第七章 慟哭者

●野島武

アパートの前には、昨夜も乗った女刑事の車が停められていた。俺はカイカンに続いて後部シートに乗り込む。今日はカレーの臭いはしない。カイカンが「じゃあムーン、よろしく」と告げると、運転席の彼女は「わかりました」と車を発進させた。
穏やかな振動の中、ぼんやりと外を見る…車窓には夕暮れに向かう東京の街が流れていく。
ふいに切ない気持ちが込み上げた。自分は何をやっているんだろう。何をやってきたんだろう。そして…どこへ運ばれていくのだろう。
車内は沈黙が支配し、警察無線だけが時折けたたましく騒いでいる。
「野島さん…」
やがて、隣のカイカンが右手の人差し指を立てて口を開いた。
「ずっと考えていたんですよ、どうしてあなたが今になってタイムカプセルを掘りに行ったのか。カレンダーを見て思い出したとおっしゃっていましたが、2月は毎年来るものですからね。特に今年に限って思い出すというのも不思議な話です」
俺は何も返さない。刑事は続けた。
「そもそも、タイムカプセルを掘り出すタイミングとは一体いつなのでしょう。埋めてから5年後か、10年後か、20年後か…。
実は私の知人にも、友達とタイムカプセルを埋めた人がいましてね。埋めたのが3月3日だったから、10年後の3月3日に掘り出そうと約束したそうです。その話を聞いて思ったんですよ。野島さんと大宮さん、あなた方の場合もそうだったのではないかと。つまり、何年後かの同じ日付に掘り出そうと約束した。
しかし、それが28年後というのはちょっと中途半端ですよね。30年ならまだしも…。28年という数字にどんな意味があるのか、あれこれ考えました」
カイカンが少しこちらを見る。
「そんな時にふと気が付いたんです…曜日のずれに。あなたの同級生だった小杉篤実さんが不慮の事故で亡くなられたのは、2月14日のバレンタインデーでした。憶えていらっしゃいますか?」
突然篤実の名前が出て俺は動揺する。思わず振り向いて「どうして彼女のことを知ってるんですか?」と尋ねた。
「あなたや大宮さんのことを調べ回っているうちに、彼女の話を聞きました。小学6年生の頃、同じゲームクラブで三人はとても仲良しだったと。やはり小杉さんのことを憶えていたのですね」
「当然です。大切な…友達でしたから」
「彼女の事故は、あなたにとってたまらなくつらいことだったと想像します。…それで野島さん、その事故の日が何曜日だったか憶えてますか?」
カイカンが何の話をしようとしているのか、俺にはわからなかった。だが忘れるはずはない。そう、確かあの日は…。
「土曜日です。午後から大宮が俺の家に遊びに来てましたから憶えてます」
「そう、土曜日です。里見先生もその日は土曜日だったとおっしゃっていました。しかしそうなると食い違いが出てくる。
野島さん、確かあなたは2月の末日、大宮産と日曜日の学校に忍び込んでタイムカプセルを埋めたとおっしゃいましたね。2月の末日は28日です。つまり14日が土曜日だったのなら28日も土曜日でなければおかしい。
それなのにタイムカプセルを埋めたのは日曜日…これはどういうことかおわかりですか?」
もちろんわかる。そんなの簡単だ。
「うるう年ですか」
そこでカイカンは立てていた指をパチンと鳴らす。運転席の女刑事も僅かに反応した。
「そのとおり、その年はうるう年だったんです。となれば2月の末日は29日の日曜日で曜日のずれはなくなります。そういえば今年もうるう年…このことに気付いた時、どうしてあなたが28年後の今年にタイムカプセルを掘りに行ったのかわかりました」
カイカンの語調が強まる。
「あなたと大宮さんは、こう約束されたのではありませんか?…『次に2月29日の日曜日が巡ってきたらその時に掘り出そう』と。
フフフ、子供の約束ですからね…それが何年後に巡ってくるのかまでは深く考えていなかったのでしょう。通常、同じ日付で同じ曜日の日は5・6年後に巡ってきます。しかし2月29日は4年に一度しか来ない、しかもそれが同じ曜日となると巡ってくるのは…」
「28年後ですか」
俺が答えると、カイカンは満足そうに「そういうことです」と言った。
「野島さん、今年がその28年ぶりの約束の年ですね。2月29日が日曜日になるうるう年ですね。何が言い対価おわかりですか?あなたは思い付きであの場所に行ったわけじゃない。約束を守って約束どおりの日に行ったんです。そう、大宮さんもそこに来ると信じて」
俺は大きく息を吐く。素直に感服した。
「お見事です、刑事さん。おっしゃるとおり、俺はずっと約束を憶えていました。毎年指折り待ってましたよ、海外に行ってしまった大宮と再び会えるその日を。だから俺は2月29日に公園に行きました。あいつもきっと来てくれると思って。だって、あいつは約束は絶対守る奴でしたから」
「29日の日中、あなたが公園内で誰かを待っていた姿が目撃されています。しかし、結局彼は現れなかった。だからあなたは一人で掘り出すことにしたんですね?」
「ええ、夜中の0時まで待ちましたよ。大宮は必ず来ると信じて…。来ないんで深夜2時くらいまで待ちましたかね。それでも来ないんで、意を決して一人で掘ることにしました。近くの工事現場からシャベルを失敬して…。
交通事故の後遺症で重労働はできませんので、ゆっくり時間をかけて掘りました。そして朝が来て、ようやく見つけたのがあの白骨でした」
「それで驚いて腰を抜かしているところを、犬を連れて散歩していたおじいさんに目撃されたわけですね」
俺は黙って頷く。カイカンは視線を窓の外に向けて言った。声も少し小さくなる。
「本当に…悲しい話です。あなたは桜の木の下で、大宮さんが来るのをずっと待っていた。でも彼は…その地面の下に埋まっていたわけですから」
またカイカンはこちらを見た。
「どうして嘘をつかれたのですか?カレンダーを見て思い出したなんて言わず、約束どおりにタイムカプセルを掘りに行ったとおっしゃればよかったのに」
俺は押し黙り、「すいません」とだけ返した。そして「刑事さん、大宮はどうして死んだんです?」と問う。すると今度はカイカンが沈黙する。
言葉のない車内。窓から注ぐ夕焼けは徐々に弱まってきている。都会の喧騒の中、人々は急かされるように行き交っている。それはまるで映画のスクリーンを見ているかのような、別世界の光景に感じられた。
「そうですね…」
やがて低い声が静かに告げる。
「そのことも明らかにしなくてはいけませんね。でもそれは現場に行ってからにしましょう」
「間もなく到着します」
女刑事が言った。気付けば車は五本桜公園の近くまで来ていた。

