第二章 狂気噴出

 その人物は図書室にいた。委員たちと談笑していた時刻からまだ一日と経っていないのに、その面持ちはまるで別人のようだ。いや、別の生き物と言った方が近いか…。
その人物の右手には包丁が握られている。
「さあ、始まりだ…」
静かに、しかしはっきりとそう呟き、その人物は包丁を突き立てた。

 1997年11月11日(火) 午前7時41分
岡本恵は車をフゾクの教員駐車場に滑り込ませた。普段なら自分のデスクがある司書室へこのまま直行するのだが、今朝はまず印刷室へ向かった。印刷室は校舎の1階、駐車場から建物に入ってすぐ右側にある。まだ早い時刻なのに、印刷室の中からはゴトンゴトンと印刷機が動いている音が聞こえてくる。
彼女がドアを開けると、力強い声が迎えた。
「おはようございます、岡本先生。お早いですね」
そう言いながらそこにいた男は黒いバイクヘルメットを脱いだ。中から現れたのは角刈りでモアイのように直線的な顔。タイトな黒のバイクスーツに身を包み、それには不釣り合いなゴム長靴を履いている。
「おはようございます、沖渡先生。そちらもお早いんですね」
相手の背が高いので彼女は見上げるように近付いた。
彼の名は沖渡雅文(おきと・まさふみ)、数学教師。推定年齢30代。その人物像は…一言ではなかなか形容しがたい。快活だったりおっとりだったり、激しかったり穏やかだったり…スイッチが切り替わるようにオンとオフで様々な姿を見せる。まあ『突発的』というのが一番近い表現だろうか。彼は直線的な表情を崩さず、一流ホテルマンのように機械的なほど正確な語り口で話す。
「岡本先生も印刷ですか?すいません、今私が使っちゃってて。もうすぐ終わりますので」
印刷室、といっても印刷機は一台しかない。21世紀の初頭には開校百周年も迎える伝統あるフゾクであるが、それだけに校舎や設備はかなり老朽化している。まあこのレトロな雰囲気もフゾクの味わいではあるのだが。
ちらっと岡本がそれに目をやると、彼は何やら数学の問題を印刷しているらしい。おきまりの三角形に外接している円の図が見えた。
「いえ、いいんですよ。昨日ここに忘れ物しちゃっただけですから。図書新聞の原盤なんですけどね、印刷だけしてそれを忘れて帰ちゃったんです。もう印刷はしたんだから原盤は捨てちゃってもいいんですけど、せっかく生徒たちが作った物ですから。なのに置き忘れていくなんてダメな教師ですよね」
「いやあ耳が痛いです。私もそんなうっかりはしょっちゅうなので」
「あらそんな。昨日のお昼休みに印刷したんですけど、生徒から質問を受ける約束があったのを思い出して慌てて司書室に戻っちゃったんです。ドジですよね。原盤、まだ残ってるかしら」
「それなら奥の机の上です。確かそれっぽいのがありましたよ」
沖渡は印刷機に目を落としたまま話す。
「ということは何です?また図書新聞の新しい号が出るんですか?いやあ楽しみだなあ。私結構あれ好きなんですよ。漫画紹介のコーナーとかも、今の子供たちがどんな漫画を読んでるのかわかったりして。私は荻原望都さんとか好きでしたねえ」
岡本は見つけた原盤を手に取りながら答える。
「まあ、そうでしたか。図書新聞のファンがいたんですね。委員の生徒たちも喜びますわ。じゃあこれ、お読みになりますか?」
「いえ、ちゃんと印刷された物を渡されてから読みます。楽しみは後にって感じで」
そこで印刷機の音が止む。どうやら終わったらしい。沖渡は印刷されたプリントの束を抱えながら尋ねた。
「岡本先生はこれからどちらに?」
「これからポストの司書室へ向かいますよ」
「では私もポストの数学準備室まで付き合いますよ。図書新聞のこと、もっと聞かせてください」

 もちろんエレベーターなんて贅沢な設備はないので二人は階段で4階へ上った。フゾクの廊下は直接外に面しているので風も光も季節の薫りもそのまま注がれる。4階の廊下を道なりに進むとまず岡本のデスクがある司書室、そして図書室、書庫と続き、その次が沖渡のデスクのある数学準備室と並んでいる。
この階に限らずだが、学校というものは直線廊下に同じドアの連続である。この構造が少し冷たく管理的な印象を生徒たちに与えてしまうのかもしれない。コンクリート造りの廊下や天井は所々が欠けたり崩れたりしており、ここにも老朽化が見え隠れしていた。
「朝の空気が冷たくなってきましたね」
と、沖渡。岡本も「そうですねえ」と返す。
