第七章 最悪女

「カイカンくん、説明して」
 床に落ちたスナックを拾ってティッシュに包んでからあたしは言った。変人刑事は静かに答える。
「これは…あくまで君の話の中から得られた情報だけで組み立てた推理だよ」
「わかってる、それでもいいから」
 数秒だけ沈黙を挟んで低い声は語りを始めた。
「じゃあまずは情報の整理。事件発生は十年前の2月14日、場所はれんが通りに面した古いビルのオフィス、被害者は不動産業の傍ら詐欺や恐喝をやっていた小澤さん、殺害方法は刺殺、第一発見者はアルバイトの水原さん、容疑者は小澤さんを恨んでいた三人…浅岡さん、池森さん、上杉さんだ。
 そして事件当日、向かいの出版社の窓から撮影された写真に、現場のビルから出てくる不審な人物が写っていた。この人物はマスクとサングラスで顔を隠していてしかも血液の付着した紙袋を持っていた。よってこの人物が犯人である可能性が極めて高い」
 説明に問題がないことを示すためにあたしは黙って頷く。
「その人物の背丈は推定160から165センチ。しかし三人の容疑者のうちこれに合致するのは池森さんだけど、太っていて体型が明らかに違う。水原さんも160センチだけど鉄壁のアリバイがある。じゃあ写真の人物はいったい誰なのか?」
 カイカンくんがこっちお見た。
「わかんないわよ。それがわかんないから困ってるんじゃない」
「写真をじっくり見たらそれがわかるんだよ」
 また右手の人差し指が立てられる。あたしは頭の中であの写真の画像を思い浮かべた。じっくり見ればわかる? でもあの写真は捜査員がそれこそ穴が空くほどチェックしたはず。犯人を特定できるような物が写ってたら見逃すはずがない。
 それにそもそも、写真の実物を見てないこいつがどうして写真から犯人がわかるの?
「…わからないかい?」
 この得意げ口調がムカつく。
「ほんと、昔からあんたはそうなんだから。悪うございましたね、わかんないわよ。もったいぶらずにさっさと言ってよ」
「仏頂面しなさんな。それにこれは君が教えてくれたんだよ。あの写真は出版社が発行してる『れんが版』っていうタウン誌の表紙に使われる物だったね」
「そうよ。出版社は建物の3階に入ってて、そこの窓から女性社員がれんが通りを行き交う人たちの姿を気が向いた時に撮影した写真よ」
「そう。確か一日一枚か二枚、一ヶ月で30枚くらい撮影するんだったね」
 それが何だっていうのか、全く話が見えてこない。
「一ヶ月で30枚となると一年間で300枚以上になる。君の後輩はそれを全部チェックした、そして事件の日に撮影された問題の一枚にだけ写っていた物があったね」
「だから、それがビルから出てくる犯人でしょ」
「それもそうだけど、もう一つあったじゃないか。ほら、れんが通りの植え込みの後ろに白い…」
「ああ、ゾウさんのオブジェね」
 確かにそうだった。問題の写真にだけ、植え込みの向こうのゾウさんの耳が少しだけ写ってた。他の写真だと植え込みに隠れて見えなかったオブジェだ。
「でもそれがどうしたの?」
「それが重要なんだよ。どうして普段は隠れて見えないゾウさんが問題の写真にだけ写ったのか?」
「だからそれはたまたま植え込みが短く刈られた直後だったから…」
 あたしは口をつぐむ。そこまで言ってようやく気付いた。違う、それは有り得ない。だってあの植え込みはイミテイションだったんだから。刈られて小さくなることも育って大きくなることもない。じゃあどうして…?
「フフフ…おかしいよね。植え込みの大きさは変わっていないのにその写真にだけ後ろのゾウさんが写るなんて。となると考えられるのは一つだけ。違っていたのは植え込みの大きさではなく…」
 パチンと立てていた指が鳴らされた。
「写真の構図…つまりアングルだ。あの写真だけアングルが微妙に違っていたんだよ」
 一瞬思考が停止する。え?何?アングルが違う?