●ムーン

 私は公園の入り口に車を停める。後ろのドアが開き野島が、続いて警部が降りる。車を邪魔にならない位置まで移動させると、私も合流して三人で園内に入った。他に人の姿はない。散歩道をまたぎ、噴水の横を通り過ぎ、あの五本の桜の前まで来る。
「ご足労おかけしました、野島さん」
警部は隣で肩を落としている男にそう告げた。車内で語られた、どうして28年後にタイムカプセルを掘ったのかという謎解き。それを聞いてようやく警部のヒントの意味がわかった。
…これで遺体発見の経緯ははっきりした。次はいよいよ大宮がこの場所に埋められた謎だ。果たして誰が彼を殺害し、どうしてここに埋めたのか。
「それでは、事件を解明しましょう」
警部が掘られた穴の横に立って始める。
「この事件の大きな謎は、どうして大宮さんはこんな場所に埋められていたのかということでした。たくさんの人が行き交う公園は、遺体を隠す場所としては不適当です。穴を掘っていても目撃されるリスクが高いし、遺体を埋めた後でも発見されるリスクが高い。犯人にとってメリットはありません。
どうしても園内に埋めるしかなかったにしても、もっと目立たない場所を選ぶはずです」
野島は何も返さない。
「ではどうしてわざわざここに穴を掘って遺体を埋めたのか?…ずっと考えていましたが答えが出ません。でもそれは当然なんです。そもそもこの疑問が間違っていたんですから」
警部は少し笑ってちらりと私を見た。
「ある人が言いましてね、『穴があったら入りたい』と。これは恥ずかしいことがあった時の慣用句ですが、『穴を掘って入りたい』ではなく『穴があったら入りたい』というのがポイントです。そう、いくら恥ずかしいことがあったとしても、わざわざ自分で穴を掘る人はいない。でも、もしそこに穴があったら入りたい…これが人間の心理ですよね。
大宮さんの遺体が埋められた時も、これと同じだったんですよ。つまり、犯人は特にここに遺体を埋めたかったわけじゃない。ただ彼を殺害してしまった時、そこに穴があったから埋めることにしたんです。要するにこれは計画的な犯行ではなく、衝動的な殺人ということです」
そこで警部は右手の人差し指を立てた。
「しかし、人間一人が入るくらい大きな穴がどうしてあったのか…。他の誰かが掘ったのでしょうか?いや、他の誰かが掘った穴に勝手に遺体を埋めるなんてのは危険極まりない。誰も掘り返さない穴だと知っていたからこそ、犯人は利用したはずです。
…となると、穴を掘ったのも犯人自身と考えるしかないのです」
それは発想の逆転だった。通常衝動的な犯行であれば、犯人は殺人を犯した後で遺体を隠すために穴を掘る。しかしそうではなく、犯人は殺人に及ぶ前にもう穴を掘っていて、その穴があったから遺体を隠すのに利用したと警部は言っているのだ。確かにそれならば遺体が不適当な場所に埋められたのにも説明がつく。
しかし…その論理は大きく矛盾している。衝動的な殺人なのに、犯人が先に穴を掘っているはずがない。
「つまり犯人は遺体を隠すためではなく、別の目的で穴を掘っていたことになります」
私の胸中を察したように警部が言った。
「ではここでクエスチョン。たまたま穴を掘っている状況とはどういう時でしょうか?」
野島は沈黙を通している。
「フフフ…それはもうこの場所を考えれば一つしかありません。そう、タイムカプセルを掘り出していた時です。つまり犯人は大宮さんと一緒にここでタイムカプセルを掘っていた人物」
低い声が強みを帯びてくる。そういうことか…。私の緊張も高まる。となると犯人は…。
「では、タイムカプセルを掘り出すのは誰か?それはもちろんタイムカプセルを埋めた人物です。大宮さんと一緒にタイムカプセルを埋めた人物は、この世界にたった一人しかいません」
そして警部は硬直する男に告げた。
「それは野島武さん、あなたです。あなたが大宮さんを殺害しここに埋めた犯人なのです」