4階は校内で一番高い場所に位置しており風も強い。そのため生徒からは『フゾクのチベット』と呼ばれ、定年の近づいた老教員たちには階段の往復はいささかつらい日課となっている。まあこの二人はまだまだ大丈夫そうだが。
「いやあ、図書新聞は心理テストのコーナーもいいですよね。前やってみたら私は芸能人に向いてるって判定だったんです。教師と芸能人…近いような遠いようなですよねえ」
抑揚は少ないがとても通る声で沖渡は話す。その横で岡本も合わせて笑う。そうこうするうちに司書室の前に到着した。
「あらっ…?」
岡本が呟いた。その視線は図書室の方に注がれている。「どうかなされました?」と沖渡も足を止めた。
「あそこ…図書室のドア、開いてます…よね?」
「え、あっ本当だ。確かに前方のドアが開いてます。昨日施錠して帰らなかったんですか?」
「いえ、ちゃんと…」
国語教師は不安そうに歩みを速める。数学教師もその後ろを追う。引き戸式のそのドアは10センチほど開いている。岡本はドアを完全に開け、室内に目をやった。
「…!」
息を呑む彼女。沖渡も急いで覗き込む。一見何事もないが、図書室の静寂な雰囲気に明らかにそぐわない物がそこにはあった。
カウンター前の読書スペース、三列の長机の真ん中の机のほぼ中心に…包丁が垂直に突き立っているのだ。そしてその机一面に赤黒い液体が広がっている。それは血を思わせた。
沖渡は抱えていたプリントの束をそっと足元に置く。
「私が見てきます。岡本先生はそこで待っていてください」
彼女は絶句したまま僅かに頷く。沖渡は静香に入室し、足音なく問題の机に近付いた。
「これは…血液ではありません。多分塗料でしょう。包丁は本物のようですが…」
彼はそう言って机を凝視している。机の縁からはポタポタと赤い液体が滴る。沖渡の表情は数学の難問に取り組んでいるかのように真剣で、恐怖よりも興味に突き動かされているかのようであった。
「岡本先生、今出勤している教員を全員ここに集めてください。始業時刻の8時40分までにまだ時間がある。警察に通報するかどうかはそれからです」
「は、はい」
駆け出す岡本。彼女はまず1階の職員室へ向かった。あそこなら誰かいるはずだ。走りながら彼女は沖渡の冷静さに驚いていた。彼女自身は正直事態をまるで把握できずにいる。
(あの光景は何だ?誰かの悪戯?
沖渡先生も見ているのだから夢や幻ではない。あのドアは、確かに昨日予備の鍵で施錠して帰ったはずだ…!)

 岡本が駆けずり回っている頃、一人になった沖渡は室内を見回っていた。直線的な顔、しかし眼光だけはやけに鋭い。まるで凍った湖の上を歩くように、彼は慎重に足を進めていく。
読書スペース、本棚スペース、書庫の中…どこにも人影はない。誰かが本棚の陰やカウンターの裏に身を潜めていることはない。そして図書室と司書室を繋ぐドアはしっかり施錠されている。長机の上の惨状以外に普段と変わった所はないようだ。窓からは朝の陽光が注ぐ。
一通り確認した時、壁の時計が目に入った。
「8時10分…か」
午前8時25分、フゾクの教員たちが図書室に集まった。生徒に不安を与えぬため校内放送を使わなかったこと以外にも、岡本がうまく事情を説明できず要領を得なかったというのも集合に時間がかかってしまった一因だ。8時40分からの一時限目に授業を持っている者や急ぎの仕事のある者はその場には来なかった。
本日は校長が大学の方に行っているため、教頭である酒井が教員たちをまとめる。彼は沖渡と同じく数学担当の50代半ば。少し白髪の混じった七三分けに薮睨みの目が印象的だ。
「先生方、こういう状況なわけです…といってもわからない事だらけですがね。もう一度岡本先生と沖渡先生に事情を話してもらいましょう」
二人は今朝の経過を説明したが、ようするにただ発見しただけという内容だ。
「…うむ。ところで岡本先生、昨日確かに図書室を施錠してから退勤されましたか?」
「はい、酒井教頭、それは確かです。でも…」
「でも、何です?何かあるんですか?」
「じ、実は昨日の午後…だと思うんですけどここの鍵がいつもの位置にないのに気付いて…」
「もう少し詳しくお願いします」
「すいません。図書室の出入り口の鍵は司書室で管理しているのですが、それがなくなってしまったんです。まだ見つかってません。ですので昨日は予備の鍵で施錠しました。ですから…」
酒井はそこで眉根を寄せる。
「なるほど、つまりその鍵を使えば入室できた、と。そうなると誰かがこんな悪戯をするために図書室の鍵を盗んだと考えるべきでしょうかな」
