私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
窓から春の陽光がこぼれる警視庁のいつもの部屋。パソコンのキーボードを打つ手を止めて、私はちらりと壁際のソファを見た。そこに腰を沈めているのは、屋内だというのにボロボロのコートとハットに身を包み、しかも長い前髪が右目を隠している男。どこからどう見ても不審人物、夜道を歩いていたら職務質問されても文句の言えない出で立ちだが、嘆かわしくもこれが我が上司・カイカン警部なのである。
壁の時計は午前9時半。本日は珍しく捜査の割り振り我来ていない。そのため静かにこうして溜まったデスクワークに勤しめるわけだが、変人上司は先ほどからずっと黙って一冊の本に目を落としている。
「どうかしたかい、ムーン?」
視線を手元に向けたまま、ふいに低くてよく通る声が尋ねた。
「何か報告書でわからない箇所があるかな?」
「あ、いえ、その」
私のキーボードを打つ音が止まっているのに気付いたのか、それとも私の視線を感じたのか、相変わらずこの人は見ていないようで見ている。
「すいません。随分熱心にお読みになっているもので」
「そうかい? フフフ」
不気味に笑う。そしてページをめくる指を止めると、ゆっくりとその顔を上げた。
「昨日たまたま本屋さんで面白そうなのを見掛けてね、思い切って買ってみたんだ」
「そうですか」
私も椅子ごと警部へ向き直る。
「それはどんな本ですか?」
「気になるかい? じゃあ推理してごらん」
そんな無茶な。意味不明な言動だらけのこの人の趣味嗜好なんて、理屈で推測できるはずがない。しかし上司は部下の答えを待っている。
「警部がページをめくっておられたスピードから考えますと、漫画ではないと思うのですが」
「お、いい着眼点だね。そう、これは文芸書。ヒントを出すと、小説じゃない」
「ではビジネス書のたぐいでしょうか」
「それも違う」
「では…自己啓発本ですか?」
大きくかぶりを振られてしまう。そりゃそうだ、自分を啓発したい人間がこんな格好で平気な顔ををしているわけがない。私が次の言葉をあぐねていると、低い声は笑って言った。
「ごめんごめん、実はどんな本かと言われると難しいんだよ。タイトルは『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』、ほら」
警部は書籍を持ち上げて表紙を私に示す。確かに、今言われたタイトルが縦書き二行で記されており、中央に白衣を着た男のイラストが描かれている。
「精神科医ということは、医学書ですか?」
「それも違ってね。精神医学の話も出てくるけど、メインはそこじゃない。むしろ眼科の話題が多いかな」
「眼科ですか? 目の見えない精神科医ということは、お医者さんが患者として書いた本ということでしょうか。あ、でも…」
そこでふと浮かんだ疑問を口にする。
「目の見えない人がお医者さんになれるんですか?」
「医師免許を取得できるのか、という意味かい?」
「はい。私たち警察官もそうですけど、こういった視覚には適正条件と言いますか、そういうのが法律で厳しく決まっていたと思うんですけど」
「さっすがムーン、お見事!」
本を膝の上に置くと、警部は右手の人差し指を立てた。
「そのとおりだ。以前は目の見えない人とか耳の聞こえない人は医師免許を取得できないっていう決まりがあった。欠格条項というやつだね。でもたくさんの人たちの尽力のおかげで今はそれが緩和されてね、必ずしも不可能ではなくなったんだよ」
「そうなんですか、存じませんでした」
「そういうことって、普通に暮らしてたらなかなか知る機会がないからね。でもよくよく考えたら当たり前のことでさ、お医者さんや看護師さんだって人間なんだから、病気や事故で目や耳が悪くなることは十分ありうる。それに憲法でも職業選択の自由がうたわれてるんだから、病気や障害のある人が医療の仕事を目指したっていいはずだもんね」
「でも、大変じゃないですか? その、仕事をこなしていくのが」
「そう思うかい?」
警部は含みを持たせてそう言うと、高らかに続けた。
「何事もやってやれないことはない。フフフ、この本を読むとちょっとそんな気がしてね」
なんだか嬉しそうだ。しかし、言われてみればそうかもしれない。この人のようなド変人や私のような欠落人間にも刑事の仕事が務まっているのだから、情熱さえあれば障害を持つ者でも医療の仕事ができるのかもしれない。
「ではその本は、目の見えない先生が頑張って仕事を続けた闘病記なんですね」
「闘病…う~ん、それもなんだかしっくりこないなあ。あんまり闘ってる感じがしないんだよ。むしろ楽しんでるっていうかふざけてるっていうか。だってインディ・ジョーンズとか嘉門タツオさんの話が出てくるんだよ?」
「はい?」
わけがわからない。アメリカのアドベンチャー映画と日本のギャグシンガー、精神科と眼科、全く関連性が見い出せない。私は思わず額に手を当てた。
