第二章 氷の瞳

●ムーン

 午後3時。警視庁に戻った私は、警部と別れて交通課を訪ねた。パトカー警邏で外勤の多い部署だ、その部屋には数名の制服警官だけがデスクワークをしていた。「失礼します」と入った私に、一人の婦人警官が気付く。すらりとした長身に黒髪のポニーテール…彼女だ。視線が合った瞬間、思わず膝が震えた。
他の者が動かなかったので、彼女が席を立ってこちらに来る。それが嫌々であるのはその仕草から痛いほど伝わってきた。
「何かご用ですか?」
「あの、すいません。私は捜査一課の…」
思わずどもってしまう。彼女…氏家美佳子巡査はイライラした様子で「それはわかってます。ご用件を」とせっついた。
「はい、すいません。今私のミットが捜査担当している事件なんですけど、情報提供をお願いしたくて」
言葉に詰まりながらも事情を説明する。まともに彼女の目が見れない。無言の圧力がさらに私の焦りをあおった。
「そ、それで、この男性に心当たりがないかと思いまして」
例の似顔絵の紙を手渡す。それを一瞥して彼女が言う。
「都内で年間にどれだけの交通事故件数があるか知ってます?」
「あ、はい…いや」
「その中から顎の傷だけで個人を特定できると?」
「ええと…」
「そもそも交通事故による傷かどうかもわからないんですよね?」
…空気が刺さるように痛い。気まず過ぎておいしかったカレーも吐いてしまいそうだ。
「これは…カイカン警部からのご依頼ですか?」
「あ、はい。でも難しいようでしたら…」
そう言って紙を取り返そうとした私の手を避けて、彼女は小さく溜め息を吐く。そして紙を折りたたむと、事務的な口調で言った。
「わかりました。一応上司に伝えておきます。お返事はいつになるかわかりませんが、もし情報がありましたらこちらからご連絡します」
「よろしくお願いし…」
言葉を最後まで聞かず、彼女は踵を返しデスクに戻っていく。私は黙って頭を下げると交通課を出た。そして重たい足取りで廊下を歩く。
…苦しい。仕方のないこととはいえ、こんなに苦しいなんて。心のどこかにあった淡い期待は完全に打ち砕かれた。この10年でこんなにも溝は深まってしまった。
彼女が私を見る氷のように冷たい瞳…あれは嫌悪と軽蔑だ。彼女にとってもう私はそういう存在でしかないのだ。

 いつもの部屋に戻ると、そこに警部はいなかった。代わりにいたのはビンさん…このミットの長にして警部と私の上司。階級は警視だがそう呼ばれるのはあまり好きではないらしく、私も警部に倣ってビンさんと呼ばせてもらっている。もちろんビンというのも本名ではなくニックネーム。
ビンさんは、ミットに捜査の割り当てが来ても陣頭指揮はほとんど警部に任せていて、事件を担当することはない。私たちが提出した報告書のチェックや、庁内で行なわれる会議に出席するのが主な業務だ。もちろん他にも私が知らない仕事があるのかもしれないが…普段この部屋にいることも少なく、そんな時は未解決事件の関係者を当たったり、証拠品を再確認したりしているらしい。
「ムーン、お帰りなさい」
そう言ってビンさんは微笑む。小柄な体型に少し白髪の混じった頭、そして人の良さそうな恵比寿顔…。街でこの人を見かけても、殺人課の刑事だと予想できる人はまずいないだろう。
「お疲れ様です」
一礼して私は自分の席に座る。八畳ほどの室内には向かい合わせに置かれた四つのデスク、壁際には本棚とソファとホワイトボードが所狭しとひしめき合う。ここが私たちの部屋。このミットには三人しかいないのでデスクは一つ空席だが、そこも捜査ファイルが積み上げられすっかり物置状態。
「警部はまだ戻っておられないんですね」
「カイカンならさっき一度戻って、調べ物をするとかで図書室へ行ったよ。今朝の事件のことも少し聞いたけど、身元不明の白骨遺体だってね」
「はい。まだわからないことだらけです」
私がそう答えると、ビンさんはそれ以上事件の話はしなかった。数秒の沈黙の後で優しく口が開かれる。
「それにしても、君がここに配属されてもうすぐ2年か。どうだい?カイカンの下にいるのは大変だろ?…変人だからなあ」
それを許容しているビンさんもかなりのものだと思うが。
「いえ、とても勉強になっております。自分では思いつかなかった発想や着眼点ばかりで、いつも驚かされます」
「そうかい、それならいいけど。なんだか落ち込んでるように見えたから、もう限界なのかなと思って」
「あ、すいません、それはちょっと別の件で」
やっぱりこの人も人を見る目は長けている。でもいかんいかん、心の中を簡単に見透かされるようではまだまだ一人前とはいえない。気を引き締めなければ。

