第四章 滅愛スクープショット

 彼女が事件の存在を知ったのは2月15日、初デートの翌日のことだった。といっても特に警察官特有のルートで情報を仕入れたわけじゃなく、その日の研修を終えて寮の部屋で着替えながらテレビのリモコンを押したらそれは飛び込んできたのだ。
「地元住民からはれんが通りの愛称で親しまれているこの遊歩道が、悲しみと恐怖に包まれることになりました」
 思わずシャツのボタンに掛けた指が止まる。
「現場は道沿いにあるこの古いビルの2階、ここにオフィスを構えて不動産業を営む男性が胸部を刃物で刺されて死亡しているのが発見されたのです」
 演出なのか、それとも本当に動揺してるのか、現場レポーターの声はわずかに震えていた。画面に目が釘付けになる…そこには昨日彼と歩いた緋色の道が映し出されていた。現場とされるビルの外観にも見覚えがある。レストラン『コロ』へ向かう途中、確かにそのビルの前を通っていた。
「警察は殺人事件と見て捜査を開始しましたが、今のところ犯人に関する有力な情報は入っておりません。また新しい情報が入り次第お伝え致します。以上、現場からでした」
 画面がスタジオに切り替わる。そして犯罪捜査に何の知識も経験もないゲスト連中が無責任な見解をいくつか述べ、メインキャスターはまとまらないまとめのコメントを放ってあっさり次のニュースへと話題を転換していった。
「…東京は物騒ね」
 誰にでもなく言ってから彼女はテレビを消す。そして手早く部屋着に着替えるとだらしなくベッドに転がって、帰り道にコンビニで買ったグルメガイドブックを開いた。
「さてさて、来月はどのお店に行こうかな」
 鼻歌混じりにページをめくるその指先には、事件のことなんて微塵も引っ掛かっていなかった。

「そういえば夕べニュースで見たんですけど、殺人事件が起きたれんが通り、あたし、この前行ったんですよ」
 彼女が事件に関わることになったのは、大関に何気なくそう言ってしまったことがきっかけだった。
「え、ちょっと待って」
 世間話のつもりだった話題に、先輩は運転していたミニパトを道路脇に停めてまで食いついてきた。
「どういうことなの?」
「あ、いえ、ですから、偶然遊びに行っただけです…友達と。すいません、変なこと言って。あ、それでできれば来月も14日にお休みをいただきたいんですけど」
「それより、れんが通りに行ったのは何日?」
「一昨日です。非番だったので」
 大関は右手を頬に当てて数秒考えてから続けた。
「14日ってことね。れんが通りを歩いたのはいつ頃?」
「お昼前です。あと、帰る時に夕方にも」
「正確な時刻はわかる?」
 まるで尋問されてるみたいで不安になる。
「えっと、朝歩いたのは11時過ぎで、夕方は5時過ぎですけど…。あの、大関さん、何かあたし…」
 そこで先輩は言葉を遮った。
「あなたは犯人を目撃しているかもしれないわ。ちょっと待ってて」
 先輩はいくつか電話をかけると、有無を言わさぬ勢いでミニパトを発進させた。その道すがら、さっぱりわけがわかんない彼女は事情を尋ねる。
「大関さん、どういうことですか? どこへ向かってらっしゃるんですか?」
「上智署よ。れんが通りの殺人事件の捜査本部は上智署に立ってるの。私の同期が担当しててね、栗林くんっていう警部補なんだけど、昨日たまたま連絡を取った時にその事件のことを聞いたのよ。
 被害者の死亡推定時刻は14日の午前8時から正午までの間なんだって。ね、あなたがお友達とれんが通りを歩いた時刻と重なるわ」
 ゾッとした。彼と歩いてたまさにその時、目と鼻の先のビルの中では殺人事件が起きてたかもしれないってことだ。
「でもあたし、何も見てませんよ」
「それならそれでいいの。でももしかしたらあなたの記憶の片隅に何かが残ってて、それが事件解明の助けになるかもしれないわ。たった一つの小さな証言でもね、それが大きく捜査の命運を分けることがあるの」
 実感のこもった言葉だった。
「だからお願い、栗林くんに協力してあげて。捜査が難航してるみたいなのよ」
 研修生はそこで何も言えなくなってしまう。そして間もなく目的地へ到着。
「栗林くん、私だけど。さっき話した子を連れて来たわ」
 大関が駐車場から電話するとすぐにグレイのスーツの男性が姿を見せた。先輩が車外へ出たので彼女も続く。
