第五章 昔語り

●ムーン

 思えば、私が同級生たちと楽しく仲良く過ごせた記憶は小学校の頃にしかない。中学から地元を離れて私立の学校に通ったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
入学後、少しずつ少しずつその空気を感じ取ってはいたのだが、2年生になる頃にはそれはもう手で触れそうなほど確かな物として、私と女子たちとの間に『隔たり』を作っていた。明らかな嫌がらせを受けたわけではない。それはふとした時に感じる距離に過ぎない。それでも、女子たちの心底にある自分への嫌悪を知るには十分だった。
理由はわかっている。俗っぽく言うならば、それはやっかみや嫉妬。私という人間は、どうも男性から好まれる容姿をしているらしい。小学校の頃からそういう視線もあることに気付いてはいた。しかし恋愛だ交際だという年齢でもなかったし、それ以上に同級生は幼い頃からの顔馴染みばかりだったので、男も女もなく、友情という絆で世界は構成されていた。しかし、中学からはそうはいかなかった。

最初に男子から告白を受けたのは、まだ入学間もない5月の連休明けの頃だった。クラスでもませた雰囲気を持つサッカー部の少年。ほとんど話もしたことがない相手だったので、私は当然断わった。これは後から聞いた話だけれど、どうやらクラスには私について『謎の美少女』という、なんとも愚かで安っぽい風評が広まっていたらしい。
そもそもの運のツキはそう、入学直後に体調を崩したこと。そのせいで入院生活を余儀なくされた私は、オリエンテーション旅行など同級生と仲良くなる最初のチャンスとタイミングを逃してしまった。それだけならまだしも、休んでいる間に、「入学式の時にすごい美少女がいた」「今休んでいる女子は絶世の美女」という、尾ひれに背びれに腹びれまで付いた噂が学校の廊下を泳ぎ回ったのだ。退院して久しぶりに登校した時、私は期待と好機に満ちた視線を容赦なく浴びることになったわけである。
そんな意図せぬ演出も相まって、私の苦難の日々は始まる。サッカー部の少年を皮切りに、その後も月に一度くらいのペースだったか、同級生の男子からの告白が続いた。あまりの頻度に、からかわれているのか、男子みんなでゲームでもしてるのかとさえ疑ったほどだ。
相手は真剣だったのかもしれないが、いずれの告白も私にとっては意味不明でうざったいものでしかなかった。好きだの大切だの言われても、だってあなたは私のこと何も知らないでしょ?…と思ってしまう。知らないのにどうして好きだなんて言うのか、結局見た目が好みってことか、それでいいんだ…。我ながらスレた女だと思うが、一度そう思ってしまったらもうとても先に進むなんてできなかった。もしかしたら、本当の私を知った途端に相手は離れていくのではないか、その時に一番傷付くのは自分ではないか、という恐怖感もあったのかもしれない。

決定的だったのは、先輩から告白された1年生の秋。相手は生徒会長で、壇上に立てば下級生からも黄色い声が飛ぶ存在だった。書記として生徒会にいた私も、彼の優しい指導にとてもお世話になった。
それは放課後、生徒会室に彼と二人でいた時のこと。自分の作業を終えて先に帰ろうとしたところで彼に呼び止められた。相手の瞳を見てピンとくる…まただ、と。男子の目の奥に、いつもと違うあの感じが見えたらもう間違いない。私はときめきとは正反対のドキドキを感じながら祈っていた…お願い、告白なんかしないでと。
しかしめでたく期待は裏切られ、彼もまたとうに聞き飽きた言葉をほざく。そして私も言い飽きた返事を告げる。相手は大きな落胆を見せたが、私はそれ以上に自分の絶望を感じていたから胸は痛まなかった。
足取りの重たい帰り道、まるで騙されたかのような悲しみを抱えて、私は「どうして?どうして?」と誰かに問いかけ続けていた。そしてまたどこをどう噂が広まったのかわからないが、翌週から私は同級生だけでなく、先輩の女子たちからもあの『隔たり』を置かれるようになった。

理屈はわかる。男子の好意がことごとく私に集中すれば、それは面白くないだろう。しかも私がそれら全てを辞退していると知れば、腹も立つだろう。でもそれは私のせいじゃない、私が何かしたわけじゃない。2年生になって女子からの『隔たり』がさらにエスカレートする中、男子からの告白ラッシュは相変わらず続いた。好きだの何だの言われる旅に、もういい加減にしてと怒鳴りたくもなった。私がいるからいけないのか、自分なんかいない方がいいんじゃないか、とさえ真剣に悩んだこともある。

