第五章 傷心チェリーブロッサム

「おいどうした、期待の星」
 出版社から上智署へ戻る車中、後部座席の彼女に助手席の栗林が振り返った。
「顔が真っ青だぞ、気分でも悪いのか?」
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと写真にびっくりしちゃって」
「まあ確かにな、ついに犯人の姿がお目見えしたわけだ。織田、お前の手柄だぞ」
 栗林は前に向き直って今度は運転席の後輩を見る。
「いえいえ先輩、たまたまっす。たまたま聞き込みしてたらタウン誌の話聞いて。でもラッキーでしたね」
「こりゃ神様も味方してるってことだ。絶対迷宮入りにはさせねえからな!」
「了解っす!」
 意気込む刑事二人の背中を前に、彼女はまだ動揺してた。頭の中でずっと不安のサイレンがけたたましく回転し続けている。
 どうして彼があの女の子と、あたしと待ち合わせの前にれんが通りを歩いてたの?
 偶然会ったとか? でも二人が向かってた方向は駅とは逆。女の子は店に出勤かもしれないけど彼はどうして? しかもあんなに寄り添って…。
 全身から沁み出す嫌な汗。胸が痛い、心臓をえぐられてるみたい。
 彼はあの子のこと、大学の後輩って言ってた。でも本当にそれだけ? 若くて可愛い子だったよ。彼に恋人がいないって確認したわけじゃないけど、でも、でも…あの日、あたしとの初デートだって言ってくれたよね?
 携帯電話を開いて彼からのメールを読み返す。『池袋デート了解』…『池袋デート了解』…。
 ねえ、どうしてなの?

 署に戻った栗林と織田は忙しそうに動き回っていた。彼女は邪魔にならないように部屋の隅で待機。一人でぼんやりしてたらあっという間に三時間が経過して、気付けば捜査会議が始まる雰囲気。そうだ、しっかりしなきゃ…なんとか気持ちを奮い立たせると彼女も研修生として参加した。
 会議室に集う本庁捜査員と所轄捜査員。まずは本庁組が捜査の進捗状況を報告。
「ご苦労。では次、所轄からの報告を!」
 正面の席で警視庁の管理官が声を張り上げる。なんだかテレビドラマで見たような感じ。
「はい!」
 間髪入れずに手が上がる。選手宣誓みたいな勢いで起立したのは織田だった。
「こちらをご覧ください」
 スポーツ刈りの刑事は壁際のパソコンを操作して正面のプロジェクターに大きく画像を表示する。
「これは事件当日の午前9時31分に撮影された写真です。撮影したのは現場の向かいの建物の3階に入っている出版社の社員です。写真の右上に注目してください。ここです。ここに現場のビルから出てくる不審な人物が写り込んでいます。犯行推定時刻は同日の午前8時から正午までの間ですから、それも一致します」
 室内の視線が集まる。彼女も注目した…けど、どうしても左下の寄り添って歩く二人に目が引き寄せられてしまう。胸の奥がまた痛んだ。
「鑑識の分析では、この人物は身長160から165センチ程度。ニット帽にマスクとサングラスで顔を隠しているので男か女かははっきりしません」
「男にしては小柄だな。容疑者の中に160から165センチの奴はいたのか?」
 管理官が乱暴に尋ねる。織田が頷いた。
「一人いました、池森という男が身長160センチです。しかし彼は100キロを超える巨漢です。写真の人物はコートを着ているのでボディラインははっきりしませんが、少なくとも池森の体系ではありません」
「他の容疑者の身長はどうなんだ?」
「浅岡は190センチに届く長身なので明らかに違います。上杉は170センチなので少し写真の人物より高いですね」
 それを聞きながら彼女も取調室で見た三人の姿を思い出す。
「ならこの写真の人物は事件と無関係なんじゃないか?」
「いえ、それはありません」
 立ち上がって答えたのは栗林だった。
「織田、写真を拡大して見せてくれ。そう、そいつが右手に提げてる紙袋だ」
 織田がキーボードを叩くとカメラがぐっと紙袋に寄る。
「ご覧ください。赤い染みがいくつかついています。鑑識に寄ればこれは血液の可能性が高いそうです。また被害者の愛人の水原という女にも写真を見せて確認しましたが、この紙袋は現場のオフィスにあった物に間違いないそうです。中身はわからないそうですが、被害者のデスク脇の床に置いてあったと。そして、被害者の血液はその辺りまで飛び散っていました。
 つまり、写真の人物は血の海の部屋から紙袋を持ち出したことになります。犯人以外には有り得ません」
 管理官が腕組みして唸る。捜査員たちのどよめきも室内に充満し始めた。
「犯人は被害者の財布とライターも奪ったんだったな。わざわざそれらを持ち去るために紙袋を使ったとは考えにくいな」
「はい管理官。財布とライターならコートのポケットに入れて持ち去れます。凶器のナイフも同様です」
「他にオフィスから盗まれた物もないんだろ、じゃあ紙袋の中身は何なんだ? 貴重品か?」
「わかりません。水原も写真を見せたらそういえばそんな紙袋があったとようやく思い出した感じでした。無造作に床に置いてあったそうですから、まさか札束が入っていたとも思えません。ちなみにこの紙袋は新宿通りにある靴屋の物です」
「じゃあ買った靴が入っていたんじゃないのか?」
「かもしれません。ただオフィスにはちゃんと靴箱もあり、被害者の靴は全てそこに入っていました」
 管理官はまた唸った。栗林はそこで視点を変える。
「被害者は胸を刺されていますから犯人は返り血を浴びたはずです。写真ではコートに血が付着しているようには見えません。もしかしたら犯行の時はコートを脱ぎ、返り血を浴びた服を隠すために上からコートを着て逃げたのかもしれません。いずれにせよ、この写真の人物を犯人と考えてよいと思います」
 その後も本庁の捜査員からいくつかの質問が挙がり栗林が答えていく。それを聞きながら彼女も考える。
 取り調べた三人の容疑者はみんな写真の人物と体型が一致しない。となると三人以外の真犯人が存在するのかな? いや、待って、もしかしたら…。
 彼女はふと一つの可能性に思い当たる。でも…研修中の身で捜査会議で発言するのはさすがに気が引けた。ためらいがちに正面を見ると、立って熱弁する栗林と目が合った。
「どうした、何かあるなら発言してくれ。君も捜査に参加してるんだ」
 途端に彼女に視線が集まる。一瞬躊躇したけど、注目されて黙ってるのも逆につらい。もういいや、言っちゃえ! 持ち前の無鉄砲さで研修生は腰を上げた。
「恐縮ですが」
 一礼してすぐに本題に入る。
「その写真の人物が被害者の小澤という可能性はないのでしょうか? 刺された後、被害者本人が何らかの理由で紙袋を持ち出したのかもしれません」
 ふっと静まり返る室内。やがてじわじわとざわめきが込み上げてきて、ついにはいくつかの嘲笑も混じり出す。
「笑うな!」
 栗林が一喝。
「いい着眼点じゃねえか。確かにその可能性もなくはない。織田、殺された小澤の背丈は?」
 捜査資料で確認して後輩刑事が答える。
「165センチです。確かに写真の人物と一致します」
 今度は室内に感嘆の息が漏れる。
「ただ…被害者は胸部を刺されほぼ即死です。たとえ余力があっても出血は大量ですから、その状態で歩けば現場のオフィスからビルの出口までの間に必ず血痕が残ったはずです。血の海を踏んだ足跡だって残るはずです。でもそんな痕跡はどこにもありませんでした」
 申し訳なさそうに言う織田。室内にもやっぱりなという空気が広がる。彼女は小さくなって頭を下げるしかなかった。
「失礼しました、すみません」
「いや、ありがとう。どんな可能性でも考えてみなくてはな」
 栗林が彼女に歩み寄る。
「お前らも彼女を見習ってどんどん意見を出せ! せっかく本庁の皆さんがいらっしゃってるんだ、研修生に負けてる場合じゃねえぞ!」
「はい!」
 所轄捜査員たちの声が合わさる。そしてそれが合図だったみたいに、その後は盛んなディスカッションが行なわれていった。着席した彼女はそれを聞きながら、経験の差、基礎知識の不足、自分の未熟さを思い知るばかりだった。

