第一章 書くという営み

 そんなわけで、カイカンとムーンさんにあざとい書籍紹介をしてもらったわけだが、ここからは自身の言葉で今回の書籍について書いてみたいと思う。まずは自分がいつから書くという営みをしてきたのかを思い出してみたい。

1.小学校時代

 昔から文章を書くことが好きだった。思えば小学校低学年の頃には、日記や読書感想文の宿題を好んでやっていた記憶がある。特に日記は内容を前編・後編に分けて、二日にかけて一つのエピソードを綴るなんてこともしていた。日記を読む担任の先生に、前編のいい所で終わって後編を楽しみにしてもらおうと姑息なことを考えていたわけだ。しかし今にして思えば、先生はクラスの生徒全員の日記を何十人分も読んでいるわけで、一人ずつの内容を記憶しているはずもなく、話の途中で終わる前編はただ尻切れトンボなだけ、いきなり話の途中から始まる後編はわけがわからない。返却された日記にはよく赤ペンで「意味がわかりません」とコメントが書いてあったものだ。文章は独りよがりではいけない、何より読者のことを考えなければいけないという教訓である。
 それ以外に文章を書く機会としては、夏休みの自由創作もあった。僕は毎年オリジナルの絵本を作って提出していたが、物語を考えるのはとても楽しかった。そこから発展して、クラスメイトを登場させた漫画を描くなんてこともやっていたっけ。

 初めて活字を打ったのは高学年になって、父親のワープロを触らせてもらった時だ。当時は一行分を表示するディスプレイ画面しかない機種で、一行打ったら印刷、一行打ったら印刷というものであったが、自分の文章が活字で出てくることに感動、意味もなくたくさん打って印刷した紙を自室の壁に貼っていたものである。

2.中学・高校時代

 中学ではたまたまの興味で『マイクロワールド研究班』という何やら怪しげな名前のパソコン部に入った。そこでゲームのプログラミングをしたり、当時はパソコン通信と呼ばれていたインターネットを用いてメールやチャットをしたり、ホームページを作ったりする活動の中で、自然にブラインドタッチが身に付いていった。当時は何とも思っていなかったが、この技術はその後の仕事やライフワークにおいて大きく役立つことになるので、本当に人生は何が伏線になっているかわからないものである。

 また中学1年から嘉門タツオさんのラジオ『爆裂スーパーファンタジー』のハガキ職人を始めたことで、机に向かってハガキにネタを書く行為が日常化。嘉門さんの影響でギターを始めたことで曲も作るようになり、同じく机に向かって作詞ノートに鉛筆を走らせるのも習慣となった。

 高校でも引き続き、パソコン部・ハガキ職人・曲作りの活動で書くという営みを継続しながら、 友人と作った8ミリ映画や文化祭のミステリー劇で脚本を書くなど、新たな執筆にも挑戦した。まさかあの8ミリ映画の中に登場した刑事カイカンと一生のつき合いになろうとは。
 また図書委員会に所属したことでより文芸に対する興味が高まった。お薦め図書を読んだり、委員の仲間と夜遅くまで残って校内新聞用の文芸書評を書いたりしているうちに、自身でも小説を書きたいと思うようになった。
 そして高校卒業直前、ついにその衝動が爆発して初のオリジナル推理小説『図書室の悲惨』を上梓。時間が経つのも忘れて朝までキーボードを打ち続けるという初めての経験をした。この小説はタイトルが示すとおり図書委員会の仲間たちをモデルにした内容。記念にみんなに配りたいからと先生に増刷をお願いしたら快く引き受けてくださり、しかも出来上がった物を見ると、なんと解説を書いて最後のページに付けてくださっていた。最高の心遣いである。

『図書室の悲惨』はこちら!

3.大学時代

 大学では音楽部と柔道部の二つの部活に所属したが、『図書室の悲惨』の経験がやみつきになり、部活の仲間を犯人役にして刑事カイカンと対決させる推理小説を書いては、学園祭で配ったり、部活のホームページに掲載したりしていた。きっと今読み返したらとても文芸と呼べる代物ではないだろうが、若気の至りの勢いは凄まじく、クオリティはさておきアイデアだけは湯水のごとく溢れていた。

 また文芸ではないのだが、部活を引退して病院実習が始まると、各科を回りながら提出するレポートの最後のページに、必ずその科で感じた思いを僕は書くことにしていた。この感想のページを読んでくださった指導医の評価は真っ二つ、「指示されていないことを勝手に書くな」「規定の形式に従いなさい」「これは医学のレポートなんだから文学ではない」と大抵はお叱りを受けたが、時々は「学生がここまで考えてくれているとは思わなかった」「将来役立つから残しておきなさい」と支持してくださる先生もいて、結局実習の一年間懲りずに書き続けた。
 そしてそれは確かに無駄ではなかった。学業成績には加点されずむしろ減点理由にもなったが、あの感想のページには、将来プロの医療者になった時に直面した難題のヒントがいくつも含まれていたのである。