2年生の夏には、少しでも女らしさを減らそうと、幼い頃からずっとロングだった髪をバッサリ切ってもみたが、それは女子たちの反感に油を注いだだけだった。
「ごめんね、寂しいから私も仲間に入れてよ」…と頭を下げる可愛げが私になかったことも、事態をますます悪化させたと思う。どうしてこっちが謝らなくちゃいけないんだ、勝手にひがんでなさい、どうせあんたたちのことなんて男子は何とも思ってないんだから…いつしか私はそんなふうに考えていた。女子たちに対して抱いていた孤独とコンプレックス。そのせいで渇いてしまった心を、自分は男子に人気なんだという不本意な栄光でどうにか潤そうとしていたのかもしれない。
…嫌な女だ、本当に。孤立すればするほど平然と振る舞い、何も気にせず男子とも会話してみせた。思わせぶりで小賢しい素振りもしてみた。女子から押し付けられる形でクラス委員になった時も、つらい顔一つせず、そつなく仕事をこなしてみせた。つくづく最低だ。

それならそれでいい。無理して仲良くしようなんて思わない。今更この溝が埋まるはずがない。私の中学時代はこうやって終わっていくのだろう…そんなふうに覚悟しかけていた2年生の秋に、私は彼女と出会った。

「大変そうだね、手伝おうか?」
土曜日の午後、一人教室に残ってクラス委員の仕事をしていた私に、廊下から声をかけてくれたのが隣のクラスの氏家美佳子だった。モデルのようにすらりと長身の彼女の存在は校内でも目立っていたから、私も彼女のことは知っていた。しかし1年生でもクラスは別だったので、それまで直接話をしたことはなかった。
「あ、いや、大丈夫」
急に言われて戸惑ったこともあり、私は咄嗟にそう断わった。しかし彼女は「遠慮すんなって」と教室にズカズカ入り込み、対面の椅子に腰を下ろした。
「だってそれ、文化祭のパンフレットの原稿でしょ?一人でやるの大変じゃん」
「そんな…。あ、それより氏家さんだよね。私は…」
「知ってるってあんたのことは、有名だもん。それよりあたしのこと知ってるんだね」
「う、うん。背が高くて目立つし、柔道の大会で優勝したって校内新聞にも出てたから」
彼女はそこで「そう」と少し微笑み、こちらに身を乗り出した。
「でも、あんたの方が目立ってるけどね。超絶美人のモテモテ少女。まあ…あんまりうらやましくはない状況みたいだけど」
彼女は真顔になって私の手元を見る。
「その作業、あたしのクラスじゃ女子何人かでやってるよ」
「ホームルームで提案したんだけど、一緒にやりたい人がいなくて…」
「大変だね。ちょっと貸して」
彼女は私の手から原稿を奪うと、「イラストに色を塗るのはあたしがやるから、あんたは文章の方書いて」と指示した。私が「そんな悪いよ」と言っても、「いいからいいから」と言って譲らない。
なんなんだこの子…と唖然としたが、不思議と嫌な気はしなかった。私は「ありがとう」と伝え自分の作業に入る。そういえば女子に感謝を伝えたのなんて、中学では初めてかもしれない。
その後は夕焼けが教室を染めるまで、二人でああだこうだと言いながら原稿を作っていった。

 帰り道、並んで川沿いの道を歩く。茜色の風景の中、鞄を大きく振りながら彼女が言った。
「結構楽しかったね。無事に終わってよかったじゃん」
「ありがとね氏家さん。本当に助かっちゃった」
「美佳子でいいよ。あんたのことはさ、前から気になってたんだ。女子連中が勝手なことをよく言ってるのを聞くからね」
やっぱり陰口言われてタカ、とそこで私はショックを感じる。とっくにわかってはいたことだけど、はっきり言われるときつかった。
「でも、そんなの放っておいていいよ。人は自分が負けてる相手を悪く言うもんさ。堂々としてりゃいい」
「ありがとう。でも堂々としてると余計にムカつかれるの」
「あちゃ、それもあるか」
苦笑いして彼女が言う。
「それでもさ、あんたは自分のやりたいようにやればいいのよ。女子たちのことを気にしないようにするってことはさ、結局気にしてるってことになるでしょ。だから女子たちのことなんか何も考えず、自分の思うままにすればいい。あんたはあんたなんだから」
…救われた気がした。そんなふうに思ってくれる人が学校にいたなんて。
「それにさ、女子全員が敵ってわけじゃないよ。言ってんのは一部の連中でさ、他はなんとなく流されてるだけ。ちなみにあたしは男子なんか興味ないから、あんたがモテモテでも別に腹も立たないし」
そこで美佳子は気持ち良さそうに背伸びをした。同じリズムで彼女のポニーテールが揺れる。
「…ありがとう」
もう一度心からそう伝えた。私の周囲にいつの間にか築かれてしまった『隔たり』…それを難なく飛び越えてくれた彼女。

その日から美佳子は私の友達になったのだ。

 それからの中学生活は本当に楽しかった。たった一人の存在でここまで世界が変わるのかと驚いた。私と美佳子は放課後一緒に帰ったり、喫茶店に寄ったり、休みの日にはショッピングやカラオケに行ったりした。美佳子の柔道の試合を応援にも行ったし、修学旅行でも一緒に観光したり夜を語り明かしたりした。美佳子のおかげで、私は人並みの青春を取り戻すことができたのだ。