 その後部屋に戻ってきた警部と私は同じ症状に襲われた。それは眠気…おそらくカレーによる満腹感からくるものだろうが、睡眠薬でも入っていたのかと思うくらいそれは強烈だった。
午後5時、二人して欠伸を噛み殺し目をしょぼつかせているのを見て、「ハハハ、春眠暁を覚えずか」とビンさんは笑いながら退勤していった。警部も「眠かったら寝ていいよ。今夜は遅くなるだろうから今のうちにさ」と勧めてくれたが、さすがに新人が職場でグースカ寝るわけにもいかない。
「私は大丈夫です。警部こそご遠慮なくどうぞ。何か情報が届きましたら起こしますので」
「そうかい?じゃあお言葉に甘えて…」
そう言うと警部は壁際のソファに仰向けになり、ハットを目元まで下ろした。しばらくするとスウスウ寝息が聞こえ始める。
私は窓の外を見た。日は翳り始め、東京は夜に向かっている。

***

「どうしてそんな余計なことするの?あたしを馬鹿にしてるの?それとも哀れだとでも思った?」
瞳に悲しみと憎しみを浮かべた少女が、私を激しく責めている。
「そりゃあんたはいいわよね。あたしの気持ちなんかわかるわけないよね。今までも我慢してたけど、やっぱりあたしも無理。あんたとなんかつき合えない。
あんたは…最低よ!」
薄暗い空間に声が響く。最後にもう一度私を睨むと、少女は走り去っていった。

***

 …ゴンゴン。
強めのノックの音で私は目を醒ました。どうやらデスクにもたれたまま眠りに落ちていたようだ。また何か夢を見ていたような気がする。
顔を上げると、氏家巡査がドア口に立って冷たい視線を向けていた。その瞳が私の中で誰かと重なる。
「あ、すいません」
慌てて腰を上げそちらに向かう。彼女は冷ややかに「お休みのところごめんなさいね」と言い、書類封筒を差し出した。震える手でそれを受け取る。
「ご依頼の情報です。最初に申し上げますと、交通事故で顎に怪我をした人間はあまりに数が多くて全部は調べきれませんでした」
「それはどうも…」
「ですから一応この20年の間に23区内で事故に遭った被害者、その中で現在40歳前後の男性だけをリストアップしてあります。それでも二百人以上ですけどね。
あと頂いた似顔絵ですが、交通課の職員で見覚えのある者はいませんでした。それも一緒に封筒に入ってますので」
「お忙しい中、色々ありが…」
彼女はまた最後まで聞かず、「それでは」と踵を返す。
…苦しい。でもこれはもうどうしようもない。
廊下の足音が遠ざかったのを確認して、私は封筒から書類を取り出す。そこには交通事故で顎を負傷した男性の名前・住所・生年月日と事故の状況が表で見やすくまとめられていた。
憎まれ口を叩きながらも、頼んだ以上のことをしっかりやってくれる…変わってないな、美佳子は。クラスの仕事とかたくさん手伝ってもらったよね。
あの優しかった美佳子にあんな氷の瞳をさせている…その元凶は間違いなく私なのだという事実が胸を絞めつける。

「何か…情報かい?」
しばし放心していた私に低い声がかけられた。振り返るとソファの警部が身を起こしている。
「警部、お目覚めだったんですか?」
「たった今ね。それよりその書類、情報が届いたのかい?おやもう夜の8時じゃないか」
立ち上がって伸びをする警部。私はぎこちない笑顔を作り「ええ、交通課に依頼していた物です」とそれを手渡した。
「依頼したこっちが眠りこけてたので悪いことしましたね、ハハハ」
誘い笑いでそう言ったが、警部はそれには応えず黙って書類に目を通していた。

 一覧表にあった名前は231人。綺麗にまとまっていたが、もちろん顔写真があるわけではないので、この中に花咲かおじさんがいるのかどうかはこれだけではわからない。一人ずつ訪ねて回るとすればかなり骨が折れる作業となる。さすがの警部もどうしたものか考えあぐねているようだった。

