怪我して…こんなことってありますよね。
腹部に熱湯をかぶった同村は急いでシャツを脱ぎ捨てる。そして風呂場に飛び込むとシャワーで受傷部位に冷水を浴びせた。早期対処のおかげで痛みはすぐに和らいだ。
ラーメンはあきらめてそのままベッドに横になる。一晩安静にすればもっと痛みも弱まるだろう…と希望的観測。しかし、熱傷をなめてはいけません。ちゃんと処置しておかないと、将来そこから厄介な病気が出てくることだってあるのです。

長い夜が過ぎていく。日付が変わって月曜日、患部は明け方からヒリヒリと別の痛みを発し始めた。
せっかくテンションを上げたのに…同村は泣く泣く班長に、「病院に行くからポリクリに遅れます」と連絡することになったのである。

 受診先はもちろんすずらん医大病院。外来の診察室で同村は医者に言われるままにシャツを脱いだ。今回の物語、やたらと君が脱ぐシーンが多いのは気のせいか?
「ありゃりゃ、結構ひどいね。痛いでしょう」
同村は力なく「はい」と答える。医者は少し微笑み、「ここの学生さんなんですよね?」と訊いた。
「はい…そうですけど」
「うちは大学病院なので学生の見学もあるんですが、よろしいですか?」
「…え?あ、はい」
改めて確認されて戸惑う同村。そこで医者は「ポリクリさん、どうぞ」と呼びかける。すると後ろのドアが開き、白衣の若者が数名診察室に入ってきた。
「よろしくお願いしまーす。キャー、同村くんが裸だ!」
入ってきたのは美唄を筆頭に14班の五人。そう、今秋から始まったのは形成外科。熱傷は思いっきりその専門分野である。
「え?先生、ちょっと…」
「いいですか、みなさん。熱傷の診断で大切なのは深さと広さです。皮膚のどの深さまで及んでいるか、体表面積のどれくらいの範囲で広がっているか…それによって必要な輸液の量を計算する。バクスターの公式、勉強しましたね?」
慌てる同村を横目に医者は講義を始めてしまう。診察室はもはやクルズスの場になっていた。
「勘違いしやすいですが、高温熱傷より低温熱傷の方が危険です。温度が低い分、気付かずに長時間皮膚に触れるので深部まで傷害されます。逆に高温熱傷は熱くてすぐに皮膚から離す場合が多い。この患者さんも一瞬熱湯をかぶっただけなので、皮膚の傷害は浅いです。
…じゃあまずは消毒しましょう。せっかくだから誰かやってみます?」
美唄が「あたしやりまーす!」と笑顔100パーセント、この時ばかりはさすがに恐い。長も「俺も俺も」と前に出る。後ろにはまたまた呆れ顔の井沢、その横には微笑むまりかと向島が並ぶ。
「ちょ、ちょっと先生!」
「覚悟決めなさい同村先生。これで実習は出席にしてあげるから。あ、ちなみに僕は学生指導の氏家ね、よろしく」
「そんなあああ~」
そこでまりかも言った。
「同村くん、お湯をかぶった後、慌てて服を脱いだでしょ?だから皮膚が服にくっついて剥がれちゃったのよ。水ぶくれも破けちゃってる。熱傷を負った時は、まず服の上から冷水をかけて、脱ぐのはその後。水ぶくれの中には炎症を抑える成分が含まれてるからなるべく破らない。…去年授業でやったでしょ?」
「そんなこと言ったって…そんな余裕は…」
「さっすが、まりかちゃん!」
嘆きの同村の前に、ピンセットと消毒ガーゼを構えた美唄が立つ。
「ね、同村くん、無駄なことなんかないでしょ?失敗だってこうやって役に立つんだから。これで熱唱の知識は一生忘れないね。はい、お腹をこっち向けて。はい逃げなーい、逃げなーい」
その後診察室から、待合室が驚くほどの叫びが上がったのでありました。ここでもマネキン以上のファインプレイでしたね、同村くん!

ではではそんなこんなで、5月の物語もこれにておしまいです。今のうちにしっかり無駄骨を折ってください、14班諸君!

6月、血液内科編に続く!