第四章 取調室

●ムーン

 ゆっくりドアが開いて現れたのは、似顔絵を髣髴とさせる人物だった。小柄で、垂れ目で、そして顎には古傷…。間違いない、志賀老人が目撃したのはこの男だ。
「どうも、本当にこんな時刻にすいません。野島さんですね?私がカイカン、そしてこちらがムーンです」
警部に紹介され私は会釈する。野島は疑心に満ちた瞳で私たちを交互に見た。
「何かの冗談ですか?」
無理もない、警部の格好は言うに及ばず、名乗った名前も奇妙極まりない。「いえいえ、真面目な捜査です」と説明する上司の隣で、私は警察手帳を示した。
「それで…俺に何の用ですか?」
「おわかりなのではありませんか?」
警部がカマをかける。野島は不機嫌そうに「さっぱりわかりませんが」と返した。
「そうですかね。昨日の朝7時過ぎ、南新宿にある五本桜公園で土の中の遺体を発見したのは…野島さん、あなたですよね?」
男の表情がこわばり瞳が泳ぐ。しばらくして「違います…俺は知りません」と言ったその声は明らかに動揺していた。
「目撃情報を元に作成した似顔絵はあなたにそっくりですよ。あなたが五本桜小学校の卒業生であること、遺体が見つかった公園がその小学校だったことも、調べはついています」
「俺じゃ…ありません」
「そうですか。では野島さん、ところでこれは何でしょう?」
警部はおどけた口調となり、先ほどホームセンターで購入した物を見せる。コートのポケットから取り出されたそれを、野島はまじまじと見た。
「このスコップが何か?」
「スコップ?これはシャベルでしょう」
警部が見せたのは、西日本でいうところのスコップだった。
「何を言ってるんですか刑事さん。シャベルってのはもっと大きいやつでしょう」
まさかこの話が捜査に役立つことになるなんて。野島が警戒なく答えてしまうのも当然だ。
「フフフ、実はシャベルとスコップには面白い話がありましてね」
警部はビンさん直伝の雑学を披露する。そして、現場で目撃された人物もシャベルとスコップについて西日本式の認識をしていたことを説明した。
「いかがです?やはり公園で目撃されたのはあなたです。もう認めて頂けませんか」
「知りませんって。西日本出身の人なんて世の中にいくらでもいるでしょう。俺じゃありません」
「であれば、指紋の採取に応じて頂けませんか?実は現場に残っていたシャベルから指紋が検出されているんです。穴を掘っていたのがあなたではないのなら、指紋は一致しないはずですよね?」
真綿で首を絞められるように、じわりじわりと苦悶の表情を強める野島。そこで警部の低い声がアパートの廊下に重たく響いた。
「野島さん…いかがですか?」
よし、もうひと押しだ。
「別にあなたを逮捕しようというのではありません。遺体の第一発見者として、お話を伺いたいだけです」
「わかりましたよ…警察に行きます」
観念したように野島が言った。ようやく…警部と私は花咲かおじさんにたどり着いたのだ。

 警視庁までの道中、野島は一言も発しなかった。重要参考人を連行する車の中がカレーの香りというのも大きな問題だが。
駐車場に車を停め、三人で夜間通用口から入る。すると廊下の向こうから歩いてくるのは…彼女だ。私服であることから退勤するのだとわかる。ポニーテールも解いて髪を下ろしていた。彼女もこちらに気付く。
「あ、氏家巡査、お疲れ様です。昨日は情報提供を頂き助かりました」
警部が片手を挙げて声をかける。彼女は野島を一瞥し、そして私には一切の視線をくれずに、「お疲れ様です、お先に失礼します」と如才ない挨拶をして通り過ぎていった。
胸の奥が鈍く痛む。気にするな、気にするな。明日を過ぎれば全てが過去になり、こんな気持ちもいずれ忘却の波にさらわれていくはずだ。

