第一章 桜の下

●ムーン

 私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
そんなミットに配属されてもうじき2年。ちゃんと仕事を続けられているのは喜ばしいことだが、今年の春の訪れだけはどうしても嬉しさより憂いを強く感じてしまう。

…ピピピピピ。
携帯電話のアラームで私は目を醒ました。まるでその前から目覚めていたかのようにスムーズに。もしかしたら何か夢を見ていたのかもしれないが…思い出せない。
布団から手を伸ばしアラームを止める。そして着信がないことを確認。
…3月1日、月曜日。
画面のその文字が飛び込んでくる。上半身を起こして、思わず小さな溜め息。ついに3月が来てしまった。
私はベッドから出ていつもの殺風景な部屋に立つ。そしてもう一度溜め息を吐きかけたところで、再び携帯電話が鳴った。今度はアラームではなく着信のコール。
「はい、もしもし」
慌てて出た私に告げられたのは現場急行の指令。時刻は午前7時半。朝食を摂る時間は奪われたが、おかげで余計なことは考えずにすみそうだ。
身支度を整えて愛車に飛び乗る。イグニッションキーを回すと、寝起きの悪いエンジンは不機嫌そうに嘶く。動き出す東京の町並み…まだ冷たさの残る朝の空気を切り裂くように、私はアクセルを踏み込んだ。