 その日の夜、寮の部屋に帰った彼女は着替えもせずにだらしなくベッドに体を投げ出した。そしてしばらく迷った後、どうしても気になって彼にメールした。
『お疲れ様。ところでこの前一緒に行ったれんが通りで殺人事件があったの知ってる? あそこにはよく行くんでしょ?』
 本当はウエイトレスの女の子のことを訊きたかったけどそんな勇気はなかった。
 三十分ほどして彼からの返信。
『ニュースで聞いて驚いたよ。まさかれんが通りで殺人事件なんてな。俺も学生の頃はよく行ってたけど最近は行ってなかったから。君と歩いたのが本当に久しぶりだった。
 警察って危ない仕事もあるんだろ? 気を付けろよ』
 これまでの彼女だったら自分の身を案じてくれる彼の言葉に都合のいい拡大解釈をして天にも昇っていただろう。嬉しくてじっとしていられなかっただろう。だけど一度心に芽生えてしまった疑念は別の箇所を気にさせる。
 …『最近は行ってなかった』? 『君と歩いたのが本当に久しぶりだった』?
 嘘、あたしと歩く少し前にあの子と一緒に歩いてたじゃない!ねえどうして? どうして嘘をつくの?
 結局それ以上のメールは続かず、彼女は携帯電話を放り出した。