 取調室、野島と私たちは机を挟んで対面する。警部が「何か飲みますか?」と尋ねたが、彼はそれにも無反応。ひとまず私は三人分のコーヒーを用意する。渡したそばから警部が口をつけ、「濃すぎ、このコーヒーは味が濃すぎるよ」と顔をしかめる。そして野島にも「気を付けて飲んでくださいね」と伝えるのだが…これも完全無視。
「まあそう緊張されずに、私たちは何もあなたを捕って食べようというのではありません。ただ事実を知りたいだけです」
明るく切り出した警部だったが室内の空気は重い。反応がないので警部はさらに続ける。
「昨日の朝、五本桜公園の土の中から白骨遺体が発見されました。発見した男性は間もなくそこから姿を消しました。それは野島さん、あなたですね?」
…沈黙。野島は顔を伏せて床を見つめている。警部が「やはり指紋を照合しますか?」と言うと、「いいです、俺です」と投げやりに返された。
「あなたが穴を掘り、あの白骨遺体を発見した。間違いないですね?」
無言で頷く野島。おそらく警部は遺体が大宮であることをあえて言わないように話している。私も気を付けなければ。
「それではお尋ねします、あなたはどうして穴を掘っていたんですか?そこに遺体があることをご存じだったのですか?」
「まさか!」
ようやく彼は顔を上げた。
「そんなの…知っているわけないじゃないですか」
警部は黙って相手を見つめる。言葉の真偽を見極めているのだ。私の心証としては、嘘は言っていないと思う。彼は遺体を見つけて腰を抜かしている姿を目撃されている。志賀老人が散歩に来ることまで計算して演技したとは…さすがに思えない。
「では、あなたは何を掘り出そうとしていたんですか?遺体を見つけたのが偶然ならば、あなたが穴を掘ったのには別の理由があったはずですよね。それがはっきりすればこちらもすっきりするのですが…」
野島は「個人的なことです」と再び視線を逸らす。警部は右手の人差し指を立てた。
「これは私の推測ですが、あなたは…タイムカプセルを掘っていたのではありませんか?」
彼が緊張を強めたのがわかる。警部もそれに気付いたようで、「やはりそうでしたか」と小さく言った。そしてまだ何も肯定していない相手に推論を投げかけて行く。
「タイムカプセルを埋めるのは大抵卒業の時です。しかし6年1組ではそんなことはしませんでした。となるとあなたは友達同士で自主的に埋めたのではないでしょうか?」
「どうしてクラスで埋めたのではないとわかるんですか?」
野島が視線を戻して尋ねた。この言葉により、タイムカプセルを埋めたことを暗に肯定したことになる。
「当時担任だった里見先生に教えて頂きました。野島さん、あなたはタイムカプセルを掘っていた。かつて友人と埋めたタイムカプセルを。これも里見先生にお伺いしたんですが、あなたと仲が良かったのは大宮光路さんですよね。彼と…埋めたのではありませんか?」
そこで野島は大きく溜め息を吐く。
「…参りました、警察っていうのはなんでも調べられるんですね。そうです、卒業式の前に大宮と二人で埋めたタイムカプセルです。俺たちは別々の中学に行く予定でしたから。あいつは地元の公立、俺は少し離れた私立に」
ついに野島の口から大宮の名前が出た。大宮は学業優秀だったというから、もしかしたら彼も本当は私立に行きたかったのかもしれない。しかし孤児で施設暮らしの身の上ではそれは叶わぬ願いだっただろう。もちろん私立に行くことが幸福に繋がるとは限らないが。
「ガキですよね、タイムカプセルなんて…」
ようやく口元を緩めた野島に警部は「いえいえ」と返し、立てていた指を下ろす。そして、どうして28年も経過した今になって掘り出しに行ったのかと尋ねた。
「大宮とは親友でした。だから卒業前に二人だけでタイムカプセルを埋めたんです…将来一緒に掘り出す約束をして」
胸の奥がまた鈍く痛むのを私は感じた。
「でも…結局そのままになってしまっていて。忘れてたんです、ずっとそのことを。だけど一昨日カレンダーを見てタイムカプセルのことを思い出して…それで掘りに行ったんです」
警部が「カレンダー?」と反復する。
「ええ。タイムカプセルを埋めたのは2月の末日でしたから。日曜日の学校に忍びこんで、五本あるうちの真ん中の桜の根元に二人で穴を掘って…」
野島は淋しそうな眼差しになる。
「タイムカプセルを掘りに行ったのに、まさか白骨が出てくるなんて思いませんでした」
彼は…本当に知らないのだろうか?自分が見つけたその遺体が大宮であると。
「タイムカプセルは見つかったんですか?」
警部の質問に彼は首を振る。
「いいえ、ありませんでした。場所は間違ってないはずなんですけどね、まあ28年も前の物ですから…」
桜の下に掘られた穴はかなり大きかった。見つからなくてどんどん掘った結果だとすればそれも筋は通る。やはり野島の言って居ることは本当ということか。
「正直に話して頂いてありがとうございました」
警部が頭を下げる。私もそれに倣った。
「こちらこそすいません、通報もせずに逃げてしまって…。なんだか怖くなってしまったんです」
穏やかにそう言い、ようやく野島はコーヒーに口をつけた。
「大宮さんとはゲームクラブだったんですよね?」
空気が和んだところで、警部はいつものテクニックで会話を続ける。野島も懐かしそうに大宮との思い出を語ってくれた。その微笑みには、卒業アルバムの中で幸せそうに笑う少年の面影が確かにあった。

