プロローグ ~14班誕生~

春の候、読者の皆様方におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
僭越ながら自己紹介させていただきます。本作は『Medical Wars』、これから一年かけてお送りする連続小説でございます。主な登場人物は医学生、時代設定は現代日本でございます。
不慣れな点など多分にあるかと存じますが、今後ともご指導・ご鞭撻のほどをよろしくお願い申し上げます。

…なんて、かしこまり過ぎて逆に無礼な定型挨拶はこのくらいにしておこう。そもそもみんながご健勝…健康だったり勝ったりしているわけはないし、不慣れな点が多分にあることを自分で宣言するなよという気もするけれど、こんな堅苦しい言い回しが未だに流通しているのが医療業界だったりするわけで。まあとにもかくにも、健康で勝ってる人に限らず、病気の人や負けてる人ももちろん大歓迎、お楽しみいただけたら嬉しい。
ちなみに本作のナレーションは、気分で口調が変わりますのでご容赦ください。

では気を取り直して、さっそく物語の舞台から説明しよう。
ここは、すずらん医科大学病院。都心も都心、そりゃもう都心の新宿というとんでもない所に聳える私立の大学病院だ。正確には所在地は南新宿になる。
歩道には無愛想なビジネスマンが行き交い、道路には無数のクラクションが悲鳴を上げ、狭い空には傾いた高層ビルが突き刺さる街。この病院も負けじと背伸びし、29階建ての病棟は1500床のベッド数を誇っている。その屋上に立てば、西には都庁、東には新宿御苑、また夜には歌舞伎町の妖艶なネオンの揺らめきまでばっちり拝める、最高にして最低のロケーション。
これはそんな極端な環境で学ぶ医学生たちの物語である。よろしいかな?まあごゆるりと、楽な気持ちでおつき合いくださいな。

それでは続きまして、物語が始まる場所にご案内。
やって来たのは教育棟と呼ばれる建物。すずらん医大の敷地内ながら、病院とは対照的にこじんまりとした佇まい。中に入ると、1階は学生ロビーと呼ばれる談話空間、2階から5階はそれぞれ3年生から6年生の教室となっている。本来大学であれば『講義室』と呼ぶ方が正確なのだろうが、ここは単科大学で、ようするに学部は医学部オンリー。学生は医学生しかおらず、同学年の者は全員揃って同じ講義を受ける。よってキャンパスライフとしてイメージされるような、講義ごとの部屋移動、各人の講義選択、他学部の学生との触れ合いなんてものは一切ない。まるで小学校よろしく、学生は毎日同じ部屋の同じ席に座り、そこに講義ごとの先生がやってくるシステムだ。
そんなこんなで部屋は一年間の居場所も兼ねており、ついつい学生も『教室』と呼んでしまうわけだ。講義のことさえ思わず『授業』と言ってしまうくらい。違和感があるかもしれないが、ここはそういう世界、浮世の常識なんぞ通用しない異次元空間なのである。
ちなみに、一学年全員が一つの教室で入り切るのか?、と思われた方。それも問題ナッシング。国立より間口の広い私立とはいえ、一学年の人数はせいぜい100人ちょっと。大き目のこの階段教室であれば、十分に収容されてお釣りがくる。じゃあこの教育棟に教室がない1年生と2年生はどこにいるのか?、と思われた聡明な方。良い質問ですが、説明ばかりだと眠たくなるので、それはまたの機会に。なんたって、この物語の主役は5年生ですから。ひとまず今は、教育棟という学生専用の建物があることをご承知いただければ十分です。

…ではそろそろ参りましょう。Medical Wars、本編のはじまりはじまり。

 高層ビルの隙間の小さな空は淡い水色に塗られ、眩しい風が吹けば排気ガスに混じってほのかに春も薫。そんな3月最終週の金曜日。教育棟4階の階段教室には多くの若者が集っていた。来月から病棟実習に入る新5年生の諸君だ。先月の厳しい進級試験を突破し安堵するのも束の間、彼らは今、次なる局面に立たされている。
「では今から、みなさんに白衣とネームプレートを配布します。学生番号順に名前を呼びますので、取りに来てください」
座席の学生たちが自由な会話に興じる中、正面の教壇に立って声を張り上げているのは学務課の喜多村だ。紺色のスーツに短髪、細身の身体とはアンバランスな太い黒縁メガネが印象的な40代男性。学務課は各種事務手続きに加え、学生たちの相談相手になるのがその仕事。しかし入学時にはあれだけ素直で可愛かった彼らも、5年生ともなればまさに生意気の骨頂。その肥大した自尊心に密かに舌打ちすることも少なくない。
「みなさん、聞いてますか?聞いてくださいよ」
投げかけても反応はなし。まるで誰も立ち止まってくれないストリートシンガーのような悲哀を漂わせながら、喜多村は「じゃあ配りますよ」と一人で話を進めた。
「学生番号1番、秋月まりかさん」
最前列に座っていた女子学生が進み出て、一礼して白衣とネームプレートを受け取る。
「いいですか。ちゃんと取りにきてくださいよ。続けます、次は学生番号2番…」
今度は中ほどに座っていた男子学生が前に出る。そんな感じで、白衣とネームプレートの配給が続く。これらは来月から始まる実習で使用するアイテムなのだ。
実際に病棟に出て患者と触れ合う臨床実習のことを『ポリクリ』と呼ぶ。この可愛い響きを持つネーミングの語源については忘れてしまったので割愛するが、とにかくすずらん医大ではそのポリクリが5年生の一年間をかけて行なわれる。白衣とネームプレートは院内を歩き回る上で、身分証も兼ねた学生の標準装備というわけだ。
ちなみに看護学校では、病棟実習に出る前にナースキャップを授与される『戴帽式』と呼ばれる儀式がある。そちらは聖典さながらの感動的で厳粛な一大行事なのだが…医学部においてはそのようなものはなく、この事務的な配給がそれに代わる。なんとも味気ない。
次々とアイテムを受け取っていく学生たち。そのざわめきはさらに大きくなっていく。まあ、はしゃぎたくなるのもわかる。あの生き地獄の進級試験を乗り越えた者だけが、今この場にいられるのだから。鬼に足を捕まれた者は、また1年間この下の教室で過ごす。まさにここは天国…まあ白衣の天使と呼べるほど彼らはおぼこくはないけれど。

