第三章 学び舎

●ムーン

 3月2日、火曜日。ついに明日になってしまった。でもまあ昨日のやりとりで確信した。彼女があの約束を憶えているはずがない、例え憶えていたとしてもそれを果たすことなんて有り得ないと。その意味では少しほっとした。私ももう考えるのはよそう。そう、これで心置きなく捜査に当たれるってもんだ。
午前9時、予定どおり私は大宮光路の保険証に合った住所を管轄する区役所を訪ねた。

「ナルホド、そういうことですか。さすが全知全能のビンさん」
「おいおい、大袈裟だな」
午後1時、警視庁の部屋に戻ると上司二人が何やら盛り上がっていた。お疲れ様です、と入室した私に「やあムーン」と警部が振り返る。
「昨日の謎、ビンさんのおかげで解決できたよ」
「謎というのはもしかして…」
「そう、シャベルとスコップの違いさ」
やっぱり…。好奇心旺盛なのはいいけど、優先順位も考えてほしい。
「ビンさん、もう一度説明して頂けますか」
警部にそう促されると、ミットの長はそっと息を吐き、子供に童話を読み聞かせるような柔らかい語り口で始めた。
「カイカンが調べたように、シャベルとスコップはJIS規格では区別されているけど、日常で使う言葉としては特に厳密な区別はないんだよ。まあ一般的には大きさで区別することが多いんだけど、フフフ、ここが面白いんだ」
ビンさんは右手の中指をこめかみに当てて微笑む。
「東日本では土木で使うような大きい物をスコップ、園芸で使うような小さい物をシャベルと呼んでいる。でも何故だか、西日本ではこれが全くのあべこべなんだ。だから東京出身のムーンにとってのスコップは、広島出身のカイカンにとってはシャベルだったってこと。
まあもとを正せば、シャベルの語源が英語でスコップの語源がオランダ語ってことだから、そもそも同じ物を表しているんだ。パートとアルバイトみたいなもんだね。なんとなくで使い分けてるだけで明確な違いはない。だから二人とも正解で、二人とも間違いってことだ」
「大変参考になりました。いいかいムーン、つまり引き分けってことだよ」
警部も満足そうな顔。いや別に、最初から張り合ってないから。
ビンさんは笑いながら立ち上がると、スーツの上着に袖を通した。
「カイカン、僕はこれから外勤に出てそのまま直帰するからよろしくな。
もし花咲かおじさんがシャベルを大きい物として認識していたなら、西日本出身の可能性が高いぞ」
「はい、了解しました」
頭を下げる警部に倣って私もそうする。ビンさんは「それじゃ頑張って」と部屋を出ていった。
かくして昨日の朝から警部を悩ませていた一つの謎は、物知り上司によってあっさり解き明かされたのである。