 野島の思い出のページが一通りめくられたところで、警部が次の段階の質問に入る。
「そういえば、卒業して10年経った3月に同窓会があったそうですね。そこにはあなたも大宮さんも出席されたと聞きましたが」
野島が目を見開いて驚愕の顔をした。そしてカップを置くと、やれやれと肩をすくめて苦笑いする。
「驚きました…警察は本当にすごいですね。そんなところまで調べているなんて」
「実は公園の目撃情報からあなたまでたどり着けたのは、失礼ながらその顎の古傷のおかげなんです。同窓会からの帰り道、あなたが交通事故に遭われたという記録が警察に残っていましてね」
「そういうことでしたか。いやあ、久しぶりに昔の仲間と会って、きっと飲み過ぎたんでしょう。あれ以来、酒は控えてるんです」
自嘲的に笑う野島。警部が落ち着いた声で「同窓会では、大宮さんともお話をされたんですか?」と尋ねた。
「そうですね…小学校を卒業してからほとんど連絡を取っていなかったんで懐かしかったです」
「仲が良かったのにどうして連絡されていなかったのですか?」
「どうしてと言われても…そうですね、やっぱり学校が別々だと疎遠になりますよ。お互い中学で新しい人間関係が楽しくなったんでしょう」
野島はそうだったのかもしれない。しかし今日警部と回って調べた限りでは、大宮の方はけして新しい人間関係を楽しんでいた様子はなかった。しかし警部はそうは言わず、次の質問に移った。
「同窓会で彼は何かおっしゃっていましたか?」
「さすがに細かくは憶えていませんが…何日か後には出国するとか言ってたかな」
そこまで答えて、野島はふと気付いたように言葉を止める。そして再び疑心に満ちた瞳で私たちを交互に見た。
「刑事さん…なにかおかしくないですか?どうしてそんなに大宮のことばかり訊くんです?これは…俺についての聴取ですよね?」
警部は沈黙を返す。私も口をつぐんだ。
「里見先生からも話を聞いたって言いましたよね?どうしてそんな…」
一瞬の後、野島は小さく「まさか」と呟き、さらに眼光を強めた。
「まさか、あの白骨が…?」
だんまりの警部に野島は身を乗り出して言う。
「刑事さん、答えてください!あの白骨が…大宮なんですか?あいつが死んだんですか?お願いします、教えてください!」
必死の懇願だった。警部は静かに息を吐くと、壁に染み入るような深い声で答えた。
「…残念ながら」
「そんな!」
今までで一番大きな声を発すると、はじかれた様に野島は後ろにのけぞり椅子にもたれて脱力した。その瞳は虚ろに虚空を見つめている。
「そうですか…大宮が死んだんですか、そうですか」
うわ言のようにくり返す野島。
「すいません、黙っていて…。これは非常に奇妙な事件です。28年前、あなたと大宮さんがタイムカプセルを埋めた場所から大宮さんの遺体が発見された。しかもそれを見つけたのはあなたです」
そう、言うなればタイムカプセルが大宮の白骨に入れ代わったことになる。そんなことが有り得るか?いや実際に起こっているわけだけど。一体誰が何のためにそんなことを…。
私はまだ見ぬ犯人の狂気を感じてぞっとした。
「刑事さん…大宮はどうしてそんなことに?」
「まだわかりません。でもあなたからお話を聞いて、また一歩解決に近付いたと思います。大丈夫、約束しますよ。必ず真相を突き止めます」
そう言って頷いた警部に野島はふっと笑った。警部が「何か?」と尋ねる。
「いや、約束って聞いてつい…。大宮も絶対に約束を守る奴だったなあって」
静かにコーヒーを飲み干すと野島は真剣な面持ちで言った。
「刑事さん、よろしくお願いします。あいつは不幸な生い立ちだったのに、人一倍真面目で思いやりのある奴でした。だから人助けがしたくて、そのために東南アジアへ行こうとしてたんです。お願いします、あいつの無念を晴らしてやってください」
座ったまま深々と頭を下げる彼に、警部と私も黙って礼をした。