「まさかそんな…、わ、私の管理不行き届きです、申し訳ありません!」
岡本はヒステリックに頭を下げた。
「まあまあ、そのことは後にして。とりあえずこの図書室はどうしますかな。あの長机以外特に被害は無いようですから、あの机だけ片付ければよさそうですが…」
「酒井教頭!」
そこで沖渡が右手を挙げた。
「片付けるのはもう少し待ってください。塗料はともかく包丁が使われているのですからやはり穏やかとは言えません。もう少し調べてみてから、せめて図書委員たちからは事情を聞くべきだと思いますが」
「そ、そんな…」
岡本がブンブンと顔を左右に振った。
「つらいのは分かりますが、岡本先生、これは大事なことなんです。犯人…と呼ぶのは語弊があるかも知れませんが、犯人はまだ鍵を返していないんです。もしかしたらまた何かするつもりかもしれません。この悪戯…が図書室で行なわれたのには、それなりの意味があるはずなんです、多分」
酒井が口を出す。
「それは沖渡先生、犯人が図書委員の中にいるという意味かね?」
その言葉に岡本もキッと沖渡を睨む。
「いいえ、けしてそんな意味ではありません。私だって生徒たちのことは信頼しています。むしろこれは図書室に何らかの恨みを持つ者の仕業かもしれません。ですから、図書委員なら何か思い当たることがあるかもしれないと。それに…」
沖渡はそこで口を閉じた。
「それに、何だね?」
「いいえ、それだけです」
酒井は少し顔を曇らせ手言う。
「一部の生徒に知らせるとなると学校全体に噂が広まるのは避けられんと思うがね、そのことは…」
「それは私から委員たちに口外しないようしっかりと言います。彼らは信頼していいと思います」と、岡本。
「ううむ…、どちらにしても授業時間中にドタバタ机の片づけをするわけにもいかんしな…。わかった、今日一日はこのままにしておきましょう。今日はちょうど放課後大掃除だから、片付けはその時に図書委員の生徒がすればいいですな。
沖渡先生、岡本先生、じゃあ昼休憩にでも図書委員の生徒たちに確認をお願いします。何かわかったらすぐに報告してください。今日は図書室は閉館にしますから。校長には私から連絡しておきます」
酒井はそこで他の教員たちに目で確認を取った。異議を唱える者はいない。
「先生方もよろしいですな。むやみにこのことを口外なさらぬように」
「教頭先生…どうも、申し訳ありませんでした」
教員たちが散会する中、岡本はもう1度深々と頭を下げた。隣で沖渡もそれに合わせる。
「岡本先生が謝ることではありませんよ」
頭を起こして沖渡が言った。物差しで書いたような直線的なその顔には、相変わらず表情が乏しい。
「ええ、でも…」
「それよりも、ちょっとこちらに来てください」
岡本の返答を待たず沖渡は彼女を図書室の問題の机に導いた。そして長机に突き立った包丁の持ち手の部分を指差して言った。
「ここに、持ち主の名前みたいな感じで文字が書いてあるんです。これは…『大工』、ですかねえ」
確かにそう読めた。包丁は机に突き立っているので上下は逆さまだが、持ち手に黒マジックで『大工』と記されている。
岡本の背筋に悪寒が走り抜けた。その身体は一歩後ろにたじろぐ。それを見た沖渡の瞳に何か強い感情が宿った。
「思い当たることが…あるんですか?」
「ええ、いや、そんな、でも…」
岡本は何がなんだかわからないといった様子。頭の中でいくつもの疑問が交差する。
(そうだ、確かに昨日委員たちから聞いた謎の図書延滞者『大工』…。しかしその名が何故この包丁にまで?
『大工』がこれをやったのか?悪戯の一環として?そんな…)
「岡本先生、大丈夫ですか?」
沖渡が無表情な顔で迫り来るように労る。
「だ、大丈夫です。でも、そのことはお昼休みに委員たちを集めた時にお話します。いいえ、直接彼らから聞いた方がよいと思います」
岡本は右手で額を覆いながら、うつむきがちに答えた。
「そうですか…。わかりました。では私は二時限目に授業がありますのでこれで失礼します」
そう言って踵を返すと沖渡は図書室を出ていった。その動きはロボットのように正確で、不気味なほど足音がない。
彼の退室を見届けてから岡本は大きな溜め息を吐いた。そしてもう一度包丁に目をやる。
…確かにそれは『大工』と読める。あまり深く考えないことにして、彼女も足早に図書室を出た。そして、予備の鍵でしっかりと施錠し何度もそれを確認する。
(大丈夫、たいしたことじゃない。質の悪い誰かの悪戯に違いない…)
国語教師はそう胸の中でくり返した。