 翌日もまた彼女は上智署に呼ばれた。前日の捜査会議での発言が栗林はいたくお気に召したらしい。
「さすが大関の弟子だ、いい根性してるぜ」
 そう笑う栗林の隣で織田も頷く。
「先輩が人を褒めるなんて珍しいんすよ。こりゃもう将来は刑事決定っすね。ぜひうちの署に来てください」
「そうなったらお前はお役御免だな、織田」
「そりゃないっすよ先輩、こんなに尽くしてるのに」
 二人の楽しいやりとりに合わせて彼女も一応笑顔を作った…けど、やっぱり頭の中はモヤモヤしたまま。昨夜も結局ほとんど眠れていなかった。
「どうした期待の星、疲れてんのか?」
 そんな様子に栗林が気付く。彼女は「あ、いえ、大丈夫です」と取り繕って、そして朝から考えてたことを思い切ってお願いしてみた。
「あの、もしよろしければ、出版社から預かった写真のデータ、貸していただけませんか?」
 二人の刑事は怪訝な顔。
「その、あたし気になっちゃって…じっくり調べてみたいんです。ほら、もしかしたら何か思い出すかもしれませんし、別の日の写真に現場を下見に来る犯人の姿が写ってるかもしれませんし。だから…」
 栗林はまたニヤリと笑う。
「いい着眼点だぜ。おい織田、ボサッとしてねえでコピーを用意してやれ」
「了解っす!」
 慣れた手付きでパソコンを操作すると織田は一枚のディスクを手渡してくれた。
「はいこれ。真犯人を見つけてくださいね」
「いえそんな、恐縮です。ありがとうございます」
 大切にポケットにしまうと彼女はガッツポーズで元気をアピールする。
「新米ですけどやる気だけはありますから。あたし、今日は何をお手伝いすればいいんですか?」
「おっと、まだそれを言ってなかったな。実は今からもう一度水原を取り調べるんだ。あの写真の奴が犯人なら、三人の容疑者とは体型が一致しねえからな。他にも小澤を恨んでた奴がいないか訊きだすんだ」
 厳しい声で栗林が言う。
「君も今度はマジックミラーで覗くんじゃなくて、一緒に取り調べに同席してくれ。気になることがあったらその場で発言するんだ。もちろん直接水原に尋ねてくれてもいい。ためらわなくていいからな」
「あたしにそんなこと…」
「俺の勘だと君が事件解決のキーパーソンだ。頼むぜ、期待の星!」
 栗林は彼女の両肩をバンと叩いた。
「先輩、それセクハラっすよ」
「馬鹿野郎、勤務中に男も女もあるかってんだ。お前はさっさと取り調べの準備してこい」
 そんな調子で彼女は取調室へ案内された。