「…こりゃ、亡くなられてからかなり時間が経ってるね」
私の隣で低い声が言う。ボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪で右目を隠したこの異様極まりない男こそ、私の上司・カイカン警部である。
「はい。地中で完全に白骨化していますので、少なくとも埋められてから5年以上は経過しているだろうと、先ほど監察医の先生もおっしゃっていました。詳しい検査はこれからですが」
私は手帳のメモを見ながら答える。
「遺体が白骨化するまでに必要な時間は、もちろん環境によって大きく差が出ます。通常は地中よりも地上の方が早いです。ですから、地上で白骨化させてから地中に埋めた…という場合も考えられますが、この遺体はご覧のとおり衣服を身に付けていますので、その可能性は低いかと」
「さっすがムーン、お見事!」
どうせ本心ではない誉め言葉をかけられても嬉しくない。
それにしても、この変人の下に就いて2年になろうとは…。着任当初は絶対やっていけないと思ったものだ。全く慣れとは恐ろしいもので、ムーンと呼ばれることにも違和感が薄らいでいる。順応というのか麻痺というのか、とにかく時の流れというやつは、こうやって大抵の物事を受け入れさせてくれる。後悔してもしきれない過ちでも、身を裂かれるような痛みでも…いずれは薄らいで忘却の彼方へ消えていくのだ。
ハア…今私の胸を占有しているあのことも、さっさとそうなってくれたらいいのに。おっといかんいかん、勤務中だ。
「そんな、基本的なことですよ」
警部にそう返しながら、改めて現場の状況を観察する。
通報を受けて駆けつけたのは、南新宿にある『五本桜公園』。中央には噴水、それを囲むように散歩道、さらにその周りには子供たちが遊べる広い土壌が敷かれた大きな公園だ。敷地内には多目的ホールも併設され、近隣住民の憩いの場となっていることが伺える。春色に彩られた園内の雰囲気はとてものどかで、どこか懐かしさを感じる憧憬も含んでいる。
そして、公園の片隅に並ぶのは五本の桜…おそらくこれが名称の由来にもなっているこの公園のシンボルなのだろう。もう花も葉もない古い桜だが、幹の太い立派な木だ。それが3メートルほどの等間隔で一直線に植えられている。
その幹にもたれて木洩れ日の中でゆっくり読書でもできたら…きっと素敵な休日になっただろう。しかし、残念なことにそんな事態ではなくなってしまった。五本の桜の一本…ちょうど真ん中の木の根元から、人間の白骨遺体が発見されたのだ。深さ約1メートルの位置、うつ伏せの格好で。
警部は掘られた穴のそばにしゃがみ、じっと中を覗き込む。現在時刻は午前10時。一応公園は現場検証のため立入禁止にしているが、入り口付近には少し人だかりができていた。マスコミの姿も見える。
「警部、これまでにわかっていることをご報告してよろしいですか?」
「どうぞ」
立ち上がって警部は答える。そう、この人が現場に到着したのはほんの今し方。私が来たのが午前8時だから、随分な重役出勤だ。まあこれもいつものこと。現場検証が落ち着いた頃に臨場して情報をまとめて聞くのが、この人のやり方らしい。
「では、始めます。まず遺体発見の経緯ですが…」
再び手帳のメモを見る。そしてできるだけ正確に伝わるよう心掛けて私は話す。
110番通報があったのが今朝の7時17分。通報者は公園の近所に住む志賀という老人。彼は愛犬を連れて日課の散歩で公園内を歩いていたところ、桜の木の下で腰を抜かして声を上げている男を発見した。どうしたんですかと駆け寄ると、男の衣服は土で汚れ、傍らにはスコップが落ちていた。そして木の根元には深く大きな穴…志賀がその中を覗き込むと、土から人間の白骨が見えていた。腰を抜かした男は混乱しており、事情を尋ねても埒が明かない。そのため老人は急いで自宅に駆け戻り、警察に通報したというわけだ。しかし彼が再び公園に戻ると、そこにもう男の姿はなかった。
「ナルホド」
独特のイントネーションでそう頷くと、警部は穴のそばに落ちているスコップを見た。
「いつもわかりやすい報告をありがとう、ムーン。でも一つ気になったんだけど、あれはスコップじゃなくてシャベルでしょ?」
予想外の箇所に質問が入った。
「え?スコップじゃないですか」
50センチほどの長い柄、先の金属部分に足をかけ地面に差し込んで土を掘る形状…どう見てもこれはスコップだ。
「シャベルっていうのは園芸で使う小さい物ですよ、警部」
「何を言ってるんだい?小さいのがスコップで、これみたいな大きいのがシャベルじゃないか」
どうやら警部と私の中で、スコップとシャベルの認識があべこべらしい。子供の頃からそう呼んでいるので、私の記憶に間違いはないと思うが…。どうせこの変人のことだから、また意味不明なこだわりを持っているのだろう。
「そうでしたっけ、わかりました」
ここはこちらが折れておこう。それより本題は事件のことだ。
「それでですね警部、穴のそばで腰を抜かしていた男性は未だに見つかっていないんです」
「遺体を発見した男は…忽然と姿を消してしまったわけだね」
「はい。現在志賀さんには、南新宿署で似顔絵を作成してもらっています」
そう、これが明らかな殺人事件であれば、緊急配備を敷いて消えた男を追うべきなのだが…現状ではまだそう断定することはできない。遺体の身元も不明であれば、死因も死亡時期も不明、いつここに埋められたのかもわからないのだ。状況から考えて、消えた男が穴を掘って遺体を見つけたのはほぼ間違いないが、現時点ではあくまで彼は発見者。警察と係わり合いになるのが嫌で姿を消す発見者は珍しくないから、それだけでその男を疑うわけにはいかない。
「それにしても…その人は、なんだって朝っぱらからこんな所を掘ってたんだろうね」
警部の言葉に私も考えを巡らせる。
そう、そこが一番の謎だ。まさか遺体が埋まっていると知っていたわけじゃあるまいし。腰を抜かしていたという話から考えても、その男は何か別の目的で穴を掘っていたに違いない。果たして、公園の桜の根元に大きな穴を掘る理由とは…?
「う~ん…」
唸りながら警部はポケットから細く小さな物体を取り出し、それを口にくわえる。タバコではなくおしゃぶり昆布。これも今更ツッコミを入れても仕方のないこの変人の習慣。
「桜の木…犬…穴を掘る…待てよ?」
穴の中を見つめていた警部が、思い付いたようにこちらを見る。
「桜に犬って…もしかしてその人は花咲かじいさん?ポチに言われて穴を掘っていたとか」
「警部、ふざけている場合じゃありませんよ。志賀さんの話では、その男性は中年でおじいさんではありません。それに犬を連れていたのも志賀さんであって…」
「フフフ、わかってるよ。それにここ掘れワンワンで死体が出てきたんじゃシャレにならないからね」
まったくこの人は…。それにしても、確かに桜の木の下に死体が埋まってるなんてまるで都市伝説だ。
「でもまあムーン、便宜上はその消えた男性を花咲かじいさん…じゃなくておじさんと呼称して話を進めようか」
…なんでやねん。
「果たして花咲かおじさんは何故ここを掘っていたのか、そして彼の素姓は一体何者か…これが最初の謎だ」
警部はそう言ってから、またしばらく唸って考えていたが…急に真面目な声に戻って私に言った。
「遺体の身元については何もわからないの?」
気を取り直して私も答える。
「はい。衣服と骨盤の大きさから、性別は男性、年齢は20代から30代。今のところわかっているのはここまでです。ただズボンのポケットから財布が発見されまして、土にまみれてかなり傷んでいましたが、カード類も入っているようなので…慎重に復元すれば、ここから身元がわかるかもしれません」
「…了解。死因は?」
「今のところ何とも言えません。なにせ白骨ですからね。死亡時期も含めて、監察医の先生の手腕に期待ってところです」
そして私は、警部の許可が出次第遺体を司法解剖に回すことを伝えた。警部はもう一度しゃがみ込み穴の中の遺体を見つめたが…特に発見はなかったようだ。そのまま立ち上がると、昆布をポケットにしまってから「よろしく」と言った。