 さて、騒がしい教室の中、隅の席で受け取ったネームプレートを見つめている男が一人。彼の名は、同村重一(どうそん・じゅういち)。お待たせしました、いや、それほど待たせてはいないけれど、ようやく登場した本作の主人公である。少し色黒の肌に純朴な顔立ち。二つのつぶらな瞳は、ネームプレートに印刷された自分の顔写真に注がれている。
「いよいよ、か…」
彼は呟く。このざわついた教室で、普通ならこんな独り言が誰かに届くわけはないのだが…。
「また決めゼリフですかい、ドーソン」
そう言いながら彼の隣に座ったのは山田深志(やまだ・ふかし)。今ちょうどアイテムを受け取ってきたところらしい。角刈りに口ヒゲ、ダボダボのTシャツを腕まくり、首や指にはクロムハーツのアクセサリーを装着し、迷彩のハーフパンツにビーチサンダルを履いたその姿は、とても来月から白衣を着るとは思えない。
「やあ山さん。いや…ついにここまで来たなあと思ってさ」
「おうよ、ようやく病院だべ」
性別以外に一見どこにも共通項のないこの二人だが、実は仲が良い。変人同士気が合ったという感じだろうか。
「頑張らないといけないよな、患者さんに接するわけだから」
「考え過ぎんなよドーソン。学生はそんなにすげえことはやらせてもらえねえって」
そこで山田は足をバタつかせた。
「ああ~まだ学生かよ俺たち。地元の友達なんか、もうとっくに働いてんのによ!」
医学部は六年間のカリキュラム。現役で入学しその後全く留年しなかったとしても、卒業時は24歳。早々に就職したり家業を継いだかつての同級生と比べれば、社会人になるのに随分遅れをとってしまう。山田がじれるのも無理からぬこと。
「山さんは卒業したら地元に帰るの?確か長野だったよな」
「まだわかんねえけど…、どこの科に行くかも決めてねえし。ま、それも今年ポリクリやってから決めるべ」
「…そうだな。俺も今年は色々考えないと」
同村が少し遠い目をする。ちょっと自己陶酔気味な友人に山田は構わず言葉を続けた。
「一年間同じ班でずっと行動するんだもんな。面白いメンバーだったらいいけどよ…。お前と一緒だったら絶対楽しいべ」
「それはないだろ。俺と君は学生番号が離れてる」
「いや、なんか今年から変わるらしいぞ、班の決め方。学生番号順じゃないらしいべ。昔は成績順だったらしいから、またそれに戻るのかもな」
「だったらなおさら無理だろ。俺、進級試験ギリギリだったから」
「俺だってそんな変わんねえべ」
否定しながらも、山田は少し得意そうな顔をする。
「まったく…」
同村はそんな友人の様子にそっと微笑む。長いつき合いだ、彼が自分に絶対の自信を持っていることは百も承知。ただ山田の自信は医学生という肩書きによるものではない。もし山田がそんな人間であったら、同村が彼に心を開くことはなかっただろう。ドーソンと山さん、この二人の出会いについてはまた時間があったらゆっくり触れたい。
「はいみなさん、少し静かにしてください!大事な話をします」
全員の配布を終えた喜多村が、大袈裟に手をパンパンと叩いた。生意気なざわめきはそれでもあまり鎮まらない。
「はい、というわけで4月からみなさんはポリクリに入られます。おおよその説明は先ほど聞いて頂きましたし、白衣もお渡ししました。ネームプレートは病院での正式な身分証ですから、絶対になくさないように!
紛失した場合、再発行には時間がかかります。一年後、実習が終わった時に回収致しますので、よろしくお願いします」
一年後か…、その時自分はどんな気持ちでいるんだろう。そんなことを思いながら、同村は再びネームプレートを見た。『すずらん医科大学病院 同村重一』、そう書かれている。本来なら『医師』や『看護師』など職種が記される欄、学生である彼らはそこが空白になっている。
「ええと…」
そこで言葉を止めて喜多村は腕時計を見た。と同時に、教室前方のドアが開き、白衣姿の男が入ってくる。時間どおりの到着に、安堵の表情の喜多村。
「みなさん、瀬山先生がいらっしゃいました。お静かに」
その言葉よりも早く、教室は一同に沈黙した。こいつら…さっきまで無駄口叩きまくりだったくせに。まあ現れたのが大先輩の大学教授、しかも学生部長その人となれば当然か。白い巨塔のヒエラルキーはこんな末端にまで及んでいる。
「それでは、瀬山先生からポリクリ前のお言葉をいただきたいと思います」
喜多村にマイクを渡され、教授は正面に進んだ。白髪の混じった長めの髪に細身の身体、その目はぐるりと室内を見回す。
「みなさん、こんにちは」
学生たちは揃って「こんにちは」を返す。
「まずは進級試験お疲れ様でした。来週からはいよいよポリクリ…ですね。
これまでみなさんは教科書の中で医学の基礎を学んできたことと思います。ですが来週からみなさんが目にするのは、実際の患者、実際の病気、実際の治療です。驚かれることも多いかもしれませんが、せっかくの一年間を実りあるものにしてください。そして将来自分が働く世界を肌で感じてください」
「将来自分が働く世界…」
同村が口の中でそうくり返す。隣では山田が小さくあくび…オイオイ。
「先ほど喜多村さんからも説明があったと思いますが、来年2月には各班にこの場所で実習発表をしていただきます。発表会にはみなさんが実習した各科の教授が揃われます。そして3月にはまた進級試験もありますので、その勉強もお忘れなく。6年生への進級は、各科の実習、2月の発表会、3月の試験の全てを総括して判定します」
教授は急に少しだけ黙る。その沈黙は学生たちに十分過ぎるプレッシャーを与える。
「…まあ、そんなところですかね。みなさん、当然ですが院内では自覚ある行動をお願いします。耳鼻科に回ってきた時には、私から指導することもあるでしょう。その時はよろしくお願いします」
瀬山は最後に「では頑張ってください」と抑揚なく言い、喜多村にマイクを返した。そしてまた音もなく教室を出ていった。彼がここにいた時間はおそらく五分もなかっただろう。それも仕方ない、ここは診療・研究・教育の三つを柱とする大学病院。いずれにも携わる教授はとてもお忙しい御身なのだから。
出ていったドアが完全に閉まると、室内はまたざわめき始める。本当にもう…わかりやすい坊やたちである。
「なんか…あんまりたいしたメッセージじゃなかったな」
と、同村。山田が「こんなの形だけだべ」と返す。
教室の正面には再び喜多村が出た。
「では最後に、一年間一緒に実習する班分けを発表したいと思います」
ざわめきはさらに大きくなり、同時にどよめきの色も帯びる。そう、彼らにとってこれが最大の関心事。もちろん、好きな子と一緒になれるかな?、とかそんな小学校の席替えみたいな微笑ましい気持ちでどよめいているわけではない。
「今からプリントを配りますので、それを見て班ごとに集まってください。そのプリントには実習の注意事項も書かれています。各自しっかり目を通してから実習に臨んでください。
なお班についてですが、例年学生番号で機械的に決めていましたが、本年からはランダムに決定されております」
「マジかよ!」
「嘘、ランダム?」
「どうして、どうしてだよ」
いくつかの声が上がる。
「山さん、ランダムだって」
「おう、ちょっと楽しみだな」
喜多村がさらに声を張り上げる。
「はいはいはい、お静かに!ランダムにしたのは新しい教育効果の可能性を…って聞いてませんね。じゃあ配りますよ!見たら各班ごとに集まってくださいね」
喜多村の声はほとんど掻き消されている。きっと彼はまた密かに舌打ちをしたに違いない。…ご苦労様です。