それを最後に聴取は終了となる。明日も仕事だという彼を、アパートまで送るよう警部は私に指示した。そう、またあのカレーの香りのする車で。

 野島を送り、再び警視庁に戻った頃には0時を回っていた。私は車に置いたままにしていた二人分のカレーを持っていつもの部屋に入る。
「やあムーン、お疲れ様」
ソファにいた警部が明るく言う。
「警部こそお疲れ様です。…これ、召し上がりますか?」
私が持ち上げて袋を示すと、「もちろん」と無邪気な声が返される。
「君も食べたら?晩御飯まだでしょ」
「さすがにこの時刻にこんな重たい物は…。私はコンビニでパンを買ってきましたので」
そんな会話をしながらお互い遅過ぎる夕食にありつく。警部は冷め切ったカレーを嬉しそうにほおばった。
「やっぱりおいしいね、キーヤンカレー。しかも一つはちゃんと激辛にしてくれてるのが素晴らしい。君には甘口の方を残しておいたから安心して」
「どうも」
一応そう答える。そしてしばらく無言でエネルギーを補給したところで、私の方から切り出した。
「野島さんのことはどう思われましたか?」
「そうだね…言って居ることは一応筋が通っていたと思うよ」
警部もスプーンを止めて言う。
「遺体が大宮さんだったことを伝えた時も、本当にショックを受けている様子だったしね。あれは…演技ではないと思う」
そうですね、と私も同意する。遺体は大宮だったのかと警部に詰め寄った時の野島は…そうでないことを心底祈っているようだった。
「気になったとすれば…」
と、警部が右手の人差し指を立てる。
「小杉さんのことに彼が一切触れなかったことかなあ。ゲームクラブのことや大宮さんの思い出話はたくさんしていたのに、そこに一緒にいたはずの彼女の名前は出なかった」
「確かにそうですね。でも、今回のこととは関係ないからあえて言わなかったのかもしれませんよ。それにつらい記憶でしょうし…」
「まあね。でも憶えてるかい?私が聴取の前にコーヒーを飲んで『濃すぎ』と言った時、彼はかすかに反応したんだ。咄嗟に『小杉』と思ったんじゃないかな。
…つまり彼の心には、そんなふうにすぐ出てくる所に彼女がいるってことだ。それなのに全く口にしなかったのは…少し気になる」
あのコーヒーのくだりにも計算があったとは。この人はそんな方法でも相手を見定めていたのか。…恐るべし。
「ゲームクラブの仲良しの三人。野島武、大宮光路、そして小杉篤実…彼らはお互いにどんな感情を抱いていたんだろうね」
そう投げかけてから警部は再び黙り込む。一人の少女の死…それがこの事件にも関係しているのだろうか?
そのまま沈黙し指を下ろすと、警部はカレーの残りを食べ始めた。

