１
天空で落命した男の名は安土弘樹（あづち・ひろき）、38歳、仕事は安土グループの若き支社長。そして妻の名は奈々（なな）、26歳。放心状態の彼女からなんとかそれだけのことは聞き出せたが、これ以上の聴取はもう少し落ち着いてからでなければ難しそうだ。ひとまず妻には休んでいてもらうこととし、静養室まで乗務員の彼女も付き添ってくれた。その時に乗務員の彼女の名前が岡本仁美（おかもと・ひとみ）、29歳であることも確認した。
それにしても安土グループとは…詳しくは知らないが、土地開発とか学校経営とか、かなり手広くやっている巨大複合企業だ。その総帥は政界にまで影響力を持つとさえ言われる。やれやれ、これはマスコミ発表が必要になるかもしれない。
私は仁美の案内で機長の坂井とチーフパーサーの大黒にも接見、経過を説明し、他殺の可能性も否定できないので今できる初動捜査をしておきたい旨を伝えた。二人は難色を見せたが、私が懇願すると「他のお客様に動揺を与えない範囲で」と許可してくれた。
とりあえず現場保存ということで夫婦の座っていた席はそのままにしてもらう。そして客室の乗務員には他の乗客たちの動きにさり気なく気を配ってもらうこととした。
「ご協力感謝します、坂井機長。あの、もう一つお願いしたいのですが、警察に連絡を取ってもらうことは可能ですか？」
「ええもちろん、航空無線を使いましょう。新千歳の空港警察でよろしいですかね」
「はい」
そう答えてちょっとだけ考える。そして…警視庁のカイカン警部にも連絡してもらうよう私は追加でお願いした。
「カイカン様ですね、わかりました。珍しいお名前ですね」
雲の上でまでミットの恥をさらすことになろうとは。私は「そうなんですよ」と苦笑いし、自分に関してはこの場では本名を名乗ることにした。さすがにムーンでは珍しいお名前で通らないだろうから。
さて、とにかく準備は整った。ここからどうするか。警部ならまず『取っ掛かり』を探すだろう。この事件における取っ掛かり…実はそれらしき物をすでに私は見つけている。
そう、安土弘樹が急変した時、乗務員の仁美は確かに「三枝様」と呼びかけた。安土と三枝…似ても似つかぬ名前だ。私が聞き間違えたとも思えない。
まずはそこから当たってみるとしますか！
２
乗務員の控室を借りて岡本仁美の聴取を開始する。
「先ほどは取り乱しまして失礼致しました」
そう言って対面に座る彼女にはもう動揺の残滓はなく、凛とした客室乗務員の顔に戻っていた。表情は穏やかだが眼差しは鋭く、一切の隙を見せない覚悟が伝わってくる。
「お忙しいところすいません、殺人事件の可能性もありますのでどうか聴取にご協力を」
「もちろんです。何なりとお尋ねください」
滑舌の良い語り口で彼女は答える。そこでまず私は安土夫妻が遅れて搭乗した時のことを確認する。
「はい。ご夫妻は登場手続きも済ませ保安チェックも済まされていましたが、奥様が売店でお買い物に夢中になられ搭乗ゲートにお越しになるのが遅れてしまったそうです。そこで地上係員がお声掛けして急いで頂きました。機内に入られてからは席まで私がご案内しました。ちょうど刑事さんのお隣の座席でしたね」
「そうです。そして着席の際に少しトラブルがありましたね、席を間違えたお客さんと…」
「ええ。あのようなことは珍しくありませんのでトラブルというほどではございませんが」
「実はその後、私はすぐに眠ってしまったんです。岡本さんがドリンクサービスにいらっしゃった際に目が覚めたのですが…、その間のご夫妻の様子を教えていただけませんか？」
彼女はそこで少しだけ考えてから答える。
「そうですね…ずっとお話をされていました。奥様がたくさん話し掛けて、ご主人は頷いていらっしゃる感じでした。機内の他のお客様は皆様お静かに過ごされていましたから、少々目立ってはおられましたね。ご主人が生返事だったのはそのせいかもしれません」
「どちらかが席を立たれたりは？」
「ございませんね。離陸してから化粧室を利用されたお客様は誰もいらっしゃらなかったように記憶しております」
明瞭な返答だった。その他にも夫婦や他の乗客について気になったことがなかったか尋ねてみたが、特に目ぼしい情報は出てこなかった。
「それではもう一つだけお伺いしたいのですが」
と、私はここで本題に切り込む。
「ご主人が急変された時、あなたは『三枝様』と口にされました。彼の名前は安土ですが…」