 彼女は栗林と並んで座り、机の対面に織田に連れられてきた水原が腰を下ろした。本業はホステスってことだったけど今は落ち着いた服装でメイクも控え目、泣き腫らした目が痛々しい。度重なる取り調べで憔悴してるみたいだった。
「何度もご足労いただいてすいませんね、水原さん」
 栗林がすぐに始める。
「事件解決のためにご協力ください。あなたには確固たるアリバイがある、我々はけしてあなたを疑っているわけではありませんのでその点はご安心ください」
「はい…」
 力なく答える水原。栗林は浅岡・池森・上杉以外に小澤を恨んでる人間がいないかを質問していく。返答する水原の表情を彼女はじっと観察した。
 先ほど部屋に入ってきた時に確認したけど、水原の身長は160センチほど。女としては平均的。それに比べたら出版社の女子社員は小さかったな、150センチそこそこしかなかった…と重要な証拠写真を撮影してくれた川島のことを思い出す。
 あの写真から推定される犯人の背丈は160から165センチ。今目の前にいる水原もそれに合致するけど鉄壁のアリバイがある。複数の友人と一緒にいて裏も取れてるからこれは切り崩しようがない。
 アリバイのない浅岡・池森・上杉は体系が異なる。体系が一致する水原にはアリバイがある。どういうことなんだろう。やっぱり真犯人は別に存在するの?
 そこで栗林は改めて紙袋のことも尋ねた。
「オフィスのデスク脇の床に置いてあったんですよね? 中身は何だったんでしょうか」
「わかりません。靴屋さんの袋でしたけど…中身は靴じゃなかったのかもしれません。思い当たりません」
「小澤さんは悪いことをしてお金を稼いでいたそうですね。それに関する物とは考えられませんか? 例えばせしめたお金とか、恐喝のネタとか」
「そういうのは…全部金庫に入れてたと思います」
 水原の目じりに涙が浮かんだ。ハンカチを目に当ててむせび泣く水原を見ながら彼女は考える。これは…本物の涙? それとも演技?
 やがて栗林も言葉を止める。そして気付くとこっちを見てる。何か言いたいことがあれば言え、という目だ。頷いてから彼女は口を開いた。
「水原さん、一つ教えてください。あなたは2月15日の早朝、スナックの仕事の後で現場のオフィスへ行って遺体を発見したんですよね。小澤さんに電話をかけても出てくれなかったから直接会いに行ったと伺いました」
 水原はハンカチを顔から離して小さく頷く。
「何か急いで会いたい理由があったんですか? 小澤さんは熟睡してるのかもしれない、また後で電話してみようとは思わなかったんですか?」
「だって…」
 言いかけて言葉が止まる。栗林が「お答えください」と促した。
「だって、早く渡したかったから…バレンタインチョコ」
 凄惨な殺人事件の取り調べでなんとも可愛い答えが返された。
「14日の午前中は友達と遊んでて、昼過ぎに解散した後でチョコレートを買いました。本当はその日の夜にサプライズで渡しに行こうかと思ってたんです。でも、店長から欠員が出て出勤してほしいって言われて…しょうがなくお店に出て日付が変わっちゃった。だからどうしても朝一番で小澤さんに渡したかったんです」
 その瞬間、大粒の涙が水原の頬を伝う。彼女はそれを見て自分を恥じた。父親くらいの年齢の男の愛人をしてる女なんてどうせ金目当てだろうとどこかで決め付けていた自分を恥じた。
「本命のチョコだもん…わかりますよね?」
 水原が同意を求めてくる。別に深い意味があって彼女を選んだわけじゃないだろう。室内で他に女性がいなかっただけ。それでも彼女は胸の真ん中を撃ち抜かれたような気がした。どうしてもその日のうちにバレンタインチョコを渡したい気持ち、それが渡せなかった時の気持ち…自分も十年前に味わっている。そして自分は十年越しにそれを叶えることができたけど、水原はもう一生その機会を失ってしまったんだ。
「あの…」
 問い掛けには答えずに彼女は尋ねた。
「あなたはどうしてそこまで小澤さんのことを? 小澤さんが悪いことをたくさんしていたのはご存じなんですよね。それなのに」
「確かに悪い人です。今頃きっと地獄にいるでしょうね。けど…」
 ぐずつきながら水原は少しだけ微笑む。
「でも、優しいとこや可愛いとこもあったから。私の働いてる店に初めて来た時も、あの人、実はカツラをかぶって服に肩パットまで入れてたんですよ。自分の見た目にコンプレックスがあったみたい。まあバレバレだったんですけど、そこがなんだか可愛くて。お店の外でも会うようになったら、初めて女性にもてたよなんて言ってました。
 悪いことをしてる人だって知ったのは…交際するようになってからです」
 小澤に暴利を請求された浅岡は婚約してた。ゆすられた池森は大富豪の娘を妻にしてた。騙された上杉は女受けする整った容姿をしてた。小澤が彼らを標的にしたのも、もしかしたら自分に男としてのコンプレックスがあったせいなのかもしれない。彼女はそんなことを想像しながら尋ねた。
「それでもおつき合いを続けたんですか?」
「はい、好きで下」
 躊躇なく言い切る…それを目の当たりにして彼女は膝が震えた。本当の姿を知っても変わらず好きでいられた? 自分だったらどうだろう。彼が嘘をついてたとしても…好きでいられるだろうか。
「誰にだって後ろ暗いことはあります、隠しておきたいことはありますよ。それをひっくるめて受け入れるのが…愛するということです。私はあの人を愛してました」
 最後に水原は胸を張って言葉を放った。
「みなさん、私を愛人だと思ってますよね。でもそれは違います。小澤さんは独身ですから、私はれっきとした恋人です」
 この取り調べは警察の完敗だった。

