エピローグ

 あたしはやっぱり腰が重い。本当はすぐにでも彼に連絡を取って謝りたかったけど、彼が視覚障害のことを知られたくないのだとしたら…そう考えるとなかなか携帯電話のボタン一つが押せなかった。
 迷ってるうちに北海道は長い長い冬へと突入。大地は白く染まって厳しい寒さが肌を刺す。のん気に笑ってなんかいられない季節だ。
 そして年が明けた頃、中学卒業二十周年を記念しての同窓会の誘いが届いた。みんなで集まるのはあの結婚式以来だ。
 3月初頭、札幌で懐かしい顔ぶれが再集結。ラプンも小さな子供を抱っこしてきていた。そしてあたしはそこで彼についての事実を知らされる。
 彼はもうこの世にいなかった。三年前に交通事故に遭ったという。病気で目が不自由になってたことはごく少数の男友達にだけ打ち明けてたみたい。頭を下げて彼の住所を教えてもらう。そして上司に無理を言って担当してる事件が片付き次第あたしは十年ぶりに東京へ飛んだ。
 彼が北海道を去ってから暮らしていた家を訪ねる。…3月14日だった。

 穏やかさを絶やさない母親に奥の和室へ通される。そこには彼の優しい笑顔が飾られていた。焼香して手を合わせる。涙は出ない。あたしは刑事だ。理不尽に奪われる命、若くして絶たれる命、それが誰にでも起こりうるって知っている。ただ一つ…結局あのデートの日以降直接言葉を交わせなかったことが残念でならなかった。
 しばらく放心してると慌ただしい足音がして一人の女性が戸を引いた。その顔には見覚えがある。そう、あのウエイトレスの…。あたしが訊くより先にその女性は言った。
「私…妹です、兄貴の妹です。法崎さくらさんですよね。よかった、ずっと会いたかったんです」
 お互い自己紹介してから母親が振る舞ってくれたお茶とお菓子をいただく。妹…彼とはあんまり似てなかったけど、話し方とか笑い方とかはどこかおんなじ。あたしの知らない彼の東京での姿がたくさんその口から語られた。
 彼が目の病気を患ったのは大学卒業の頃。弁護士の夢も一度は投げ出しそうになったけど、盲目でも弁護士として活躍してる人もいるって聞いて猛勉強、数年遅れで司法試験に合格した。だけどその後の道は険しく、あたしと再会した頃は勤め先もなく自分の今後に行き詰ってたという。
「だから法崎さんから会いたいって連絡が来て兄貴はほんとに嬉しかったんだと思うな。私が兄貴の代わりにケータイを見てメール打ってたんです。あなたからメールが来る度にどうしようどう返そうって大騒ぎしてました。弁護士のくせに頼りなくて…ほんと馬鹿な兄貴でごめんなさい」
「こちらこそ…目のこと、気付いてあげられなくて」
「いいえ、隠したのは兄貴ですから。あなたには…昔の儘の自分で会いたかったんじゃないかな。ほんと馬鹿な兄貴、そんなとこでかっこつけて」
 妹は淋しそうな、そして懐かしそうな表情を浮かべる。
「あなたと行く予定だった池袋のレストランも私が付き添って何度か行く練習したんですけど、やっぱり無理があって。だから私、兄貴に言ったんです、ちゃんとほんとのこと打ち明けようって。そうしたら兄貴も…」
 そこで妹ははっとなる。そして「ちょっと待っててください。兄貴の部屋に行ってきます」と立ち上がってそのまま出ていった。数分してまた慌ただしい足音と共に戻ってきた妹の手にはラッピングされたプレゼントが握られていた。
「これ、兄貴があなたに渡す予定で買ってたんです」
「え?」
「あの池袋のレストランでこれを渡して、ちゃんと告白するって言ってました。病気のことも、自分の気持ちも…。とっくに賞味期限は切れてますけど、受け取っていただけますか?」
 恐る恐る手を伸ばしてそれを掴む。
「未練がましい兄貴ですいません。渡せなかったのにずっと捨てられずに机の中にあったんです。キャンディです、バレンタインのお返しの。今日がホワイトデーでちょうどよかった」
 大馬鹿だ、あたしたちは。チョコを渡すのに十年かかって、お返しのキャンディをもらうのにまた十年かかって。これじゃ人生がいくらあっても足りないよ。恋にだって…賞味期限はあるよね。おかしいのか悲しいのかもうわかんないや。
 その後は妹と二人でどちらからともなく泣いて、笑って、また泣いて…大人げなく声を上げ続けた。

 そろそろおいとましますと玄関で靴を履いた時、妹が告げた。
「あの、これからも頑張ってくださいね…警察」
 あたしは振り返って小首を傾げる。
「いやあの、中学の時に兄貴が言ってたんです、同級生に素敵な子がいるって。正義感が強くて、しっかりしてて…それに名前も素敵だって。
 法崎さくら、法律に咲く桜の花…警察官にぴったりだって言ってました」
 記憶の扉が開く。いつか彼と一緒に下校した時、確かにそんなことを言われた気がする。
 …「それに君の名前…警察官にぴったりだし」。
 あれはそういう意味だったのね。
「勝手な兄貴でごめんなさい。でも私も応援してます、北海道の平和を守ってくださいね」
「頑張れよ法崎」
 優しい幻聴。一瞬妹の後ろに彼の姿も見えたような気がした。
「ありがとう」
 二人にそう伝えてあたしはその家を去った。

 わかってる、もうこの仕事に迷いはない。あの時大関さんにも叱られた。だから刑事になった時、緋色のコートとハットを買ったんだ。どんなにガラスをかぶっても、どんなに返り血を浴びても、男も女も関係なく、警察官として職務を貫けるように。もう恋心なんかに気を取られないように。
 あたしは刑事をやっていくよ。だけど、コートを脱いでる時にはたまに思い出すようにするね、君のこと。あの最初で最後の…最高のデートのこと。

 さて、これからどうするか。十年前に結局見られなかった新宿御苑の桜並木でも見に行くか。それとも警視庁に足を伸ばしてあの二人の顔でも拝んでやるか。
 あたしは人が溢れる駅のホームで電車を待ちながら考えていた。
 それにしても…改めて思い返してもカイカンくんはすごい。あたしの話を聞いただけで、彼の目が見えないことや彼の気持ちまでわかっちゃうなんて。そこまで推理だけでたどり着けるものかな。普通そんなこと思い付くかな。何か経験がないと…。
 そこでふと、あたしの脳は恐ろしい可能性を示した。すっと首の後ろが涼しくなる。
 そういえばカイカンくんはずっと前髪で右目を隠してる。まさかあの右目は…。

 やめよう、捜査以外で勝手なことを推理するのはおこがましくて無礼なこと。人は誰でも知られたくないことがある。きっとカイカンくんにだってある。そしてムーンちゃんにも。
 眠り込んだあの子をホテルに運んで着替えさせた時、あたしは見てしまった。その体に残る痕跡を。でもきっとそれもあの子の知られたくないことなんだろう。カイカンくんもムーンちゃんもお互いの傷を隠して生きてるんだ。それをあたしが勝手に言えるはずはない。

 電車が滑り込んで来る。忙しい東京の人たちが乗り降りする。でもあたしはその電車に背を向けて反対のホームへ向かった。
 今 春が来て君は綺麗になった、去年よりずっと綺麗になった…イルカの歌の一節が浮かぶ。
 借りたままのハンカチを返すのはまた次の機会にしよう。あたしは北の大地を目指して空港へ向かう電車に乗り込んだ。

-了-