 遺体が運び出されていくのを見届けてから、警部と私は南新宿署に赴いた。さっそく志賀老人の証言を元に作成された、花咲かおじさんの似顔絵を確認する。
「ナルホド、これが…」
有島という若い署員から紙を受け取る警部。前髪で隠れていない左目で似顔絵をまじまじと見つめている。私も隣からそれを覗き込んだ。
…男の年の頃は40歳前後。どちらかというと小顔で少し垂れ目。さほど特徴的な顔ではないが、顎の部分に気になるものがある。
「この顎の書き込みは…傷ですか?」
警部もその箇所について質問した。有島は少し照れながら「実はこの似顔絵は僕が描いたんですけどね」と説明を始める。
「志賀さんによると、確かに男の顎に傷のようなものが見えたんだそうです。まあ相手は慌てふためいていましたし、志賀さんも白骨を見て驚いていましたから、じっくり観察したわけではないでしょうけど。たまたま泥が付着していたとかではなく、あれは古傷だろうとおっしゃってました」
「そうですか。それで…この男性の素姓はわかりそうですか?」
「すでに公園の近隣住民には、この似顔絵を見せながら聞き込みを開始しています。ですが…今のところ、特に実のある情報はないようです」
私はちらと腕時計を見る…午前11時半。聞き込みが成果を上げるにはもう少し時間がかかるだろう。警部はまた黙って似顔絵を見つめたが、特に何も言わずそれを返す。
「あ、それはコピーですからどうぞお持ちください」
そう言われ警部は「どうも」と紙をこちらに差し出す。私は受け取ると折りたたんでコートのポケットにしまった。
「ところで有島さん、志賀さんはもうお帰りになられました?」
「いえ、まだ待機してもらってます。警部さんがお話されるかもしれないと、そちらの女刑事さんから連絡を頂いておりましたので」
警部は微笑むと、またそこで「さっすがムーン、お見事!」と言った。

