第六章 カルテ

●ムーン

 警部の指示に従い、朝一番ですずらん医大病院を訪ねる。周囲の高層ビルに全く引けを取らない大きな病院。私は事情を説明し、野島武の入院当時のカルテを見せてほしいとお願いした。もちろんビンさんが用意してくれた情報開示請求書を提示した上で。
「18年前の入院ですか…」
受付の奥から出てきた事務長が対応してくれた。パソコンで患者データをチェックしながら彼は言う。
「刑事さん、通常診療記録の保管義務は5年なんですよね」
「存じています。ではやはり野島さんのカルテは残っていないでしょうか」
「そうですね…。あれ?野島武さんは入院中に精神科の診察も受けているようですね。だとしたらカルテは残っています。精神科は長年の経過が重要なので、精神科に関わった患者さんのカルテは無期限に保管していますから」
よかった、と思うと同時に疑問も浮かぶ。
「どうして交通事故で入院された野島さんが精神科に?」
「う~ん、それはカルテを見ないとわかりませんねえ」
キーボードを操作しながら事務長は眉根を寄せる。
「しかも18年も前ですと、まだ電子カルテも導入されていません。倉庫からカルテの原本を探してこなくちゃいけません。時間がかかりますが、それでもよろしいですか?」
「もちろん構いません。お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
私は頭を下げ、その場で待つことにした。

 平日の院内は込み合っており、受付には長蛇の列。待合の椅子もおおよそ埋まっている。できるだけ邪魔にならない隅の席に移動して私は窓の外を見た。建ち並ぶ高層ビルの切れ間から、わずかに覗く水色の春空。
3月3日…ついにこの日が来たんだな。
そうだ、日付といえば昨夜の警部の謎かけは何だったんだろう。『ある年の元旦が日曜日だったとして、次にまた元旦が日曜日になるのは何年後でしょう?』…これが事件を解くヒントとはどういうことだろう。
得意げな警部の顔が浮かぶ。まったく…どうして天才というのは、思わせぶりでもったいつけるのが好きなんだろう。
ちょっとムカついてきた。時間もあるので私は頭の中で考えてみることにする。

1年は365日。365を7で割ると、52あまり1。つまり1年は52週と1日。よって元旦が日曜日なら、大晦日も日曜日。だから翌年の元旦は月曜日ということになる。
ようするに1年で曜日が1日ずれるわけだ。この法則で考えると、次にまた元旦が日曜日になるには、曜日が7日ずれればよいわけだから7年後…答えは7年後ということになる。

これが一体どうしたっていうんだ?まったく…警部のヒントはいつもヒントというよりクエスチョンだ。
そう思いながらふと待合のテレビを見ると、オリンピックのニュースをやっていた。
オリンピック…4年に一度。そういえば今年はうるう年。
そうだ、うるう年を考慮しなければいけない。うるう年は1年が366日になる。つまり52週と2日。ようするに、うるう年があると曜日が2日ずれることになる。
頭が混乱してきた。落ち着いて考えるんだ。うるう年は4年に一度。つまり普段は1年で1日ずつ曜日がずれるけど、4年に一度は2日ずれる。それもふまえて7日ずれるとまた元旦が日曜日になるわけだから…。
1+1+1+2+1+1=7。つまり6年でまた元旦が日曜日になるのだ。いや待て待て、うるう年が二回入る場合もあるぞ。
2+1+1+1+2=7。これでもよいわけだ。これなら5年でまた元旦が日曜日になる。
…結論。答えは5年あるいは6年。

思ったより複雑な問題だったな。まあ頭の体操にはちょうどいいけど…。しかし、これが何だっていうのよ?
大宮がどうして桜の木の下に埋められたのか、それをやったのは誰なのか…全然ヒントになってないじゃない。
あ~ムカつく!