「よう大関、わざわざ悪いな」
「困った時は何とやらでしょ。それでこっちが今うちで研修してる子。北海道から来てるの、ほら、肌が雪みたいに白いでしょ」
「いえそんな。あ、初めまして」
 先輩の言葉に合わせて自己紹介すると、大きな手が差し出された。
「俺は上智署の栗林だ、よろしく」
 握手して見返すと、栗林は大関よりも頭一つ分くらい背が高い。精悍な顔立ちに口髭をたくわえた、上品さとたくましさを併せ持った刑事だった。
「北海道はいいとこだよな、若い頃にカミさんと行ったぜ。タラバガニがうまかったな。よし、じゃあさっそくこっちに来てくれ」
 警部補は雑談を早々に切り上げると二人を署内へ導いた。そして通されたのは無人の会議室。一冊のファイルを持って戻ってくると栗林はすぐに本題に入る。
「現時点で判明していることをまず伝える。君の見解はその後で伺うから」
「あの、よろしいんですか? あたしはまだ研修中の身で」
「警察官だろ? だったら問題なし」
 あっさりそう返され、そのまま事件の解説が始まった。
「殺されたのは小澤っていう50歳の男だ。一応不動産会社の社長ってことになってるけど、不動産取引なんてほとんどやってねえ。実情は詐欺だの恐喝だので汚い金ばっか稼いでる奴さ。その小悪党が胸を二回刺されてオフィスの床に転がってた。傷口から見て凶器は刃渡り10センチのナイフ、現場には残ってなかったから犯人が持ち去ったんだろう。
 いやあひどい死にざまだったぜ、床が真っ赤なカーペットみたいに血の海でよ。死亡推定時刻は14日の午前8時から正午の間、死因は出血性ショック、刺されたナイフの入射角は下から上だ」
 次々と語られる情報、彼女はついていくのがやっとだった。
「被害者の衣服に争った形跡はなかった。犯人は被害者の隙を突くか油断させるかして一気に正面から刺したんだろう」
 栗林はファイルを開いて現場写真を示す。平和な交番勤務で殺人事件の捜査経験なんてゼロに等しい彼女にとって、凄惨な遺体を見るのは警察学校の授業以来だった。反射的に目を逸らしたけど、隣の大関は冷静に写真に視線を注いでいる。これが経験の差というものか。
「栗林くん、何か現場から盗られた物とかあるの?」
「被害者がいつもズボンのポケットに入れてた財布とデュポンのライターが持ち去られてた。おっと、だからってこいつは物盗りの犯行じゃねえぞ。犯人の刺し方には憎しみがこもってる、それに金庫の金も手付かずだったしな。財布とライターは強盗に見せかけるためにわざと持ってったんだろう。一回刺せば致命傷なのに二回刺してるのも焦ってた証拠。こいつは素人の犯行だぜ」
「なるほどね、さっすがプロフェッショナル。じゃあ第一発見者は?」
「水原っていう25歳の女だ。本業はホステスで、小澤の会社でアルバイトしてたらしい。まあバイトっていっても実情はおそらく愛人だろうな。2月15日の朝5時に水原は勤め先のスナックを退勤、何度電話しても小澤につながらない、そこで現場のオフィスを訪れて血の海に沈む小澤を発見、その場で110番って流れだ」
「待ってよ、不自然じゃない? そんな早朝なら普通は会社じゃなくて自宅にいるって思うんじゃないかしら」
「小澤はしょっちゅうオフィスで寝泊まりしてたみたいでな、その日もそうするって水原に話してたらしい」
「そういうことね」
 大関が納得の頷きを返す。
「もちろん、第一発見者を疑えのセオリーに従って水原のアリバイは調べたぜ。だが…完全な白だった。2月14日は昼過ぎまで前の日の夜から友達数名と一緒にいた。なんだかバレンタインパーティとかで騒いでたらしい。まったくお盛んな連中だぜ。水原が犯行時刻に現場へ行くのは不可能だ。
 まあ犯人じゃないにしても水原は小澤の裏事情を色々知ってるだろうから、これからみっちり絞らせてもらうぜ」
 栗林の瞳が一瞬獲物を狩る鷹のように鋭くなった…けどすぐにまた柔和な眼差しに戻って、開いたファイルをパタンと閉じた。
「今のところはこんな感じだ。現場周辺で聞き込みもしてるがまだ目撃情報は上がってない。現場の古いビルには防犯カメラなんて高級な物はねえしな。そこで君の出番だ」
 彼女にじっと視線が注がれる。
「君は事件が発生した頃、れんが通りを歩いていた。気になったこととか、印象に残ってることはないか? どんなことでもいい」
「え、ええと…」