 上智署からの帰り道、車で送るよと織田は言ってくれたけど彼女はやんわり断わった。結局新たな容疑者は浮かび上がらず捜査は足踏み状態。そんな時に手をわずらわせたくなかったし、今日はこのまま上がっていいと大関からも言われてる、急いで戻る必要もなかった。それに少し歩きたい気分だったから。
 四ツ谷の町を夕陽に向かって進む。大きな教会があって屋根の十字架が西日を受けてきらきら光ってる。彼女はポケットの上からそこに入っているディスクに触れた。
 借りてきてしまった…。事件の捜査のためなんて言いながら、本当は彼のことが気になったから。写真をじっくり見れば彼とあの女の子のことが何かわかるかもしれない、そう思って。
 やがて新宿御苑が見えてきた。といっても御苑前署はまだまだ遠い。あの広大な公園はこんな所まで敷地を展開してるんだ。しかもここにも入園口があるじゃないか。彼女はそのままお金を払って園内に入る。
 いつか大関が教えてくれたとおり、緑の野原、並木道、林などとても一日では散策できそうもない巨大な公園だった。寄り添って歩く恋人たちや老夫婦と時々すれ違う。その度に胸の奥がまた鈍く痛んだ。
 どうしても考えてしまう。彼のこと、そして寄り添って歩いてたあの子のこと。二人はどんな関係なんだろう。どうしてあたしと会う前に彼はあの子とれんが通りを歩いてたんだろう。どれだけ考えても答えが出ない。ねえ、何を隠してるの?
 …「誰にだって後ろ暗いことはあります、隠しておきたいことはありますよ」。
 取り調べでの水原の言葉が蘇る。水原は微笑みながら確かに言った。
 …「それをひっくるめて受け入れるのが…愛するということです」。
 受け入れる、か…そうだよね。あたしは彼の全てを知ってるわけじゃない、むしろまだまだ知らないことだらけ。あの女の子のことだって本当にただの後輩なのかもしれない。たまたま寄り添って歩いてるように写真に写っただけかもしれない。もし本当にあの子が彼の恋人だったとしても、それであたしが怒ったりいじけたりするのは自分勝手だ。
「そう…そうだよ」
 ポツリと呟く。自分だって彼に全てを見せてるわけじゃない。学生時代には男の子とお食事やお泊りだってした。一途にずっと愛していましたなんていえるような綺麗な自分じゃない。
 ふと足を止める。気付けば桜並木に差しかかってた。もちろんまだ花は咲いてないけど、もし満開になったらそれはそれは美しい景色になるんだろう。
 疑ってどうする。今自分が彼を好きなのは間違いないんだ。ちゃんと咲くかどうかわかんない恋だけど、3月14日は一番素敵な笑顔で会いにいかなくちゃ。
 やっぱり歩いてよかったな。足取りと一緒に気持ちも軽くなったみたい。やがて見慣れた出口が近付いてくる。くぐるとそこはもう御苑前署の目の前。
「では、今日はこれでお疲れ様にしますか」
 軽口な独り言。彼女はふとショーウインドウに映った自分を見る。そういえば制服姿だった。つまり婦人警官の格好のまま新宿御苑を抜けてきちゃったわけだ。別にいけないことじゃないけどやっぱりちょっと恥ずかしい。
 映った自分と照れ笑いした瞬間、どこかでガシャンと激しくガラスが割れる音がした。彼女は反射的に振り返る。視界の中には特に異常を伝える者はなかったけど、すぐにまたガシャンと大きな音、そこに複数の悲鳴もかぶさった。これはただ事じゃない。
 裏の路地だ! そう直感して彼女は駆けだす。角を曲がると今度は視界に一気に飛び込んでくる異様な光景。何たること…バイクヘルメットをかぶった男が屋外駐車場にいて、そこからビルの1階の窓ガラスを金属バットで次々に叩き割ってる。室内は会社のオフィスみたいで社員たちは悲鳴を上げながら奥の壁際に避難してる。辺りは騒然としてて、サラリーマン風の通行人数名が遠巻きに男の凶行を見ながら佇んでいた。
 恐怖におののいて当然だ。ヘルメットの男の行動は常軌を逸してる。力任せにバットを窓ガラスに叩きつけ、何か叫んでるけど全く聞き取れない。一枚、また一枚と窓ガラスを叩き割り、その度に悲痛な音と共に砕けた破片が駐車場にも飛び散ってる。
 ブローバック現象…警察学校の授業で学んだ知識を思い出す。ガラスには弾力があって、仮に外からの力で割れたとしても破片は室内だけでなく外側へも飛び散るのだ。最悪なことにそのビルの1階には窓がまだまだ並んでいる。
 その場の何人かがこっちを見た。そう、警察官の制服を着た人間がここにいる。当然期待せずにはいられない。彼女もすぐにそのことに気付く。町の人たちを守るのが警察官の使命。北海道の交番でも何度も痴漢や引ったくりと格闘してきた。投げ技や関節技はそれなりに習得してるし、幸い男はこっちに背を向けてる。バットを振り回されたら厄介だけど、バットがガラスに当たったタイミングで後ろから技をかければ制圧できる可能性が高い。それならやるべきことはただ一つ。なのに…。
 一歩も動けなかった。見えない力で抑えつけられたみたいに足が地面に張り付いて離れない。早くあいつを止めなきゃ、頭ではそうわかってるのに体が全く動かない。男がまたガラスに狙いをつけてバットを振りかぶる。室内からは悲鳴が上がる。

 次の瞬間、強い風が吹き抜けた。いや風じゃない、人だ。その人物は彼女の横を通り過ぎると男に向かって疾走していく。そして男がバットを窓に撃ちこんだ瞬間、後ろから羽交い絞めにすると、さらに右腕を捻じってバットを手から落とさせた。男は獣のように絶叫したけど、バットを放したことで通行人たちも一気に男に飛びかかる。彼女もようやく金縛りが解け、その奮闘する人だかりに向かった。
「みなさん、落ち着いてください、もう大丈夫ですから!」
 最初に男を抑えた人物が声を張り上げた。彼女はそこでようやくそれが誰だったのかを知る。それは大関、私服姿なのを見ると退勤の途中だったらしい。
「大関さん!」
 呼び掛けると、先輩は厳しい眼差しで彼女を見返す。
「何やってるの、手錠よ! 早く逮捕しなさい!」
「は、はい!」
 男性たちに組み伏せられたヘルメットの男の両手に鉄の輪っかを掛ける。すると大関はすかさず腕時計を見て告げた。
「午後5時13分、器物破損と傷害の現行犯で逮捕します」
 その言葉に恐れ入ったのか、それともちょうどそこで気力が尽きたのか、男は地面に伏したままおとなしくなった。ようやくほっとして先輩を見るとその左ほほには一本の細い切り傷、そこから血液が滲み出ている。
「怪我してますよ、大丈夫ですか大関さん?」
 彼女は思わず尋ねた。しかし先輩は彼女と目を合わさず唇を咬むと、ただ一言「早く署に連絡しなさい」とだけ指示した。

