第八章 心の底

●野島武

 ワンワン声を上げて俺は泣いた。前にもこんなふうに無防備に泣いたことがあった。そう、あれは…教室で先生から篤実の死を知らされた時だ。俺はあの頃から何も成長していない。どれだけ年齢を重ねても、結局こうやってみっともない姿をさらしている。

一頻り泣き終えるのを待って、二人の刑事は俺を立たせてくれた。そしてそのまま近くのベンチに誘導するとカイカンが隣に座り、女刑事は少し離れて立つ。まだ鼻をぐずつかせている俺に、そっと低い声がかけられた。
「野島さん…話して頂けますか?同窓会の夜、あなたと大宮さんの間に何があったのか」
小さく頷く。もう抵抗する気はなかった。蘇った記憶を俺は少しずつ言葉にしていく。
「一次会が終わって店を出た時、大宮がもう少し話そうと誘ってきたんです。最初は二人で二次会にでも行くのかと思ったら、あいつは俺をこの場所に連れてきました。そして、自分が海外へ行く前に一緒にタイムカプセルを掘ってほしいとあいつは言いました」
あの夜の光景が浮かぶ。当時、この場所は改修工事が始まっていた。もちろん俺たちが来た時刻には、作業員など誰もいなかったが。置かれていたシャベルを失敬して俺と大宮はタイムカプセルを掘った。そう、五本桜の真ん中の木の根元を。手を動かしながら、大宮は「タイムカプセルの中にお前に見せたい物がある」と言った。
一時間、そして二時間近くが経過しただろうか。しかし、どれだけ掘っても目当ての物は見つからなかった。かなり深く、そして広い範囲で掘ってみたが、それでもタイムカプセルは欠片すら出てこない。深夜0時を回った頃、俺たちはあきらめてシャベルを置いた。
「見つからなかったんですね…」
カイカンが呟く。俺は「ええ」と答えて語りを続ける。
「空っぽの穴を前に、俺と大宮は最後の会話を交わしました…」

***

「おかしいな、どうしてないんだろう」
俺はそう言って息を吐く。
「疲れさせてすまなかった」
あいつはそう返し、続けて「話があるから聞いてくれ」と真剣な眼差しで言った。
「改まってどうしたんだよ」
大宮は数秒沈黙し、決意したように口を開いた。
「俺は…篤実が好きだった」
予想外の話題だった。
「俺は篤実のことが好きだったんだよ。野島、お前もそうだったんじゃないか?」
「そうだよ、俺も篤実が好きだった」
随分久しぶりに彼女の名前を口にする。大宮の視線に正面から応えるように、俺は素直にそう認めた。大宮も同じ思いだったことはそれほど意外ではなかった。むしろ納得した。そしてずっと話題から逸らしていた俺たちのマドンナについて、親友と今こそ語りたいと思った。
しかし…あいつの次の言葉で状況は一変する。大宮は俺を見ながら言ったのだ。
「バレンタインデーの日、篤実をフェンス前に呼び出したのは俺だ」