 そう言われてもどう答えていいかわかんない。言葉が出てこないのを見かねて大関がアシストしてくれた。
「その日のことを順に話してみて。そうすれば何か思い出すかもしれないわ」
「はい…」
 頷いてからそれに従う。
「わかりました。あの日は駅前で11時に友達と会って、一緒にお昼ごはんに向かいました。それで、お店まで二人でれんが通りを歩きました。お喋りしながらゆっくり歩いたんで、『コロ』っていう名前のレストランに到着したのは11時半の少し前です」
「れんが通りで不審な人物を見たり、叫び声を聞いたりしていないか? ゆっくり考えてみてくれ」
 身を乗り出す栗林。隣の先輩も黙って彼女を見る。でも…そう言われても何も思い浮かばない。あの日は十年ぶりに彼と会えた嬉しさで地に足がついてなかったし、楽しい会話に夢中だったし。れんが通りに老若男女の歩行者がいたのは憶えてるけど、その中に明らかな殺人犯なんて見当たらなかった。
 そりゃそうだ。血がベッタリついたナイフを持って歩いてるような人がいたら大騒ぎになる。叫び声だってそんなものが聞こえたら誰かが通報してるはずだし。
「…ごめんなさい、何も気付きませんでした」
 彼女は頭を下げる。すると栗林は乗り出した身を戻して優しく言った。
「いや、いいんだよ。もしかしたらって話なんだから気にしないでくれ。ちなみにお友達の方は何か見てないかな?」
「彼は何も言ってなかったのでおそらく…」
「そうか」
 力なく肩をすくめる栗林。彼女が黙ってもう一度頭を下げると、大関がポンとその背中を叩いた。

「お役に立てなくて…」
 帰りのミニパトの助手席で彼女はまた頭を下げる。
「こら、もう謝らないの、あれで十分よ。少なくともあなたが歩いた時刻にれんが通りに不審な人物がいなかったことがわかったじゃない。目撃情報だけじゃなくて、目撃してないっていう情報も大事よ。そういう小さな積み重ねが実を結ぶんだから」
「そういうものですか」
「そうよ。殺人事件の捜査っていうのは地道なものなの。にしても…被害者の胸を刺したんなら犯人は少なからず返り血を浴びたはずよね。そんな姿で現場のビルから逃げてたら誰かに目撃されてそうなもんだけど」
「安直かもしれませんが、レインコートで返り血を防いだとかですかね」
「かもしれないわ。でも雨でもないのにしかも室内でレインコートを着た人物が訪ねてきたら普通は警戒しない?」
「…ですよね」
 そういえばあの日、彼は雨でもないのに傘を持ってたな…と彼女はどうでもいいことを思い出す。
「まあ続きは栗林くんに頑張ってもらいましょ。突然連れて行っちゃってごめんなさいね」
 大関はそこでわずかに声を落とす。
「ところであなたが会ったお友達って…男の人だったのね」
「え、どうしてです?」
 意外な指摘にドキッとする。
「だってさっき『彼は何も言ってなかった』って答えてたじゃない。もしかして…彼氏?」
 その質問は女同士の楽しい内緒話っていうニュアンスじゃなく、どこか深刻な響きがあった。
「あ、いえその…」
「来月も14日にお休みが欲しいって言ってたもんね。ホワイトデーか」
「そんなんじゃありません。ただの友達で、中学の時の同級生です。たまたまこっちに住んでたんで久しぶりに会っただけです」
「そう? まあ…ほどほどにね」
 一つ咳払いが挟まれる。
「さて、もうお昼ね。せっかく四ツ谷まで来たからどこかでランチを買って帰りましょうか」
 隣を見ると、大関はもういつもの明るい先輩に戻っていた。

 その日の夜、彼女は迷った。事件のことで彼に電話するべきかどうか。れんが通りを歩いた時、彼が何かを目撃してる可能性はゼロじゃない。もしかしたらそれが事件捜査に役立つかもしれない。でも…。
 彼女は結局その連絡をしなかった。一緒に歩いた自分が何も気付かなかったわけだし、不用意に民間人の彼を巻き込みたくない。それに…思い出の初デートの場所を殺人事件の話題で汚したくなかったから。
 彼女が送ったメールは次回のデートについてのことだけ。3月14日に無事休みがもらえたこと、ガイドブックで見つけた池袋のレストランに行ってみたいことを伝えた。
 メールを送信すると、続いて彼女は一本電話をかける。女性誌に載ってた人気の美容サロンに、人生で初めて予約を入れたのである。