「ちょっと待ってカイカンくん、あの写真には他の写真と同じようにれんが通りが写ってたのよ?」
「もちろん被写体は同じれんが通り、撮影した場所も同じ3階の窓辺。でもアングルだけが微妙に違っていたんだ。普段撮影する時よりも高い位置からカメラを構えたから、植え込みの後ろのゾウさんが写ったんだよ」
 そんな…そういえばあの写真だけ、他の写真にはない妙な違和感があったっけ。まさかアングルがあの一枚だけ違ってたなんて。
「ではここでクエスチョン、どうしていつもと違う高さでカメラを構えたんでしょう?」
「三脚を使って撮影したとか?」
「ナルホド」
 カイカンくんは独特のイントネーションでそう返す。
「でもね、三脚を使う場合でもファインダーを覗き込む以上、カメラの位置がカメラマンの背丈より高くなることはないよ。低くなることはあってもね」
「だったら…別の人が代わりに撮影したとか?」
「そうなるよね。でも君の話だと、2月14日に出勤していたのはその女性社員さんだけで他の社員はいなかったはず。じゃあいったい誰が撮影したのか…この疑問はちょっと置いておこう。
 続いて次のクエスチョン、どうしてその写真だけ別人が撮影したんでしょう?」
 推理はどんどん予想外の筋道を突き進む。
「答えは一つ、その時女性社員さんがその場にいなかったからだよ」
 いなかった? ということはまさか…。
「いなかったのに、その場にいて撮影したかのような写真を作った。つまりこれはアリバイ工作だ。わざわざアリバイ工作をしなくちゃいけない理由はわかるよね?」
 そこではっきりと重たい声が言った。
「殺人事件の犯人は…川島さんだよ」

 嘘…。さっと血の気が引いて、続いて頭の深部がじんわり熱くなってくる。出版社を訪ねた時に応対してくれた小柄であどけない女性…あの川島が犯人?
「川島さんは別の人に撮影を託して向かいのビルに行き、そして小澤さんを殺害した。
 アリバイの写真を用意したのはあくまで念のためだろうね。もし警察に疑われても、犯行時刻に自分はちゃんと出版社にいましたよと証明するために」
「待って待って、いくらアリバイ工作でも自分の姿が写った写真を残すなんてリスクが高すぎない? それに川島は小柄だったわ。身長は150センチそこそこ。写真の犯人は推定160から165センチだから一致しないじゃない」
「最初は自分が写る計画じゃなかったと思うよ。それは犯行の途中で思い付いたんだ。そのことを説明する前にもっと根本的な疑問がある。
 被害者は胸部を刺されて現場は血の海だったね。そして犯人は強盗に見せかけるために財布とライターを遺体のズボンから盗んでる。犯人はこの時に血の海を必ず踏んでいるはずだ。だとすると現場から逃げる時に血の足跡が残っていないとおかしい。でも捜査会議の時に織田刑事が言ってたでしょ、廊下に足跡なんて残ってなかったって。どうしてかな。犯人は靴を脱いで裸足で逃げた? いや、写真の犯人はちゃんと靴を履いていたはず。となると現場で靴を履き替えたことになる。
 川島さんは犯行の後、オフィスの床に置かれた紙袋を見つけたんじゃないのかな。そしてその紙袋に入ってた小澤さんの靴を拝借した」
「あの紙袋の中身は靴だったってこと? 確かにあれは靴屋さんの紙袋だったけど。でもオフィスにはちゃんと靴箱もあったのよ。小澤はどうしてその靴だけ紙袋に入れてたのかしら」
「特別な靴だったからさ。水原さんの証言を思い出してごらん、小澤さんは自分の容姿を気にしてカツラをかぶったり肩パットを入れたりする性格だった。上杉さんもこんな証言をしてる…小澤さんはバーであった時は頼もしい男だったのに、昼間に外で胸倉を掴んだ時はさえない小男だったって。
 どうだい? これを靴と組み合わせると一つのアイテムが浮かぶでしょ」
 やっとわかった。あたしはごくりと唾を呑み込んでから答える。
「シークレットシューズ…」
「そう、背の低い男性が背丈を高く見せるための靴だ」
 小澤の身長は165センチで男としては小柄だった。見た目を気にする性格ならそのアイテムを持っててもおかしくない。そしてシークレットシューズでは身長が10センチくらい伸びる。つまり履いている時は175センチで170センチの上杉より高くなり、脱ぐと165センチに戻って上杉よりも低くなるってことか。これなら上杉の証言とも一致する。