***

 二人の刑事の瞳に驚きの色が浮かぶ。夜風の中、辺りには俺の情けない声だけが虚しく舞っている。
「それを聞いた瞬間、頭に血が上りました。あいつは何度もごめんと謝ってましたけど…そんな言葉で許せるわけないじゃないですか。別にあいつと篤実がバレンタインデーに二人で待ち合わせしてたとしても、それはいいんです。それは…仕方ないことですから。
でも、でもあの日…大宮は俺の家にいたんです。あいつは篤実との約束を忘れて俺と遊んでたんです。あいつがちゃんと待ち合わせの場所に行ってたら、彼女が事故に遭うこともなかったかもしれない。そう思ったら悔しくて悲しくて…」
「…ナルホド」
呟くカイカン。暴れだす感情を抑えられず俺は声を荒げた。
「もっと許せなかったのは、大宮がそのことをずっと黙っていたことです!待ち合わせの相手は大宮だったんじゃないかと…俺だって一度は疑いました。でも、そんなことはないって信じてたんです。信じていたんですよ、親友のあいつを!
言いづらかったのはわかります。でもせめて…俺には打ち明けてほしかった。だって俺たちは親友だったんだから。それなのに…あいつはずっとそれを隠していた。篤実を事故に遭わせておいて、ずっと俺を騙していたんです。そう思ったら憎くて憎くて…」
「それが…動機でしたか」
低い声が重たく響く。
そう…大宮に裏切られた俺はもう冷静ではなかった。あいつは何度も頭を下げ、自分のせいで篤実を死なせてしまったと懺悔した。そして掘った穴の方を向き、彼女が生きていれば三人でタイムカプセルを掘り出せたのにと、寂しそうに言った。
その瞬間、俺は足元のシャベルを手に取り、あいつの後頭部に振り下ろした。鮮血を俺の顔や服に散らしながら、大宮はそのまま穴の中に倒れこむ。そして何かうめいた後、ピクリとも動かなくなった。
「あとは刑事さんが推理されたとおりです。俺は大宮に土をかぶせて穴を埋めると、一目散にその場から離れました。
…言い訳する気はありません。あの時の俺は、確かに殺意を持ってあいつを殴ったんです」
「正直に教えて頂いてありがとうございます」
静かにそう言うと、カイカンは腰を上げた。そしてゆっくり深呼吸して俺に向き直る。
「バレンタインデーの日…大宮さんが約束をすっぽかし、待ちぼうけになった小杉さんが事故に遭った。確かにそれが事実なのかもしれません。しかしそう決め付けるのは早計かもしれませんよ」
これまでと違い、それは温かみのある声だった。俺は呆然と地面を見つめたまま「どういう意味ですか?」と尋ねる。
「あなたの知らない真実があるかもしれない、ということです。今からそれを一緒に見つけませんか?」
「…何を言ってるんです。28年も前のことをどうやって調べるんですか。もう篤実も大宮も…この世にいないのに」
「確かに二人はもういません。でも、28年前の大宮さんの気持ちを保管してくれている物があるじゃないですか」
カイカンは一歩俺に近付く。
「野島さん、そろそろ掘り出しましょうか…タイムカプセルを」

 この刑事、一体何を言ってるんだ?確かにここへ来る時にもそんなこと言ってたけど…タイムカプセルがもうないことは明らかじゃないか。18年前に大宮と一緒に掘った時も、一昨日の朝に俺が一人で掘った時も、全く見つからなかった。それが今更出てくるわけがない。
顔を上げて見ると、カイカンの隣で女刑事も戸惑いの表情をしている。
「準備はしてくれたかい、ムーン?」
「あ、はい。スコップ…じゃなくてシャベルは、一応私の車のトランクに積んでますけど」
「じゃあ持ってきて。野島さん、一緒に掘りましょう」
いい加減あきれて俺も立ち上がる。
「刑事さん、だからタイムカプセルはもうないんですって!」
俺は五本桜の真ん中の木の根元、一昨日俺が掘った穴を指差して言う。
「ほら、あんなに掘っても出てこなかったんです。あれ以上掘っても無駄ですって」
「確かにあの木の根元にはないようですが…野島さん、あなた方は掘るべき場所を間違えていたんですよ」
…え?
「正しい場所にはきっとまだ埋まっているはずです…大宮さんがあなたに伝えたかった真実が」
カイカンはそう言うと桜の方へ歩き出す。女刑事は言われるままにシャベルを取りに行き、俺も全くわけがわからないままカイカンを追った。
…場所を間違えてる?そんなわけないじゃないか。ここは俺と大宮が通った小学校だぞ。一列に並んだ五本の桜の真ん中の木の根元…こんなにわかりやすい目印をどう間違えるっていうんだ?