彼女はすがすがしいほどまっすぐで、後腐れない性格をしていた。教室で私が女子の輪に入れずポツンと一人でいる時でも、堂々と入ってきて何も気にせず声をかけてくれる。軽薄な男子に囲まれ遊びに誘われて困っていた時も、「はいはい、ちょっとごめんなさいよ」とそこに割り込んで私を連れ出してくれる。
校内でアイドルグループのような存在になっていた男子テニス部に対しても、文化祭の予算を巡って委員会で真っ向から対決。男子テニス部キャプテンの喜多村を論破し、見事に柔道部の予算を勝ち取って見せた。かといって誰かを悪く言うことはなく、「敵に塩を贈るのよ」と、文化祭では後輩を引き連れて男子テニス部の模擬店に押しかけ収益に貢献したりしていた。
すごい、本当に美佳子はすごい。男子からも女子からも好かれ、信頼され、尊敬されている。私みたいに、ハリボテの美しさでしか人を惹きつけられない人間とはスケールが違う。自分も美佳子のような人間だったらよかったのにと何度も思った。そして彼女が友達であることを心から誇らしく、有難く思っていた。

 3年生の冬、卒業を控え私と美佳子は別々の高校に進むことになった。私たちの学校は中高一貫で、そのままエスカレーター式に進学できたのだが、美佳子はスポーツ推薦でもっと柔道に取り組める遠くの高校に行くことを選んだのだ。
小雪がちらつく帰り道の公園で打ち明けられた時、彼女は「ごめんね」と言った。
「どうして謝るのよ。自分のやりたい道に進むなんてすごいことよ」
「ありがとう。でもあたしがいなくなって…あんた大丈夫?」
彼女は自分のことよりも私のことを心配してくれていたのだ。正直、唯一の友達がいなくなるのは寂しかった。不安もあった。でも、笑顔で送り出すのが親友の務めだと私は思った。
「大丈夫よ。美佳子のおかげで、女子からの当たりも随分弱くなったし…。それに、私は美佳子から数え切れないくらいの思い出をもらったから。だから、私のことは気にせず自分のやりたいことをやってほしいの」
「大袈裟なんだよ、あんたは。ハハハ…」
豪快に笑う彼女。その明るさが好きだった。私も合わせて笑う。
「新しい高校でも頑張ってね」
「ハハハ、ありがとう。あたしもあんたのおかげでさ、たくさん楽しい思い出ができたよ。まあ色恋方面は全くなかったけどねえ」
いつもサバサバして男子とも対等に渡り合う彼女だけど、実はすごく恋愛に憧れてるんだろうなあと感じる瞬間があった。でも彼女がそんな話題を出すことはなかったし、私も当然言うはずがなかった。
「もしかして美佳子、好きな人とかいた?」
「バカ、何言ってんのよ。それよりさ、友情の記念に何か残さない?」
照れくさそうにそう言って彼女は話題を変える。私もそれ以上は言及せず、一緒に何を残すかを考えた。そして、タイムカプセルを埋めようということになったのだ。

 卒業式を目前に控えた3月3日、私たちは休日の中学校にやってきた。あの日の空は、青の絵の具に白の絵の具を少し足してたっぷりの水で溶かしたような、そんな水色をしていた。
校庭の片隅にあったプラタナスの木の根元に、二人で小さなタイムカプセルを埋める。中身はいくつかの記念品と、10年後の自分たちへ宛てた手紙。しっかり土で蓋をしてから、二人で木の周りをクルクル回りながら笑い合った。
そして美佳子が悪戯っぽく、ポケットからカメラを取り出す。木の前に私を立たせ写真を撮ろうとした。あれこれポーズの指示を出されて照れていると、私は校庭に歩いてきた用務員のおじさんに気付く。私たちは、シャッターをおじさんに頼んで一緒にフレームに収まることにした。

そして無事撮影は終了。おじさんにお礼を言って、私たちは学校を後にする。
「いよいよ来週は卒業式だね。もしかしたら最後にさ、また何人か男子がアタックしてくるかもよ?」
「もう、やめてよ」
彼女にならこんな冗談を言われても嫌じゃない。
「それに最後っていっても、卒業式の後にスキー旅行もあるし」
スキー旅行は有志参加だったが、私も美佳子も申し込んでいた。もしも美佳子がいなかったら、絶対私は参加しなかった行事だ。
「そうだった。じゃあそれが最後の思い出か」
やはり自分だけ別の高校に行くのは寂しさもあるのだろう。私は「それに、会えなくなっても友達でしょ」と告げる。
「もちろん。じゃあ今日の写真はスキー旅行終わって、新しい高校が落ち着いた頃送るね。近況報告も兼ねてさ」
「了解、楽しみにしてる。約束だよ」
「うん、約束。タイムカプセルも、必ず一緒に掘り出すんだからね。10年後の3月3日、忘れないでよ」
「絶対忘れないよ」
そんな会話をしながら私たちは信じていた。卒業しても、別々の高校に進んでも、ずっと友達でいられると。
それがまさか一週間後のスキー旅行で壊れてしまうなんて、これっぽっちも思っていなかった。

