第一章 図書委員会

1997年11月10日(月) 午後4時35分

広島県広島市、のどかに行き交う路面電車の沿線にあるアカシア大学附属高等学校、通称『フゾク』。その4階に位置する図書室には、八人の男女が集っていた。時は放課後。各々適当な席に着いている彼らは図書委員会のメンバーである。

「誰かこれといった意見はありませんか?対策法などは…」

唯一起立し正面カウンターの前で委員たちに声を発しているのは図書委員長・瀬山夏夫(せやま・なつお)、2年。男ながらも透き通るような綺麗な黒髪で、やや長めのそれは真ん中で分けられて両方の瞳にわずかにかかっている。いつものように学ランを脱いだワイシャツ姿で会議を仕切る彼は、名門で通っているこの高校の中でも優等生の部類に入る生徒。彼は今、年々増加する図書の延滞者についての意見をまとめようとしている。

「期限までに借りた本を返さない人たちに…どう対処していけばいいでしょうか」

「延滞してる奴の名前を貼り出して、警告すればいいじゃないか」

挙手もせずに意見したのは福場将太(ふくば・しょうた)、2年。眼鏡に絡み付くほどに伸びた長い前髪が印象的で、瀬山とは反対に学ランの上にさらにトレンチコートを着込んでいる。別に寒いわけではない。前髪と同じく、これが彼のこだわりなのだ。

「そこまでやると人権問題になります」

と、カウンターの奥のドアが開き女性教師が姿を現す。図書委員会顧問の岡本恵(おかもと・めぐみ)である。隣の司書室から委員たちのやりとりを聞いていたのだろう、「それに警告ならもう図書新聞の方でもやってるんでしょ?」とそのまま会話に参加する。セミロングの黒髪、いつも私服の上にピンク色のジャンパーを羽織っている彼女。年齢は40代半ばといったところか。長年たくさんの生徒たちを見守ってきた優しさが、その柔和な表情と口調に滲み出ている。

「あんまり過激な方法はよくないわよ、福場くん」

「でも先生、図書新聞には延滞者のイニシャルしか書いてないんですよ。延滞してる奴が悪いんだから別に名前ぐらい公示してもいいんじゃないですかねえ」

「そういう先輩も『ヒッタイト帝国の謎』の本、夏休み前から借りっぱなしですよ。立派な延滞者じゃないですか」

そうツッコミを入れたのは久保田啓介(くぼた・けいすけ)、1年。太枠の眼鏡をかけ、頭には派手な赤いバンダナを巻いている。勉学から雑学まで幅広い分野にかけて何かと詳しい彼の通称は『マニアックマン』。図書委員会期待の星の一人である。

「あれはまだ読んでるんだって。結構字が小さくて一気に読みにくくて…」

「図書委員の中に延滞者が多数いるのもまた現状です」

瀬山委員長が福場の言い訳を遮って話を戻した。

「じゃあ延滞してる人の所に直接行って、脅迫しちゃえば?本返せ~って」

冗談めいた意見を一応挙手しながら言ったのは須賀花枝(すが・はなえ)、2年。普段から明るいムードメイカーで、左右にピョコンとはねた後ろ髪が彼女の元気印。

「脅迫ねえ…。友達ならいいけど、知らない人、あ、特に先輩とかにはちょっとねえ」

「それにそれかなり感じ悪いですよ。何様だって思われそうだ」

先に言ったのは西村佑希(にしむら・ゆき)、2年。人と話すのが好きな彼女は後輩の面倒見もよい。ボーイッシュなショートヘアーだが、実は密かに伸ばし始めている前髪を軽くピンで留めている。そして彼女の発言に続いたのが瀬戸川影昌(せとがわ・かげまさ)、1年。誰より仕事をしっかりとこなす真面目な彼は、次期図書委員長の最有力候補であることをすでに周囲のみならず本人も承知している。文科系らしからぬ坊主頭に頼まれたら断われない人のよい垂れ眉毛は、いつも場を和ませてくれる。

「ねえ、唯ちゃんはどう思う?」

西村が尋ねたのは水田唯(みずた・ゆい)、2年。マニアックマンとは対照的に小さな眼鏡をかけた彼女は学年でもトップクラスの成績、長いワンレンの髪を背中まで垂らしている。