「きっと小澤さんは詐欺や恐喝をする時はシークレットシューズを履いていたんだよ、相手になめられないためにね」
 また得意げに言うカイカンくん。よくもまあ人の話を細かく聞いて憶えてるもんだ。話してる本人はそんなとこにヒントがあるなんて思いもしなかったのに。
「そうね、シークレットシューズなら靴箱には並べずに別に紙袋に入れておいたのも頷けるわ。ハンカチかティッシュで詰め物をすれば川島にも履けたでしょうね」
「殺人現場でシークレットシューズを見つけた川島さんは思い付いたんだ。これを履いて逃げれば足跡も残さないし、しかも身長を10センチ高くすることができる。これならむしろアリバイの写真に写った方が得策だ。写真に写るのは自分より背丈の高い完全な別人、それを出版社の窓から撮影したとなれば鉄壁のアリバイになる。そんなふうに考えて、撮影を頼んだ人に電話をかけて自分をフレームに入れて写すように指示したんだ」
 そんな…そんなことが…。でも筋は通ってる。150センチそこそこの川島がシークレットシューズを履けば160センチそこそこ、写真から推定された犯人の身長にぴったり一致する。
「じゃあ写真で犯人が提げてた紙袋にはもともと履いてきた靴が入ってたってわけね」
「そういうことだね」
 これで犯人の身長の謎、紙袋を持ち去った謎は解けた。もう残る謎は一つ、さっきカイカンくんが保留した疑問…川島が撮影を頼んだ人物、すなわちアリバイ工作を手伝った共犯者は誰なのか。こいつはきっと…いや、絶対そこまで見抜いてる。
「カイカンくん、教えて。実際に写真を撮影したのは誰?」
「考えてごらん。さっき説明したようにカメラのアングルが変わって普段は写らないゾウさんが写ったんだよ。それくらい川島さんと共犯者には身長の差があったと考えられる。そして、小澤さんを恨んでる三人の容疑者の中にとても背が高い人が一人いたよね」
 脳裏にあの中性的な顔が浮かぶ。
「身長190センチの、浅岡…?」
「そう、浅岡さんが共犯者じゃないかな。川島さんとの身長差は40センチ、これだけあればカメラのアングルに違いが出てもおかしくない。
 もちろんそれだけが根拠じゃないよ。ほら、取り調べの時に言ってたじゃないか、浅岡さんは部屋の床に置いていた踏み台に膝をぶつけて怪我したって。そんなに背が高い人が部屋に踏み台なんか必要かい? きっと背の低い誰かの部屋に行った時にそこにあった踏み台にぶつけたんだ。それが川島さんの部屋…。
 おそらく二人は恋人関係だったんだ。浅岡さんの話にも出てきたね、婚約者の治療費のために小澤さんにお金を借りたら騙されて借金地獄になって、そのせいで婚約者の両親から反対されて破談になったって。でも、血痕がダメになっても二人は密かに愛し合っていた。そして共謀して小澤さんへの復讐を決行したんだ」
 とんでもない推理だ。浅岡と川島、この二人を結び付けることで暗中模索の事件にどんどん光が射していく。
「実行犯を女の川島の方にしたのは、やっぱり浅岡だと小澤が警戒すると思ったからかしら。川島は犯行の時、マスクとサングラスをはずしてたのかもね。そうすればあんなに小柄で可愛い子がまさか襲いかかってくるなんて小澤も思わないわ」
「そうだね。実際に被害者の衣服に争った形跡はなかったわけだし。それにもしかしたら川島さんが自ら実行犯を志願したのかもしれない。自分の治療費を工面するために道を踏み外した浅岡さんへの償いとして。
 となると写真撮影のアリバイ工作は浅岡さんの方から買って出たのかも。せめてそれくらいの協力はさせてくれって。いや、これはちょっと推測が過ぎるかな」
 あたしは小さく息を吐く。
「酔いしれてるとこ悪いけど、カイカンくんの推理を受け入れるにはいくつか疑問があるわ。言っていいかしら」
「どうぞ、その方が助かる。フフフ、五年前に研修で来た時もよく二人でこんなやりとりをしたね」
「そうだったかしらね。じゃあいくわよ。写真に写った犯人が実はシークレットシューズを履いた川島っていうのは確かに有り得る話だわ。でもシークレットシューズっていうアイテムをありにするなら、他の可能性もあるんじゃないかしら。
 例えば、身長170センチの上杉が実はシークレットシューズの愛用者で、犯行の時はそれを脱いで160センチに縮んでたっていうのはどう?」