「花咲かおじさんが西日本出身となると、ますます捜すのが困難になりますね。もしかしたら今現在も西日本に住んでいる人なのかもしれません」
二人になった室内で私はそう切り出した。
「そうだね…。実は今日午前中に色々動いてみたけど、全部空振りだったんだ。あの公園周辺の地下鉄やJRの駅、バスとタクシー会社まで当たったんだけどね、花咲かおじさんを憶えている人はいなかったよ」
そうですか、と私は警部に歩み寄る。まあ記憶に留めている者が誰もいなくても無理はない。ここは東京…しかも現場は新宿区だ。人間の数が違う。それにこの街ではお互いを干渉しないことが暗黙のルール。仮に警部くらい目立つ格好の人でも、新宿通りを歩いて一体何人の印象に残るだろう。
「私の方はかなり収穫がありましたよ」
「そりゃ楽しみだ。では、報告どうぞ」
いつものソファに腰を沈める警部。手帳を開いて私は始めた。まずは区役所でわかった大宮光路の生い立ちから。
「大宮さんはいわゆる孤児だったようでして…」
幼い頃から施設で育ち、学校にもそこから通っていた大宮。そんな逆境にも負けず彼は勉学に励み、優秀な成績で高校を卒業。その後は施設を出て一人暮らし、アルバイトで学費を捻出しながら大学にも通っている。
「大宮さんが中学生の頃から、彼を担当していた区役所のケースワーカーがいました。中田さんという女性で、時には仕事の枠を超えて面倒を見ていたようです。大宮さんもとても慕っていて、彼にとっては母親代わりだったようです。
区役所で、当時の中田さんのケース記録を見せてもらうことができました。寂しい生い立ちでも大宮さんは非行に走ることもなく、品行方正で真面目な子供だったと書いてありました」
「ナルホド。でもそれなら、どうして姿を消した大宮さんを誰も捜していなかったんだろう。家族がいなくても、友人とか恋人とか、学校の先生とか、施設のスタッフとか、その中田さんとか…人との繋がりはいくつもあったはずなのに」
「それがですね…」
私はその辺りの事情も説明する。区役所には彼の転居届けが出されていた。その日付は18年前の3月、転居先は東南アジアとなっていた。そう、彼は大学を卒業した春に海外へ旅立とうとしていたのだ。周囲にもそう言っていたため、彼が姿を消してもみんな予定どおり出国したと思っていたというわけだ。
「海外…それは仕事か何かで?」
「人道支援活動のようですね。未開の土地で井戸を掘ったり、物資を運んだり…。まあ住所を移していたわけですから、少なくとも年単位でやろうとされていたようです」
「それで大宮さんは実際には出国していなかったわけ?」
「はい。出入国管理局にも問い合わせましたが、彼が日本を出た記録は一度もありませんでした。ただしパスポート申請の手続きは終わっていたようです」
警部はそこで右手の人差し指を立てる。
「となると、今まさに海外へ旅立とうとしていたタイミングで失踪した…おそらくは亡くなったことになる」
「そうなりますね。だからこそ、連絡がつかなくてもそれは海外にいるせいだと友人知人は思ったのでしょう。恋人でもいたらまた違ったんでしょうけど…」
「そういう存在はいなかった?」
私は黙って頷く。警部も「そう」とだけ小さく返した。
「彼が一人暮らししていたアパートも家賃を払い終え、室内もほぼ片付いていたようです。当時の大家さんにも連絡してみましたが、てっきり彼は旅立ったものと思っていたそうです」
「中田さんには連絡してみた?母親代わりだったんなら、大宮産からずっと音沙汰がなければ何かアクションを起こしてそうなもんだけど」
「彼女は、大宮さんが大学を卒業する半年前に病気で亡くなられているんです。もしご健在だったら、きっと大宮さんを捜索されたでしょうね」
警部が「そういうことか…」と残念そうに言い、また右手の人差し指を前髪にクルクル巻き付け始めた。そのまま室内に訪れる沈黙。私も手帳を読み返しながら考える。
18年前の3月、海外へ旅立とうとしていた大宮。彼はその直前に何らかの災難に見舞われ、桜の木の下に永眠することになった。一体彼の身に何が起こったというのか?
「色々調べてくれて助かったよ、ムーン」
やがて指を動かすのを止めて警部が言った。
「ちなみに歯科医の記録は見つかりそうかい?」
「それも中田さんの記録にありました。大宮さんは時々村岡歯科医院という歯医者に通っていたようです。この歯科医院は現存していましたので、カルテが残っていないか調べてもらっています。歯形の記録があれば、すぐに遺体と照合してもらえるよう段取りしました」
「…了解」
警部がソファから腰を上げる。
「それにしても…本当に誰もいなかったのかな、大宮さんを捜そうとした人は。海外にいると思っていたとしても、18年も音信不通だったら誰かが心配しそうだけど。私みたいなド変人だって、10年間雲隠れしたら捜してくれる親友はいる。君だって…そうでしょ?」
この人に変人の自覚があったことにも驚いたが、その問い掛けはそれ以上に私を困惑させた。
親友…私にはいないかもしれないな。時々一緒に食事をしたりする相手はいても、心の底から語り合ったり、全てを打ち明けて相談できる相手はいない。私には私にしか見せていない私がたくさんいる。一人帰ったアパートの部屋で、頭からシーツをかぶって泣き叫んでいる私もいることを…知っているのはこの世界で私だけだ。
答えあぐねているのを察したのか、警部は言葉を続けた。
「大宮さんは真面目な人だったんだから…親友がいても不思議じゃないんだけどね」
「これも中田さんの記録に書いてあったんですけど、彼はどこか人と距離を置いているところがあったようです。協調性に欠けることはなくても、特定の親友は作らなかったと。口数も少なく、感情をあらわにすることもなく、自分で考えて行動する…そんな人だったようです。不遇な生い立ちから、人と深く関わることを避けていたのかもしれませんね」
「そう…」
再びの沈黙。私は警部の言葉がないのを確認して口を開いた。
「これからどうされます?」
「そうだね…もう少し大宮さんの生きた軌跡を調べてみようか」
警部はまだ見つけられていないらしい…この事件を解き明かすための『取っ掛かり』を。こんな時は関係者を当たってそれを探すのがいつものやり方。
「わかりました。彼が育った施設はすでになくなっていましたので、当たるとすれば…」
「人が育つ家以外の場所、学び舎さ」
警部はそう言って歩き出した。