「私はそれよりも一度に五冊くらい借りられるようにしてほしいな、三冊じゃすぐ読み終わっちゃうから。…どうかしら委員長?」

彼女は図書委員ながら図書室利用の常連。いつも限界の三冊まで借りていき、数日で全て読破してしまう文学少女である。

「論点がずれるからその話はまた今度。今は延滞者増加の問題。『大工』を含めてのべ五十人以上の生徒が延滞してるんです」

と、瀬山が岡本に振り向きながら言う。

フゾクの生徒は一学年二百人だから、延滞者が五十人というのはそれなりの数といえる。

「『大工』はもう卒業しちゃってんじゃないか?」

再び福場が意見した。

「何なの?その『大工』っていうのは…。大工さんがどうかしたの?」

女性教師が尋ねた。こんな時に答えるのは決まって彼…そう、専門家っぽい口調のマニアックマン。

「貸し出しカードに『大工』とだけ書いて借りちゃってる人なんですよ。クラスも貸し出し日も記入してなくて、いつ書かれたものなのかもわからない。確かその本の題名は『水に棲む生き物』だったかな。ただの悪戯か嫌がらせなんでしょうけど…誰なのか調べようもないし、まあおかげで我が校の図書管理システムの甘さが露呈したわけですが。

私立高校に通ってる友人に聞いたら、最近の図書室はバーコードとICカードを用いたパソコン管理が主流だそうですよ。先生、うちもそろそろシステム改革しませんか?」

フゾクの図書室は昔ながらの紙媒体管理。本の背表紙の内ポケットに入った貸し出しカードに自分で名前と日付を記入し、それをカウンターのボックスに入れるという完全セルフサービスとなっている。

「『大工』ねえ…。そんな人までいるんじゃ確かにちょっと問題ね。偽名で借りて、そのまま本も戻ってきてないんでしょ?甘い管理システムなのは生徒の自覚に任せてるからなんだけど…。盗もうと思えば何冊でも盗めちゃうから」

岡本はそう言って少し首をかしげる。まあパソコンシステムを導入できないのは予算不足に悩む国立校の悲しい事情もあるのだが。

「いっそのこと、『大工』よ名乗り出ろ~って公示しちゃえば?これなら本名も載せないわけだし」

須賀がまた本気なのかどうか分からない意見を言う。

「『大工』のことはともかく、そういう人がこれ以上増えないようにするべきっすね」

ようやく口を開いたのは平岡陽一郎(ひらおか・よういちろう)、1年。ただ剃ってないだけなのだろうが、彼の丸い顔には中年のような口髭が目立つ。

福場のコートといい、マニアックマンのバンダナといい、そして平岡の髭といい…岡本の言葉ではないが、フゾクという学校は生徒の自覚に任されている部分が多い。そのせいか図書委員に限らず独特で個性的な生徒たちが随所に見られる。

「やっぱり私たちが当番で貸し出しと返却の管理をすべきかしら。昼休憩と放課後」

と、西村。

そう、意外に思われるかもしれないが、この学校の図書委員はそういった業務をしていないのである。前述のように貸し出しは専らセルフサービス。返却もセルフで本をカウンターの所定の場所に戻してもらうだけ。返された本とボックスの貸し出しカードを照らし合わせてまた本棚に戻すのが数少ない委員の仕事なのだ。本日のような会議もたまにしかない。そもそも自ら進んで図書委員に入ったのも本の虫の水田くらいで、その他の者は気まぐれであったりくじ引きで負けた結果であったりなのである。

しかし、クラスとも部活ともまた違う、計算でなく偶然で集まったメンバーだからこその新鮮な世界がここにはある。とりわけ今ここにいるメンバーはこの雰囲気が気に入っているようで、図書室をフゾクの新たな憩いの場としている。気が向いたら図書室を訪れ、そこにいる委員たちと駄弁を楽しむ…それが彼らの日課となっていた。

彼らがしっかりやっている業務といえば、図書新聞という機関紙の発行と図書室の掃除くらい。そんな状況だから、図書委員の中に図書延滞者が多数いるというのもまあ頷ける話なのである。