「上杉さんの身長が170センチっていうのは取調室で確認してるじゃないか。その時の上杉さんの服装はどうだった?」
 そうか、あの時上杉はハーフパンツにビーチサンダルだった。シークレットシューズってことは有り得ない。
「じゃ、じゃあ、実は身長160センチの池森が犯人ってことはないの? 犯行の時は痩せていて、その後一気に太ったとか」
 カイカンくんはちょっと笑って首を振った。
「いくらなんでもそんなに急に太れないよ。それに池森さんは事件の前月に右手の中指を車のドアに挟んで骨折してたんでしょ? 利き手がそんな状態でナイフをしっかり握って人を刺すのは難しいさ。
 いいかい? 栗林刑事の話を思い出してごらん、遺体に刺さったナイフの入射角は下から上だって言ってたじゃないか。つまり身長165センチの小澤さんよりも犯人はずっと背が低い可能性が高いんだ。それなのに写真の犯人は160から165センチで小澤さんとほとんど変わらない。だからシークレットシューズだって考えられるわけだよ」
 悔しいくらい理路整然としてやがる。
「納得いったわ。でもカイカンくん、どうしてれんが通りの植え込みがイミテイションだって思ったの? そう思ったからビンさんって人に調べてもらったんでしょ?」
「それは、ゾウさんが写ってた写真が一枚しかなかったからさ。2月14日には午後にも一枚撮影されてる。もし植え込みが刈られたせいでゾウさんが見えたんなら、午後の写真でも写ってないとおかしい。そんなに速く植え込みの植物が伸びるはずないからね」
「なるほどね。じゃあ最後にもう一つ、川島に目を付けたのはどうして? 目を付けてなきゃ、写真のアングルの違いだけで犯人だなんて普通疑わないでしょ」
「それは…フフフ、些細なことさ」
 変人刑事は不気味に笑う。
「栗林刑事に2月14日のことを尋ねられた時、『何曜日でしたっけ』って川島さんが答えてたのが引っ掛かった。女性は新しい年のカレンダーを見る時に一番最初にチェックするのがバレンタインデーの曜日だって聞いたことがあってね。休日なら義理チョコを会社や学校で配らなくてもいいから楽なんだってさ。川島さんは若い女性なのに2月14日の曜日がわからないっていうのは、わざととぼけてるんじゃないかなって思ったんだよ」
 そんなことで…。悔しいけどすごい。あたしが話した内容から矛盾とヒントを拾い集めてこいつは一つのストーリーを完成させてみせた。早鐘を打っていたあたしの鼓動もようやく落ち着き始める。
「お見事よ、カイカンくん。腕は鈍ってないみたいね」
「ありがとう、そちらもナイスアシストだったよ、女カイカン」
「もう、怒るわよ」
 あたしはゲンコツを振り上げる。カイカンくんもおどけて委縮する。
「ごめんごめん、許してください。でも最初に言ったとおり、今のは偏った情報だけで組み立てた推理だ。いや、推理っていうより想像に近い。私は現場も見てないし容疑者にも会ってないんだからね、これだけで判断するのは危険だ。証明するにはしっかり裏付け捜査が必要だよ」
 偉そうなくせに慎重なんだから。あたしは「わかってますとも」と答えてゲンコツを下ろす。そこでカイカンくんは大きくあくびをした。

 ロビーを出て人目に付かないスペースを見つける。遅い時刻だったので少し躊躇したけど、あたしはそこで十年ぶりに大関さんに電話をかけた。そしてカイカンくんの推理を伝え、栗林さんへの伝言をお願いした。
 携帯電話をしまってロビーに戻ると、あいつは新しい昆布をくゆらせていた。今度は隣じゃなくて対面のソファに腰を下ろす。
「連絡はついたかい?」
「ええ、栗林警部補…今はもう警視らしいけど、に伝えてもらったわ」
「そう…。君の後輩が遭遇した未解決事件も、これで前進するといいね」
 言葉を止めて昆布をタバコのように指に挟むカイカンくん。もうあんまり話をしたくない雰囲気を感じたけど、あたしはどうしても確かめずにはいられないことがあった。胸が違う音色でまた早鐘を打ち始める。事件の謎は解けたけど…いや、解けたからこそもう一つの謎が余計に気になってしょうがない。
 忘れたはずの謎。考えないことにしたはずの謎。警察官としてもう二度と邪念に惑わされないって決意したはずだった。でも、でも…。
「ねえ、訊いてもいい?」