 女刑事が三人分のシャベルを抱えてくる。カイカンはまた右手の人差し指を立て、あの穴のそばで話を始めた。
「野島さん、タイムカプセルは五本ある桜のうち、真ん中の木の根元に埋まっていたんですよね?」
俺は感情なく「だからそう言ってるじゃないですか」と返した。カイカンはポケットから一枚の紙を出して広げる。
「実はこれ、卒業アルバムのコピーでして、あなたのいた6年1組の集合写真です。五本の桜を背景に生徒たちが並んでいますね」
こちらに示された写真…そこには篤実や大宮の顔もある。俺はすぐに目を逸らした。
「それが何ですか?」
「よく見てください。桜の枝の感じや高さが今と違うんですよ」
わけがわからない。さすがにイライラしてきた。
「30年近く前の写真です。変わっていても当然でしょう」
「確かにそうですね。でも考えてみたんです…この違和感の正体を。そして思い付きました」
カイカンは立てていた指を倒し、ゆっくり公園の中心を指差す。導かれて視線を送るとそこには…大きな噴水。
「あの噴水は、もちろんここが小学校だった頃にはありませんでしたよね。ここが公園に改修された時に増築された物でしょう。そして噴水を造るとなると、当然水道管の工事が必要になります。
その工事の際に、どうしても桜の一本が邪魔になったのではないでしょうか。一番右の桜が…」
刑事は五本の桜を順に見ながら話す。
「五本桜小学校という名称からもわかるように、五本の桜は学校のシンボルでした。それを切り倒すことはできない。そこで一番右の桜を一度抜いて、一番左に植え直したのではないかと思うんです。こうすれば五本並ぶ桜は変わらない」
桜を…植え直した?ということはまさか…。
カイカンは説明する。卒業アルバムの写真では一番右の木が五本の中で最も背が高かった。しかし今は一番左の木が最も背が高い。それこそが桜が移動した証拠だと。
「ちょっとそれを見せてください」
俺は写真を受け取り、その中の桜と今の桜を見比べる。確かに…枝ふりや幹の感じも一致する。一番右にあった桜が今は一番左に植え直されていることに間違いはない。
「どういうことかおわかりですね?あなたと大宮さんが同窓会の夜にここに来た時、すでに桜の移植は終わっていたのです。だからどれだけこの場所を掘っても、タイムカプセルは見つからなかったんです。
かつて五本桜の真ん中にあった木は今は一本右にずれて…」
カイカンはスタスタと歩き出す。俺と女刑事は導かれるようにその後を追った。一本右の桜にたどり着くと、カイカンは人差し指を立てていた手を開きその幹に触れた。
「右から二番目のこの木というわけです」
俺もまじまじとその木を見つめる。これが…目印の木?俺たちのタイムカプセルを埋めたあの木なのか?
そう思った瞬間、全身を懐かしさが包み込んだ。まるで温泉にでも浸かったように、それは優しく暖かい感覚だった。

 写真を返すと代わりにシャベルを手渡される。俺は二人の刑事と木の根元を掘った。
今更見つけて何の意味がある?…そう自分に問いかけたが、俺の腕は見えない何かに突き動かされるように、シャベルを地面に突き立てていた。
「野島さん、お体に障らないようにしてくださいよ」
カイカンが言う。俺は「大丈夫です」と答え一心に作業を続けた。園内の外灯に照らされながら、穴を掘る男二人に女一人…。俺は大宮と篤実と三人でタイムカプセルを掘り出している姿を思い浮かべた。その叶わなかった約束を果たす、夢の中の俺たちを。
「え、これはシャベルじゃないのか?」なんて俺が言って、「俺はずっとスコップと呼んでいるが」と大宮が答えて、「どうしてあべこべなんだろう、不思議だね。じゃあこの三人の中ではシャコップって呼ぼうよ」なんて篤実が言って、そして三人で大笑いして…。

…コツン。

シャベルの先端が何かに触れた。シャベルを置き、三人でしゃがみ込んで土を手で払う。そして、28年前に確かに埋めた憶えのある金属製の箱が現れた。
「…あった」
思わず口から漏れる。あった、あったんだ。もうとっくにあきらめていたタイムカプセルが!こいつは28年もの間、ここにずっと眠っていたんだ。
見ると二人の刑事も土まみれになっている。こんな時でもコートとハットを着用したままの不気味な男は、俺が手にした箱を見つめながら「よかったですね」と目を細める。それは子供のように純真な微笑みに見えた。

 厳重な封を剥がし箱を開く。黴臭い臭いがする。中には変色して黄ばんだ紙がいくつか入っている。俺は土で汚れるのも構わずそれらを確認した。
まずはゲームクラブで造ったゲームたち。これは篤実が考えたメルヘンすごろく、これは大宮が考えた探偵ポーカー、これは俺が考えた逆転人生ゲーム…。
紙をめくる指が震える。喉が熱くなり、呼吸が浅く速くなる。篤実のイラスト、大宮の文字…それらが目に飛び込んできて頭の仲にフラッシュバックを巻き起こす。三人で笑っている場面、三人で歩いている場面、三人で宿題をしている場面。轟く雷光のようにいくつもの思い出が浮かんでくる。
そして紙の間から一枚の写真が落ちた。そっと手に取ると、その中には少女を囲んでピースする二人の少年の姿。あどけなく笑う篤実、自信に満ちた大宮、幸せそうな俺…。
「ああ…」
ふいにその映像がぼやける。さっきあれだけ泣いたのに、また出てきやがった。思わず目をこすると、土が入って余計に涙が溢れた。
「う、う、う…」
悔しい?悲しい?いや違う、寂しいんだ。俺は寂しくてたまらないんだ。会いたい、会いたいよ篤実、大宮…。
「使ってください」
女刑事がハンカチを渡してくれる。見ると彼女はまるで祈るような…俺に何かを託しているような目をしていた。礼を言って受け取ると、そっと自分の顔に当てる。
再びグズつく俺にカイカンが優しく言った。
「同窓会の夜、大宮さんはあなたをここに誘いタイムカプセルを掘ろうと言った。きっとあなたに見せたい物がその中にあったからだと思います」
「…はい」
俺はハンカチを胸ポケットにしまい、さらに紙をめくっていく。そして箱の一番底に一通の封筒があるのを見つけた。その表には大宮の文字で『野島へ』と記されていた。
これが…大宮の見せたかった物?俺は深呼吸してその封筒を開く。中には数枚の手紙が入っていた。四つ折のそれを慎重に広げる。