 警視庁を出て、大宮の通った大学・高校・中学を順に回る。そして当時の彼を知る教員から話を聞いたが…いずれも「真面目で物静かな生徒」「場を乱すことはないが周囲と深いつき合いもしない男子」といった印象だった。親しくしていた同級生や先輩・後輩に心当たりはないかとも質問してみたが、誰も思い当たらなかった。部活動にも所属していなかったらしい。
「あとは小学校か…」
私の運転する車の助手席で警部が言う。
「中田さんが大宮産に関わり始めたのは、確か彼が中学生の時からだったね。となると、小学生時代には記録にはない情報があるかもしれない」
「そうですね。もう午後5時ですが、どうされます?これから向かいますか?」
「そうだね。学校の場所はわかるかい?」
「おそらく遺体が発見された公園の近くだと思います。記録によれば卒業した学校の名前は『五本桜小学校』です。ほら昨日、カレー屋の店員さんが電話でその名前を言ってたじゃないですか。きっと五本桜公園の近くですよ。今、カーナビで探しますね」
私は車を路肩に停めてその学校名を入力した。しかし…出てこない。
「どうかしたかい?」
「おかしいですね、ありません。五本桜小学校というものは…存在していません。新宿だけではなく、都内全域で探しても見つかりません」

 警部と私はその足でキーヤンカレーを訪ねた。すると「いらっしゃい、あ、どうも」と昨日と同じバンダナの店員が迎えてくれる。
「またのご来店ありがとうございます。うちのカレー、気に入って頂けましたか?」
「ええ、とても。ですが今夜はカレーを食べに来たわけではないんです。少しお伺いしたいことがありまして」
答える警部に店員は怪訝な顔。私はそっと警察手帳を示した。
「刑事さん…だったんですか」
「そうなんです。私は警視庁のカイカン、こちらはムーンといいます」
「はあ…ぼ、僕は早川です。それで、何のお話でしょうか。あ、ちょっとこちらへ来てもらっていいですか?」
彼は私たちを控え室に導く。たくさんのお客の前で警察に質問されるのは気まずかったのだろう。
「突然どうもすいません。では改めてご質問なのですが、実は昨日五本桜公園で見つかった遺体の捜査をしてまして…」
警部が切り出す。早川は明るい店員の顔から一変、神妙な面持ちで「はい」と返した。
「実はその遺体の身元を調べていくと、五本桜小学校の卒業生だということがわかったんです。それでその学校を訪ねようとしたんですが…見つからなくて。でもふと思い出したんです、昨日あなたが電話でその学校の名前を口にしておられたのを」
すぐにピンとこない様子の彼に私は「電話でお店までの道案内をされていた時ですよ」とアシストした。すると彼は手をポンと打って頷く。
「あーはいはい、確かに言ってましたね。でもあれは言い間違いです。五本桜公園って言おうとして、つい小学校って言っちゃったんですよ」
私が「公園と小学校を言い間違えたのですか?」と問うと、早川は「はい、昔の癖で」とわずかに微笑む。警部が「昔の癖?」とくり返した。
「そうです、あの五本桜公園がもともと五本桜小学校だったんですよ。生徒数の減少とかで廃校になったんです。それからは改修工事をして、今の五本桜公園になってるんです。僕も卒業生だからつい昔の名前で呼んじゃって…」
「ナルホド」
頷く警部の横で私も納得する。
そうか…あの公園が小学校だったのか。そういえばあの広さは運動場と考えればちょうどよいし、併設していた多目的ホールももともと校舎の一部だったと考えればしっくりくる。どこか懐かしい憧憬を感じたのも、そこがかつて学校だったからなのだ。志賀老人が駄菓子と文房具の店を営んでいたのも、そこに通う生徒たちのためだったに違いない。
私の中でいくつかのパズルのピースが組み合わさったように感じた。隣で警部も満足そうに微笑んでいる。そう、見つけたのだ…『取っ掛かり』を。警部は身を乗り出して言葉を続ける。
「貴重な情報ありがとうございました。ちなみに小学校が廃校になったのはいつ頃でしょうか?」