 それから一週間が過ぎた。ニュースで見る限りれんが通りの事件の進展はない。その日も御苑前署で彼女は大関からデスクワークを教わっていた。
「どうした? 研修に飽きてきたかな」
 そう指摘されて彼女は慌てて「そんなことないです」と否定したけど、自分が仕事に集中できてないこと…正確に言うなら気持ちが別の場所に逸れてしまってることはしっかり自覚していた。
「失礼しました、大丈夫です」
 ビシッと背筋を正す…ものの、それは五分も持続しない。見かねたように大関は「休憩にしましょうか」と席を立った。先輩が部屋を出たのを確認して、彼女は大きな溜め息を吐く。
「ダメだ、あたし…」
 自分でおでこをコツン。腑抜けになった原因はわかってる。彼に送ったメールの返信がないからだ。これまですぐに反応してくれた彼から一週間経ってもメールも電話も来ない。池袋のレストランに行きたい、そう書いて送ったメールはまるで投げ返してもらえないキャッチボール。
 どうしたんだろう。何かあったのかな? 会いたくなくなったのかな? じゃあこの前の約束は社交辞令? あたし何か彼を嫌な気持ちにさせることをしちゃったのかな?
 不安ばかりが膨らむ。考えても答えは出ない。改めてメールや電話をする度胸もない。メールの返信がないことがはたして何を意味する科…恋愛も携帯電話も不慣れな彼女にはどうしても悪い想像しか浮かばなかった。
「はあ…」
 また溜め息。携帯電話を開いてみてもやっぱり返信はなし。力なくそれをデスクに投げたところで大関が二人分の栄養ドリンクを手に戻ってきた。
「そんな顔しちゃって。ほら、司法試験に受かったガッツはどうした? これ飲んで元気出せ」
「すいません」
 大関は腰に手を当てて自分のドリンクを一気に飲み干す。彼女もそれに倣って飲み切った。と、そこでデスクの携帯電話がブーンと振動。
「ごめんなさい」
 慌ててしまおうとしたら先輩は「いいわよ、それ見てから仕事しましょう」と微笑む。もう一度謝ってから彼女は携帯電話を開く。そこには…彼からの返信!
『返事遅れてごめん。3月14日、池袋デート了解。店は俺が予約しとくから』
 きっとその瞬間彼女の瞳に光が灯ったんだろう。
「すいませんでした大関さん、研修頑張ります!」
 そう意気込んだら大関は優しく、でも少し心配そうな顔で言った。
「栄養ドリンクなしでも元気出たみたいね」
「いえそんな、そんなことありません。何でも言ってください。遅れた分を取り戻しますから」
「よし言ったわね、じゃあ容赦しないわよ」
 大関はおどけて腕まくりのジェスチャーをしたけど、今度は先輩の携帯電話が鳴った。
 …栗林からだった。

 もう一度協力してほしいって言われて、彼女は急遽また上智署に行くことになった。
「せっかくの東京研修だし、殺人事件をしっかり勉強してきなさい」
 ミニパトで送ってくれながら大関が言う。上智署の前では栗林が待ってくれていた。
「よろしく頼むよ」
「私の期待の星なんだから大事に扱ってよ、栗林くん。じゃあ、しっかりね」
 大関は彼女の背中をパシッと叩いて帰っていった。
「あの、あたしに何かできるでしょうか」
 署内に案内されながら尋ねると、栗林は「気張らなくて大丈夫だから」と前置きしてから彼女を再び呼び寄せた理由を説明してくれた。
 端的に言えばそれは面通しだった。水原に聴取したところ、被害者の小澤に対して強い恨みを持ってる人間がリストアップ、さらにその後の捜査で事件当時アリバイがなかった者が三人にまで絞られた。つまり三人の有力容疑者ってわけだ。そしてこれからその三人の取り調べが行なわれる。
「こっそり三人の姿を覗いて、見覚えがないか確認してほしい。三人とも十分な動機があるからな、犯人がこの中にいる可能性は高いと思うぜ」
 栗林は彼女を狭い部屋の椅子に座らせた。壁には小さなガラス窓がありそこから隣の取調室の中が見えていた。
「これはマジックミラー。じゃあ十五分後から開始するからな、リラックスして頼むぜ。見覚えがないならないで構わねえから正直に言ってくれよ。あ、これ容疑者たちの基本情報だから目を通しておいて」
「は、はい」
 一枚の紙を手渡すと、緊張する彼女を置いて栗林は出ていった。慣れない部屋に一人残され、不安なような怖いような変な感覚に襲われる。でも…頑張れ自分、来月には彼とまた会えるんだから!
