第六章 眠り姫

 バッターン!
 突然大きな音がした。びっくりしてそっちを見ると、なんとムーンちゃんが正座したまま後ろに引っくり返ってる。隣のカイカンくんも慌てて持っていたコーヒーのカップを置いて、倒れた部下の肩を揺すった。
「おいムーン、しっかりしろ」
「ちょっとムーンちゃん、どうしたの」
 あたしも腰を上げて駆けよる。カイカンくんは細い首筋に手を当てた。
「大丈夫、脈も呼吸もしっかりしている。ムーンには特に心臓や脳に持病もない」
「じゃあどういうこと? お酒も少ししか飲んでなかったわよね」
「これはようするに…」
 カイカンくんは右手の人差し指を立てた。
「睡眠不足だ」
 …はい?
「実はムーン、北海道に来る前も仕事が立て込んでて、もう何日も寝てなかったんだ。そして来る途中の飛行機でも殺人事件、そのまま徹夜で捜査。その後も事後処理でずっと忙しかったからね。疲れがピークに達したんだよ」
「そんな…。だったらこんな宴会なんか参加させずにホテルで休ませればよかったじゃない。あんたわかってたんなら…!」
 怒りをあらわにするあたし。カイカンくんはムーンちゃんの寝顔を見ながら言った。
「無理しなくていいなんて言ったら…余計に無理する奴なんだよ」
 …ド変人のくせにいっちょ前に優しい上司の顔しやがって。見るとムーンちゃんも気持ち良さそうにスヤスヤ寝息を立ててる。この子も…意識の限界まで真剣に先輩の話を聞き続けるなんてどういう根性してんだか。まったくもう、美人なら美人らしくしてればいいのに。
「ウフフッ」
 あたしはなんだかおかしくなって笑いをこぼした。
「フフフ、じゃあちょうど話も終わったとこだしお開きにしましょうか」
「ごちそう様でした、北海道警さん」
 カイカンくんもそっと微笑む。
「それでムーンはどうしようか」
「触らないで、あたしがタクシーでホテルまで運ぶわ」
「重ね重ねすまんね」
 こうして刑事たちのささやかな宴は幕を下ろした。

 札幌一番の老舗ホテルの大きなベッドに眠れる姫君を横たえる。瞳を閉じているその顔も文句なしの美しさ。着替えさせるために首から下も少々拝見したけど、まあこの子の名誉のためにコメントは差し控えよう。
 エレベーターでロビーラウンジに下りると、一流ホテルに明らかにそぐわない格好の男がソファであたしを待っていた。時刻はもう午後11時を回ってる。周囲に他の客の姿はなくて、中央に設置された屋内噴水のせせらぎと微かに流れるクラシック音楽だけが薄暗い空間に聞こえていた。
「ありがとう、ムーンは大丈夫だったかい?」
「お姫様はすっかり夢の中よ。カイカンくんこそ疲れてない?」
 そう言いながらソファの隣に腰を下ろす。
「法崎さんこそお疲れでしょ。じゃあ一緒に一服しますか」
「賛成」
 それぞれの嗜好品をコートのポケットから取り出す。もちろんこんな場所でマナー違反のニコチン摂取をするつもりはない。カイカンくんが口にくわえたのはおしゃぶり昆布、あたしがくわえたのは北海道限定販売のスナック菓子。
「フフフ…変わらないね、君も」
「お互い様でしょ」
 その言葉を最後に二人とも黙り込む。気付くとカイカンくんは右手の人差し指を立ててそこに長い前髪をクルクル巻き付けてる。確かこれ…推理をしてる時の癖だっけ。
 今こいつはいったい何を考えてるんだろう。ムーンちゃんのこと? それともさっきあたしが話した事件のこと?
 あれから月日が流れたけどれんが通りで起きた殺人事件は未だに解決を見ていない。来年の2月で事件発生から丸十年。これから新しい証拠や証言が出る可能性は残念だけどあまり期待できない。未解決のまま…迷宮入りしちゃうのかな。
 と、そこでカイカンくんの携帯電話が振動した。人差し指の動きを止めると電話を取り出して耳に当てる。
「あ、カイカンです。夜分にすいませんでした。それで、どうでしたか?」
 小声で少しだけ会話して通話は終わる。電話をポケットに戻したカイカンくんに尋ねてみた。
「仕事の電話?」
「いや、実は…」
 少し座り直してから低い声が続けた。
「実はね、私の上司でビンさんっていう生き字引みたいな人がいるんだけど、その人にちょっと調べてもらってたんだ。法崎さんの後輩が遭遇したっていうれんが通りの事件に関連して」
「それで?」
 私はにわかに緊張する。まさか…。
「確認したかったのは一つだけだよ」
「何を確認したの?」
 まさかまさか…。胸が早鐘を撃ち始める。
「れんが通りの植え込みについてさ。確か道の真ん中に中央分離帯みたいに並んでたんだよね? 1メートルくらいの高さの植え込みが」
「そうだけど、それがどうかした?」
 手が汗ばんでくる。激しい鼓動が全身に響き渡る。
 まさかまさかまさか…こいつはあの事件まで解き明かしてしまうの? 話をちょっと聞いただけで? この十年間誰も気付かなかったことに気が付いたっていうの?
 息を呑む。前髪に隠されていないカイカンくんの左目があたしの目をじっと捉えた。
「あの植え込みは…イミテイションだそうだよ」
 …え?
「イミテイション、つまり本物の植物じゃなくて作り物の緑ってことさ」
 何を言ってるのかわかんない。ただ喉から手が出るほどその先の言葉があたしは欲しい。こっちの返事がないのを確認してから、低い声は静かに告げた。
「だとすると…犯人は特定できる」
 あたしの口からスナックが落ちる。そしておしゃぶり昆布はカイカンくんの口に呑み込まれた。

★読者への挑戦状

 法崎さくらの話を聞いてカイカンは十年前の事件の真相にたどり着きました。謎を解くヒントは犯人が写った一枚の写真。小説なのでその写真の画像はお見せできませんが、犯人の正体を示すヒントはしっかり描写してあります。
 はたして犯人は? 不器用な恋の行方は? 想像を膨らませながら解決編をお楽しみいただけたら嬉しいです。以下に事件関係者を列挙しておきますので推理の参考にしてみてください。

殺害された被害者:
 小澤
遺体の第一発見者:
 水原
取り調べを受けた重要容疑者:
 浅岡、池森、上杉
現場近くの出版社の社員:
 川島、愛内
警察関係者:
 大関、栗林、織田