「まあまあ、そんなに悩むことはないよ。要するに、色々なエッセンスを含んだ本なんだ。心の健康とか目の障害とかに触れながら、生きる上で大切なことについて気楽に書かれたエッセイってとこかな。内容は大きく三部構成になっててね。
第一部が『見えないからこそ、見えないもの。見えないからこそ、見えるもの』。
第二部が『見えるからこそ、見えるもの。見えるからこそ、見えないもの』。
そして第三部が『もう一度目が見えるなら』。
フフフ、どうだい? 興味は湧くかい?」
「まあ…少しは。曖昧な返事ですいません」
「そう!」
そこで立てていた指をパチンと鳴らす変人上司。
「その曖昧についても書いてある。ええとね…あ、あったあった。ほらここ、見てごらん。『積極的に曖昧に生きよう』だって」
目次のページの一文が指差される。大きくは三部構成だが、その中がまた短い小見出しに分かれているらしい。
「どういうことですか? 曖昧じゃダメじゃないですか」
「どうしてダメなんだい?」
「それはだって…」
言葉に詰まる私に、警部は楽しそうに頷く。
「まあ警察の仕事は白黒はっきりつけなくちゃいけないことが多いけどね。でも人生は必ずしもそうじゃない。曖昧や中途半端が素敵な時だってあるのさ。
フフフ、その仏頂面は納得してないね。君もこの本を読んだらきっとわかるよ。私が読み終わったら貸してあげよう」
「遠慮しておきます」
きっぱり答えると、椅子をくるりと回転させて警部に背を向ける。そしてキーボードに指を乗せたところではっとする…またやってしまった。どうして私はもっと愛想の良い対応ができないのだろう。やはり自分は何かが欠落している。
「…それもまたよし」
後ろで小さく低い声が言った。会話はそこで終わる。
再び流れ出す穏やかな時間。
室内にはページをめくる音とキーボードを叩く音、二つの音が異なる言語で交わされる囁き話のように聞こえていた。
*
報告書を打ち終えて私は小さく息を吐く。壁の時計は間もなく午前11時。キーボードから指を離すと、いつしか警部が本をめくる音も止まっていることに気付いた。椅子から立ち上がって小さく伸びをしながら振り返ると、変人上司はソファでスヤスヤ。座ったままの体勢で、足元には愛読書が落ちている。
「まったく」
ぼやいてから私はそれを拾った。改めて見てみると、表紙のイラストはモノクロだった。さっき見た時は色がついているように思ったのだが…錯覚だったらしい。白衣姿の男は白黒にも関わらずあたたかく微笑んでいる。余裕なのか、優しさなのか、満足なのか、照れ隠しなのか、強がりなのか、その笑顔がどこから来ているのか私にはわからない。この本を読めばそれもわかるのだろうか。
警部が眠ったままなのを確認して、少しだけページをめくってみる。目次にはたくさんの小見出しが並んでおり、中には『目を使わずに月を見る方法』など全く内容が予想できないものもあった。そこを読んでみようかとも思ったが、私の指は静かに本を閉じる。そしてそっと警部の隣に置いた。
見えるからこそ見えないもの…私にはこの人のボロボロのコートとハットが見えている。長い前髪も見えている。おしゃぶり昆布を口にくわえる癖だって何度も目撃している。
でももしかしたら、そのせいで見えずにいるものもあるのかもしれない。奇抜な容姿に意識の大半を持っていかれて、ボロボロのコートの中にいる人物を私は見ていないのかもしれない。
おかしな話だ。自分自身は私の容姿だけを見て擦り寄ってきた男たちをことごとく拒絶し、嫌悪し、蔑んできたというのに。不本意ながらムーンと名乗るようになってからもう随分経つが、目を使わずに月を見てくれる人間がいるのなら、その方法を知りたいと思う。
…いや、やっぱり知りたくないかな。さっき思わず本を閉じたのは、知るのが怖かったからかもしれない。自分がこれまでどれだけ見ていたのか見られていたのか、見ていなかったのか見られていなかったのかを。
そこでデスクの内線が鳴る。私が受話器を耳に当てると、それは新たな事件へのいざないだった。ようやく一つ報告書を仕上げたら、すぐまた次がやって来る。それがこの仕事の常。
「何かあったのかい、ムーン?」
受話器を置くと、目を覚ました警部が尋ねた。
「所轄から捜査協力の依頼です。直接警部に来てほしいと。傷害事件が起きたそうなのですが、被疑者として逮捕されたのが…」
その名を告げると上司は一瞬固まる。
「ああそう。じゃあ、行こうか」
「車を回してきます」
ゆっくり立ち上がる愚かな男を残して私は早足に部屋を出た。
さて、我が上司は見た目どおりのしょうもない奴なのか、それとも見た目に反した真人間なのか。本を借りるのはもう少しそれを考えてから、答え合せがしたくなった時にしよう。まあ今のところ、しょうもない奴である可能性が9割以上だけど。
それにしても今回の事件、またややこしいことになりそうな予感。曖昧が素敵なんて言っていられない。確かな事実を、私はこの目で見極めなければ。