「ええとですね、確かあれは大学を卒業した春だったから…18年前です」
私の脳を閃光が貫く。18年前…このキーワードに警部が反応しないはずがなかった。
「あの、失礼ですが年齢を教えて頂いてよろしいですか?」
「え、僕の年齢ですか?はい、今40歳ですけど」
40歳…ということはひょっとしたらひょっとする。
「早川さん、大宮光路という名前をご記憶ありませんか?五本桜小学校の同じ学年にいたと思うのですが」
急に重要人物となった店員は、口の中で「大宮…」とくり返してからはっとしたように答える。
「はいはい、大宮くん。同じクラスでしたよ。確か…親がいない子で、施設から学校に通ってたので憶えています」
「今どうされておられるのかご存じですか?」
「いえそこまでは…。同窓会で会ったのが最後ですから、かれこれ18年会ってません。確か海外へ行くと言ってましたね」
18年前の同窓会…情報は更なる展開を見せる。当然警部は詳細を尋ねた。その勢いに圧倒されながらも、早川は答えてくれた。
彼によれば、18年前の3月に母校が廃校になるということで同窓会をしたのだという。彼らにとってはちょうど卒後10年に当たる22歳の時で、大学を出て社会人になるタイミングでもあったから集まりやすかったようだ。そこには大宮も来ていて、自分は東南アジアに行くと話していたらしい。
「もうすぐ部屋も引き払って旅立つと言ってたかな。みんなで頑張れってエールを贈ったのを憶えてます」
これではっきりした。大宮光路はやはり18年前の渡航直前まで生きていたのだ。私は同窓会の日付を尋ねてみたが、3月下旬だったとは思うがさすがに何日だったかまでは憶えていないとのことだった。
続いて警部が大宮がどんな子供だったかを質問していく。最初は戸惑っていた早川も、警部のテクニックによってだんだん懐かしそうな表情になり、穏やかに当時を語ってくれた。
「彼はかっこよくて、しっかりしてましたね…」
大宮はやはり真面目で学業に優秀な少年、ただしちゃんと仲の良い友人もいてけして孤独ではなかったという。小学生の頃の彼は、ちゃんと明るく笑っていたのだ。
「大宮さんと特に仲の良かったお友達の名前、ご記憶ですか?」
「ええと、待ってくださいよ…、何だっけな」
バンダナを触って思い出そうとする早川。警部と私は固唾を呑んで見守る。
「野島…そう、野島くんだ。あと一人女の子…小杉さん」
「そのお二人は先ほどおっしゃった同窓会には来てましたか?」
「ほぼ全員揃ったと記憶していますので、野島くんも来てたと思いますよ。小杉さんは…」
早川が言葉を止めたので、警部が「小杉さんは欠席でしたか」と促す。
「いや、彼女は…来たくても来れませんから」
含みのある言い方だった。彼の瞳に悲哀の色が浮かんだのがわかる。
「小杉さんは亡くなったんです、卒業の少し前に…事故で」
警部が「事故?」とさらに促したが、早川からそれ以上語られることはなかった。沈黙を挟んで「つらいことを思い出させてすいません」と警部が謝罪すると、彼は「いえ」とだけ返す。そして自分からも一つ質問させてほしいと言った。
「どうして大宮くんのことを訊くんですか?もしかして、公園で見つかった遺体って…」
空気が滞る。ドアを一枚隔てた向こうからは、賑やかな店内の音がカレーの香りを含んだ熱気と共に流れてくる。やがて警部が小さく「残念ながら、その可能性が高いんです」と答えた。早川は大きな落胆を見せる。
「いつ頃亡くなったんですか?それに、彼は海外にいたはずでは?どうして地面の中に…」
「まだ何もわかっていないんです。だからこうして捜査をしています…でもあなたが同級生だったとは驚きました」
「そうですか、じゃあよろしくお願いしますね」
そこで大きく息を吐く早川。
「ハア…。やっぱり痛いもんですね、同級生の訃報を聞くのは。そうですか…大宮くん、亡くなったんですか。だったらせねて、天国で小杉さんと会えてたらいいな」
その感傷的な言葉を最後に、早川への聴取は終了となった。