「各班ごとに集まったら、その中で役職を決めて、それを学務課に提出してから帰ってく
ださい!役職についてもプリントに記載してありますから。いいですか、今日の説明会はこれで終わりです!終わりですからね!」
半ばヤケクソにそう言ってから喜多村が去る。置き土産のプリントは、室内にいくつもの歓喜の叫びと落胆の嘆きを巻き起こしていた。その混乱の嵐は少なくとも三十分は吹き荒れていただろう。そしてそれが過ぎ去った時、教室には計二十の班が誕生していた。
仲が良い者同士がうまく揃ったアタリ班もあれば、当然その逆のハズレ班もある。では我らが同村はどうかというと…う~ん、これは微妙。どちらかというとハズレ?別に仲が悪いわけではない。しかし仲が良いわけでもない。彼が送り込まれたのは14班、そこにいたのはこれまでお互いほとんど話をしたことがないメンバーだった。
集まった瞬間、その場には明らかな戸惑いがあった。誰が口火を切るか探り合う空気も一瞬流れた、しかし…。
「こんにちは、遠藤美唄です、初めまして!あ、全然初めましてじゃないけど、なんかそんな感じ。14班、よろしくでーす!」
読者のみなさん、漢字読めましたか?最初に明るく挨拶した彼女の名は、自己紹介のとおり遠藤美唄(えんどう・びばい)。茶色がかった肩までの髪に、黒く大きな瞳。春らしい水色のブラウスにジーパン、メイクも控え目だがお上手。自分のチャームポイントをどう演出すれば最大限に活かせるのかを熟知していらっしゃる。医学部には女性が少ないというのを抜きにしても、同学年の中でトップクラスに可愛い容姿を持つ。一応本作のメインヒロインになる予定。
彼女は「よろしく、よろしく」と小さくピョンピョン跳ねている。無邪気というか天真爛漫というか、彼女のノリはいつもこんな感じだ。本人に計算の意図はないのかもしれないが…可愛い上にこのノリなので、一部の女子からは冷たい視線を向けられている。小学校なら間違いなく人気者のタイプなのだが、大学生、しかもこの年齢ともなると…色々難しいらしい。
「へぇ、遠藤さんの名前、『びばい』って読むんだ。珍しいな~」
続いて口を開いたのは長猛(ちょう・たけし)。若作りしているが、彼の実年齢は32歳。黒のバイクスーツに身を包み、いかした単車で通学する中年…もとい青年だ。時々ロッカールームで見かけるグラサンと革ジャン姿は、明らかに柄がよろしくない。
「珍しいですけど、ちゃんとパソコンでも変換できますよ、長さん」
「あ、俺のこと知ってるの?俺、長猛ね。オッサンだけどよろしく」
彼はみんなに会釈してみせた。医学部には、浪人をくり返した者、他学部や社会人を経験してから改めて入学してきた者もいる。彼が例外中の例外というわけではない。しかし少なくともこの教室においては最長老であり、いつしか彼は浪人生グループのボス的存在となっていた。彼が自分をオッサンと自虐的に呼ぶのも…きっと年の功の処世術。
「よろしくです!呼び方は長さんでいいですか?」
「いいよ。じゃあ俺も美唄ちゃんって呼ぶわ」
この二人が先人を切ってくれたおかげでその場の戸惑いは若干弱まり、他のメンバーも口を開き始めた。ちなみに、今教室内のあちこちで各班が似たり寄ったりのやりとりを行なっているところ。
ランダムに決められたポリクリ班…その理不尽に多少不満の声も漏れたが、今は誰もがそのシステムに従っている。学校に対して抗議する者など一人もいない。良くも悪くもそれが医学生というものだ。
「同村重一です、よろしく」
同村は面白味のない極めて普通の自己紹介。
「じゃあ次は俺。俺は井沢ね、井沢大輝。井沢でも大輝でもどっちでもいいよ。所属はサッカー部。いや~なんかすごい班だなこりゃ!」
爽やかに微笑んだのが井沢大輝(いざわ・だいき)。チャラいとまではいかないが、適度に垢抜けた彼は、同学年だけではなく後輩にも先輩にも顔が広い。体育会系の部活の中でも花形のサッカー部に所属し、言うなればメジャーな青春を謳歌している男だ。ハンサムでスポーツマン、それでいて学業も優秀。人当たりのよい柔らかい物腰は、根暗な同村や年配の長と比べて明らかに第一印象がよい。…あ、こりゃ失敬。
嬉しそうに「よろしく、同村くん、井沢くん」と返す美唄に、井沢は「よろしく、美唄ちゃん」と軽くウインクしてみせる。このいやらしくない力加減の馴れ馴れしさが、顔の広さの秘訣なのかもしれない。ちなみに同村はその隣で無言…う~ん。
「秋月…まりかです」
ようやく口を開いたのが、秋月まりか(あきづき・まりか)。ご記憶かな?先ほど白衣を最初に受け取っていた学生番号1番。地味なトレーナーに膝を隠す紺のスカート、長い黒髪を後ろで束ね、小さなメガネが印象的。オシャレなどにあまり興味がないのか、小柄と丸顔のせいもあって何となくやぼったく…こりゃまた失敬、落ち着いて見える。顔もほぼノーメイク。
「よろしくお願いします」
彼女は小声でそう言い、明らかに無理して笑顔を作る。
「よろしく、まりかちゃん!よかった、女の子がいて」
躊躇のない微笑みを返す美唄。それを受けてまりかは少し困った顔。
「秋月さんって、確か四年間ずっと特待生だよね。すごいや、この班!」
感心する長。井沢も「だからさっきそう言ったじゃないっすか」と合わせた。
14班メンバーはそこで改めてお互いを見る。まだ戸惑いは拭いきれないが、美唄と長と井沢はこの場を楽しいものにしようと笑顔を作っている。
一学年100人ちょっとで、基本的には同じ顔ぶれで四年間過ごしてきたのだから、もちろんお互いの顔と名前くらいは知っていたはず。陸の孤島の医学部とはいえ、友達グループ以外にも、部活や県人会など、交流する機会はいくつかある。しかしこの五人は、見事なまでにこれまで接点がなかった。
いつも教室の最前列で黙々と勉強している特待生・まりか。いつも明るく可愛いがそのせいで女子からは浮きがちな孤独のアイドル・美唄。顔が広く抜群のコミュニケイション能力で多くの交友関係を持つ爽やか青年・井沢。特に望んだわけでもないのに年齢のために浪人生グループのボスとなっているチョイ悪親父・長。そして特定の友人…つまりは山田としかほとんど話しをしない無言男・同村。
「あれ、この班は五人の班だっけ?」
同村が久しぶりに口を開いた。長が答える。
「そういやおかしいな、確かにいくつか五人の班もあるけど、この班は…ええと、プリント見てみよう。ほら、14班だから…六人いるはずだな。あとは…向島さんだ」
「向島さん?この班、すご過ぎ!」
井沢が大きく反応した。
「向島さんって、確かもともと一学年上の人だよね」
同村も口数が増えてきた。頑張れ、主人公!
「そうそう。MJさんは去年の進級試験に落ちちゃって、4年生を二回やったの」
声を落として答える美唄。そこで長が「MJ?」と聞き返す。
「あ、そうなんですよ。あたしと向島さんは同じ音楽部で、そこではあの人自分のことを『MJK』って言ってるんです。名前が向島鍵だから頭文字でMJK。あたしはMJさんって呼んでますけど」
「へえ。でも、この一年ほとんど教室で見かけなかったな」
「忙しくてあんまり学校来ませんから。変人なんですよ」
美唄はそこでクスッと笑う。今度は同村が「忙しいって、バイトとか?」と尋ねた。
「ううん、音楽」
「音楽って…部活?」
同村のその問には井沢が答えた。
「あ、先輩から聞いたことある。あの人、音楽かなりすごいらしいね。自分でCD作ったり、ライブハウスで演奏したり、プロのミュージシャンと仕事したりもしてるって。医学生なのに…そりゃ留年するでしょ」