4.放浪時代

 大学は卒業したものの国家試験がうまくいかず道を模索していた頃、書くという営みを何とか仕事にできないものかと、作詞コンテストや文芸賞にいくつか応募してみた。ただもちろんそんなに甘い世界ではなく、自費出版を勧められることはあってもそれで収入が得られるようなことはなかった。
 そして医学の道へ戻るかどうかを逡巡しながら書いたのが『Medical Wars』という医学生を主人公にした青春小説であった。未練だったのか、憧憬だったのか、何のために書いていたのかよくわからないが、とにかく無我夢中でキーボードを打ち続けた。そして、様々な思いの中で、僕は医学の道へ戻ったのである。

『Medical Wars』はこちら!

5.社会人時代

 精神科医として北海道に着任。指導医からも「仕事の半分は書類作業」と教わったが、確かに精神科のカルテは数値や症状だけを記しておけばよいというものではない。患者さんの心の状態を記録に残し、これまでの治療経過や生活史、エピソードなどをまとめるには文章の力が求められた。うまくできずに残業になることも多かったが、その作業はけっして苦行ではなく、その人の言葉や歩みを綴らせてもらえるのはむしろ癒しの時間だった。

 また、少しずつ仕事に馴染んでいった頃、旧体制のままだった病院を今の時代に合わせて立て直そうという動きが院内で始まり、ホームページも始動。サイト製作の業者から「定期的に記事が更新されていた方がよい」とアドバイスをもらい、以降毎月クリニックのコラムを書くのが僕の新たな習慣となった。休み時間や勤務の後に、コーヒー片手に素直な思いを綴る、これもまた自分の心を整える憩いの時間だった。
 こうして仕事も軌道に乗りつつ、オフの日は音楽や小説といったライフワークも継続。特に北海道には当初友人はおろか知り合いが一人もいなかったので、学生時代から愛好している創作活動は心の支えだったのである。

6.起死回生

 ただ徐々に進行していたのが視力の低下。大学時代に網膜色素変性症を診断されてから半信半疑で覚悟はしていたものの、どうやら自分の場合は進行のスピードが速かったらしい。30歳を過ぎた頃にはどんなに拡大してもパソコンの文字が読めなくなり、当然紙の書類の読み書きも難しくなった。
 愛しい仕事もライフワークももはやここまでかに思われたが、そんな折に『視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる』と出会う。そこには自分と同じく目が不自由でも医療・福祉の仕事に携わる仲間がたくさんいた。そしてこれからを生きていくための勇気と知恵を授けてもらった。特に大きかったのは、音声読み上げソフト(スクリーンリーダー)の存在を教えてもらったことだ。
 実際にPCトーカーというソフトをパソコンにインストールしてみると、画面が見えなくても文章の読み書きができる、ファイルの選択や編集ができる、インターネットを閲覧したりメールをやりとりしたりができるのだ。ここで大いに役立ったのが中学時代のパソコン部で習得したブラインドタッチの技術。仕事柄、緊急で紹介状などを作らねばならない場面でも、目が見えていた頃とさほど変わらぬスピードで早打ちすることができた。

 もちろん救われたのは仕事だけではない。小説やコラムの執筆もこれでまたできることとなり、書くという営みが復活。僕は学生時代以来久しぶりに『刑事カイカン』の執筆に没頭した。こうして誕生したのが、当サイトの図書室でも一番最初に掲載した『刑事カイカン 支持的受容的完全犯罪』。また文章が書ける、文章が読める。この作品はそんな喜びに満ち溢れているのである。

『刑事カイカン 支持的受容的完全犯罪』はこちら!

7.新時代

 2018年11月、自らの視覚障害を開示した初めての講演。2019年1月からは当サイト『MICRO WORLD PRESENTS』が始動し、その原稿を書くのも新たなライフワークとなった。
 それからは本当にたくさんの出会いに恵まれた。精神科医という支援者として、視覚障害の当事者として、相変わらず音楽と文芸を愛する表現者として、僕は今を生きている。
 そんな存在に興味を持ってもらえたのか、原稿執筆のご依頼も時々いただけるようになった。特に点字毎日に連載の『ゆいまーるのこころだより』では、ライターの一人として参加させてもらうことができ、編集者さんから色々なご指導もいただいて書くことの難しさ、奥深さを再認識した。

 こうして幼い頃から続けてきた書くという営み。自分に残されたこの力を大切にしたい、もっともっと伸ばしたい。そんなことを思っていた時に舞い込んだのが、今回の書籍の企画だったのである。