「よし、思わぬお土産ももらったし、もうひと頑張りだムーン!」
助手席の警部のテンションが高い。その理由は後部シートに置かれたあれのせいだ。店を出る時に早川が「差し入れです、捜査頑張ってください」と持たせてくれたお持ち帰り用のカレー。もはや車の中はその香りで充満している。
…絶対臭いが残るな、これは。
「警部、落ち着いてください。間もなく到着しますから」
向かっているのは白樺小学校。五本桜小学校が廃校になった時、統合された学校だ。生徒も教員もそちらに移ったと早川が教えてくれた。問い合わせたところ、当時の大宮を知る女教師が今も在職しているとのことだったので、遅い時刻ながらお邪魔することにしたのだ。
「ムーン、もう少しで全貌が見えそうだと思わないかい?五本桜公園が五本桜小学校だとわかって、景色が一気に変わったよ」
「そうですね。つまり大宮さんは母校の校庭だった場所に埋められたことになります。これは偶然じゃないですよね。それに彼の死亡時期も、18年前の3月下旬…同窓会から出国までの間だとはっきりしました」
そこで警部は右手の人差し指を立てる。
「もちろんそれもある。でもね、現場が学校だったとわかってこの事件の最初の謎が解けそうじゃないか」
「…何ですか?」
「いいかいムーン?五本桜小学校という名前から考えても、公園の五本の桜はそこが学校だった頃からあったものに違いない。花咲かおじさんが一体何を掘り出そうとしていたのか、どんなに考えてもわからなかったけど…そこがもともと学校だったとすれば有力候補が浮かぶじゃないか」
まさか…。
「校庭の片隅の木の下に埋まっている物といえば?」
「タイムカプセルですか」
私が即答すると、警部は立てていた指をパチンと鳴らした。
「そのとおり、冴えてるねムーン!こりゃ将来有望だ」
嬉しそうに言う上司の隣で私は密かに溜め息を吐く。すぐに思い浮かんだのは別に冴えていたわけではない。ここ最近ずっとそのことを考えていたからだ。
…ハア、タイムカプセルか。よりにもよって。
神様の意地悪を感じながら、私はハンドルを切った。