「まあそんな人なの。今日も来れないかもって言ってたから、あたしが代わりに白衣とネームプレート受け取っちゃった」
半ばあきれ顔の井沢。同村は興味深そうに「すごい人だね」と呟いた。初っ端から欠席の先輩のせいで淀みかけた空気を払うように、美唄は笑顔のまま力説する。
「大丈夫、実際に話したらMJさんはすっごく面白い人だから。じゃあじゃあ、14班はこの六人ってことで、一年間頑張ろうね!」
そこで彼女は両肘を折り、拳をぐっと握ってガッツポーズになった。さらに…。
「エイエイオー!エイエイオーイエー!」
なんと突然大声を上げ、しかも「オー!」と「オーイエー!」に合わせて右の拳を振り上げた。あまりのことに周囲の班の連中が数名振り返る。さすがにここまでくると…どうだろう。いかに無邪気で可愛いとはいえ、このノリにはみんなも呆然、取り繕えても苦笑いが精いっぱい。
「じゃ、じゃあ今日はこれで終わりかな」
長がかろうじて言う。
「よし、じゃあ来週からよろしく!」
井沢もその場を終わろうとしたが、「違うわ」と、まりかがかな~り久しぶりに口を開いた。
「何?まりかちゃん」
美唄が首をかしげる。特待生はためらいがちに答えた。
「ほら、喜多村さん言ってたじゃない。班の中で役職を決めて、提出してから帰りなさいって。だから…」
「あ、そうだよ!」
同村もはっとする。周囲を見れば、他の班はすでにその作業に入っているようだ。しっかりしてくれよ、14班諸君。
長が「うっかりしてたなあ」と頭を掻く。
「俺もうっかり…。ええと、役職は何があるんだっけ」
井沢がまりかを見て尋ねた。
「プリントに載ってるわ。ええと、班長、副班長、進級試験対策委員、卒業試験対策委員、国家試験対策委員、それと卒業アルバム委員」
まりかは小声だが流暢に説明する。
「じゃあ、決めようか。まずは班長だが…」
長がそう言いながら近くの机に軽く腰掛ける。同村と美唄も同じように机に座り、井沢もそれに倣った。まりかだけはきちんと椅子に腰掛ける。
「班長は長さんでいいんじゃないですか?」
と、美唄。何がそんなに嬉しいの?…というくらい、彼女はこの役職決めにワクワクしている。
「いや、そりゃまずいよ。年長者の俺が仕切っちゃ…」
慌てて断る長。確かに現役で医学部に入学している同村や井沢、まりかたちからすれば彼は十歳も年上になる。美唄も一浪だから、ほとんど同じ感じだ。すでに一部で望まぬボスになってしまっている彼は、さすがにここでまでそんな存在になりたくなかったのだろう。
「だから、班長は俺以外の誰かがやりな」
「そうですか?う~ん、それじゃ…」
美唄はそう言って大袈裟に腕を組む。同村が「班長って、どんなことするんだろう」と投げかけ、井沢がそれを拾った。
「先輩に聞いた話じゃ、時々学務課に呼ばれて連絡事項聞いたり、病院実習で先生に最初に口頭試問されたりするみたいだ」
「そうなんだ…」
誰も指名していないのに、同村は怖じけづく。
「じゃあ、まりかちゃんはどうかな?今だって、ちゃんと学務課さんの話聞いてたし。なんてったって特待生だし、口頭試問もバッチリバッチリ」
美唄がまりかに向き直る。長も「そりゃ頼もしいな!」と頷き、井沢も「確かに」と少し悔しそうながら同意。同村も無言で彼女を見た。
四人の視線の中、まりかの口が小さく開く。
「別に…いいけど」
嬉しそうでも嫌そうでもなく答える。
「おっしゃ、じゃ、班長は秋月さんで決定!」
ほっとして長が言う。
「お願いね、まりかちゃん!やったー!これで14班は安泰だ」
美唄が拍手を贈る。残る三人も戸惑いながら小さく応じる。当の本人は「そんな大袈裟な…」と呟き、少し恥ずかしそうにさっそくプリントに、『班長 秋月』と記入した。
「よ~し、この調子でどんどん決めよう」
「そうっすね長さん。他の班はもう決めて帰り始めてるみたいですし…急ぎましょう」
井沢がそう言うと美唄がいきなり手を上げた。
「はーい、はーい、じゃ、立候補いいですか?あたし、卒業アルバム委員やりたいです!」
またも出ましたこのノリ。ハイテンション娘の隣でロウテンション男の同村が答えた。
「他に希望者がいなけりゃ、いいんじゃない?アルバム委員って、みんなの写真撮ったりするんでしょ?なら、やりたい人がやったほうがいいよ」
「…賛成」
まりかも小声で同意。
「じゃ、アルバム委員は美唄ちゃんで!」
長が頷き、それをまたまりかが筆記する。
「残るは四つ。副班長、進級試験、卒業試験、国家試験…。長さん、じゃあ副班長ならどうっすか?」
井沢が提案。美唄も「そうですよ、もう逃げるのなしです!」とたたみかける。
「わかったよ。では、副班長を仰せつかります。秋月班長の御身は、この長がお守り致します」
彼は腰掛けていた机を降り、右手を胸に当てておじぎする。あんた組長の娘のお付きですかい。まりかは恐縮しながらまた筆記する。
「あとは三つ…。同村、お前は何か希望ある?」
井沢が急に場を仕切りだした。
「いや、特に…」
同村くん、君はもっとはっきりしなさい。主人公なんだから。彼の返事が煮え切らないので結局井沢が先に言う。
「じゃあ俺、国家試験対策委員やるよ。先輩に聞いたんだけど、これって他の大学とかから情報集めたりするらしいから。ほら、俺、他の医大にも友達多いし。…いいですか、みなさん?」
長は「もちろん」、美唄も「いいね、いいね!」と同意した。
「じゃあ、俺は…進級試験対策委員にしようかな。これって6年生に上がる時の試験の対策だもんな。今年留年しちゃったら、来年の卒業試験対策なんてできないし」
同村も続く。確かにこの春の進級試験の成績では…それもありうるぞ。しかし、いきなりなんてネガティブな発言。そんな彼に美唄は「絶対大丈夫よ!」と逆にポジティブ過ぎる激励を贈った。
「じゃあこれで二人決まりだな」
長が促し、まりかがそれを書き終えてから言った。
「ええと…じゃあ、残った卒業試験委員が…向島さんでいいのかしら」
「うん、多分なんでも大丈夫と思うよ。あたし、後でメールしとくから」
美唄のその言葉に、まりかは向島の名前を筆記する。そしてみんなで手元のメモを覗き込んだ。
「これで…無事決まりだな」
と、長。
「14班、誕生だあ!」
美唄がまたまたハイテンション。
「よし、じゃあみなさんこれからよろしく!」
井沢も盛り上げ、同村も無言で頷く。
「それじゃあみんな、来週月曜日は…」
まりかは説明会の最初に配布された小冊子をめくる。おそらく、喜多村が話している間に一通り目を通していたのだろう。さすがである。
「14班は、産婦人科からね。医局に8時半集合だから…着替えて学生ロビーに8時15分集合にしましょう」
「さっすが班長、了解です!」
美唄がまた拍手。異議を唱える者はいない。
「私は今決めた役職を清書して学務課に提出しておくから、今日はこれで解散です」
プリントをそろえながら言うまりか。どうやら人選は正しかったようだ。みんなもそんな顔をしている。
「ではまた来週な!」
長が締め括った。気が付けば、周囲の班はほとんど帰ってしまっている。
それにしても、解散して教室を出る時も元気なのは美唄だ。「いや~ついに動き出したね。みんなよろしくよろしく~!」などと一人で喋っている。まったく、このパワーはどこから来るのやら。
「さっそく一人いなかったけどな」
と、小声で同村。コラコラ。