 気付けば日は大きく傾いていた。少しずつ辺りが夕暮れに包まれていく。犯人と名指しされた男は、両方の拳を足の横で強く握り、地面を睨み付けるように下を向いたまま直立している。
「野島さん、認めて頂けますか?」
警部の問いに彼は何も返さない。
「あなたしか考えられません。この殺人は、あなたと大宮さんが二人でタイムカプセルを掘り出していた時に起こったのです。あなたが28年前の約束を私たちに隠したのも、そのことを知られたくなかったからですね?」
掘られた穴を一瞥して警部は続ける。
「反抗は18年前、あの同窓会の夜に起こりました。久しぶりに大宮さんと再会したあなたは、彼と二人でここにやってきた。そこでタイムカプセルを掘り出そうという話になったのではありませんか?約束の日まではまだ18年ありましたが、大宮産は海外に旅立とうとしていました。その前に掘り出そうということになったのでしょう。
当時ここは小学校が廃校になり、公園に改修するための工事が始まっていました。だからシャベルも置いてあったのかもしれません。二人で地面を掘った…しかしそこで何らかのトラブルがあり、あなたは彼を殺してしまった。そして二人で掘った穴に彼の遺体を隠した…」
「いい加減にしてくださいよ」
野島が憤激を込めてついに口を開く。そして頬をこわばらせた顔を上げて怒声を放った。
「何を言ってるんですか?さっきは俺が大宮が来ると信じて約束の場所に行ったって言ったじゃないですか。俺がここであいつが来るのを待ってたって言ったじゃないですか!それなのに…。
自分で殺したんなら、大宮が来るのを待ったりしません。自分で遺体を埋めて、18年後に自分で掘り出して腰を抜かすなんて…そんな馬鹿なことするわけないじゃないですか!」
野島の言うとおりだ。彼が遺体を発見しなければそもそもこの事件が明るみに出ることはなかった。犯人ならばそんなことをするはずがない。しかし、警部はこの矛盾を切り崩すカードを既に手にしている。そう、今朝すずらん医大病院で私に調べさせたあれだ。
…そうか、そおういうことだったのか。
「野島さん、あなたが自分で遺体を発見した理由はただ一つ…殺害したことを忘れていたからです」
野島が目を見開いて口をつぐむ。
「交通事故による逆行性健忘…あなたが入院した時のカルテの中に精神科医の記録がありました。交通事故の被害者は、事故に遭う前の記憶を失ってしまうことがあるそうですね。
野島さん、あなたは同窓会を出てから事故に遭うまでの間の記憶を失った。つまり、大宮さんとここに来てタイムカプセルを掘り、殺害して彼をその穴に埋めたことを忘れてしまったんです。
あなたが車道に飛び出して車にはねられたのも、お酒に酔っていたからじゃない。反抗の直後で気が動転し、慌てて逃げ帰っていたからです」
いくつものエピソードが警部の推理で繋がる…そう、一本のストーリーになっていく。つまりこの事件は、反抗直後に犯人がその記憶を失い、時が経ってから自分で自分が埋めた遺体を発見したという…犯人すら気付かない自作自演だったのだ。
苦虫を噛み潰したように顔をしかめて言葉に窮する野島。ボロボロのコートとハットをまとった天才はさらに続けた。
「遺体を発見して、そこで初めてあなたは自分の犯行を思い出した。あなたが腰を抜かして青ざめていたのは、白骨に驚いていたからだけじゃない…自分が殺人者だと知ったからです」
「俺は…知りません」
野島は歯を食いしばって抵抗するが、警部は追及を緩めない。
「いえ、あなたの記憶は戻っているはずです。だからこそ事情聴取の時、必死に遺体が大宮さんではないかと私に確認したんです。もしそうだったら自分の記憶が事実だと証明されますからね。
それに、あの時あなたはこうおっしゃいました。『大宮は人助けがしたくて、そのために東南アジアへ行こうとしてたんです。あいつの無念を晴らしてやってください』と…。どうして彼が東南アジアへ行っていないことがわかったんですか?帰国して亡くなった可能性だってあるのに。
…あなたは知っていたんです。彼は旅立つ前、同窓会の夜に自分の手によって殺されたことを」
名刑事…この人は人の心が読めるわけではない。ただ相手の言葉の小さな矛盾・不自然さをけして見逃さず、そこから推理と論理によって相手の真実まで到達するのだ。そう、同じ物を見て、同じ話を聞いた私には、全く届かなかった天上の真実に。
それともまさか…前髪に隠されたあの右目は、心まで見透かせるのだろうか?
そんな空想に引き込まれそうになるのをグッとこらえ、私は息を呑んだ。