 カイカンくんは無言だった。
「あたしの話に出てきた彼のことなんだけど、彼がどうしてウエイトレスの女の子と寄り添ってれんが通りを歩いてたのか、しかも十年ぶりに彼女と再会する直前に。これがどうしてもわかんないのよ」
 カイカンくんは目を逸らす。
「川島が撮影した写真にも、事件の二か月前から時々二人で歩く姿が写ってたわ。いや、二人がそういう関係ならそれはそれで構わないんだけど、だったらどうして彼は…彼女とデートなんて…」
 言葉が詰まる。邪魔しているのはプライドか臆病か。でもダメだ、きっと今夜を逃したらもう真実を知るチャンスはなくなってしまう。この十年、何度も何度も頭の中に冷水をぶっかけて鎮火したはずの疑惑の炎。その残り火が今燃え広がってすごい勢いで炎上してる。知りたい…どうしても知りたい!
「カイカンくんならそのことも察しがついてるんじゃないの? だったら教えて、頼むわ」
「それは事件とは関係ない話じゃないかな」
 低い声がそう答えた。
「わかってるわそんなの。わかってるけど…」
 両ひざに置いた拳をぎゅっと握りしめる。みっともない。情けない。でも、話を聞いただけで十年越しの謎を解き明かしたこいつなら…きっとわかってるはず。あたしがずっと知りたかったことを。
「お願いよ、カイカンくん。実はその…あたしの話に出てきた彼女っていうのは後輩なんかじゃなくて…」
 頭を下げる。今更そんなこと言わなくたってとっくにバレバレだろうに。
「頭を上げてよ」
 カイカンくんは昆布をポケットにしまう。顔を上げると寂しい色をした目があたしに注がれてた。今まで知らない、初めて見るカイカンくんの顔だった。
「仕事以外のことで人のことを推理するのは…極力控えるようにしてるんだ。とってもおこがましくて無礼なことだからね。だから正直気は進まない」
 変人刑事はふっと笑う。
「でもまあ今夜はプライベートだ。友人として協力しようかな」
「恩に着る」
 あたしも少しだけ頬を緩める。
「話す前に一つだけ…。聞いたら君は後悔するかもしれない。その覚悟はあるかい?」
 もちろん、一片の迷いもない。あたしは強く頷く。
「…わかったよ」
 カイカンくんは少し残念そうにそう言うと、ゆっくりとまた語りを始めた。
「確かに彼の行動には謎が多い。十年ぶりに彼女と再会するその日に、何故か別の女の子と先にれんが通りを歩いていた。そしてデートで彼女を連れて行ったレストランにはその女の子がウエイトレスとして働いていた。一か月後にもデートの約束をしたのに、彼女と行く予定の店へ先にその女の子と行っている…しかも寄り添いながら手をつないでね」
 胸の奥がズキズキする。あの時と同じ切なくて惨めな痛み。
「やっぱり、そのウエイトレスの女の子が本命だったのかな。可愛い子だったし」
 無理矢理おどけてみる。カイカンくんは笑わない。
「二人は頻繁に寄り添ってれんが通りを歩いていた。川島さんが撮影した写真にも何度かその姿が写っていたんだったね。でも…これがおかしいことに君は気付かなくちゃいけない。わかるかい? いくらなんでも頻繁に写り過ぎなんだよ」
「どういうこと?」
「よく考えて。川島さんは一日に一枚とか二枚、気が向いた時に撮影していただけ。ここに複数回同じ人物が写るのは天文学的確立だよ。いつも決まった時刻に撮影してたんならまだしも、ランダムだったんだから。たまたま通りかかった時に何度もそのランダムに重なるなんて有り得ない。
 なのに彼は写っていた…ということは、れんが通りを一日に何回、いや何十回も往復していたとしか考えられないんだよ。しかも毎日のようにね。そうでもしない限り、何度もたまたま写真に写るはずがない」
 言われてみればそのとおりだけど…でもじゃあどうして彼はそんなことを? あの子とデートしてたにしたって、同じ道を行ったり来たりするのは不自然だ。
「彼は…何をしてたの?」
「練習していたんだ、駅からレストランまでちゃんと歩けるように」
「練習って…彼はそんなに方向音痴じゃないわ」
「いや」
 少し言い淀んでから、低い声は意を決したように告げた。
「彼は…目が見えていなかったんだよ」

 …世界が終る。一瞬全ての音も色も周囲から消え失せた。自分の鼓動もどこか遠くへ消えていく。理解が全く追いつかない。
 え?何?目が…見えてない? 彼の?