まあそんなこんなで読者のみなさん、どうです?14班のメンバー、憶えられそうですか?

 では、彼らの放課後の動きも少し追ってみよう。すずらん医大の最寄りの地下鉄駅である『すずらん医大前』。その自動改札に向かっているのは同村だ。
「同村くーん!」
背中に元気な声が飛んでくる。その主はやはり…。
「遠藤さん」
振り返ると、そこには笑顔100パーセントの美唄。そのまま抱き着いてくるんじゃないかという勢いで接近中。
「遠藤さんもこの駅なんだ」
「そうだよ、方向も同村くんと一緒!」
「え?」
「だって時々車内で見かけてたもん。四年間も同じ学校通ってるんだから…」
目の前まで歩み寄ってきた彼女に、同村はドギマギ全開。
「あ、そ、そうなんだ」
「も~。今日も一人でさっさと帰っちゃうし」
「ごめん。じゃあ、一緒に帰ろうか」
同村という男、別に異性に興味がないわけではない。ただ彼は何に関しても考え過ぎてしまう性分で、結局考えるだけで何も動かずに終わってしまうことが多い。どうして考え過ぎるんだろう、とまた考え込んでしまう始末だ。美唄に対しても、少なくともそこら辺の男どもと同じくらいには可愛いと感じている。なのに「遠藤さん」とかしこまって呼んでしまうのも、彼の偏屈さと度胸のなさの表れ。井沢や長のようにいきなり「美唄ちゃん」なんて馴れ馴れしくは話せない…面倒臭い男なのだ。
もともと内向的な気質だった彼は、医学部に来てからさらにその傾向を強めてしまった。例外的に山田とは一晩中だって飲んで語ったりできるが、それ以外の同級生とは必要最小限の会話のみ。まあそれもまた、彼なりの理由があってのことなのではあるが…。
そのことはさておき、珍しく女子と下校することになった同村は、戸惑いと期待を胸の中でブレンドしながら話題を考えていた。とはいえ普段無口な男がいきなり小粋なトークを展開できるはずもなく、先に美唄が言った。
「同村くん、あのさ…」
「な、何?」
「あのもしよかったら…つき合ってくれないかな?」