 その後駆け付けたパトカーに男は連行された。彼女と大関も一緒に署に戻って状況を説明。調べによると男は窓ガラスを破壊した会社の元社員で、社内での暴力行為で解雇されたにも関わらず逆恨みしてあの凶行に及んだらしい。尿検査で違法薬物の反応も出た為、今後そちらの方面でも捜査を進めるとのことだった。

 翌日からの彼女はもう上智署に呼ばれることもなく、御苑前署の大関のもとで本来の研修プログラムが再開された。大関は左頬にガーゼを当てていたけど変わらず優しく、そして厳しく指導してくれた。先日の彼女の不甲斐なさを責めることもなかったけど、彼女にはそれが逆に心苦しく、せめて精一杯大関の指導に応えようと奮戦した。

 そして短い2月が終わって3月に入る。世間では卒業式のシーズン、テレビからも頻繁に桜前線の話題が流れるようになった。
 そんな終末の勤務後、職場に残って彼女は例のディスクをチェックすることにした。もう彼のことは疑わないってそう心に決めたけど、栗林に約束した手前、何もしないわけにはいかなかった。
 そうだ、これは殺人事件の捜査、けして彼のことを調べるためじゃない。自分に言い聞かせながら彼女はディスクをパソコンに挿入した。
 写真は一ヶ月で約30枚。撮影の日時はランダムだけど写ってる風景は共通で全てあの出版社の窓から撮影された物。四季折々、朝・昼・夕暮れ、晴れの日・雨の日・雪の日と様々な設定でれんが通りを行き交う人たちが写ってる。
 まずは問題の一枚を画面に表示する。事件当日、2月14日の午前9時31分の写真に写るマスクとサングラスの犯人。この人物と同一の人間が別の日の写真にも写っていないかを確認していく。データは一年分なので300枚以上をチェックしなくちゃいけなかったけど、一枚一枚隅から隅まで視線を走らせていった。
 結果から言うと犯人らしき人間はいなかった…というより、似た背格好の人間なんていくらでもいてそこから同一人物だって特定するのは無理だった。彼女の見る限り300枚の写真に複数回同じ人物が登場してることはなかった…たった二人を除いて。
 彼女は気付いてしまう。昨年末から今年の2月にかけて彼の姿は問題の写真を含めて三回も登場していたのだ。しかも全てあのウエイトレスの女の子と一緒、二人でぴったり寄り添って歩いていた。
「何よ…これ…」
 お腹の底から不快感が込み上げて彼女はわなわなと唇を振るわせる。最初は彼が事件に関係してるのかと恐ろしい疑惑が過ぎった。でも冷静に考えれば、2月14日の問題の写真で彼はビルから出てくる犯人とは別に写ってる。馬鹿ね、彼が犯人なわけないじゃない。
 つまり時間を費やして判明したのは、彼があの女の子と頻繁にれんが通りを歩いてたっていう警察にとってはどうでもいい、でも彼女個人にとってはとんでもない事実だけ。
 疑わないって決めた。受け入れなきゃって反省した。でも、でも、れんが通りには最近行ってなかったっていう彼の言葉はやっぱり真っ赤な嘘だった。行ってないどころかしょっちゅう行ってるじゃないのよ! しかもいつもあの子と一緒に!
 自分勝手なのはわかってる。彼とは別に愛を誓ったわけでも将来を約束したわけでも何でもない。十年ぶりに再会してたった一回食事しただけ、ただそれだけの関係。
 でも…! あの笑顔は? あの優しさは? チョコレートを受け取ってくれたのは? 初デートだって言ってくれたのは?
 全部あたしの勘違いだったのかな、彼も同じ気持ちでいてくれてるなんて…。そういえばチョコレートを差し出した時も彼はしばらく受け取ってくれなかった。やっぱり迷惑だったんだ。無理して受け取ったんだ。
 そりゃそうよね。少女漫画じゃあるまいし、中学の時からずっと両想いなんてあるはずないもん。馬鹿みたい、ほんと馬鹿みたい。早く夢から覚めなきゃ。
 彼女は何度も何度も両手で頬をピシャリと叩く。壁の時計はもう午前3時。涙が滲みそうになるのをこらえて立ち上がると、給湯室の水道で顔を洗う。廊下で当直の署員と会い、「研修生なのに夜中までお疲れ様」と労われる。バツ悪く会釈して彼女はデスクに戻った。
「何やってんだか…」
 脱力した口元からそんな言葉が漏れる。しばらくぼんやりしてから、もう一度2月14日の問題の写真を画面に表示。現場のビルから出てくる犯人、れんが通りを行き交う人たち、そして彼とあの子が寄り添って歩いてる姿。変な写真だ。色々な要素が入り混じってるせいか、他の写真と比べて全体的にどこか奇妙な違和感がある一枚。
「これは…カップルだよね、どう見ても」
 今度は自嘲的に呟く。もしかしたら二人でからかうためにわざとあの子が働いてる店にあたしを連れて行ったのかもしれないな。
 …嫌な女だ。意地の悪い想像ばかりが膨らむ。二人から視線を逸らすと写真の中央、れんが通りの植え込みの後ろに白い何かが頭を覗かせてるのに気付いた。
 あれ? これって何だろう。他の写真を数枚確認してみたけど同じ位置を見てもそれは写ってない。不思議だ…問題の写真にだけ写ってるこれはいったい何?
 本来はどうでもいいことだった。でも彼のことを考えないようにするための紛らしとして彼女はその不毛な確認作業に没頭した。改めて300枚の写真をざっとチェックしたけど、やっぱりその物体が写ってるのは問題の写真だけだった。
 まさか事件と何か関係が? 彼女はパソコンを操作してそれを拡大する。そしてれんが通りを歩いた時の自分の記憶と照合した。
 れんが通りの真ん中、中央分離帯のように並ぶ高さ1メートルくらいの緑の植え込み。その脇にある白い物体。何これ…この形は…。
 耳?
 そこで全てがわかる。それはゾウさんのオブジェの耳だった。そういえばれんが通りには動物の白いオブジェがいくつか置かれてたっけ。