***

 野島へ

お前に伝えなくちゃいけないことをここに書く。本当は今すぐ言葉で伝えなくちゃいけないんだけど、俺にはそれができない。でもこれはとても大切なことだから、けして忘れないために、手紙で残そうと思う。

バレンタインデーの日、篤実をフェンス前に呼び出したのは俺だった。俺がそうするようにあいつに言ったんだ。実は、一ヶ月前に篤実から相談された。お前のことが好きなんだと。別の中学に行くお前に思いを伝えたいが、どうしたらいいだろうと。
だから俺は言ったんだ、バレンタインデーにチョコレートを渡して告白すればいいと。恥ずかしがっていた篤実に俺は協力すると約束した。そしてあの日、篤実にフェンス前で待っているように言い、俺がお前をそこに行くように促す計画を立てた。

本心を言うと、俺は篤実が好きだった。でもお前はいい奴だから、篤実がお前を好きになったのもわかる。俺はあの日、お前の家に遊びに行った。適当なタイミングでお前にフェンス前に行くよう言わなくちゃいけなかったのに、なかなかそれが言い出せなかった。お前も篤実のことが好きなのはなんとなくわかってたから、二人はきっと両想いになる。そうなったらもう三人でいられなくなるのかもしれない…そ思うとどうしてもためらってしまったんだ。
そして俺がグズグズしていたせいで、篤実は事故に遭った。俺があいつを死なせてしまったんだ。

本当はすぐにでも、このことをお前に言わなくちゃいけない。家族のいなかった俺に、お前は分け隔てなく接してくれた。友達になってくれた。そんなお前に黙っているわけにはいかない。
でも今は、どうしてもそれができない。本当のことを伝えたらお前まで去っていくのではないかと思うと、怖くてたまらないんだ。篤実がいない世界で、お前まで失うのは俺には耐えられない。今お前との友情まで失うわけにはいかないんだ。
俺は最低な臆病者だ。卑怯者だ。

でも野島、今は無理でも、俺はいつか必ずお前に伝える。それは約束する。だからこの気持ちを忘れないためにこの手紙を残すんだ。俺はもっと強くなる。いつかお前と一緒にタイムカプセルを開いた時、この手紙をお前に読んでもらいたい。そして心からお前に謝りたい。その時はどれだけ俺を責めてくれてもいい。恨んでくれてもいい。
それでも俺たちは親友でいられると信じている。
野島、本当にごめん。

大宮光路

***

「う、うう…」
手紙の最後には、28年前の2月29日付けでのあいつの署名があった。また別の涙が滲んでくる。
大宮、お前はずっと苦しんでいたんだな。篤実から相談されて、お前も彼女が好きだったのに、それでも俺たちがうまくいくように段取りしてくれたんだな。でもそのことで篤実があんなことになって…ずっと自分を責めていたんだな。
女刑事に借りたハンカチで俺はまた目を覆う。そして大宮からの手紙をそっとカイカンに差し出した。
「私たちが読んでもよろしいのですか?」
俺は黙って頷いた。