 白樺小学校、通された応接質のソファで警部と私は里見教頭に面会する。
彼女は五本桜小学校に勤務していた当時、大宮のいた6年1組を担当していたという。警部は白骨遺体が大宮であったことを最初に告げ、その死の真相を解明するために彼を知る人間を回っていると説明した。気品漂う初老の教師は教え子の死にやりきれなさを語り、事件の早期解決のために協力を惜しまないと言ってくれた。
「大宮くんは本当に真面目な子でした。可愛そうな生い立ちでも卑屈になることもなく、何にでも一生懸命でした。授業参観で見に来る親がいなくても、しっかり手を上げて…」
「野島くんと小杉さんという生徒と、特に仲が良かったと聞いたのですが」
「そうでしたね、確か三人は同じ部活だったんじゃないかしら。ゲームクラブっていって、色々なゲームを三人で考えては楽しそうにやってました」
しばし里見の思い出話を傾聴する。一段落したところで、警部が「随分昔のことなのにしっかり憶えてらっしゃいますね」と感想を述べた。
「昔…そうですね、あのクラスが卒業してもう28年ですものね。でも私にとっては昨日のことのように鮮やかなんです。自分が教師になって、初めて担任をしたクラスだからなおさら印象深いのだと思います」
僅かな沈黙を挟んでから彼女は続けた。
「小杉さんが亡くなったことは、私にとって生涯忘れられないことです。卒業式を目前にした…2月の14日でした」
「バレンタインデーですか」
「ええ。今でも憶えています。その日は土曜日で、小杉さんは夕方誰かと待ち合わせをしていたんです。きっと相手は男の子でしょうね。息を弾ませて、チョコレートを持って出掛けていったとお母さんもおっしゃっていました」
「小杉さんは…どうして亡くなられたのですか?」
警部の低い声が室内に重たく響く。里見はそっと目を伏せた。
「あの子は…線路脇のフェンスの前に立っていたんです。フェンスには大きな看板が貼られていて、目印にもなるから子供たちはよくそこを集合場所にしていたようです」
行き交う電車を背景に、フェンスの前に立って好きな男子をドキドキしながら待っている…そんな少女の姿が浮かぶ。
「でも…その看板が外れてしまって、後ろから彼女に倒れてきたんです。小杉さんは下敷きになって…通行人が発見して救急車を呼んでくれたんですけど…」
里見の目尻に涙が浮かぶ。彼女はすぐにそれを手で覆い、声を詰まらせながら「あの子の手には、しっかりチョコレートが握られていたそうです」と搾り出した。
…痛ましい事故だ。早川が語りたがらなかったのも無理はない。私は膝の上の拳を強く握る。
「ごめんなさい…ダメね、何年経っても思い出しちゃうと」
警部は「こちらこそごめんなさい」と伝えた上で、それでも質問を続けた。つらい傷口を開くことになったとしても、これが私たちの仕事なのだ。
「先生、その待ち合わせの相手というのは…」
里見はゆっくり首を振る。
「わかりません。おそらく同級生の誰かだったんでしょうけど、小杉さんがあんなことになって…その子も言い出せなかったんでしょうから、私たち教師も無理に特定しようとはしませんでした。あの時は、子供たちが悲しみを乗り越えて無事に卒業することだけに心血を注ぎましたので」
…それも当然か。警部は小さく「ナルホド」と言い、大宮が待ち合わせの相手だった可能性について確認した。
「それはありません。私たちも小杉さんの待ち合わせの相手は、きっと大宮くんか野島くんのどちらかじゃないかと考えました。仲が良かったですからね。でもその時刻、二人は野島くんの家で一緒に遊んでいたんです」
つまり待ち合わせの相手は野島でもないということか。女教師はそこで言葉を止め虚空を仰いだ。