 十五分後、隣室に人が出入りする気配。予定どおり取り調べが始まったみたい。栗林に連れられて一人ずつ容疑者が入室してくる。

 一人目は浅岡、30歳男性。甘いマスクと高めの声は中世的な印象を与えるけど、背丈はかなりの長身で栗林よりさらに高い。これは警察官しか知らない業界の常識だけど、取調室の壁には模様で身長が計れる細工がしてある。浅岡の背丈は190センチに届いてた。
 栗林とのやり取りを聞きながら手元の浅岡の情報にも目を落とす。事件当時、つまり2月14日の午前中は自宅アパートに一人でいたとのことでアリバイなし。小澤に借金をして暴利を請求、小澤が勤め先にまで取り立てに来たせいで悪い噂が広まって職場を解雇、婚約者とも破談になってしまったらしい。だから小澤を恨んでてもおかしくない。一見殺人なんかとは無縁な好青年に見えたけど、水原の話では小澤とオフィスで激しく口論してたことがあったという。
「待ってくださいよ、僕が小澤さんを殺したりするわけないじゃないですか」
 浅岡は落ち着かない様子で主張する。
「確かに恨んではいましたよ。でも気軽にお金を借りて借用書に印鑑ついたのは僕です。だから僕も悪いんです」
「何のためのお金を借りたんですか?」
「それは…その、病院の治療費です」
 そこで栗林は浅岡の足元をちらりと見た。
「ははあ、さっき部屋に入られた時にも気に鳴りました。少し右足をかばっておられますね。その怪我の治療費ですか」
「いえ、これは違います。これはただ単に酔っ払って部屋の床に置いてる踏み台に膝をぶつけただけで…。ドジなんですよ、僕。治療費は婚約者の病気を治すためのものでした。ちょっと難しい病気で…」
 長身の男の瞳にうっすら涙が浮かぶ。
「幸い手術がうまくいって病気は良くなりました。でも悪い人からお金を借りて借金地獄ってわかったら向こうのご両親から結婚を反対されて、しかも無職になってますます結婚どころじゃなくなって…。本当に何をやってるんでしょうね、ドジにもほどがありますよね」
 取り調べの最後はそんな自嘲の言葉で締め括られた。マジックミラー越しに見ながら彼女はふと考える。
 結婚…。そんなの自分には縁がない話だって思ってたけど…彼とだったら?