「…ナルホド」
読み終えたカイカンは、頷いて手紙を女刑事に渡した。じっと目を通す彼女の隣で、優しい声が俺にかけられる。
「28年前、大宮さんはどうしてもあなたに謝罪することができなかった。でもいつか必ず謝罪すると決めて、その気持ちを忘れないためにこの手紙を書いたんですね。同窓会の夜、大宮さんはこの手紙をあなたに読ませたかったんですね。そしてその時こそ謝罪するつもりだった。
しかしタイムカプセルが見つからず、直接口で伝えることにしたんでしょう。結果言葉が足りずあなたに誤解させてしまった…」
「うう、う、う…」
「誰一人悪くない。大宮さんの気持ちに気付かず自分の恋心を相談してしまった小杉さんも、自分の気持ちを押し殺して彼女とあなたを取り持とうとした大宮さんも、そして小杉さんと大宮さんのことがとても大切だったからこそ誤解してしまったあなたも…誰も悪くありません」
「そんなこと…」
「あなたの罪はあなただけの罪ではありません。でももう…それを償えるのはあなただけです。亡くなられたお二人のためにも、あなたはこれから償いの人生を生きてください」
ハンカチを顔から離して刑事を見る。カイカンは願うような目で俺を見ていた。隣で女刑事も同じ眼差しをしている。どちらも俺に求めていた…生きて、と。

生きる?…そうだな。
篤実も大宮ももういない。俺だけが…この世界に残されている。だから三人のためにこれから何かをやれるとしたら、それは俺の役目なんだ。
「刑事さん、ありがとうございました」
涙を拭って俺は立ち上がる。
「俺、頑張ります…これから」
そう言ってもう一度タイムカプセルに入っていた写真を見る。
あの頃…俺はとっても幸福だったんだな。好きな女の子と両想いで、最高の親友がいて。それがわかってよかった。それがわかったから、これから先の人生がどれだけ寂しくても頑張れる。険しい道でも…俺は歩いていける。
写真の中にはあの頃の三人が笑っている。
可愛い篤実、自信に満ちた大宮、相変わらずさえないけど幸せそうな俺。

俺は…生きなくちゃいけないな。

●ムーン

 野島が腰を上げたので、警部と私も立ち上がる。大宮の手紙を彼に返すと、それは丁寧に折りたたまれて再びタイムカプセルの中にしまわれた。野島がどういう気持ちでありがとうと言ったのか、私にはわからない。ただその瞳には確かな光が宿っていた。
明かされた真実は、彼にとって救いばかりではなかった。むしろそのまま土の中に埋めておきたいような残酷さをいくつも含んでいた。それでも人は真実を知ったからこそ、それで手にできる力もあるのだろう。
タイムカプセルをしっかり胸に抱いたまま、野島は歩き出す。
「実は刑事さん、タイムカプセルを埋める日付は篤実があらかじめ決めていたんです。忘れないように2月29日の日曜日にしようって。そしてまた同じ2月29日の日曜日が来たら三人で掘り出そうって決めたのも篤実でした。まさか、それが28年も後だなんて思いませんでしたけど」
彼は少しだけ微笑む。
「でもそのおかげで、このタイミングで掘ることができました。そして失っていた記憶を取り戻すこともできました。親友を殺してしまったことを忘れて生きてるなんて…悲しいですから」
警部も歩きながら優しく返す。
「そうですね。掘った穴は警察の方で埋めておきますので、ご安心ください」
「…安心しました」
そんな会話を交わしながら夜の公園…かつてたくさんの子供たちをはぐくんだ学校だった公園を歩いていく。
「車、回してきますね」
そう言って駆け出そうとした私を警部が「待って」と呼び止めた。
「野島さんは私がタクシーで警視庁まで送るよ」
「え?でも…」
「大丈夫。だから君も行った方がいい…まだ間に合うと思うよ」
それって…。
心の奥出完全に閉じようとしていた扉を寸前で止められた感じが下。戸惑う私に警部は微笑んで言う。
「君もちゃんと自分のタイムカプセルを掘り出した方がいい」

 野島の連行を警部に任せ、私は一人車を走らせる。時刻はもう午後9時を回っている。
新宿の中心街を抜け、四ツ谷を抜け、そして仕事以外ではけして近寄らなかったあの街に入った。閑静な住宅街、川に架かる鉄橋、ポプラ並木…そんなあの頃の通学路を通り過ぎ、やがて目の前に母校の校舎が見えてくる。
路肩に停車し私はもう一度考えた。
今更行ったって…何になるだろう。10年前の約束なんてどうせ果たされるわけがない。そんな約束なかったみたいに、全部忘れたふりをして今日をやり過ごすつもりだったのに…私はここに来てしまった。馬鹿みたいだ、本当に馬鹿みたいだ。
警部に言われたから?いやきっとそれは最後のひと押しに過ぎない。忘れよう忘れようとしながら、10年間ずっと心に引っ掛かっていた。早く今日が終わるのを望みながら、それ以上に本当は今日が終わってしまうのが怖かった。私と彼女の友情が本当にもうなくなったんだと証明されるのが怖かったんだ。
野島が28年後の約束を指折り待っていたように、私も今日に最後の希望を託していた。だから野島がタイムカプセルを開いた時、私は彼に自分を重ねていた。友情を失った彼がそれを取り戻す姿を祈っていた。そしてタイムカプセルの中には…。
野島をタクシーに乗せた後、警部と交わした会話が蘇る。