 二泊三日のスキー旅行。正式な学校行事ではなく有志参加ということもあって、その内容はかなり自由だった。行きのバスも私たちは隣に座り、会話を楽しんだ。そして初日から初めてのスキーに挑戦し、体はクタクタになった。
さすがに部屋割りはクラスごとだったので同じ部屋にはなれなかったが、美佳子には私以外の友達もいる、他の子とも思い出を作りたいはず…そう思って私から部屋を訪ねることはしなかった。そう、別に私たちはこれでおしまいじゃないんだし…そう思っていた。

そんな初日の夜、ホテルのロビーでジュースを買っていた私に、一人の男子が声をかけてきた。名前は田所、黒縁のメガネをかけたクラスでもあまり目立つことのない少年。多くの男子が私に好奇の視線を注ぐ中、彼だけは興味がなさそうにいつも窓際の席で難しそうな本を読んでいた。文化祭でも、華やかな模擬店が並ぶ中で、彼だけは図書委員として廊下の片隅で古書販売をしていた。そんな文科系の彼がスキー旅行に参加していることが私には少し意外だった。
「あの、ちょっと話があるんだけどいいかな」
そう言われて私は頷く。そして彼に導かれ、人目につかない階段の踊り場まで移動した。先を歩く彼の背中を見ながら、私は考えていた。まさか…いや、そんなはずはない。彼まで私に告白するなんてこと…絶対にない。
目的地に到着し、私はドキドキしながら彼の言葉を待った。
「突然ごめんね」
彼はどこか恥ずかしそうに言う。私は内心の動揺を悟られぬよう、「別にいいけど、何?」と素っ気無く返した。しばらくもじもじしていた彼は、意を決したように言葉を続ける。
「実は僕、ずっと氏家さんが好きだったんだ」
「えっ」
思わず声が出てしまう。
「氏家さん、別の高校に行っちゃうでしょ?その前に気持ちを伝えたいんだ。だから協力してくれないかな、頼むよ」
必死な眼差し…本気なんだ。田所は本気で美佳子を…。
美佳子の気持ちはわからない。でも、彼女が恋愛に憧れているのは間違いない。彼女に多大な恩のある私は、少しでもそれを返したかった。いつか話していた恋愛方面の思い出も彼女に作ってあげたかった。
もちろん葛藤もあったが、私は決断した。小さく深呼吸してから彼に言う。
「わかった、協力するね。私はどうしたらいいの?」