 流れる沈黙。冷たさを帯びた風が公園の木々を揺らす。そして誰も言葉を発さぬ中、新宿にそびえるビルの谷底へ斜陽は完全に姿を消した。
私は唇を結んで見守る。残照が消え、刻一刻と黒に染まっていく青い夕闇の中、警部と野島は無言で対峙し続けていた。
「…証拠はあるんですか?」
野島は消え入りそうな声で搾り出す。その瞳は充血し、古傷を負った下顎はいびつに震えている。
「証拠ですか…」
警部が残念そうに呟き、立てていた指を下ろしてから言った。
「大宮さんの致命傷は、後頭部への細い凶器による一撃でした。状況から考えて、タイムカプセルを掘る時に使用したシャベルで殴られたものと思われます。18年前のことですから、そのシャベルを発見するのは困難でしょう」
野島は何も返さない。
「しかしシャベルで後頭部を殴れば、犯人は必ず返り血を浴びたはずです。つまり犯人の衣服には大宮さんの血液が付着している。そう、これを確認すればいい」
「何を言ってるんですか刑事さん。それこそそんな服が残ってるはずないでしょう」
野島が僅かに鼻で笑う。しかし警部がひるむはずはなかった。
「いいえ、残っているんです。だってあなたは交通事故の被害者なんですよ?事故に遭った時の衣服は証拠品として保管されています。服は血で汚れていました…でもそれはあなた自身の出血だと当時の警察は判断しました。無理もありません。車にはねられた人の服がもともと返り血で汚れていたなんて、誰も想像しませんからね。
よろしいですか?つまりその福からあなたの血液に混じって大宮さんの血液も検出されれば…決定的な証拠になるんですよ」
野島の顔から完全に血の気が引く。もうひと押しだ。警部がこちらを見た。私は頷く。
「警部のご指示で、いつでも衣服を乾式に回せる手はずになっております」
一歩前に出てそう言うと、野島は膝を折ってその場に崩れた。憑き物が落ちたように、全身から力が抜けていく。
「俺が…俺が殺して埋めました」
そう囁くと、ずっとこらえていた感情が破裂したように、彼の瞳から涙が溢れ出す。そして声を上げて泣き始めた。警部は優しく「わかりました」とだけ告げる。
陥落…またも一つの事件が解き明かされたのだ。
それにしても未解決のひき逃げ事件ならともかく、とっくに解決ししかも18年も経過した交通事故の被害者の衣服を、警察が後生大事に保管しているとは考えにくい。今のは野島に自供させるための警部のはったりだったのだろう。私もそれがわかったからアイコンタクトで加担した。
野島はあの穴に向かって額を地面にこすり付けている。うずくまって泣くその姿は、亡き親友に許しを乞うているかのようだ。
警部と私のしたことはアンフェアだったかもしれないが、今回はこれでよかったのだと思う。罪を認めて全てを吐き出す以外、この慟哭者が救われる道はなかっただろうから。

間もなく辺りは完全な夜に包まれた。園内の外灯が点り、悲しみに暮れる男を寂しく照らし出す。警部はただ黙ってその影を見つめていた。