「どんなに管理しても最後は各自の自覚だよ。それに俺たちがやるのは面倒だし」

身も蓋もないことを言う福場。

「面倒って…少しくらい図書委員らしいことした方がいいとも思いますよ。まあ各自の自覚ってのは真理ですけど」

瀬戸川が続く。もはや挙手制度は完全に忘却の彼方だ。

 その後も数名からいくつかの意見が出るには出たが、いずれも似たり寄ったりで画期的な解決策にはほど遠いものであった。

「こういう話し合いの結論って、何かいつも『各自の自覚に任せる』になっちゃうよね」

やがて水田がしみじみと言った。

「水田さんの言うとおりですが…。じゃあこれまでどおり、図書新聞でイニシャルで警告を続けながら本人の自覚に任せることにしましょうか」

委員長が半分あきらめて締め括ると、委員たちはそれを感じ取り拍手した。委員長は不服そうだが…まあ妥当な結論だろう。それに世間の学校ではリスク管理とやらで生徒たちに何かと自由がなくなってきている昨今において、生徒に任せる部分が多い校風はきっとフゾクの美点であろうから。

「じゃあこれをもって本日の図書委員会は…」

「あ、ちょっと待って瀬山くん。みんなに訊きたいことがあるんだけど」

窓際に立っていた岡本が正面のカウンター前に出た。入れ代わるように委員長は着席する。

「どうもね、司書室にあった図書室…つまりこの部屋の鍵が行方不明みたいなの。みんな結構司書室に出入りしてるでしょ、誰か知らない?」

委員たちは静まり一瞬お互いを伺った。

ここで少しフゾクの図書室について説明しておく。今カウンター前に立っている岡本を基準にすると、右手が廊下側、左手が中庭側。両側の壁には窓を遮らない背の低い本棚が並ぶ。そのため外からの自然光だけで室内は十分に明るい。

岡本が背中を預けているカウンターの上には貸し出しカードや返却した図書を入れるためのボックス、今月のお薦め図書などが置かれている。本来は受付のためのカウンターなので中に誰かが座っていて然るべきなのだが、セルフサービスのため受付をしないこの図書室では基本的に無人となっている。

そしてカウンターの奥には先ほど彼女が出てきたドアがある。司書室と図書室を繋ぐドアであり、横の壁は大きなはめ殺しガラスなのである程度お互いの部屋の様子がわかるようになっている。この構造により受付不在の図書室でも一応防犯が成立しているわけだ。

図書室の広さは通常の教室を二個合わせたくらい。岡本から見て手前半分の空間が読書スペース、三列の長机が置かれ現在委員たちが着席している。そして奥手半分の空間が本棚スペース、背の高い本棚たちが書店のようにひしめき合っている。さらにその奥、つまり司書室とは反対側の壁には重たい鉄扉。書庫に繋がるドアであり、書庫には普段なかなか使われることのない専門書や蔵書が納められている。

とまあ説明が長くなってしまったがおおよそこのような構成だ。ちなみに岡本が話題にしている鍵とは図書室の出入り口の鍵のこと。図書室には廊下側の前方と後方に二つの引き戸式ドアがあり、前方…つまりカウンターに近い方のドアのみが普段開放されている。帰る時には当然施錠しなければならないわけだから、下校時刻が近付いても鍵が見つからないとなれば、岡本が焦ってしまうのも無理はない。

「誰か…見かけた人とか、持ち出した人とか…いない?」

顧問教師の問いに委員たちは誰も答えない。訪れる沈黙…彼らから発せられるのは「早く帰りたい」「もう解放してくれ」という無言の視線のみだった。

「どっかに落っこちてるとかじゃないっすか?机の下とか棚の間とか」

平岡が口を開く。

「一応探したんだけど…、みんな知らないんならいいわ。今日はご苦労様。多分どこかにあるでしょう。あ、みんな、明日は大掃除だからよろしくね」

そう言い残すと岡本はカウンターの奥へ引っ込みそのまま司書室に姿を消した。

「じゃあこれで解散」

瀬山が言い、委員たちは腰を上げてそれぞれ帰路に着く。「お疲れお疲れ」「それじゃまた明日」「帰りにコンビニに寄ろうよ」などなど、たわいもない言葉が交わされている。

まだ受験戦争に脅かされることのない生徒たちの、何気なくて穏やかな日常の光景。間もなく時刻は下校時刻の午後5時を回った。

しかしこの時、確かに一人は鍵の所在を知っていた。