 午前0時半。食べ終わった容器をゴミ箱に捨てると、警部はホワイトボードの前に立った。
「この事件の最初の謎は、花咲かおじさんは何を掘り出そうとしていたのかということだった。でもそれはタイムカプセルで説明がついた」
事件の話が再開されたので、私も慌てて腰を上げる。
「そして今目の前にはまた新たな謎が並んでいる。ムーン、悪いけど板書してくれるかな」
わかりました、と私はマジックを取りホワイトボードに向かう。
「まず①、大宮さんを殺害したのは誰か?そして②、その人物が大宮さんを殺害した動機は何か?」
急いでペンを走らせる。私が追いつくのを待って警部が「③、どうして桜の木の下に遺体を埋めたのか?」と続けた。
「特に不可解なのは③だよ。新宿の公園が遺体を隠すのに適した場所とは思えないからね」
書き終えて私も言う。
「そうですね。本気で遺体を隠すのなら、人の行き交う場所ではなく山の中とかに埋めるはずですから」
「わからない、どうしてわざわざあんな場所に?」
私はふと浮かんだ可能性を口にしてみる。
「大宮さんが殺害されたのは18年前の3月です。その頃は小学校も廃校になり、校庭を公園に改修する工事も始まっていたはずです。となると犯人は、その工事現場の中に遺体を紛れ込ませようとしたのではないでしょうか」
警部は「ナルホド」と返したが、すぐに反論に転じた。
「でもねえムーン、だとしたら余計に危険じゃないかい?これから工事でどこをどう掘り返されるかもわからない場所に遺体を埋めるなんてさ」
「公園の名前は五本桜公園です。きっと学校から公園になっても、あの桜は撤去しない計画だったんですよ。となれば桜の根元は掘り起こされる可能性は低い…と犯人は考えたのかもしれません」
自分で言って居てはっとする。そうだとしても、犯人がわざわざ公園を選ぶ積極的な理由ではない。それこそ山の中に埋めた方がずっと安全だ。
「すいません警部、無理がありますね」
「いやいやいい感じだったよ。君もだいぶ論理が巡るようになったね」
警部は微笑む。そして「じゃあこんなのはどうかな?」と別の説を唱えた。
「犯人が大宮さんを殺害してしまった場所が、たまたまあの場所だった。だから犯人は遺体をその場に埋めて逃走した」
「それは有り得ますね。しかし…犯人と大宮さんはどうして工事中の公園にいたのでしょうか?それに、人間一人を埋める穴を掘るというのはかなりの作業です。犯行後に現場から立ち去りたい犯人が、時間をかけて穴を掘るのは不自然ではないでしょうか」
「そうだね。それに掘るにしてもせめてもっと目立たない場所に掘るはずだ。公園のシンボルである桜の下にあえて遺体を埋める理由がない。待てよ?桜の下には死体がある…という都市伝説に見立てたのかな?」
今度は私が反論を述べる。
「見立て殺人なんて、推理小説の世界ですよ。それにそんなことをする犯人は注目を浴びたいはずです。この遺体は18年も発見されなかったわけですから見立てにはなっていません」
警部はまた嬉しそうに「そのとおり」と言った。
その後もいくつかの説を挙げたが、結局犯人があえて遺体を公園の桜の下に埋める論理は出て来なかった。
「そういえば、28年前に野島さんと大宮さんが埋めたタイムカプセルはどこにいったんでしょう?犯人が持ち去ったんでしょうか」
「そうだね、じゃあそれを④にしておこうか」
私は再び板書する。
「そうそう、その28年というのもどうも気になるんだ。どうして野島さんは28年後の今になってタイムカプセルを掘ったんだろう」
「カレンダーを見て思い出したとおっしゃってましたね。確か埋めたのが2月の終わりだったとかで…」
「でも2月は毎年来るわけだしね。何か28年という数字に意味があったのかな?」
ことさら重要なポイントにも思えなかったが、私は「それを⑤にします?」と尋ねる。
「そうだね、じゃあよろしく。あとついでにもう一つ。私の勘違いかもしれないんだけど、里見先生に見せてもらった卒業アルバム、あの中の集合写真を憶えてるかい?」
「はい。大宮さんと野島さん、それに小杉さんや早川さんも写っていましたね」
「そう。校庭に並んで撮った写真だったけど、背景の桜がどうも今と違う気がしたんだ」
思いもよらぬ着眼点だった。
「ちゃんと五本並んでいたと思いますが」
「確かに寝。でもどうも印象が違ったんだよ」
「今と違って、写真の桜の木は葉が茂っていたからではないですか?」
「いや、気になったのは高さなんだ。写真では一番右の木が最も背が高かったのに、昨日公園で観た桜は一番左の木が最も背が高かった気がするんだ」
…さすがに考え過ぎではないかと思う。28年も経てば、木の高さや枝ふりだって多少は変わるのではないだろうか。
「それを…⑥にします?」
一応尋ねた私に、警部は「おまけでよろしく」と言った。やれやれとは思ったが『⑥どうして桜の高さが変わったのか』と板書してペンを置く。
「こんなところですかね」
そう言ってホワイトボードから一歩後ろに下がり、改めて記された六つの疑問を読み返してみる。
大宮を殺害したのは誰か、その動機は何か、どうして遺体を桜の下に埋めたのか、大宮と野島のタイムカプセルはどこに消えたのか、どうして野島は28年後の今になってタイムカプセルを掘ったのか、どうして桜の高さが変わったのか…。
果たして可能なのだろうか、これら全てに正しい回答をすることは。
私はまたそう思ってしまう。しかしこのミットに配属されてからの2年間、手のつけられないような謎でも、捜査の末にやがて解き明かされていくのを私は何度も目にしてきた。
隣を見る。警部は無言の視線をホワイトボードの文字に注いでいた。
…そう、この異様な格好をした天才によって、全てはいずれ明らかになるのだ。