 続いて二人目は池森、45歳男性。似合わない金色の単発で体重100キロを超えてそうな巨漢、背丈は160センチほどしかないので余計に肥満に見える。入室時から不機嫌でその目は徹夜明けみたいに血走ってる。
 事件当時は前日から酔っぱらってビジネスホテルで寝てたとのことでアリバイなし。手元の情報によると、大富豪の娘を妻にしてたけど女遊びをネタに小澤から恐喝、さんざん搾り取られた後で結局妻にばれて家を追い出されてしまったらしい。だから小澤を恨んでてもこれまたおかしくない。水原の話では、何度かオフィスに「お前のせいだ、殺してやる」と脅迫電話をかけてきていたという。
「そりゃ、腹が立つでしょうよ刑事さん」
 池森は同情を求めるように大きく両手を広げる。
「結局離婚になるんだったら何のために小澤に金を払ったんだって話じゃないですか。嫁さんにバレたのも俺が金を持ち出してるのを怪しまれたからだし、とにかく何から何まであいつのせいなんですよ!」
「もともとは、あなたが色々な女性と不適切な関係を持っていたのが原因でしょう」
 鼻息の荒い池森に栗林は冷ややかに返した。
「だからそれは、バレなきゃ問題ないじゃないですか。女遊びは犯罪ですか? 違いますよね? 男ならみんな遊びたいでしょ、俺は金を払って後腐れなくやってたんです、それなのに小澤の最低野郎が!」
 マジックミラー越しに見ながら彼女は溜め息。小声で「どっちが最低だよ」と呟く。そして彼の顔を思い浮かべ、「君は浮気なんてしないよね?」と問い掛けた。
「ところでその指」
 栗林が指摘する。
「怪我をしておられるようですが、どうかされたんですか?」
 確かに彼は右手の中指に包帯を巻いていた。
「先月車のドアに挟んじゃったんですよ、あれは痛かった。利き腕だから何かと不便で、これじゃあ女を満足させられませんぜ」
 下種な笑みを浮かべる池森に栗林は深く溜め息を吐いて取り調べは終わった。

 そして最後、三人目は上杉、35歳男性。整った顔に長めの茶髪と浅黒い肌が野性的な色気を放つ。背丈は170センチほどで、鍛えて引きしまった体が服の上からでもわかった。
 事件当時は一人でドライブに出てたとのことでアリバイなし。手元の情報によると、自分が経営してたバーに客として訪れた小澤から投資話に誘われ、多額の負債を負わされた挙げ句に店を手放す羽目になってしまったらしい。だから小澤を恨んでてもまたまたおかしくない。水原の話では、一度路上で小澤に掴みかかったという。
「恨みもするっちゅうねん」
 上杉はこてこての関西弁でまくし立てる。
「絶対儲かるっちゅうから金渡したのにスカンピンにされたんやからなあ。腹が立たん方がおかしいやろ」
「落ち着いてください。あの、一度小澤さんに掴みかかったそうですが」
「そうや、一発くらい殴らんと気が済まんからなあ。でも実際にあいつの胸倉掴んだらそんな気も失せたんや。なんちゅうか、バーで会った時は頼もしい男み見えたんやけど、昼間に見たらなんかさえん小男でなあ、こんな奴に騙されたんかと思ったら自分が情けなくなってしもうて」
 上杉は横柄に足を組む。この季節に迷彩柄のハーフパンツにビーチサンダルだった。
「それにあいつすぐ逃げてしまいよって、結局何もできひんかった。せやかて刑事さん、俺が殺したんちゃいまっせ。人殺しなんかしたら人生パアや、アホやないからそのくらいはわかっとる。俺は何もしてへん、神に誓ってもええ…ウッ」
 急に上杉は激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「すんません、喘息持ちなもんで。タバコも禁止やて医者からも言われとるんですわ」
「でも、服からタバコの臭いがしますけど」
「なかなかやめられへんのや。わかるやろ刑事さん、あのバーは一生懸命やってきてやっと手に入れた店やったんや。俺の夢やったんやで。それを小澤に潰されて…タバコでも吸わなやり切れんわ」
「そう…ですね」
 栗林が感情なく答えて沈黙が訪れた。彼女もマジックミラー越しに考える。
 夢…。そういえば彼の夢って何だろう、どんな弁護士になりたいんだろう。今度のデートの時に訊いてみようかな。

 こうして容疑者三人の取り調べは終わる。結局、浅岡・池森・上杉は揃って犯行を否認。わかったのは全員被害者に強い恨みがあったこと、後は三人の背丈がバラバラでそれぞれ怪我や病気をしてたことくらい。逮捕するだけの証拠も証言も得られず、三人はそのまま解放された。やがてノックして栗林が彼女のいる部屋に来る。