 美唄の言葉はもちろん愛の告白ではなかった。一瞬でもそう解釈してしまった自分を恥じながら、同村は彼女の願いに従い買い物につき合うこととなった。自分の一挙一動が彼を右往左往させていることに気付いているのかいないのか、美唄はルンルンと歩いていく。
二人は地下鉄には乗らず一度地上に出た。そしてそのまま徒歩でJR新宿駅方面を目指す。水色の春空は僅かにオレンジ色を帯び始めていた。
「いよいよポリクリだからドキドキするね」、「産婦人科ってどんなのかな」、「同村くんは赤ちゃん好きなの?」…などなど、会話を転がしているのはほぼほぼ美唄、同村は相槌マシーンと化していた。それでも彼女はずっと楽しそうであり、やがて到着したJR新宿駅東口付近の大型電気店に入ってもその明るさは衰えることはなかった。彼女が所望したのはデジタルカメラ…そう、卒業アルバム委員の必需品である。
「ねえこっちこっち、これ見て同村くん」
店内でも遠慮なく名前を呼ばれて戸惑いの同村。しかしそこには嫌な感覚はなかった。むしろ自分とはまるで違う、光を放ち続ける彼女の姿を、彼は優しい眼差しで見つめていた。
「よし、これにしよう!」
やがて美唄は一つのデジカメを選んだ。棚の隅に置かれた流行からは少々遅れたタイプだったが、角が丸くてちょうど自分の手に収まるサイズだったことが気に入ったらしい。
「それでいいの?あんまり古い型だと、メモリーカードとかケーブルとかがすぐに使えなくなるんじゃない?ほら、こういうのどんどん進化するから」
「そうなったらそれも運命、大丈夫よ!」
ネガティブ男の戯言など気にも留めない様子で、ポジティブ娘はそれを購入した。