 正午を過ぎても午前の外来診療は続いている。売店でお茶を買って待合に戻ると、相変わらずたくさんの患者やその家族たちが並んでいた。
「あの、すいません。精神科はどちらでしたかね」
立っていた私に後ろから声がかけられる。見ると少し腰の曲がった老人、隣にはその妻と思われる老婦人がいた。
「すいませんなあ。物忘れ外来にかかっとるんですが、場所がわからなくなってしもうて」
「あ、はいはい。精神科の物忘れ外来ですね」
確か売店に行く途中でその表記を見かけた。私は「こちらです」と二人を導く。夫婦は「ありがとうございます」とゆっくり私についてくる。
「ほらあそこですよ、おじいちゃん。壁に書いてあるのが見えますか?」
「ああ、わかりました。ご親切にどうも。ほら竹子、行くぞ」
老人は笑顔で頭を下げ、妻の手を取る。そして夫婦は寄り添いながら歩いていった。
物忘れ外来…ご主人か奥さんか、あるいは両方が認知症を患っているのだろうか。昨夜警部に「できるなら記憶を消したい」なんて言っちゃったけど…不謹慎な発言だったかもしれないな。
廊下を遠ざかっていく老夫婦の姿は、お互いを信頼して身を任せているように見えた。時が経てば記憶は薄らいでいく。夫婦で過ごした思い出も、交わした言葉も、いずれはお互いの名前さえ…忘却の波にさらわれるのかもしれない。
それでもああやって寄り添えるのは…どうしてなんだろう。私はそんなことを思った。

「お待たせ致しました」
待合に戻ったところで、息を弾ませた事務長が現れた。手には古そうなカルテが握られている。
「刑事さん、ありましたよ、お探しの物」

調査結果を報告するために警部に電話すると、なんと五本桜公園にいるとのことだったので、私もすずらん医大病院から直行する。公園脇に車を停めて、未だ現場保存で立入禁止の園内に入ると、警部は噴水の向こう…五本の桜の前に立っていた。湧き出る水が午後の日差しにきらめいている。
お待たせしました、と駆け寄ると、桜を見上げる警部の口にはおしゃぶり昆布、手には一枚の紙。それは里見に見せてもらった6年1組の集合写真だった。
「警部、その写真は…」
「やあムーン。これかい?実はさっきもう一度里見先生を訪ねてコピーしてもらったんだ。自分の記憶だけじゃ自信がなかったからね。でもこれで…はっきりした」
警部はその紙を折りたたむとポケットにしまい、桜からこちらに向き直る。
「実は村岡歯科医院からも歯型の情報が届いてね、監察医の先生にも照合してもらったんだ。その結果…あの白骨遺体は、間違いなく大宮光路さんであることがわかった」
「そうですか…」
「それで、そっちの調査はどうだった?」
「はい、入院当時の野島さんのカルテを見せてもらったんですが…」
私は手帳を見ながらその内容を伝える。すると警部はどこか寂しそうに「そう」と呟いた。警部が注目したのも精神科医の記載だった。
もしかして…予測していた?いや、きっとそうだ。だから私にこんな調査を命じたのだ。

しばしの沈黙。私は警部の肩越しに桜の根元を見る。そこには白骨が発見された穴がそのまま口を開いている。
埋められていたのは大宮に間違いなかった。18年前、海外に旅立とうとしていた彼に一体何が起こったのか…。今目の前に立つ私の上司は、きっともうその全てを見抜いている。
柔らかい風がそっと吹く。春の息吹が警部の長い前髪を揺らした。
「…じゃあ間違いない。これでストーリーは繋がった」
低い声がゆっくりそう言った。
「これから…どうされますか?」
「ムーン、今何時だい?」
腕時計を見て午後2時であることを私は伝える。
「よし、まだ間に合うな。会いに行こう…遺体を発見した人と、遺体を埋めた人に」
そこで警部はくわえていた昆布を一気に呑み込んだ。

●野島武

午後5時。会社から戻ると、部屋の前にあの二人が立っていた。
「お仕事お疲れ様です。野島さん、お待ちしておりました」
カイカンの低い声が狭い廊下に響く。少しだけ鼓動が速まったが、俺は冷静を装って返す。
「お疲れ様です。刑事さん、どうかしましたか?昨日知っていることは全てお話したと思いますが」
「連日ですいません。でも今日のお話で、おそらく最後になると思いますよ」
不気味に微笑むカイカンの隣で、女刑事が厳しい視線を俺に送る。そう、大宮に似たあの眼差しを。
「わかりましたよ。どうすればいいですか?また警視庁へ行きますか?」
カイカンが「いえいえ」と軽く首を振る。そして一歩こちらに歩み寄って言った。
「一緒に掘り出しに行きましょう…タイムカプセルを」
その瞬間、長い前髪に隠されたカイカンの右目が光ったように見えた。