***

「タイムカプセルが保管してくれているのは、気持ちなのかもしれないね」
「どういう意味です?」
「学校が公園に変わったように、時の流れとともに景色は移ろいでいく。これはどうしようもないことだ。でも…地面の下のタイムカプセルは残ってる。
私たちの心もそうかもしれない。時とともに記憶は薄らいでも、心の底には気持ちがずっと残っている。タイムカプセルみたいにね。だから君も、ちゃんとそれを掘り出しに行っておいで」

***

 すずらん医大病院を訪ねた時、寄り添って物忘れ外来に通う老夫婦を見た。二人でどんな会話を交わしたか、二人の間にどんな出来事があったのか…もしかしたら記憶はもうないのかもしれない。それでもお互いを大切に思う気持ちは変わらず心に残っている。だから一勝を共にできるのだ。
そう、気持ちは消えない。例えどれだけ時が流れても、どれだけ記憶が薄らいでも。

私は意を決して車を出た。辺りに人影はない。後者を囲む高い壁に沿って歩き、校門を目指す。
あと20メートル、あと10メートル…。そして校門脇に誰かが立っているのが見えた。胸が早鐘を打つ。
あと5メートル、あと3メートル…。背が高くて長い髪、あれは…。
「美佳子!」
思わず叫んだ私に、彼女は無言の視線を返す。そしてこちらに歩み寄りながら不機嫌そうに言った。
「遅い!もうすぐ3月3日終わっちゃうじゃん!」
言葉が出ない私の前まで来て、彼女はクスッと笑う。そして照れ臭そうに言った。
「でもよかった、来てくれて。よし、タイムカプセル掘ろう!」

 二人で並んで校内を歩く。
「それで?仕事の方は大丈夫なの?」
「え?あ、うん。さっき片付いたとこ」
「そりゃよかった。あんまりあんたが来ないからさ、ついでに先生たちに挨拶回りまでしちゃったよ。校庭に入る許可ももらって、照明も点けてもらったから安心して」
「そ、そうなの…」
「スコップも借りておいたからね。もうあの木の所に運んであるから」
中庭を抜け、やがて校庭の片隅のプラタナスの木が見えてくる。照明のおかげで辺りはこの時刻でもお互いの表情がわかるほど明るい。
「ほらあったよ、あたしたちの木」
「う、うん…」
どうしてもぎこちない返事になってしまう私に、彼女は「ほいスコップ」と手渡す。スコップ…やっぱりこれはスコップだよね。
「よし、じゃあ掘りますか!」
そう言って地面にスコップを差し込む美佳子。私もそれに従った。しばらく無言での作業が続く。
…夢を見ているようだった。スキー旅行のあの夜以来、全く関係を絶っていた彼女。警視庁で再会しても、目すら合わせなかった彼女。仕事上の機会的な応対すらままならなかった彼女。そんな美佳子と私が、今一緒にタイムカプセルを掘っている。
「あのさ…」
腕の動きを止めて美佳子が言った。
「ごめんね、ずっと、その…大人げなくて」
「いや、こっちこそあの…」
私も掘るのをやめて返した。美佳子は続ける。
「頭ではわかってたんだ。あのスキー旅行であんたが田所に協力したのは…悪気があったわけじゃないって。あたしも喜多村のことあんたに言ってなかったから、あたしがあの夜に告白するなんてあんたが予想できるわけないしね」
「美佳子…」
そこで彼女は申し訳なさそうに視線を落とす。
「ダメだね、あんたに当たっちゃった。喜多村にふられて、喜多村があんたを好きだって聞いて…悔しくて悲しくて、どうしようもなかったの。そんな時にあんたに協力してもらった田所に告白されてもさ…冷静じゃなかったよ。田所にも悪いことしちゃった」
もしかしたら似ているのかもしれない。私たちと、野島と大宮は。野島は小杉さんが大宮を好きだったと誤解した。そして大宮がずっと自分に隠し事をしていたことも許せなかった。それで頭に血が上り凶行に及んでしまった。
美佳子も失恋の直後に私への憎しみを爆発させた。人は恋愛が絡むと冷静ではいられなくなるのだろう。
大宮は小杉さんへの気持ちを押し殺し、彼女と野島がうまくいくように手助けした。そしてそれが結果として悲劇を招いてしまった。私もあの時…。
「ごめんね、あんたは何も悪くないのに…本当にごめん」
美佳子が頭を下げる。
「あたしね、知らなかったんだ…あんたが田所を好きだったって」
「えっ」
突然言われて私は心から驚いた。どうして…。
「今日の午前中ね、あんたの所の警部さんが来て教えてくれたのよ」
警部が?一体どういうこと?
混乱する私に、美佳子は今朝のことを教えてくれた。警部は交通課を訪れ、野島が事故に遭った時の衣服がまだあるかを確認したという。