 旅行二日目も日中はひたすらスキーだったが、私は夜のことを思うとあまり集中できなかった。田所は「クラスの違う僕が氏家さんの部屋を訪ねると目立っちゃうから、そうなると氏家さんに迷惑かけちゃうから、うまく呼び出してくれないかな」と頼んできた。承諾した私は夕食の時、話がしたいから9時に踊り場に来てと美佳子に伝えた。彼女も話したいことがあるからと快く応じてくれた。
実際に踊り場に行くのは彼だ。嘘をつくのは少々胸が痛んだが、仕方ない。私は早々に入浴を済ませると、一人ロビーでジュースを飲みながらその時刻を待った。引率の先生たちも、最後の夜だからと就寝時刻などはうるさく言わなかった。
8時半を過ぎた頃、何人かの男子が騒ぎながらロビーに来る。自動販売機の陰になって私の存在には気付いていない。その中の一人が男子テニス部の喜多村であることは声でわかった。
「それで喜多村、お前せっかく告白されたのにふっちゃったのかよ。旅行中に女子に告白されるなんて最高じゃん」
「ああ。だって自分より背が高い女なんて俺のタイプじゃないもん。それに柔道強いなんて恐いぜ」
聞いた瞬間に全身が凍り付く。それって…。
「それに俺、他に好きな女いるしな。だから、ちゃんとそう言って断わったよ。氏家はいい奴だけど、やっぱり恋愛対象には…」
聞き終える前に私はロビーを飛び出していた。美佳子が喜多村に告白?じゃあ美佳子は喜多村が好きだったの?だとしたら私のしたことは…。
間に合ってくれと願いながら、あの踊り場に走る。しかし、そこに行く前の廊下で田所と出くわした。彼の瞳には涙が浮かんでいる。
「た、田所くん」
「ああ、君か。色々ありがとね、協力してくれて。でも…ダメだったよ」
彼はそう言うと顔を伏せ、私の言葉を待たずに走り去った。追いかけようかとも思ったが、私はそのまま踊り場に向かう。
たどり着くと、そこには美佳子が壁の方を向いて立っていた。
「美佳子…」
声をかけた私に気付いて、彼女がゆっくりこちらを向く。その瞳には明らかな憎悪が浮かんでいた。
「あんた…何しに来たのよ」
「え?」
「田所に聞いた、あんたに協力して呼び出してもらったって。それで…いいことでもしたと思ってんの?」
彼女の怒りの理由がすぐにはわからなかった。
「あの、別に悪気はなかったの」
「あのね、あたしは喜多村が好きだったのよ。だから最後に伝えようと思って告白したの、生まれて初めて男の子に好きだって言ったの!」
彼女の震える声が薄暗い階段に響く。瞳から流れる涙が非常口のライトを受けて光っていた。
「でも、でもね、喜多村はあんたが好きなんだって!だからあたしとはつき合えないって」
そんな…。
「ねえどんな気持ち?たくさんの男子から好きだって言われて、チヤホヤされて」
「美佳子…」
「それであたしには田所をあてがって…。ねえ、何それ?余裕?嫌味?ねえ、馬鹿にしてんじゃないわよ!ふざけないでよ!」
「そんなつもりはなかったの、ねえ聞いて」
「どうしてそんな余計なことするの?あたしを馬鹿にしてるの?それとも全然モテないから哀れだとでも思った?」
美佳子は悔しそうに…それ以上に悲しそうに、私を責め続ける。これまで見たことのない彼女の姿だった。
「そりゃあんたはいいわよね。あたしの気持ちなんかわかるわけないよね。今までも我慢してたけど、やっぱりあたしも無理。あんたとなんかつき合えない!」
悲痛な声が廊下にまで響いた。その迫力に圧倒され、私は何も言えなくなってしまう。せめて涙の一つでもこぼせたら、彼女にこの気持ちを伝えられるのに…どうして私はこんな時でさえ平然としていられるのだろう。
美佳子は全身をわなわなと震わせ、両手で瞳を覆うと涙を拭った。
「あんたは…最低よ!」
そう言ってもう一度私を睨むと、彼女は走り去った。スリッパの音が遠ざかっていく。
一人取り残される私。追いかけることもできず、洗い髪が冷え切るまで私はただそこに立ち尽くすしかなかった。

翌日、帰りのバスでは美佳子は別の友達と座っていた。
旅行が終わり、翌月私は高校に進学したが…美佳子から約束の写真が届くことはなかった。そしてたった一つの友情を失った世界は元に戻り、私は孤独な学生時代を続けたのである。