 有島に案内され、警部と私は志賀が待機している部屋に通される。四角い机だけが置かれた小さな取調室に彼はいて、ぼんやりと虚空を見つめていた。
警部が「お疲れのところすいません。警視庁のカイカンです」と挨拶し、彼の対面に腰を下ろす。私は現場でも少し会っていたので、会釈だけで警部の隣に座った。
「いやあ驚かれたでしょう」
そう明るい声で始める警部。志賀は相手の風貌にいささか驚いたようではあったが、「そりゃあもう」と優しい調子で会話に応じてくれた。
「朝の散歩はもう10年以上日課にしてるんですけど、こんなのは初めてですよ。まさかしゃれこうべが埋まってるなんてねえ。あの腰を抜かしてた男は見つかりましたかね?」
警部は「残念ながらまだです」と答える。続いて似顔絵にあった顎の傷についても確認されたが、志賀はあれは古傷に間違いないと答えた。さらに警部は身体の他の部分にも傷はなかったかと尋ねるが、男は長袖・長ズボンだったのでわからないとのことだった。
そこで少し沈黙が生まれたので、私は「男性はどんな様子でしたか?」と問う。
「そうですねえ。散歩道をいつものように犬と歩いてたら…桜の木の方から、うわあって聞えたんです。それで行ってみると、その人が腰を抜かしてて、何を訊いても返事が言葉になってなくて。驚愕っていうんですかね、全身をプルプル震わせて本当に顔が真っ青でしたよ」
「その人に見覚えは?」
と、警部。老人は首を振る。
「私は公園の近くで駄菓子と文房具の店をやってるんですけどね、あんな人は見かけたことないです。おそらく近所の人ではないでしょう」
「そうですか。それにしても新宿で駄菓子屋さんとは乙ですね。いやあ、私も小学生の頃からこいつが好物でして」
そう言って警部はポケットからおしゃぶり昆布を出す。志賀は目を丸くした後、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「そうそう、子供は何故か好きなんですよね、スルメとかサラミとか」
「五円のチョコとかもありましたよね。あと三つのうち一つだけ激辛が入ってるガムとか」
しばし昭和世代の駄菓子トークが展開される。まあこうやって会話を楽しいものにして聴取するのも警部のテクニックなわけだが。明るく話しながらも、頭の中では相手をちゃんと吟味しているはずだ。
そう、警部だって当然考えている…全てが志賀の狂言であるという可能性を。姿を消した花咲かおじさんなんて本当は存在しないという可能性を。
警部は駄菓子トークの楽しい雰囲気を残しつつ、徐々に話題を転換して老人の毎朝の習慣について確認していく。
「毎朝6時に起きて、7時までのニュースを見るんですよ。そして散歩に出るんです」
「ニュースですか。朝のニュースは情報がまとまっていてよいですよね。何か気になるニュースはありましたか?」
「そうですねえ…」
志賀もおそらくは世間話のつもりでそれに答えていく。まさか自分がアリバイを確認されているとは夢にも思っていないだろう。
その後、またどの女子アナウンサーが好きかという話題で二人は盛り上がる。これも自分が疑われていると知って志賀が傷付いてしまうのを防ぐための警部の配慮…だと信じたい。そうですよね、警部?
「そうそう志賀さん、夜のニュースに出てるあの方も素敵ですよね。ええと確か名前は…」
こらこらオッサン、もう女子アナトークはええっちゅうに。

正午を過ぎ、結局話題が事件から脱線したまま警部は聴取を終了に導いた。「どうもありがとうございました」と席を立つので私もそれに合わせる。一礼して部屋を出ていく警部。
本当にこれで終わっちゃうのかな、と思ったら警部はピタリと立ち止まる。そして室内に振り返り「志賀さん、最後にもう一つだけ教えてください」と告げた。来た来た、ここで重要な質問がバシッと出るに違いない。
警部は数秒を待ってから、室内に響く低い声で言った。
「この辺りで…カレーがおいしいお店はありますか?」
…はい?