「ちょっとやだ、何言ってんの? 冗談やめてよ、アハハ」
 震える唇でそう返す。カイカンくんの様子から冗談なんかじゃないことはわかってた、でもそんなのって…!
「完全な盲目だったのか、少しは見えてる弱視だったのか、それはわからない。ただ彼は一人で屋外を歩くのは困難な視力だったんだと思う。
 だから雨の予報でもないのに傘を持っていた、杖の代わりにするためにね。彼女と再会した時にメガネがコンタクトに代わってることに気付かなかったのも、れんが通りのゾウさんのオブジェをライオンと言い間違えたのも、全部目が見えていなかったせいだ。学生時代の馴染のレストランを選んだのも、店内の構造とか駅からの道のりとかが記憶に残っている店だったからだろうね。
 例の女の子は…そんな彼の事情を知る協力者だったんじゃないかな。だから何度も一緒に歩いて練習に付き合った。目の不自由な人をサポートするんだからぴったり寄り添うのも当然だ。時には手をつなぐこともあるさ」
「じゃあ待ち合わせの前にも二人でれんが通りを歩いてたのは…」
「最後の予行演習さ」
「じゃ、じゃああの子がウエイトレスとして働いてたのも?」
「彼をさり気なくサポートするためだろうね。君の話の中にもその場面が出てきた。店内を走っている子供が通り過ぎるまで彼を立ち止まらせたり、今日はドリアがお休みだということをわざわざ口頭で伝えたり」
「でも彼は普通にメニューを読み上げてくれたのよ?」
「全て暗記していたんだ、あらかじめね。だから当日急にメニューにシールが貼られたエビドリアの中止は教えてあげなくちゃいけなかった」
「で、でも彼とはメールでやりとりを…」
「家族に代わりに撃ってもらってたんじゃないかな。あるいは最近は音声でメールを読み上げてくれる携帯電話もあるそうだよ」
 彼と再会した時、確かに視線が絡まなかった。昔はあんなに目が合っていたのに。でもそれはお互い照れてるからだと思ってた。あたしははっとする。
「じゃあ、バレンタインチョコをすぐに受け取ってくれなかったのも…」
「無言で差し出されてもわからなかったからだよ。その後ピンときてちゃんと受け取った」
 駅の改札で別れた後、彼は何度も人にぶつかりそうになってた。タクシーで帰るって言ってた。全ての挙動がようやく一つの線で結ばれていく。そんな、そんなそんな…。
「目の不自由な人間が町を歩く、しかもまるで普通に目が見えているかのように振る舞って歩く。これはとてつもなく大変なことだよ。きっとすごい練習をしたんだと思う。駅から何歩進んだら角を曲がるとか、れんが通りを抜けて何歩行った所に店があるとか、どこに段差があるから気を付けるとか、全部頭に入れて…何度も何度も同じ道を歩いたんだ」
 嘘…あたし、ちっとも気が付かなかった。でも確かに、あの時彼は地面を踏みしめるみたいにゆっくりのスピードで歩いてた。
「言ってくれれば…よかったのに」
 思わずそう漏らした。喉が熱く痛くなる。目の奥から涙もじわっと込み上げてくる。
「どうして? どうして言ってくれなかったの?」
 思わずまた顔を伏せた。全身がビリビリしびれて震えだす。
「次のデートの池袋のお店に先に行ったのも…やっぱり練習のためだろうね。一人でもちゃんと歩けるように」
「そんなの、言ってくれればあたしいくらでもサポートしたよ! あたしって彼にとってそんなに信用なかったのかな?」
 行き場のない悔しさが込み上げる。悔しさ? いや違う、これは憤りだ。何も気付かず、何もしてあげられず、勝手に疑って勝手に別れを告げた世界一最悪な女への!