 十五分ほどその場で考え込んでいた警部だったが、そのまま何も言わず自分のデスクに戻った。そのタイミングで私も動き、二人分のインスタントコーヒーを用意する。
「どうぞ、警部。激辛カレーの後には微糖のコーヒーでしたよね」
「さっすがムーン、お見事!」
こういう『いかにも女の仕事』というのはあまりしたくないが、幸いこのミットではそのストレスは少ない。あくまで部下として、新人としてコーヒーを入れただけだ。おいしそうに飲む上司を見届け、私もカップを持ってデスクに腰を下ろす。
「苦戦されてますね」
「まあね。今回の事件の難しさは長い年月にまたがっていることだ。いいかいムーン?時が経てば経つほど物的証拠はなくなっていく。関係者の記憶も薄らいでいく。つまりそれだけ推理で補わなくちゃいけない部分が多くなるんだ」
「…はい」
「この事件は、密室とかアリバイとかっていうトリックを解き明かすわけじゃない。これまでに見聞きした情報を一本のストーリーに繋げることができるか…それが命題だ」
警部はまた一口コーヒーを飲み、壁の時計を見た。
「もうすぐ1時半か。さすがに眠くなってきたね。どうする?君はそろそろ帰るかい?」
「警部がまだ残られるなら私も残りますが…」
「そうかい?じゃあこのコーヒーを飲んだら上がろうか」
そう言うと警部はカップを持ったまま黙ってこちらを見つめた。先ほどまでとは違う、どこか優しさと哀れみを感じる目だった。
「…何かありましたか?」
私が尋ねると、警部は「いや、別に言いたくなければいいんだけどね」と前置きしてから意外な話題を持ち出した。
「…氏家巡査とは何かあったの?」
事件の謎解きで忘れかけていた悩みが再燃する。やっぱり…この人は気付いていたんだ。
「いや、あの…」
「君たちの間に気まずい雰囲気があることはすぐわかるよ。たまに廊下ですれ違ってもお互い目を合わせないし、交通課と聞くと君の腰が重くなるしね」
「申し訳ありません。仕事に私情を挟んでしまって…」
カップを置いて私は頭を下げる。警部は手を振って恐縮した。
「いやいや、別にいいんだ。私もプライベートをどうこう言うつもりはない。まあでも一応君の上司で指導担当だしね、相談に乗るくらいはできる」
座り直してから警部は続けた。
「どう?こんな夜だし話してみないかい?」
こんな夜ってどんな夜だよ?…とは思ったが、上司の眼差しは真剣だ。窓の外は黒よりも灰色に近い東京の空。蛍光灯に照らされた室内は明るく、そこにいるボロボロのコートとハットの男だけが不気味に影をまとっている。
…話す?この人に?これまで考えたこともなかった。でもどうせ話したって…。
「ありがとうございます。でも、つまらない話ですから」
「構わないよ。それに、事件に煮詰まった時には全く関係のない話をするのがいいんだ。君も経験を積めばわかると思うけど、発想の手掛かりは意外な所から出てくるもんなんだ。アイデアに困った作家があえて遊びに行くようにね」
「しかし…」
「どうだい?この事件を解くためのヒントを与えると思って、話してみてくれないかな?」
どうして私の悩みを打ち明けることが事件解決に繋がるのか、いまいちよくわからないが…そこまで言われると考えてしまう。
「楽しい話じゃありませんよ?」
「大丈夫、微糖のコーヒーにはちょっとビターな話の方が合うから」
またわけのわからないことを…。私は観念した。どうしてこんな気持ちになったのかは自分でも説明できない。誰にも言うつもりのなかったことを…この誰とも違う異質な存在になら打ち明けてもいいと思ったのか。それともただ単純に、疲労と眠気で思考回路がどうかしていたのかもしれない。