「そんな彼女と、まさか警視庁で再会するなんて思いませんでしたね」
その言葉で私は昔語りを締めくくった。警部はおしゃぶり昆布をくわえながらずっと黙って聞いていた。もちろん全てを話したわけではない。それでもこんなに自分の内面を人に打ち明けたのは初めてだった。
「これでおしまいです、警部。まあどこにでもあるつまらない話ですよ」
「う~ん、友達のためにしたことが仇になる…か。あの頃は好きだという気持ちが誰かを傷付けるなんて想像もできないもんなあ。君も氏家巡査も、もちろん田所くんも喜多村くんも、誰一人悪いことはしていない」
考え深げに低い声が言う。別にそんなふうにフォローしてもらわなくていい。変に甘酸っぱい青春の思い出にしてくれなくていい。ただ単に…私が嫌な女だという話なのだから。
「それで…ずっと氏家巡査とは?」
「連絡してません。他に女友達もいなかったんで、同窓会にも行きませんし」
「会いたがってる男子はいるかもよ?今の話に出てきた…」
「やめてくださいって。それに美佳子が好きだった彼が私に合いたがるはずないですし。もういいですよ、この話は」
やっぱり話すんじゃなかった。雰囲気に任せて言っちゃったけど…失敗した。
私の不快を察したのか警部は少し言葉を止め、またゆっくり口を開いた。
「それにしても、君がタイムカプセルとすぐにひらめいた理由がわかったよ」
「ええまあ、偶然ですけど。彼女と約束した10年後の3月3日が明日…いやもう今日ですね。それで…ずっと気になっていたので」
「掘り出しに行くのかい?」
いいえ、と私は迷わず首を振る。
「一人で掘っても仕方ないですし、それにこの事件も片付いていませんし」
「事件か…確かにまずはそっちを解決しなくちゃね。でもまあ少し安心したよ、君にもちゃんと恋や友情に胸を痛めた青春があって。このミットに来てから、仕事だけが人生って感じだったから」
「恥ずかしいからやめてください」
私は顔が赤くなるのを誤魔化すために、慌ててコーヒーを飲み干す。
「私からすれば記憶から消したい思い出なんですから。ああもう言うんじゃなかったです、穴があったら入りたい」
「ごめんごめん、別にからかってるわけじゃない。この仕事を続けていくのなら、そういう経験は必要ってことさ、絶対にね」
警部もカップを空けると昆布をくわえて立ち上がった。そしてまたホワイトボードに視線を送る。私も腰を上げた。壁の時計を見ると、もう2時を過ぎている。
「どうされます警部、今夜は終わりにしますか?」
返答はない。見ると、上司は右手の人差し指を立てた状態で石像のように完全に固まっていた。まさかこれは…。
警部の体が微動谷しなくなった時、それは頭脳がフル回転している時だ。今警部の頭の中ではまるでビッグバンの後の宇宙の創造のように、いくつもの星がぶつかったり融合したり消滅したりしているはずだ。
「…ムーン」
黙って見守る私に、口だけ動かして警部が言った。
「さっき君が言った言葉をもう一度言ってくれ」
「え?今夜は終わりにしますかと言いましたが」
警部は「違う、その前だ」と返す。思い出しながら私は言う。
「記憶から消したいとか、穴があったら入りたいとか…そんなことですが」
「それだ!」
警部が立てていた指をパチンと鳴らし、まるで金縛りが解けたかのように動き出した。
「どうやらストーリーが繋がりそうだ。どうして野島さんは28年も経ってからタイムカプセルを掘りに行ったのか、どうして大宮さんはあんな場所に埋められたのか、そして彼を殺害した犯人は誰なのか…」
私にはさっぱりわけがわからない。まさか一瞬にして解けたのか、ホワイトボードに羅列された全ての謎が?
「警部、一体…」
「ムーン、君に明日調べてほしいことがある。野島さんが交通事故に遭った時に治療を受けた病院に行ってほしいんだ。その間に私は交通課に行くから」
「は、はい…」
「いいかい?病院で調べてほしいことはね…」
急いでその指示をメモする。そして、ペンを止めて困惑した私に警部が言った。
「フフフ、わからないかい?じゃあヒントだ。ある年の元旦が日曜日だったとして、次にまた元旦が日曜日になるのは何年後でしょう?」
この人は何の話をしているのだろう。あ~もう、こういう時悔しいんだよなあ。
私のモヤモヤなどお構いなしに、変人上司は得意げにこちらに歩み寄ってくる。
「ありがとうムーン、君が部下でよかったよ」
そう言って昆布をポケットに戻す警部。そしてそのまま隣を通り過ぎ、「明日はきっと忙しいよ、おやすみ」と部屋を出ていった。

●野島武

 親の仕事の都合で山口県から東京に引っ越し、五本桜小学校に転校したのは俺が4年生の時だった。最初は方言や文化の違いで周囲から浮いたりもしたが、二学期の中頃にはそれなりにクラスに溶け込めたと思う。三学期が終わる時には、進級でクラス替えがあることにとても寂しさを感じた。
そして5年生になった春、俺はあいつ…大宮光路と同じクラスになった。親がいなくて施設から通ってる子がいると母親連中が時々話しているのを聞いていたから、大宮の存在は4年生の頃から知ってはいた。仲良くなったきっかけは確か…たまたま隣の席になったことだったと思う。いつの間にか俺たちは一緒に帰ったり、遊んだり、俺の部屋で宿題をしたりするようになっていた。

大宮は容姿も言葉遣いも大人びていて、落ち着いた雰囲気のある少年だった。俺の家に来るのも最初は遠慮していたし、クラスで笑顔を見せることも少なかった。そんなあいつが少しずつ俺の前では声を上げて笑うようになった。そして一緒にいるうちにわかったが、大宮は絶対に約束というものを破らない奴だった。待ち合わせの時間も、貸した漫画を返す期限も、テレビゲームをする順番も…大宮は必要医女王に律儀に守っていた。同級生の多くが通学中に駄菓子屋に立ち寄ってしていた買い食いも、「学校が禁止していることをするのはよくない」と言って絶対にやろうとしなかった。おかげで俺も駄菓子屋に行くことはなかった。
一度だけ、家族がいなくて寂しくないかと訊いてみたことがある。すると大宮は「その分たくさんの人に助けてもらって暮らしている。だから俺もいつか誰かを助けたいと思う」と答えた。約束を厳守するのも、そんな気持ちの表れだったのかもしれない。

 そんなこんなで俺たちは親友になったわけだが、大宮との日々を楽しむ一方で、俺にはクラスに気になる女子もできた。彼女の名前は小杉篤実といった。特段勉強やスポーツが得意なわけではなく、クラスで目立つ存在でもなかったが、俺は彼女の物静かな雰囲気と時折見せる無邪気な笑顔が好きだった。ただ5年生の時はほとんど話す機会もなく一年が経過してしまった。
彼女との距離が縮まったのは6年生の春、同じゲームクラブに入った時からだ。俺と大宮はもちろん示し合わせて入部したが、そこに彼女が入ってきたのは正直驚いた。
部活といっても、小学校のそれは放課後や休日を費やすようなものではなく、時間割に定められたクラブの時間にだけ行なうものだった。しかし部員がたった三人だったこともあり、俺たちはそれ以外の時間でも集まるようになった。休日の図書館で海外のゲームを調べたり、俺の家でオリジナルのカードゲームやボードゲームを考案したりした。
親友の大宮がいて、好意を寄せていた篤実がいて…ゲームクラブで過ごす時間は俺にとって最高に居心地の良い楽園だった。