「法崎さん、彼は信用していなかったわけじゃない」
 カイカンくんが少しだけ優しい声になった。
「私には…彼の気持ちがわかるかな。ついにずっと好きだった人とデートするんだ、そりゃあなんとか自分がエスコートしたいって思うさ。男ってのは…そういうもんだよ」
 あの日の彼の姿が浮かぶ。彼は…来る日も来る日も練習して、あのデートを実現してくれてたんだ。あたしのために…あたしのために!
 一粒、二粒、涙が膝に堕ちる。見るとカイカンくんは腰を上げてあたしの横に立っていた。こいつなりの気遣いなのか、顔は別の方向へ向けてくれてるみたい。
「以上、話はこれで終わり。もう遅いから解散にしよう」
 言葉が出ない。わかってる、話を聞いても後悔しないって最初に約束した。だからカイカンくんには感謝しなくちゃいけない。わかってる、でも言葉が…。
「じゃあおやすみ。気を付けて帰れよ」
 そう言うとボロボロのコートの後ろ姿は遠ざかり、やがてエレベーターの中へ消えた。
 絶望的に最低だ、あたしは…刑事としても女としても。大切なことが…何一つわかってなかった。わかろうとしてなかった!

 やがて壁の時計が午前1時を告げる。
 ホテルのロビーもーいつまでいられるはずもない…中島みゆきの歌の一節が浮かんだ。そうだ、早く泣き止んで立ち去らなきゃ。こんな情けないのは今夜で終わりにしなくちゃ。明日からまたいつものあたしに戻るんだから。
 唇を結んで胸を張る。体の震えを無理矢理抑える。そしてゆっくり深呼吸。
「ハア…」
 顔を上げる。するとテーブルの上に四つ折りのハンカチが置いてあった。
 あのド変人、余計なことすんな! また泣いちゃうでしょ!

「すいませんすいません。お話の途中で寝てしまうなんて…失礼なことして本当にすいません!」
 翌日のお昼過ぎ、ホテルまで迎えに行ったあたしにムーンちゃんは首が折れるんじゃないかって思うくらい何度も頭を下げてきた。
「そんなの気にしなくていいから。こっちこそ無理させてごめんなさいね」
「さくらさん…」
「また女二人でゆっくり飲みましょうね、今度はお邪魔虫は抜きで」
「はい、よろしくお願いします!」
「おいおい君たち、そりゃないだろ」
 安堵の返事をする美人刑事の隣で変人刑事もいつもの調子だった。
 そのまま二人を後部座席に乗せてあたしの4WDが嘶く。
「じゃあ空港に向かうわ。シートベルトはしっかりね!」

 しばらくは無言のドライブだった。やがて空港につながる国道に乗った辺りであたしが口を開く。
「そういえば…さっき連絡来たわ。朝一番で警察が動いて川島を取り調べたらあっさり犯行を認めたそうよ。この十年でコンピュータも進化したからね、あの写真に写ってた犯人と川島が同一だってことを科学的に証明して突きつけたみたい」
「そりゃ何より」
 低い声が感情なく言う。
「ただ浅岡とはとっくに別れてて、浅岡の所在はこれから捜さなくちゃいけないみたいだけど…まあ時間の問題でしょ。川島も殺人は浅岡から命令されたとか、本当はやりたくなかったとか色々言ってるみたいでね、この十年ですっかり愛情は冷めたみたい。殺人を共謀するくらい燃え上がってたのに愚かな話よ」
「フフフ…まあ恋愛の形は人それぞれ、世の中にはチョコレート渡すのに十年かける人もいるからね。私はそっちの方がいいなあ」
「うっさい!」
 あたしはアクセルを踏みこんでノンデリカシー男の言葉を遮った。

 無事到着。二人を新千歳空港で下ろす。搭乗口まで見送ることもないので駐車場で別れの挨拶を交わした。そしてお江戸の刑事コンビは空港の雑踏の中へ消えていった。

 バイバイ、カイカンくん。せいぜい不審者としてまた空港警察に逮捕されないようにね。任せたわよムーンちゃん。万が一そうなっても、あたしはもう知らないっと!