話して…みよう、この人に。私と美佳子が出会い、そして別れるまでの物語を。
私の語りが始まると、警部はおしゃぶり昆布をくわえた。

●野島武

女刑事にアパートまで送られた後、もう一度シャワーを浴びてから俺は布団に入った。電気を消して暗闇の天井を見つめる。
色々な映像が浮かんできてなかなか寝付けない。そういえば交通事故に遭って入院した時も、なかなか病院の枕に馴染めずにこうやって天井を見つめていたな。

…警察というのは思ったより優秀らしい。白骨が大宮であること、そして掘り出したのが俺であることを、わずか二日で突き止めた。
カイカンとかいうあの不気味な容姿をした男、俺の話を聞きながら思わせぶりに頷いていたが…あいつは一体どこまで見抜いているのだろう。まったく、何がシャベルとスコップだ、ふざけやがって。
そういえば隣にいた女刑事…まるで女優が演じているテレビドラマの刑事が抜け出してきたような美人だった。あの女の目…真剣で強気でどこか冷たさも含んだあの目…。あれは大宮に似ている。

「ハア…」
俺は溜め息の風船を宙に放つ。
あの白骨は…やっぱり大宮だったのか。そうではない僅かな可能性を信じたかったが、どうやら全ては事実だったらしい。
今頃あいつは天国で篤実と一緒にいるのだろうか。結局俺が負けたわけか。いや、最初から負けていたんだけど。
瞳を閉じる…そこには変わらぬ闇。
今俺は何を願っているのだろう。何を願ってよいのだろう。できることなら許したい。でも誰を許す?あいつを?自分を?
そんなことを問いかけていると、別の疑問が浮かんでくる。
…タイムカプセルは一体どこに行ったのだろう?
まあいい、もうどうでもいいことだ。

思い出など掘り起こさない方が楽だった。明日目が覚めた時、全てを忘れられていたらいいのに。何も知らず、何も思い出さず、ただまた平穏に暮らせたらいいのに。