6年生にもなると、クラスでは誰それが誰それを好きだといった噂が飛び交うようになる。俺もふざけた感じで篤実に「お前も好きな奴とかいるの?」と訊いてみた。すると彼女は「そんなの内緒だよ」と、唇に人差し指を当てて可愛く微笑んだ。
その時、もしかしたら大宮のことが好きなんじゃないかと思った。大宮は背も高く勉強もスポーツもできた。施設暮らしという生活環境も、他の男子にはない大人の雰囲気をかもし出していて、女子から人気があった。だからもしかしたら篤実も…。
でも、それでもよかった。大宮はいい奴だし、この三人で過ごせることが俺は本当に楽しかったから。

 6年生の三学期。俺は両親の方針で大宮や篤実が行く公立中学ではなく、少し離れた私立の中学に行くことになった。もちろん二人と離れたくなかったが、親に刃向かうことは小学生の俺にはできなかった。
それを告げた時、篤実は「卒業しても、ずっと三人仲良くしようね」、大宮は「友達であることに変わりはない」と言ってくれた。そして篤実の発案で、三人でタイムカプセルを埋めようということになった。

 そしてあの2月14日がやってくる。その日は土曜日で、午後から大宮が俺の家に遊びに来ていた。二人でタイムカプセルの中身をどうしようかと相談していると、夕方に家の電話が鳴る。それに出た母親が慌てた様子で部屋に駆け込んできて、篤実が看板の下敷きになって病院へ運ばれたと教えてくれた。俺は気が動転して母親を質問攻めにした。日ごろ物事に動じない大宮も、その時ばかりは眼を見開いて動揺をあらわにしていた。
しかし子供の俺たちにはそれ以上の情報は与えられず、連絡網でも落ち着いて待機するようにとの指示だけが回された。そのまま迎えた2月16日の月曜日、登校した俺たちに告げられたのは、彼女の死だったのである。

…世界から、全ての音と色が消えた。
担任の里見先生が必死に何かを叫んでいる。同じ言葉をくり返している。でも何も聞こえない。何も伝わってこない。
どのくらい時間が経っただろう。教室のどこかから始まったすすり泣きがいつしか大合唱になっていた。それに気付いた時、俺もワンワン声を上げて泣いた。どんな気持ちなのかはわからなかった。ただ何かが悲しくて、喉がちぎれるほど泣き続けた。
先生は唇を噛んで教卓の端を握りしめている。隣を見ると、大宮は顔を歪めて篤実の机を見つめていた。

それからの日々は、どんなふうに過ごしていたのかよく憶えていない。身近な人間、しかも好意を寄せていた存在がこの世からいなくなるという初めての経験。幼い心がそれを現実として受け止めるには、多くの時間が必要だった。大宮もそのことについては何も言わず、しばらくは無言の登下校が続いた。ただ篤実との約束だったタイムカプセルだけは、ちゃんと埋めようと二人で決めた。

 2月の末日。俺たちは日曜日の学校に忍び込み、二人で穴を掘った。場所は五本桜の真ん中の木の根元。本当は三人でワイワイ楽しみながらするはずだった作業を、俺たちは黙々と続けた。そして穴が完成すると、ゲームクラブで考えたゲームの資料や写真などを詰めてタイムカプセルを埋めた。また黙々と二人でそれに土をかぶせていく。
腕を動かす大宮を見ながら、俺は一つの可能性を考えていた。その頃になるとようやく頭も回り始めていたのだろう。俺は疑った…あの日、篤実と待ち合わせをしていたのは大宮だったのではないかと。
篤実が事故に遭ったフェンス前は、ゲームクラブで待ち合わせをする時もよく集合場所にしていた。バレンタインデーに彼女が会う相手といったら…俺には大宮くらいしか思い付かなかった。
…でもそんなはずはない。あの日大宮は俺の家にいた。誰よりも約束を守る大宮が、それを忘れるはずがない。
結局俺は、その考えを口にすることなく胸の中で破棄した。
そして、ほとんど言葉も交わさぬまま、俺たちのタイムカプセルは地中へと姿を消したのだった。

 篤実のいない卒業式を終え、俺は予定どおり私立の中学に進んだ。最初の頃は時々大宮とも電話をしていたが、だんだんとその間隔は延びていった。話せば話題にしなくても、どうしても彼女のことを思い出してしまう。俺だけじゃなくきっと大宮もそうだったのだろう。それはやっぱりつらく苦しいことだった。
それぞれの日々を送りながら、やがて俺たちの連絡は途絶えた。そしてそれ以降は俺も新しい人間関係の中で生きていった。そう、駅で別の電車に乗り換えたように、俺たちは交差することなくそれぞれの路線を進んだのだ。