***

「すいませんカイカン警部、それはもう保管されていません」
答える美佳子。
「そうですか。いや、そうだろうなとは思っていました。いやいいんです、一応確認でした。それより氏家巡査、一つお話をしてよろしいですか?」
「何のお話でしょう?」
「ちょっとした青春白書です」
警部は室内に他に誰もいないことを確認して語りを始めた。
「昔々、ある所に二人の少女がいました。一人は男子の注目を集める美少女…ただしそれ故に女子からはつまはじきにされる、孤独の美少女です。もう一人は男子とも対等に渡り合い、女子からも好かれる柔道部の少女。一見共通項のないこの二人はある日友達になり、中学時代を一緒に過ごしました」
突然そんなことを言われて美佳子は戸惑う。「ちょっと、警部さん…」と口を挟もうとするが警部はお構いなし。
「しかし中学最後のスキー旅行の夜、こんなことが起こります。ここで新たな登場人物として少年が二人。一人は爽やかで女子にも人気のテニス部のエース。もう一人はクラスでも目立たずいつも静かに本を読んでいた図書委員の少年です。
柔道部の少女はテニス部のエースに密かな恋心を抱いていました。だからその夜にずっと秘めていた思いを伝えた…しかし残念ながら答えはノー。しかも彼もまた孤独の美少女のことが好きだったと聞かされてしまいます。
しかしそんなことは知らない孤独の美少女は、図書委員の少年から頼み事をされます。彼は柔道部の少女のことが好きで、思いを伝えたいから彼女を呼び出してほしいと頼んだんです。そして彼女はそれを承諾し実行しました」
そこで一度言葉を止め、残念そうに警部は続けた。
「その結果…親友をひどく傷付けることになってしまいました」
「警部さん、一体何の話をされてるんですか?申し訳ないですが勤務中ですので…」
苛立った口調で美佳子が言う。警部は右手の人差し指を立てた。
「確かに柔道部の少女からすれば、孤独の美少女がしたことは嫌味で無礼だったかもしれません。でも彼女が柔道部の少女の恋心を知らなかったように、柔道部の少女もまた彼女の恋心を知らなかったんです。
孤独の美少女は…図書委員の少年のことが好きだったんですよ」
「えっ」
驚きの声を漏らす美佳子。
「フフフ、不思議なものですね。ほとんどの男子が自分に好意を向ける中、図書委員の少年だけは全く興味がなさそうだった。だからでしょうか、彼女はそんな彼のことが気になっていた…。文化祭の時も、華やかな雰囲気から外れて一人で古本を売る彼の姿を心のどこかで意識していたんです。
つまり、スキー旅行の夜に彼女がしたことはけして軽はずみではなかった。好意を抱いていた少年が自分の親友を好きだと聞いて…、それでも二人がうまくいくために手助けしたんです。孤独の美少女は、自分の恋よりも友情を優先したんです」
「そんな…」
警部が口元に笑みを浮かべる。
「みんな同じですよ、氏家巡査。柔道部の少女も、図書委員の少年も、テニス部のエースも、そして孤独の美少女も…誰も一番好きな人とは結ばれなかった。みんな…同じなんです。誰一人悪くありません」
そこで語りは終わり、人差し指も下ろされた。
「以上です。すいませんね、突然変な話をしてしまって。まあ何かの参考になれば幸いです。では、失礼します」
そのまま退室しようとした警部を美佳子は呼び止める。
「ちょっと待ってください。どうしてこんな話を…」
「そうですね。いつも血なまぐさい推理ばかりしてるので、たまにはこんな推理もしてみたくなったんです」
少しだけ振り返って答える警部。
「それに今日は3月3日、女の子のお祝いですから」
そう言って、警部は交通課を出ていったという。