午後9時、続いて鑑識課からの情報が届く。あの白骨遺体に関するものだ。私は警部と一緒にそれを整理していく。
「まず遺体の身元についてですね」
鑑識課が財布の中の保険証を見事に復元してくれたおかげで、そこにあった情報を読み取ることができた。名前は大宮光路(おおみや・こうじ)という男性。しかし奇妙なことに、警視庁のデータベースに照合しても、特に失踪届けや捜索願いは出されていなかった。それを知って警部が言う。
「白骨になるまで埋められていたってことは、かなりの年数大宮産は姿を消していたことになる。それなのにどうして誰も捜さなかったのか…不思議だね」
「そうですね。司法解剖の結果も読み上げてよろしいですか?」
「どうぞ」
「まず死因ですが、衣類に刃物で刺されたような跡はなく、遺体からは毒物の反応も出ず。そして頭蓋骨の後頭部には細く硬い者で殴られたらしき骨折があり、これが致命傷として考えられるそうです」
警部が「後頭部殴打による脳挫傷…」と呟く。私も頷いて続けた。
「もちろん遺体があの状態ですから、断定はできないそうです。殴られたのではなく何かを投げつけられた、あるいは転倒や転落でぶつけた可能性もあります。凶器についても骨折線からだけでは断定できないと書いてあります」
「う~ん…死亡時期は?」
警部がそう言って右手の人差し指を立てる。
「はい。解剖によれば、亡くなって20年近くは経過していると」
「20年…そいつはすごい。確かに一昔前のファッションだったからね。携帯電話を持っていなくても無理ないか」
警部のファッションはきっと20年前でも不可解だろうな…と密かに思いながら、私は先を続ける。
「あと鑑識の報告では、保険証の記載や財布の中の硬貨の年代から、少なくとも18年前までは生きていただろうとのことです。保険証では22歳となっています」
「18年前に22歳ってことは、生きていれば現在40歳。とすると…」
立てた人差し指に長い前髪をクルクル巻き付ける警部。考え事をする時の癖だ。
「40歳ってことは、大宮さんと花咲かおじさんは同世代。これは偶然か…それとも…」
「警部は二人が知り合いである可能性を考えておられるのですか?しかし花咲かおじさんは、遺体を発見して腰を抜かしていたわけですから、彼が大宮さんの死に関わっている可能性は低いかと」
「確かにそのとおりだね」
警部は指を動かすのを止め、もう一度交通課がくれた一覧表と解剖報告書を読み返した。
私も考える。花咲かおじさんの正体は依然として不明だが、ひとまず遺体の身元はわかった。大宮光路…彼がどうして若くして死亡し、公園の土の中に埋められたのかはわからないが、これで捜査は一歩前進だ。そういえば…。
読み終えた書類をデスクに置いた警部に、私は思い出したことを尋ねてみる。
「あの警部、ビンさんから聞いたのですが、図書室で調べ物をされたんですよね?何か事件についてのことですか?」
「まあね。百科事典で調べてみたんだ…シャベルとスコップの違いを。改めて考えると自分でも明確な違いが説明できなかったから」
え、調べ物ってそれ?完全な肩透かしであったが、変人上司は嬉しそうに解説を始めてしまう。
「JIS規格では上部が平らで足をかけられるのがシャベル、上部が丸くて足をかけられないのがスコップだってさ。つまり大きさの違いというより形状の違いみたいだ。これだと今回現場に落ちていたのはやっぱりシャベルなんだよ」
「そうですか」
「ただね、先が尖っているか平らかで区別している場合もあったり、シャベルとスコップという言葉はJIS規格される前からあったみたいだから…結局よくわからないんだ」
…もはやどっちでもいい、というかどうでもいい。うんざりしているのが顔に出そうになったところで私の携帯電話が鳴った。警部も話すのをやめる。
「南新宿署の有島さんからです、ちょっと失礼します」