 二人は最寄りの地下鉄駅に向かう。JR新宿駅と接続されていることに加え、ちょうど退勤ラッシュの時刻、さらに週末の夜を楽しもうとする若者たちも加わって、構内はごった返していた。
一緒に改札を通りホームへの階段を下る。前も後ろも人だらけ、美唄はいつしか同村の後ろに回り、まるで臆病な子供のようにぴったりついてきていた。彼が時々振り返ると、彼女はそっと微笑む。
同村には少し意外だった。彼女のことだから、並んで歩いてまたあのノリで話をする、あるいはエジプト脱出のモーゼの如く、人の海を割って先頭を切ると思っていた。
間もなく二人はホームに着き、電車を待つ行列に並ぶ。
「もうもう、本当に人が多いね。嫌になっちゃう」
美唄はまた元のノリに戻っていた。
「そうだね。…遠藤さんはどこまで乗るの?」
「あたしは四ツ谷4丁目。同村くんは?」
「俺は、新宿御苑北」
「そうなんだ。そういえばさ、同村くんとこんなふうに話すのって今日が初めてだよね。色々迷惑かけちゃうかもしれないけど、一年間よろしくね」
「こちらこそ」
彼女のよろしくはもう何度目だろうか。すぐに地下鉄が到着してその中に押し込まれるが、当然座れるはずもない。
「でもある意味すごいよね、うちの班」
吊り革を握ってから彼女が言った。
「ん?」
「だって、今までほとんど話したことない人だらけじゃない?同じ学年だけど、みんなグループが違うっていうか、世界が違うっていうか…。MJさんとあたしは部活が同じだけど」
「確かにね」
そこで地下鉄は静かに動き出す。
「いろんなジャンルの有名人が集結、なんだか紅白歌合戦のコラボレーション企画みたい」
「有名人か…、俺以外はそうかもね」
「同村くんだって有名だよ。いつも山田くんと一緒にいて、休み時間とか授業中もずっと何か書いてるし…。文芸部だから、やっぱり小説書いてるのかな?」
同村は心底驚く。吊り革を握る手に思わず力がこもった。
確かに彼は文芸部所属、本の虫で自作の小説を書く趣味がある。別に隠しているわけではないが、同級生で自分のそんな活動を知っている者など、山田以外は皆無だと彼は思っていたのだ。
「まあ…一応執筆が好きなんだ。驚いたな、遠藤さんってクラスのみんなをよく見てるんだね」
「そっかな~?でもすごいじゃん、小説なんて」
「いや、別に全然たいしたもんじゃ…。遠藤さんこそいつも…その…元気で、すごいと思うけど」
「あ、今、言葉選んだでしょ?」
美唄は一瞬真顔になった。
「あ、いや」
「いいよ、別に」
初めて彼女は同村から視線を逸らし、窓の外を見る…といってもこれは地下鉄、車窓は闇の中に時々無機質なライトが流れていくのみ。
「あたしもね、わかってるの…みんなと違うって。でも、やっぱり明るくいたいし、そんな自分が好きだから」
「いや、遠藤さんがすごいって言ったのは本心だよ」
同村は美唄の横顔に向かって必死に取り繕う。
「俺も君みたいなパワーがほしいって思うよ。いやあの、その…」
美唄はクスッと笑い、再び同村に顔を向ける。
「確かに同村くん、おとなしいもんね。声を聞いたことある人の方が少ないかも。フフフ、あたしと同村くんを足して2で割ったら丁度いいのかも」
「そうだね、ハハハ」
美唄に合わせて同村も笑う。そしてその後も来週からの実習についての会話を交わした。
地下鉄はいくつかの駅で停車しながら二人を運んでいく。やがて車内放送。
「次は~新宿御苑北、新宿御苑北です」
「もう着いちゃうね。そうだ、ポリクリ慣れてきたらさ、今度14班でパーティやろうよ。せっかく一年間一緒なんだから、仲良くなりたいし」
同村は彼女の『パーティ』という言葉にやや違和感を感じつつも、自分の中で『飲み会』に変換して「そうだね、ぜひ」と答えた。
「4月は部活の勧誘とかあるし、ポリクリ始まったばっかりだから…5月とか6月とか、落ち着いた頃に企画しようね。絶対だよ!」
駅に到着する。
「了解。じゃあ遠藤さん、また月曜日」
人ごみを掻き分け、開いたドアからホームに下りる同村。ドアが閉まり、後ろを見ると窓からは笑顔100パーセントで手を振る美唄。もちろん振り返す度胸はなく、同村は少しだけはにかんでそれに応えた。そして地下鉄はホームを去る。
「今までで一番…楽しい帰り道かもな」
そう呟いてから改札へ向かう。ドラマじゃあるまいし、視聴者がいるわけでもないのにこんな決めゼリフめいた独り言を言う…同村とはそういう男なのである。

 さて、同じ頃まりかはというと…彼女は学務課に14班の役職表を提出した後、その足で学内の図書館に立ち寄っていた。まだ春休み、学生たちは部活勧誘の準備に明け暮れている時期。図書館の利用者はほとんどいない。静寂の中、彼女は机に医学書を広げて読みふけっている。彼女は部活無所属なので勧誘は関係ないのだが…それにしてもまだポリクリも始まっていないのに、いきなり勉強とは。読んでいるのは『産科学』。
来週の予習ですか…さすがです。邪魔しちゃ悪いので、彼女の描写はこの辺で。

 夕暮れの車道。車のヘッドライトとテールライトが列をなす道路を、一台のバイクが疾走している。そう、長である。フルフェイスヘルメットの下の顔には、先ほどまでのおどけた笑顔はない。
…きっと随分無理をして、若い同級生たちに合わせてくれていたのだろう。そのストレスを吐き出すような排気ガス、そして若き日のヤンチャを髣髴とさせるように、エンジンは嘶いている。
ご苦労様でした。どうか、安全運転で!