「どうだ、見覚えのある奴はいたか?」
「それが…いませんでした」
 彼女は言われていたとおり正直に答えた。三人の顔や全身を凝視して観察したけど、自分の記憶…あの日彼と歩いたれんが通りの記憶の中に容疑者たちの姿はなかった。
「そうか」
 残念そうに肩をすくめる栗林に彼女は「またお力になれなくて」と頭を下げた。
「いいんだ。それより取り調べを見てて何か気付いたこととかあるか?」
「いえ、ただ…」
 彼女は思ったことを言ってみる。
「浅岡さんは右膝、池森さんは右手の中指を負傷してましたよね。あれが犯行の時、被害者と争って怪我したものだということは考えられませんか?」
 栗林はニヤリとする。
「いい着眼点だ、期待の星。一応浅岡にはズボンをめくって見せてもらったが、あれは打撲…踏み台にぶつけたっていう証言と矛盾しない。池森の怪我は治療した病院を聞いて問い合わせてみたが、確かに先月受診してる。車のドアに挟んだ骨折に間違いないってよ」
「そうですか。あ、そういえば被害者の衣服に争った形跡はないっておっしゃってましたもんね。余計なこと言ってすいません」
「だから謝るなって。さてと、じゃあ次の動きを考えるか…」
 栗林が伸びをする。と、そこで部屋のドアがノック。
「先輩、織田です。いいっすか」
 栗林の部下らしきスポーツ刈りの若い刑事が入ってきた。
「もしかしたら目撃情報が出るかもしれないっすよ」

 研修の一環として栗林たちの聞き込みに彼女もそのまま同行することになった。行き先はれんが通りにある小さな出版社。建物の3階に入ってて、事件が起きた古いビルとはれんが通りを挟んで斜め向かいの位置関係。『れんが版』っていうタウン誌を毎月発行してて、その表紙はれんが通りを行き交う人たちを写した写真、しかも事件のあった古いビルの出入り口も写真の中に写り込んでるらしい。
「もちろん歩行者の個人が特定されないように、写真の画像は多少ぼやかされてますけど、出版社には元のデータがあるはずっすよ」
 運転席でハンドルを切りながら織田が説明した。助手席の栗林が答える。
「つまり、もし事件当日の写真があれば、現場のビルに出入りする犯人が写ってるかもしれねえってことだな?」
「そういうことっす。表紙の写真は毎号変わってますから、きっと毎月新たに撮影してるんだと思います。もし2月14日の午前中に撮影していたら…まあ、可能性は低いっすけど」
「信じねえでどうする、万が一ってこともあるかもしれねえぜ」
 二人のそんなやりとりを後部座席で聞きながら、彼女は考えていた。まさかこんな形でまたれんが通りへ行くことになるなんて…。車窓の景色はやがて見覚えのあるあの緋色の道に近付いていった。

「あの、どちら様でしょう」
 出版社のドアを叩くと、中学生が現れたのかと思った。出迎えてくれたのはあどけなさの残るとても小柄な女性だった。よくよく見ると化粧もしてるし成人してるのは間違いないけど、ショートの髪形も相まって後ろ姿だけなら本当に少女と間違えそうな容姿だった。
「警察です。実はお伺いしたいことがありまして」
 栗林が手帳を示すと、女性社員は一瞬きょとんとしてから、「はい!」と小走りで奥に戻る。間もなく入れ替わりに黒縁メガネのでっぷりとした中年男性が姿を見せた。
「社長をやっとります愛内です。ああ、この前の事件のことですな。いやはや、こんな近所で殺人とは恐ろしいことです」
「ご協力をお願いします。ちなみに社長さん、あなたは亡くなられた被害者と面識はありましたか?」
「私がですか? とんでもない。ニュースで見るまで斜め向かいのビルに不動産屋があることすら知りませんでしたよ」
 社長と話す栗林の後ろで彼女はさり気なく室内を観察した。十畳ほどの部屋に三つのデスク、あとは書類やファイルが積み上げられたいくつかの棚が所狭しと並んでいる。
「社員は社長の愛内さんと、先ほどの女性と、他にもどなたかおられるんですか?」
「あと男の社員が一人おります、今日は休みですがね。うちは出版社といっても本当にささやかなもんでして、学校の記念誌とか、無名の作家の詩集とか、そんなのをほそぼそと作っとるんです」
「実はですね、おたくが発行しておられる『れんが版』というタウン誌について伺いたいんです」
「あれの編集は川島くんがやっとります。おーい」
 社長は給湯室へお茶の準備に行った先ほどの女性社員を呼び戻した。