…遠い昔に起こった一人の少女の死。それは30年近く経過した現在でも、多くの人の心に消えない痛みを残していた。

 警部が依頼すると、里見は当時の卒業アルバムを持ってきてくれた。学校が変わっても、自分が担任したクラスのアルバムは全て保管しているのだという。受け取った警部が大きなページをめくっていくと、見開きで6年1組の集合写真が現れる。
あの五本の桜を背景に、男子が後列に立ち女子が前列で椅子に座って並んでいる。三十人ほどのクラス…その隣にはまだ新人教師であった頃の里見の姿もある。緊張している子もいたが、ほとんどの生徒が笑っている。里見もとびきりの笑顔を見せている。
「写真は二学期に撮影したので、小杉さんも写っていますよ」
懐かしそうに言う里見。ページの下部には、生徒たちの名前が写真の位置に対応するように並んでいた。私も覗き込んでその名前を探す。
…小杉篤実(こすぎ・あつみ)、見つけた。対応する写真を見ると、髪を肩まで伸ばした可愛い少女が少し照れたように笑っていた。待ち受ける自分の運命など知る由もない無垢な微笑み…ぎゅっと胸の奥が絞め付けられる。
「これが…大宮さんだね」
警部が指差す。大宮光路は凛々しい顔立ちの少年だった。彼は小杉さんの右後ろで自信に満ちた表情をしている。孤児である生い立ちなんて全く感じさせもしない。そして彼と数人を挟んで立っていたのが、野島武(のじま・たけし)…二人と親しかった生徒だ。大宮より頭一つ背が低く、人のよさそうな垂れ目。
…あれ、この顔。それにこの名前ってもしかして…?
はっとして隣の警部を見たが、上司は何も気付かないように「ほらここ、これが野島さんだね。とっても幸せそうな顔」と笑うだけだった。
「野島くんは転校生でした。4年生から五本桜小学校に来たんですけど、すぐにみんなに溶け込みました。その年頃の子供たちには隔たりなんてものはないんでしょうね」
里見が優しく言う。
…隔たり、か。確かにそうかもしれない。人間は意識的にしろ無意識的にしろ、大人に近付くほどそれを生み出してしまう。勉強や運動の能力、容姿や性格の良し悪しに関係なく、お互いがお互いを受け入れることができるのは…小学校までかもしれない。
そんな個人的な私の感傷はよそに、警部は言った。
「野島さんは転校生でしたか。ちなみにどちらから?」
「確か…山口県だったと思います」
里見の返答に私の緊張が高まる。まさか…。
しかし警部は話題を野島から逸らし、「ほらここ、早川さんもいるよ」「この頃は桜もきっと毎年咲いていたんだろうね」などの感想を述べ続けた。

その後部活のページも見たが、里見の言ったように、大宮と野島と小杉さんの三人はゲームクラブとして仲良く写っていた。だが警部はそこでも野島については言及せず、「ほらここ、料理クラブで早川さんがカレー作ってるよ。フフフ、人間って変わらないもんだね」と微笑むのみだった。

 里見との面会の最後に、警部はクラスでタイムカプセルを埋めなかったかと尋ねた。彼女は、五本桜小学校にはそういう行事はなかったと答えた。まあ仮にあったとしても、小杉さんの事故の後ではそんな雰囲気にもなれなかっただろう。
お礼を言って警部と私は校舎を出る。ふと見ると、校庭の片隅にはプラタナスの木が植えられていた。
…神様、いい加減にして。
「どうかしたかい?恐い顔して」
「あ、いえ、何でもありません。それより警部、野島武さんの写真を見て思ったんですけど…」
「うん、似ていたね。顎の傷こそなかったけど…花咲かおじさんの似顔絵に」
やはりこの人も気付いていた。
「しかも山口県からの転校生です。花咲かおじさんは西日本出身、という推理にも当てはまります」
「そういうことになるね」
「警部があの場でそれをおっしゃらなかったのは、里見先生への配慮ですか?」
「そんなところかなあ。本当は似顔絵を見てもらって確認すべきなんだけど、教え子が二人も亡くなった話をした後じゃさすがにね。もし遺体を発見したのが野島さんとなれば…大宮さんの死に関与している可能性も出てくる」
そこで警部は自嘲的に笑った。
「フフフ…まだまだ未熟だね、私も。中途半端な刑事だなあ…」
独り言のようにも聞こえたので、私は何も返さなかった。本当にごく稀ではあるけれど、この人の人間らしさみたいなものが見え隠れする瞬間がある。ボロボロのコートとハットの中にいるのはド変人などではなく、ただの一人の人間なのかもしれないと。
もしかしたら私だけではないのかもしれない、自分しか知らない自分を誰にも見せずに生きているのは。
「まあ里見先生に訊かなかったのは、訊かなくても花咲かおじさんの正体にはたどり着けそうだからでもあるけどね」
急にいつもの調子に戻って警部が言う。よかった、ウジウジされても面倒なんて見れないから。
「野島武という名前、確か交通課がくれた一覧表にもあったよね?」
「はい、私もそう思いました。書類は車に置いてありますので急いで確認しましょう」
午後8時過ぎ、周辺の住宅街は夜の静けさに包まれている。校門前に停めた車に乗り込み、ダッシュボードからその一覧表を取り出すと、急いで二人で目を通していく。
…あった。野島武、生年月日も大宮と同級生。
「警部、間違いなさそうですね」
「それだけじゃない・ほらここ、野島さんが交通事故に遭った日時」
示された箇所を読んで、私は声を上げそうになる。
「18年前の3月…」
そこでまたポケットから取り出した昆布をくわえて警部が言った。
「そう、大宮さんが失踪した時期と同じだ。しかも見てごらん、事故の概要を」
そこには『午前1時15分頃、歩行中に車道に飛び出して走行中の乗用車に接触。被害者は同窓会からの帰りで、酒に酔っていたものと思われる。』と記されていた。
「警部、これって…」
「そう、早川さんが話していた同窓会だろう」
低い声が車内に響く。