「ええと、あれはライオンかな?」
「よく見なって、ゾウさんだよ」

 彼と交わした会話が蘇る。気を紛らせるつもりだったのに結局彼女は思い出に引きずり込まれてしまった。オブジェは地面に固定されてるからずっとそこにあったはず。問題の写真にだけ植え込みの後ろにちょっと写ったのは、きっと植え込みが刈り揃えられて他の日より背丈が短くなってたからだろう。
 …わかってみれば何てことない答え。真実なんてそんなもんだ。彼の気持ちも…きっとそんなもんだろう、と彼女は思うしかなかった。

 3月14日まであと一週間。迷ったけど、彼女は一応予約してた美容エステで施術を受けた。そしてその帰り道、なんとなく彼と行く予定の池袋のレストランに寄ってみた。もちろん中には入らずに遠くから眺めるだけ。
 どうしようかな。あんなに嬉しかったデートの約束なのに、今はもう何だかよくわかんないや。どうして余計なことを知っちゃったんだろう。これ以上彼に近付いても、傷付くだけなんじゃないのかな。
 それでも恋する女とは愚かなものだ。問題の写真で何度も確認したはずなのに、まだ彼女は心のどこかでもしかしたらっていう淡い期待を捨てられずにいた。
「やっぱりもう一度…会ってみようかな」
 無意識に呟いてそう思いかけた時、最後のダメ押しが起こる。神様はやっぱり意地悪だ。店の前にタクシーが停車、二人の男女が降りてきたのだ。それは彼と女の子…あのウエイトレスの女の子だった。二人は手を繋いでいる。そして身を寄せながら一緒に店の中へと入っていった。
 気が付けば彼女は駆け出していた。池袋の人ごみの中を、誰よりも速く走っていた。中学生の時に図書館からチョコレートを買いに走ったあの時よりもっともっと速いスピードで。少しでもその場を離れたくて仕方がなかった。
 涙で顔もグチャグチャ、頭の中もグチャグチャ、髪の毛もお肌もグチャグチャでせっかくの美容エステも全部台無し。でもいい、それでいい、何もかもグチャグチャになってしまえ! 馬鹿、馬鹿、馬鹿!
 違ったんだ…あたしを好きじゃなかったんだ!
 それならそれでしょうがない。でも、だとしても、あたしと約束した店に他の女の子と先に行くことないじゃん!
 馬鹿、馬鹿、馬鹿…!

 正直どうやって帰ったのかもよく憶えてない。寮の部屋のベッドで毛布にくるまって彼女は叫んだ、わめいた、泣いた。もう怒りなのか悲しみなのかわかんない。でもとにかく全てが嫌で嫌でたまらなかった。こんな思いをするんなら金輪際恋なんてしたくなかった。
 それでどのくらい時間が経っただろう。毛布から這い出ると窓の外はもう真っ暗になってた。そのまま泣き疲れて眠ってまた目が覚めて、翌朝彼女は彼にメールした。

『ごめんなさい、忙しくなって14日の日は行けません。それ以外の日も無理です。結局一回だけの再会だったけど楽しかったです。ありがとう。元気でね』

 その後の彼女は抜け殻のように日々を過ごした。かといって研修に身が入らなくなったわけじゃなく、むしろ仕事の修羅になったみたいに我武者羅に業務に当たった。そして新宿御苑にも満開の桜が咲き、やがてそれらも風に散り始めた頃、彼女は研修過程の全てをやり遂げて月末を迎えた。
 送別会では多くの署員が彼女を讃美してくれた。「すごい頑張りだったね。驚いたよ」「北海道に帰すのは惜しいなあ」「4月からもここで働かないかい?」…そんなお誘いを慎んで辞退し、彼女は北の大地へ戻ることを決めたのだった。