「すまんね川島くん。こちらの刑事さん、『れんが版』についてお聞きしたいそうだよ」
「わかりました。あ、自己紹介が遅れました、川島と申します。はい、『れんが版』の編集をしているのは私です。あ、ちょっと待ってくださいね」
 なんだか緊張してるみたい。女性社員は慌ただしく動き回ると、棚からバックナンバーを数冊持ってきてくれた。
「どうぞ、ご覧になってください。内容は名前のとおりれんが通りのことが中心です。お店の紹介とか、イベント情報とか、町のおもしろ事件簿とか」
 織田から一冊手渡され彼女もパラパラとページをめくってみる。カラー写真もふんだんに使われてて、川柳のサークルで微笑むおじいちゃんおばあちゃん、運動会のリレーで走る子供たちの活き活きとした姿なんかが記事になっていた。そして問題の表紙の写真は、確かに毎号れんが通りを行き交う人たちを上から写したものだった。
「あの、『れんが版』がどうかされましたか?」
 心配そうに尋ねる川島。
「実はこの表紙の写真について伺いたくて。毎号いい写真が載ってますけどこれもあなたが撮影されているんですか?」
 栗林のその問いに、小柄な女性社員は照れながら「はい」とえくぼを作った。仕草まで少女のように可愛らしい。
「お上手ですね」
「いえそんなたいしたものじゃないんです。気が向いた時にあそこの窓からパチリと…」
 川島はデスクのそばの窓を華奢な手で指さす。栗林・織田に並んで彼女もそこに立ってみたけど、写真と同じ構図でれんが通りが見下ろせた。右向かいには殺人事件のあった古いビルも見える。
「気が向いた時にとおっしゃいましたけど、特に撮影する日時は決めてないんすか?」
 織田が川島を振り返って尋ねた。
「はい。本当に気まぐれで…。だいたい一日一枚って感じです。時々は二枚撮る日もありますけど、逆に撮らない日もありますから、一ヶ月で多くても30枚くらいでしょうか」
「そこから毎月一枚を表紙に選ぶんですね。毎月だと大変じゃないっすか?」
「カメラは学生時代から好きなんで。フィルムだと現像代も大変ですけど、最近はデジカメですから。あの…私の写真が何か?」
「2月14日の写真があれば見せていただきたいのです。その日に撮影したかどうかご記憶ありますか? 例の殺人事件が発生した日なのですが」
 栗林が真剣な声で言った。
「2月14日…ええと、何曜日でしたっけ」
 女性社員はそう言いながら手帳を取り出してチェックする。
「ああこの日ですね。この日は社長はお休みで、もう一人の社員も主剤旅行に出てましたから私だけ出勤でした。写真は…どうだったかな。ちょっとお待ちください、撮影していればデータを残してるはずです」
 川島は自分のデスクのパソコンを操作した。そのデスクの周りに栗林と織田が集まる。彼女も遠慮がちに二人の間からパソコンの画面を覗いた。
「あ、二枚撮影してますね」
「時刻はわかりますか?」
 すかさず栗林が問う。
「わかりますよ。一枚目が朝の9時31分、二枚目がお昼の2時10分です」
 刑事たちの目の色が変わる。一枚目が犯行推定時刻に合致している。
「すいません、一枚目の写真を拡大してください」
「え? あ、はい、わかりました」
 勢いに押されたように素早くキーボードが叩かれる。身を乗り出した二人は次の瞬間息を呑んだ。彼女も目を見張る。
 ビンゴだった。写真の右上…事件のあった古いビルから一人の人物が出てくるところが写っていた。黒のニット帽、マスク、サングラス、そして黑の手袋と黒のロングコートに身を包み、右手に白い紙袋を提げている。いくら冬の季節でもその格好は防寒のためとは思えない…明らかに正体を隠してる出で立ちだ。
「川島さん…」
 栗林が静かに告げる。
「写真のデータ、提出していただけますか。できればこれまで撮影した分も全て」
「は、はい。すぐコピーします」
 女性社員も刑事二人の鬼気迫る様子に表情を硬くする。そしてその後ろで彼女も呆然としていた。確かに殺人事件の犯人らしき人物は写ってた。でも、もっと衝撃的なものも写ってたから。画面の左下、れんが通りを身を寄せ合って歩く男女…それはまるで週刊誌に熱愛をすっぱ抜かれたお忍びカップル。
 時間帯が早いせいか、緋色の道を行き交う人通りは彼女が歩いた11時過ぎと比べればぐっと少ない。だから一人一人の姿がしっかり確認できる。

 寄り添って歩く男女…それは間違いなく彼と、レストラン『コロ』のウエイトレスの女の子だった。