***

「本当に変人だね、あんたの上司」
説明を終えた美佳子が苦笑いで言う。
「でもまあ、おかげでなんかすっきりしたかな。ここにも来ようって思えたし。あんたの気持ちもわかったし…。本当に、ごめんね。自分のことしか見えてなくて」
また美佳子は頭を下げる。私はスコップを放り出して彼女の両肩に手を置いた。
「やめて美佳子、私の方こそ…美佳子の気持ちも考えずに、勝手なことしてごめん。あとそれだけじゃなくて、今日までのこと、その、色々と…とにかくごめんなさい」
私も頭を下げる。
…やっと言えた、ごめんって。たったこれだけが言えなくて10年も経ってしまったんだ。
すると今度は彼女が私の肩に手を置きポンポンと叩く。顔を上げると、そこには懐かしい笑顔があった。
「よし、じゃあお互い様ってことにしよう」
これだ。私の好きだった彼女のサバサバした感じ。彼女の微笑みにはあの頃の面影が確かに宿っている。私も頬の筋肉の緊張を解く。
「うん、ありがとう美佳子」
私がこんな微笑み方をしたのは…本当に10年ぶりかもしれない。

 私たちは作業を再開し、今度は雑談しながらスコップを動かす。警視庁内の噂、お互いの上司の愚痴、仕事のストレスなどなど…。話題は10年分だ、とても今夜だけで尽きそうにない。
「だいたい何なのよ、あんたのミットの慣例。カイカンとかムーンとか、話しかける方が恥ずかしいって。いくら名前に『月』の文字が入ってるからってムーンはないでしょ」
「私に言われても困るよ。好きで名乗ってるわけじゃないんだから」
そんなことを言い合って笑う。なんかとっても楽しい。
「それで最近はどうなの?やっぱりモテモテか?」
「もう、やめてよ」
きっと彼女も知っているのだろう。美佳子は小さく「大変だね」と返した。中学の頃ほどではないが、社会人になってからも私の悩みは続いている。男からのアプローチ、それによる女からの『隔たり』…それは警視庁でも同じだった。
「もし何かあったら言いなよ。警察官にも結構チャラい男が多いからさ、あたしがいつでも一本背負いしてやるから」
「ありがとう」
「まったく男ってのはねえ、ハハハ」
「そうだね、フフフ」
二人で声を出して笑う。またこんな日が来るなんて…神様に感謝かな。
それにしても、警部はどうして私の田所への気持ちがわかったのだろう。中学時代の話をした時、もちろんそんなことは言わなかった。私自身明確な恋愛感情を自覚していたわけでもない。でも確かに…田所に話があると言われて踊り場に行った時、私はドキドキしていた。それはこれまでの…「告白しないで」と願うあの緊張とは違っていたと思う。
もしかしたら警部は、私の言葉の端々からそれを感じ取ったのかもしれない。本人すら気付いていない気持ちまで見透かされるなんてたまったもんじゃない。まったくあの人は…無粋というか傲慢というか。しかもそれを勝手に美佳子に伝えに行くなんて、余計なお世話もはなはだしい。
でもまあ今回は…一応警部にも感謝しときますか。今度またあのカレーでも買ってきてあげようかな。『孤独の美少女』というネーミングだけはさすがに許し難いけど。

 やがてタイムカプセルが見つかり、美佳子と私はそれを開いた。中学時代に読んで居た漫画の切り抜きや一緒に作った文化祭のパンフレット、一緒に観た映画のチケットの半券などが出てくる。
「あ、これ柔道の帯だよ。ほら美佳子が大会で優勝した時の」
「本当だね。あの時あんたの応援が聞こえて本当に心強かった。あ、こっちはお揃いで買った髪留めじゃん」
二人にまつわる懐かしい品々。そして一番底にはお互いに宛てた手紙が入っていた。そこには10年前の気持ちが保管されている。内容は二人とも『10年後も仲良くしていてください』。それがまた嬉しいやら恥ずかしいやらで、二人で爆笑した。

ふと見上げた空には星も見えない濁った東京の夜。それでもこの大都会の片隅、母校の校庭の片隅には、確かな幸福が灯されていた。