 捜査本部での簡単な打ち合わせを終え、警部と私は南新宿署を出る。そして警部が激辛カレー好きと聞いて志賀老人が教えてくれた、『キーヤンカレー』という店で遅めの昼食にありついた。もっとも私は激辛なんて興味はないので、甘口を注文したが。現在午後1時半、店内は客もおおよそはけており、小声でなら事件の話をすることもできた。
「いい雰囲気の店だね。造りはログハウス調なのに、装飾はハワイアンなのがなんだかマッチしてて」
あなたの格好は明らかにミスマッチだと思うが。
「それより警部、先ほどの聴取はいかがでしたか?志賀さんの証言の信憑性を確かめておられたんですよね?」
警部は「まあね」と水を飲む。
「君はどう思った?」
「ニュースの内容をちゃんと話していたので、彼が散歩に出たのは7時過ぎで間違いないでしょう。通報があったのが7時17分ですから、時間経過も矛盾しません。彼の話は事実だと私は判断しました」
「そうだね。そんな短い時間であんな大きな穴を掘るなんてお年寄りには無理だ。似顔絵にしても、もし嘘八百だとしたら、顎の古傷なんて妙なアレンジは必要ない」
私も頷く。
「となるとムーン、やはり消えた花咲かおじさんを追うのが先決だね。そうそう、現場に遭ったあのシャベルはどこから持ってきたのかな?」
スコップなのに…まあそれは言うまい。
「近くの工事現場から無断で拝借された物のようです」
「ナルホド。それで指紋は出た?」
私は先ほど鑑識から届いた情報を伝える。持ち手の部分から指紋は検出されたが、本庁のデータベースと照合しても該当者はいなかった。
「過去の犯歴はなし、か」
「ええ。しかしそうなると困りましたね。似顔絵を使っての聞き込みにも引っ掛からないとなれば、やはり近隣住民ではないのかもしれません。あくまで第一発見者ですから、全国に指名手配というわけにもいきませんし…」
「ねえムーン、花咲かおじさんがたまたま遺体を発見したと仮定してさ、朝っぱらから公園の地面を掘る理由は何だろう?」
そう、結局そこに立ち戻る。それがさっぱりわからないのだ。もしかしたらという可能性さえ浮かばない。
私が返答に窮しているのを見て、警部は言葉を続けた。
「穴を掘るということは、何かを掘り出すためか埋めるためだと考えられる。埋めるとすれば何かな?生ゴミ、宝箱、あるいは脱税とかのよからぬお金…?」
「ペットの死骸、というのもあるかもしれませんね。子供の頃に飼っていた金魚が死んだ時、親と公園に埋めに行った記憶があります」
「そうだね。しかし実はいずれの可能性もないんだよ。何故だかわかるかい?」
「現場には…埋めるための物が何もなかったからですか?」
警部は「そのとおり」とまた水を飲む。
「あれだけ深く大きな穴だから、何かを埋めるとしたらそれなりに大きな物のはずだ。そんな物が現場にあれば、志賀さんが見落とすはずはない」
「そうですね。私が現場で志賀さんに話を聞いた時も、消えた男性のそばに落ちていたのはスコップだけだったとおしゃっていました」
「スコップじゃなくてシャベルだよ、ムーン」
「あ、つい…すいません。でも志賀さんもスコップとおっしゃってましたが」
「そうなの?う~ん…」
警部が腑に落ちない様子で首をひねる。だから本題はそこじゃないってば。私は強引に話を戻した。
「現場には埋めるための物は何もありませんでした。それにそもそもたくさんの人が出入りする公園に、大切な物ややましい物を埋めるとは考えられません」
「…そういうことになるね」
警部の思考もスコップから離れる。
「つまり花咲かおじさんは、埋めるためではなく、掘り出すために穴を掘ったことになる。腰を抜かしていたわけだから、もちろん遺体が埋まっているとは知らずに、別の何かを掘っていたんだ。
…ではムーン、大の大人が一体何を掘っていたんだろう?」
公園に埋まっている物…想像できない。それこそ大判小判の詰まった壺くらいしか。
「彼の正体はトレジャーハンターで、本当に宝を発掘していたのか?それとも考古学者で、歴史的な遺物を探していたのか?う~ん、新宿の公園からそんな物が出るとは思えないなあ」
候補を挙げては自分で打ち消す警部。私も「まさか落とし穴ですかね」と言ってみたが、もちろんすぐに自分で却下した。
その後も二人でいくつかの説を唱えてみたが、いずれも無理のある話ばかりだった。
「わからない、わからないぞ」
そう言ってまた警部が水を飲んだところで、バンダナを巻いた店員が「はいお待ち」と二人分のカレーを運んできた。

 事件の方は五里霧中で悩ましいが、カレーはそのストレスを忘れさせてくれるほどおいしかった。警部もご満悦なようで、激辛に苦悶しながらも幸せそうな笑みを浮かべている。
「いいかいムーン?激辛カレーってのは辛いだけじゃダメなんだよ。辛さも含めておいしくないとね。その意味でもキーヤンカレーは大当たりだ。志賀さんに感謝しないと」
食べながら、「そうですね」と上司の講釈に頷く。日頃あまり食に対して執着のない私でも、確かにこれはおいしいと思った。まあカロリーもすごそうだけど。