 大学を卒業した22歳の3月。五本桜小学校が廃校になり白樺小学校に統合されるということで、同窓会の連絡が届いた。懐かしい顔ぶれに会いたくなって俺も出席した。
当日は同級生のほぼ全員が参加していて、大宮も来ていた。
話をするのも10年ぶりだったが、俺は明るく「久しぶり」とグラスを差し出した。大宮も「久しぶりだな」と応じる。そして篤実のことには触れずお互いの近況報告。大宮の容姿や口調は小学生の頃の面影と重なった。ただそれはゲームクラブで笑っていた大宮ではなく、知り合った頃のあまり笑顔を見せない大宮に戻っていた。もうじき自分は東南アジアへ人道支援活動に旅立つ、とあいつは真剣な面持ちで話した。
「人道支援って…就職とかしないのかよ」
「向こうで衣食住は世話してもらえるから、まあ半分仕事みたいなものだよ」
「よく決心したな」
「中田さんっていう、ずっと面倒を見てくれていた役所の人がいたんだ。俺にとっては母親代わりの人だった。半年前に亡くなってな…背中を押された気がしたんだ。今こそ恩返しをする時だと。それで…決断したんだ」
「そうか、頑張れよ」
確かそんな会話を交わしたと思う。その後、旅立つ大宮にみんなで乾杯のエールを贈った。
そして二時間が経過した頃、幹事が一次会が間もなく終わると告げた。みんなから拍手と歓声が上がる。心地良い熱気に心と体を預け、俺たちはもう一度グラスを合わせた。

…と、ここで俺の記憶は途切れる。

「…さん、野島さん、わかりますか?」
うっすら目を開いた俺の顔を覗き込んで、白衣の女が言った。…看護師だ。俺は声を出そうとしたがそれができず、わずかに頷いてみせる。看護師は「先生を呼んできます」とその場を立ち去った。
何がどうなってるのかわからない。腕も足も動かず、体中がどうしようもなく痛くてそしてだるい。かろうじて目と顔を僅かに動かして周囲を観察すると、ここが病院であることがわかる。鼻と口には酸素マスクもはめられているようだ。喉が渇いて気持ちが悪い。
間もなく男性医師がやってきて、また俺の名前を呼んだ。俺は瞬きでそれに応える。彼はここがすずらん医大病院であること、俺が交通事故に遭い運ばれてきたこと、事故からすでに三日が経過していることを教えてくれた。下顎や肋骨、一部の内臓に損傷があったが、いずれも手術で修復できたらしい。
説明を聞きながら、眠気とだるさで俺の意識はまた遠のいていく。その後家族や知人がお見舞いにも来てくれたが、まどろみの中にいたのでよく憶えていない。

意識がはっきりして記憶も安定したのは、数週間経過して一般病室に移った頃だった。その頃になると、外科の医者だけではなく精神科の医者も俺を診察していた。
それらも落ち着くと、次は警察からの聴取もあった。俺は同窓会帰りに道路に飛び出して車にはねられたようだ。飲み過ぎには気を付けてくださいと言われ、俺も苦笑いで「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。

 その後もリハビリをしたり、加害者とのやり取りをしたりしながらの入院生活。事故は酔って飛び出した自分にも過失があったと俺は認め、相手も優しい人だったので、特に争ったり遺恨を残したりすることもなく事後処理は終了した。そして事故から半年後、俺は無事に退院した。
4月から働く予定だった会社には、さすがに申し訳ないので就職を辞退し、俺はもう一度就職活動をした。そして翌年の春、1年遅れで仕事も見つかり、俺の人生は元に戻った。

 交通事故に遭ってから18年。40歳になった俺は未だ結婚もせず、特に波風のない穏やかな日々を送っていた。体の調子も悪くなく、激しい運動はできないが日常生活には支障ない。下顎の古傷も特に気にならなくなっていた。
気になることがあるとすれば…同窓会以来会っていない大宮のことくらい。まああいつのことだから、海外でも真面目にたくましくやっているだろう、もしかしたら向こうで結婚したのかもしれない、なんて思っていた。
それに俺たちには再会の約束があったから、その日を待てばよかったのだ。

 …ピピッピピッピピッ。
時計のアラームで俺は目を覚ました。3月3日の水曜日、午前7時。睡眠時間は短かったが、なんだか長い夢を見ていた気がする。
アラームを止めると、俺は布団から出て身支度をする。昨夜の事情聴取のことが少し気にはなったが、それはここで悩んでも仕方がない。もしまたあの風変わりな刑事がやってきたら、それはそれで迎え撃てばいい。
パンとコーヒーで簡単な朝食を済ませると、俺は勇んで会社に向かった。