 有島から伝えられたのは、花咲かおじさんに関する目撃情報だった。未だ素姓は不明だが、現場近所の住民の何人かが昨日日中にも公園で彼の姿を目撃していたというのだ。
「昨日…ってことは日曜日か。じゃあ彼はかなり前からあの公園にいたってこと?」
「はい。目撃者の話では、桜の木に寄りかかっていたり、ベンチに座っていたり、噴水を眺めていたり、散歩道を歩いていたりと…公園内を色々動いていたようです」
「う~ん、彼は一体何をしていたんだろう。まるで時間を潰していたみたいな…」
警部が再び人差し指を立てる。私も公園内をうろつく中年男の姿を想像した。
「もしかしたら…誰かと待ち合わせしていたのではないでしょうか?相手がなかなか現れず、それで時間を潰していたとか」
「そうかもしれない。でも、日中公園で誰かを待っていた人が、どうして翌朝には桜の木の根元を掘ってるんだ?…ストーリーが見えてこないよ。彼は公園で誰かと言葉を交わしたりしなかったのかな?」
「一人だけ声をかけられた人がいたそうです。買い物帰りに公園を通過していた主婦なんですけど、彼から『この辺りでシャベルを売ってる店を知りませんか』と」
「ナルホド。つまり昨日の時点で穴を掘る予定はあったってことか」
「そうですね。主婦は『土いじりで使うような物ならスーパーの園芸コーナーにありますよ』と答えたんですが、すると彼は『スコップじゃなくてシャベルが欲しいんです』と言ったそうです」
「フフフ、花咲かおじさんと主婦ではシャベルとスコップがあべこべだったみたいだね。まるで私と君みたいだ。こりゃあいよいよどっちが正しいかわからないぞ。それとも私と花咲かおじさんには何か繋がりがあるのかな」
どっちも変人ってことでしょう、と言いたいのを我慢して私は続ける。
「その主婦以外に彼と言葉を交わした人は見つかっていません。結局近所の工事現場からシャベルは拝借したわけですから、買いに行ったりもしなかったのでしょう。
…以上が有島さんからの情報です」
「了解。花咲かおじさんは昨日の日中から公園にいた、そしてその時点で穴を掘る予定だったことがわかったね。まあ彼の行動の理由は全く謎のままだけど。う~ん…」
警部はまた唸りながら前髪を人差し指に巻き付け始めたが、突然立ち上がって伸びをした。
「これ以上はわからないね、今夜の時点では。明日の動きを決めて今日はお開きにしよう」
私も腰を上げてメモの準備をする。
「まず大宮さんが一体いつまで生きていたのかを正確に割り出す必要がある。君は明日朝一番で区役所に行って、その辺りを確認してきて。大宮さんの家族とか、学校とか、職場とか…できるだけ詳しく」
頷いて私はそれを手帳に書く。
「あと、遺体が本当に大宮さんかどうかも確認しなくちゃね。可能性は低いけど、大宮さんの保険証を所持していた別の誰かってことも考えられるから」
「そうですね。しかしどうやって確認しましょうか」
「白骨で照合できるものといったらもう歯型しかない。少なくとも18年前まで生きていたのならその頃に歯医者にかかってるかもしれない」
「わかりました、大宮さんが通った歯科医院がなかったかも調べてみます」
そう答えると警部は「よろしく」と微笑んだ。
「警部は明日どうされるんですか?」
「電車とかバス、あとタクシー会社でも当たってみるかな。花咲かおじさんは主婦に近所のお店を尋ねていたわけだから、やっぱり近隣住民ではない。だとしたら、公共交通機関を使って公園まで行った可能性がある」
もちろん徒歩、マイカーやバイクなどを利用した場合もあるので、けして公算の高い話ではない。しかし今はそういう小さな可能性を当たっていくしかないのだ。
「タクシー会社を当たるなら、交通課に協力を願いますか?」
「いや、自分でやるよ。頼り過ぎはよくないし」
警部はそう言いながらドアに向かって歩き出す。
「それに、あまり君に苦しい思いをさせるのもなんだしね」
一瞬心臓が止まる。もしかして…気付いてる?
私の困惑などお構いなしに、警部は「お疲れ様」と部屋を出ていった。

●?

ダメだ…とても眠れそうにない。俺はまた布団から出て水道で水を飲む。
夕方のニュースでは、「桜の木の下から本当に死体が」というセンセーショナルな見出しが報じられていた。公園前からの中継では、「掘り出したのは現場から姿を消した謎の男」と女性レポーターが雰囲気たっぷりに語り、スタジオでは不愉快なBGMの中、「一体彼は何者か」「白骨の身元は誰か」とゲストが無知で無責任な憶測を並べていた。正直見るに耐えなかったが、確認しないわけにもいかない。そのまま夜のニュースまでチェックしたが、それ以上捜査の進展はないようだった。

果たして警察は俺を訪ねてくるだろうか?
寝付けないとわかっていながら、また横になって考える。
土で汚れた服は処分した。会社には無断欠勤の理由を腹痛で寝込んでいたと説明した。万が一警察が来てもしらばっくれることはできる。それにいくら警察だってあいつに…大宮に何が起こったのかを正確に知ることは不可能だ。俺自身今日の朝まで何もわかっていなかったのだから。

大宮…お前はずっと土の中で眠っていたんだな。誰にも気付かれずに、何年も何年も…。
瞳を閉じる。
今夜はせめて、三人で過ごしたあの頃を思い出してみよう。今まで一度も夢に見ることもできなかったあの頃を。