堪能してスプーンを置くと、皿が下げられ食後のコーヒーが運ばれてくる。警部は「激辛の後には微糖のコーヒーが合うんだよね、わかってるなあ」とさらに上機嫌。
「それで警部、これからどうされますか?」
私もカップを口に運んでから言った。
「そうだなあ、とりあえず警視庁に戻ろうか。遺体の身元が判明するにも、聞き込みの情報が集まるにも、もう少し時間がかかるだろうからね。あ、そうそう、君は念のため戻ったら交通課に行って」
「え、どうしてですか?」
交通課、と聞いて私の心は少し波立つ。
「消えた男性の顎の古傷、もしかしたら交通事故によるものかもしれないからさ。だとしたら交通課のデータを調べれば該当者がいるかもしれない」
「しかし警部、顎を怪我する原因なんて他にも色々ありますよ。それに交通事故の件数だってとても多いですし」
「だから念のためって言ってるでしょ。仕方ないじゃないか、普通の自己とか怪我のデータは警視庁にはないんだから。さっきの似顔絵を交通課に見せてさ、万が一知ってる人がいたら儲けもんじゃない」
「ですが…」
どうしても歯切れが悪い返事になってしまう。
「それとも何か交通課に行きたくない理由でもあるのかい?」
見透かすように目を細める警部。「特にそういうわけでは…」と返したが、きっと内心の動揺は伝わってしまっただろう。この人はそれを感じ取る名人なのだから。
訪れる沈黙。私は所在なくコーヒーを口に運ぶ。
わかっている、嫌だとかしたくないとかは言っていられない。これは仕事だ。少しでも可能性があることなら調べなくては。個人的な感情で職務を怠るのは許されない。そんなの私らしくない。
カップを置いて「わかりました」と言いかけた瞬間、リンリンリンと店の電話が鳴った。思わずそちらを見ると、これもレイアウトの一環なのか、昔懐かしい黒電話だった。先ほどのバンダナの店員がカウンターでそれに出る。
「はいキーヤンカレーです。あ、ディナーのご予約ですか?ありがとうございます。お客様は初めてでいらっしゃいますか?」
店員は快活に話しながらメモを取っている。そしてどうやら電話の相手は店の場所を尋ねたらしい。
「そうですね、すずらん医大病院はわかりますか?でしたらそこから五本桜小学校…じゃなくて五本桜公園の方に向かってください。そこから…」
五本桜小学校というのもあるのか。敷地に桜が五本あるから五本桜公園かと思ったけど、もしかしたら五本桜というのはこの辺りの地名なのだろうか。
そんな素朴な疑問にしばし心を傾ける。警部も黙ってカップを口に運んでいた。窓の外には、新宿の高層ビルに阻まれながらも春の晴天が覗いている。
そういえば…あの日の空もこんな水色だったっけ。

●?

部屋に帰り着いた俺は、玄関にどかっと腰を下ろした。呼吸が荒い。心臓も激しく脈打っている。人の記憶に残るのを恐れて、電車もバスも使わずに徒歩で戻ったが、さすがにこの距離は疲れる。できるだけ冷静に歩いたつもりでも、かなりの早足になっていたのだろう。額からはおびただしい汗が流れ落ちてくる。下顎の古傷も、まるでそこに脈があるかのように疼いている。

まさか、まさかあんなものが埋まっているなんて…。あの白骨…あの服装…間違いない、あれは、あれは…あいつだ。
なんてことだ。俺はとんでもないことを…。

両手がまた震え始める。そしてあの場にシャベルを残してきてしまったことにようやく気が付いた。
部屋の時計を見る…午後2時。もう公園は騒ぎになっているだろう。取りに戻ることはできない。

落ち着け、とにかく落ち着かなければ。今何をすべきかを考えるんだ。
まずは会社に無断欠勤したことを謝って、ええとそれから…。