一体どういうことだ?
大宮と野島は小学校の同級生で友人。昨日公園の桜の下から発見されたのは大宮。その遺体を掘り出したのは野島。18年前の3月、海外に旅立つ直前に大宮は失踪。そしてそれと時を同じくして野島が交通事故に遭っている。しかも、大宮も参加していた同窓会からの帰り道で。
それだけではない。大宮の遺体が発見された公園はもともと彼らの母校の小学校で、ちょうどその同窓会があった3月に廃校になっている。
さらにその10年前には、二人とゲームクラブで仲の良かった小杉篤実という少女が不慮の事故で卒業直前に命を落としている…。
わからない。一体何と何が関係していて、何と何が無関係なのか?どこまでが偶然で、どこからが必然なのか?

「警部…私には何が何だか」
黙って口先で昆布を動かしていた上司は、それをポケットに戻すとシートベルトをしながら言った。
「私もだよ。まだまだストーリーが見えてこない。やっぱり会いにいくしかないね」
黙って頷くと、私もシートベルトをしめて車を発進させる。そして一覧表にある彼の住所をしっかり頭に記憶した。

●?

俺は時計を見た。3月2日も無事終わろうとしている。今日は仕事にも行ったし、警察が訪ねてくる気配もない。このまままたいつもの生活に戻ればそれでいいんだ。
風呂から上がって服を着ると水道の水を飲む。まだ酒を飲む気にはなれない。テレビをつけてみたが、特に公園の遺体に関する新たな報道はなかった。天気予報ではもうじき桜前線が東京にも繰ることが告げられ、卒業を心待ちにする子供たちの姿が映し出される。

卒業式、もうそんな時期なんだな。
…「卒業しても、三人ずっと仲良くしようね」。そういえば、篤実はよくそんなことを言っていたな。
彼女のあどけない笑顔が浮かぶ。
なあ篤実、お前がいない卒業式はもう淋しさしかなかったよ。未来なんて見えなかったよ。お前がいなくなって俺と大宮は…。
いやもうやめよう、考えるのは。こんな時はさっさと睡眠へ逃げ込むに限る。

…ピンポーン。
テレビを消して寝室に向かおうとした時、インターホンが鳴った。時刻は午後9時を回っている。誰だこんな時間に。
「はい、どちら様?」
玄関のドア越しに不機嫌な声を投げる。すると低くよく通る声が返ってきた。
「夜分にすいません、警察です」
警察?まさか…。背中に冷たい感覚が広がる。
「野島武さんですね。少しお話を伺えますか?」