「すいません。あのディスク、何度もチェックしたんですけど…結局何もわかりませんでした」
 最終日。彼女は上智署の栗林に謝罪とお礼の電話をかけていた。
「お疲れさん、こっちも頑張ってるぜ。大丈夫、きっと真犯人を捕まえるさ。そのディスクはコピーだからそっちでしっかり処分してくれ」
「わかりました。色々ご指導いただいてありがとうございました」
「こっちこそいい刺激になった。織田が会えなくなるのが淋しいって泣いてるぜ」 
 栗林の後ろから「何言ってんすか!」と声がする。彼女はクスッと笑った。
「じゃあな、北海道でも頑張れよ、期待の星!」
 そんな激励の言葉で栗林の電話は切れた。受話器を置いた彼女は後ろに気配を感じて振り返る。そこには大関が立っていた。
「二か月間、お疲れ様」
「いえ大関さん、本当にお世話になりました」
 彼女は腰を上げ、恭しく頭を下げて笑顔を作った…けど、先輩はそれには応じてくれなかった。どこか残念そうな目でこっちを見てる。そしてこれまでで一番厳しい声で言った。
「最後に一つだけ…いい?」
「はい、何でしょう」
 彼女も真顔になってその雰囲気を感じ取る。
「言おうかどうか迷ったんだけど…あなたのために言っておくわ。ねえ、正直に答えてね」
 先輩は静かに問った。
「あなた、この二か月…真面目に研修してた?」
 じっと目を見てくる大関。二人だけの室内に無言の緊張が走る。彼女は観念する…この人に嘘はつけないと。
「すいません、仕事に集中できていない時が…ありました」
 大関は「そうね」と少し視線を逸らす。そしてそのまま言葉を続けた。
「あなたの職務態度は警察官としては不適切でした。勘違いしないでね、あなたは優秀よ。でもいくら優秀でも、警察官は職務に真摯な態度で臨まなくてはいけないの。
 あなたは浮かれていたり落ち込んで居たり…仕事よりも別のことに気持ちが行っている時がたくさんあった。それどころか…捜査資料を個人的な目的で使用したわね? 個人的な目的で栗林くんからディスクを借りたでしょ」
「ごめんなさい!」
 反射的に頭を下げる。大関は全てを見抜いていたのだ。
「頭を上げて。私も女だからわかるわ。もちろんプライベートは大切よ。警察官だからって幸せになるのを遠慮する必要はないし、職場で楽しいお喋りもしていいわ。でもね、でもね…事件捜査に当たっている時は絶対にいい加減な気持ちで臨んじゃダメなの。わかる?」
「はい…」
 何も言い返せるはずがない。全部そのとおりだ。喉の奥が熱くなって、じんじん痛んでくる。頭を下げてつぶった瞳からは涙が滲んできた。
「本当に…申し訳ありませんでした」
「どんなに全力で調べても迷宮入りする事件はたくさんあるの。どんなに救いたくても救ってあげられない命がたくさんあるの。何の罪もないのに家族を奪われて、犯人の名前さえわからないままで、無念な気持ちで一生を送ってる被害者遺族もいるのよ」
 大関もいつしか涙声になっていた。
「はい…はい…」
 それしかもう言葉が出ない。情けなさと申し訳なさで胸が絞め付けられる。
 あの時もそうだった。バットを振り回すヘルメットの男…あたしはその場に居合わせたのに何もしなかった。警察官だったのに、みんなを守らなきゃいけなかったのに、あたしは一歩も動けなかった。男が怖かったからじゃない。あたしは…飛び散るガラスの破片で顔に傷がつくのが嫌だった。綺麗な顔で…彼に会いたいと思ってしまった。そんなことで、そんなことであたしは職務を放棄して町の人たちを危険にさらしてしまったんだ!
 あたしは…最低だった。あたしは警察患者なかった。昔ラプンをかばった時の気持ち…あの正義感はどこへ行ってしまったんだろう。ぎゅっと目をつぶっても涙がたくさん溢れてくる。
「ほら、顔を上げて」
 大関がそっと肩に手を置いてくれる。それに導かれて頭をもたげるとそこには優しい先輩の顔があった。その左頬には美しい傷がまだうっすら残っている。
「ごめ…んなさ…」
 声を詰まらせる彼女を先輩はそっと抱きしめる。
「よかった…あなたならわかってくれると思ったわ。今の気持ちを忘れないでね」
「は、はい…」
「ほら、もう泣かないで。厳しいこと言ってごめんね。あなたは私の期待の星…これ、本心だから」
「ありが…」
 それから大関は落ち着くまでずっとそばにいてくれた。そしてまた栄養ドリンクを買ってきてくれて二人で飲んだ。

 こうして最後に一番大切なことを教わって、彼女の東京研修は終わったのである。