 教育棟の学生ロビー。井沢はまだ帰らず、サッカー部の同輩たちとソファで駄弁っていた。今夜8時から仲間で飲みに行く予定があり、それまでの時間潰しだ。
「確かに、大輝の班はすごいよな、個性派だらけで」
友人が言う。
「そうなんだよ…今までほとんど絡んだことないメンツでさあ」
缶コーヒーを片手に答える井沢。
「でもこの班で一年過ごすからな。俺、合わせて仲良くなるの得意だし、大丈夫だと思うけど…。あ、でも向島さんはちょっと痛いかもな」
彼の言動は…先ほど同村たちといた頃のものとは雰囲気が違う。
「向島さんか。あの人ほとんど学校に来てなかったもんな、あれでよく進級したもんだ」
「そうだよ。なんか音楽やってるらしいけど、もう5年生だろ?俺たちどうせ医者になるのにさ、留年したり学校休んでまで音楽やる意味あんのかなぁ?ちゃんとポリクリに来てくれんのか、心配だよ。あの人が勝手に一人で留年すんのはいいけどさ、連帯責任とかマジ勘弁」
「そうだ大輝、知ってる?あの人さ、入学式で学長に『僕はミュージシャンを目指します』って宣言したらしいぜ。先輩が伝説だって言ってた」
「ああ~わけわかんねえ。そっちの班がうらやましいよ」
頭を抱える井沢。
「まあな。仲が良い奴結構揃ったからな…楽しくなりそうだよ。でも大輝、もっとハズレの班もあるぞ。人間関係ドロドロ同士が一緒になっちゃって。ご愁傷様って感じ。あれじゃあ実習も身が入んないわ」
「そっか、じゃあ俺はまだいいか」
「そうだぜ。それにポリクリって結構チームプレイのようで個人プレイだっていうしな。先輩から情報もらって、うまくやろうぜ」
「ま・か・せ・な・さーい」
井沢は飲み干した缶をゴミ箱に投げ入れる。
「ナイスシュート!よし、今日は六本木、飲むぞ」
同じ大學とはいえ色々な放課後があるものだ。それにしても学生が六本木かよと思われたかもしれないが…ここは私立の医学部。全員がそうというわけではないが、そういう連中もいるということで。でも、飲み過ぎには御用心!

 こちらは都内某所。薄暗い室内、レコーディング機材に囲まれ、ヘッドホンを装着しボタン操作をしている男が一人。その瞳は活き活きと輝き、口元は隠し切れない悦びで綻んでいる。ボサボサの黒髪に緑色のジャンパー、全身を躍動させて音楽に向き合っているこの男こそ…そう、ようやく登場した噂のMJKこと向島鍵(むこうじま・けん)。
彼はすでに半日以上もこのスタジオにこもり、自作の曲の編集に明け暮れている。もちろん何ら強制された労働ではなく、彼を支配するのは彼自身の魂のみ。何に縛られることも囚われることもなく、ただ自らの心身を音楽に委ねている。特別なことではなく、これが彼の日常だ。
「よし、最高!」
突然叫んでヘッドホンを外す。どうやら満足な仕上がりらしい。彼はタバコに火をつけて小休止に入る。ゆっくり吸い込み、ニコチンが全身に染み渡るのを噛み締める。そして吐き出した紫煙を追って見上げた天井…ここは彼にとって天国に一番近い場所。タバコを指先で弄びながら、そっとビートルズの『ノルウェーの森』を口ずさみ始める。
一本吸い終わったところで彼は机上の携帯電話に手を伸ばし、半日ぶりにその電源を入れた。画面が明るくなってすぐにメールの受信が告げられる。
『美唄です!MJさんとあたし、同じ班になりましたよ。14班です!来週月曜日、8時15分に学ロビ集合、産婦人科、よろしくです!MJさんの白衣と名札は教室のいつもの席に置いておきました!
今日もスタジオですか?頑張ってくださいね。音楽部の勧誘ライブもよろしくでーす☆』
彼女はメールでも変わらずハイテンション。彼は無表情で一読するとすぐ携帯電話をオフにする。そして再びヘッドホンを装着した。同時にまた彼の瞳が輝き始める。
どうやら作業はまだまだ終わらないらしい。…これはこれでご苦労様です。

 というわけで、14班結成の夜は、まさにバラバラに更けていくのでありました。最後にもう一度、主人公を見てみましょう。
地下鉄駅を出た同村は、途中のコンビニで弁当を買うとそのままアパートに戻っていた。そしてテレビを相手に夕食を済ませ、勉強机に向かう。
今日喜多村から配られた小冊子に少し目を通す。14班がこれから各科を回る順番、週明けから始まる産婦人科のスケジュール…。だが文字だけを追ってもなかなかイメージが浮かばない。実際の病院の中での実習…それはまさに未知との遭遇であった。
「…どうなることやら」
また独り言でそう言うと、同村は小冊子を片付け、相棒であるノートパソコンの電源を入れる。そう、文芸部の彼にとってまさに至福のひと時が始まるのだ。無口な男が紡いだ数々の物語、何次元もの宇宙がこのパソコンの中に詰まっている。
張り切って書きかけの推理小説の続きに入ろうとした…が、その指がキーボードの寸前で止まる。
「俺が小説なんか書いてること…遠藤さんは知ってたんだ」
頭に今日の美唄の姿が浮かぶ。誰より先に笑顔で自己紹介した美唄、エイエイオーと拳を振り上げた美唄、嬉しそうに役職決めをしていた美唄、電気店でカメラを選ぶ美唄、地下鉄で車窓を見ていた横顔の美唄…。
そっと微笑むと、彼の指は小説ではないものを打ち込んだ。
そしてそれをプリントアウトして正面の壁に押しピンで留める。
「俺に…ポリクリをする資格はあるのかな」
戸惑いと期待を込めてそれを見る。
医学部5年・同村重一。実は彼にはとんでもない秘密がある。ずっと同級生に隠していることがある。
「よかったのかな…医者になるつもりがないのに医学部に来て」

はたして、この男が挑むポリクリとは?
ではではこれにて序章はおしまい。みなさん、一年間ゆっくりおつき合いくだされ。
最後に、同村くんが壁に貼った内容を転載します。

★すずらん医大 ポリクリ14班

班長:
秋月 まりか
副班長:
長 猛
進級試験対策委員:
同村 重一
卒業試験対策委員:
向島 鍵
国家試験対策委員:
井沢 大輝
卒業アルバム委員:
遠藤 美唄

4月、産婦人科編に続く!