言葉を止めて反応を見てみる。それまで毅然としていた彼女の目が明らかに落ち着きを失くしていた。訪れる沈黙…鈍いエンジンの音だけがその場を占有する。
「実は…」
重たい口がわずかに開く。
「あの、私共はお客様の個人情報を話してはいけないのですが」
「情報は捜査以外の目的で使用しないとお約束します」
また数秒逡巡してから仁美は「わかりました」と意を決した。
「実はあの方、前は三枝というお名前だったんです。以前にも弊社の飛行機をご利用いただいたことがございまして…その時の記憶があったんです」
「なるほど。となれば最近名字が変わったということでしょうか」
「だと思います」
もしかしたら彼は婿養子で結婚したのかもしれない。これで三枝の謎は解けたが、そうなると別の疑問が湧いてくる。
「しかし、よく名前を憶えていらっしゃいましたね。私なら出会った乗客の名前を全員記憶するなんて無理ですよ…何か印象に残る相手でなければ」
少し意地悪な言い回しになってしまった。彼女は顔を逸らして再び口を閉ざす。私が「秘密は必ず守ります」と念を押すと、不安そうな目だけがこちらに向いた。
「それが…以前に機内でお会いした時に直接自己紹介されまして。あの、その…今度食事でも行きましょうと誘われました。それで印象に残っていたんです」
「それはいつ頃のことですか？」
「確か…去年の今頃です」
一年前か。それにしても機内で客室乗務員をナンパとは。まあそれなら悪名として彼女に記憶されても無理はない。私は一応「実際にお食事に行かれたのですか？」と確認する。
「そんな！」
ちょっと大きな声を出してから彼女は慌てて口を押さえる。
「失礼致しました。お誘いはもちろんお断わりしましたよ、当然です」
ややぎこちない笑顔で女性乗務員はそう言った。
＊
続いて亡くなった男の妻である安土奈々に入室してもらう。
「少しは落ち着かれましたか？」
そう尋ねると、彼女は無言のまま泣き腫らした目で頷いた。そして「ヒロくんは…」とか細い声が漏れる。
「ヒロくんは、病気で死んじゃったんじゃないの？」
「まだわかりません。病気以外の可能性もあります。だからご主人の死について私は捜査をせねばなりません」
返される無言。まだ半分放心しているのか。
「おつらいでしょうがご協力をお願いします。まずは今回のご旅行のことから教えてください。よろしいですか？」
「…うん」
「ではお尋ねしますが…」
彼女はこちらの質問に対してぽつりぽつりと必要最小限の単語で答えてくれた。まるで言葉を憶え始めた幼子のようだ。それによると、夫婦は東京に暮らしており今回は二泊三日の北海道旅行だったという。日中は夫の仕事があったので退勤後の夕刻にマイカーで羽田空港に二人で向かい、そのまま搭乗したらしい。
「お仕事の後でご旅行に出発というのは大変ですね。お休みをもらって朝から出るというわけにはいかなかったんですか？」
「ヒロくん、今とっても忙しいの。支社長になって…だから簡単に休めないの。新婚旅行だってまだ…行ってない」
「失礼ですが、ご結婚はいつ頃ですか？」
「半年前」
そこでまた彼女の目に涙が滲む。私は警部の手並みに倣って相手をいたわりながら情報を引き出していく。実際にやってみると難しい…というより心苦しい。いかんいかん、これは仕事だ。
奈々は安土グループ総帥の末娘だった。二人は一年前にとあるパーティで知り合い、間もなく交際が始まり約半年でゴールイン。先ほど岡本仁美の聴取で推測したように彼は婿養子となり、晴れて安土一族の仲間入り、その後間もなく支社長の座に就任した。まあ俗な言い方をすれば、総帥令嬢のハートを射止めて地位を手に入れた逆玉というわけだ。
もちろん地位は副産物で愛情が結婚の理由なのかもしれないが、二人が出会った一年前といえば彼が機内で仁美をナンパしていた時期。その点を考えても、そして私に向けてきたあのいやらしい視線を考えても、どうしても彼の愛情を疑ってしまう。
「実は、ご主人の死因には毒物が関与している可能性がありまして」
私は少し角度を変えて質問を続けた。彼女はそこで明らかな驚きを見せる。
「え、毒？ ヒロくんは毒で死んだの？」
「あくまで可能性ですが、身体にはそれを疑わせる所見がありました」
「所見って何？ 症状のこと？」
「ええまあ、そのようなものです」
「じゃあ誰かに毒を盛られたの？」
そこまで言うと彼女ははっとし、急にこちらを睨みつける。
「まさかあんた、あたしを疑ってるの？ あたしがヒロくんに毒を飲ませたって？ ふざけないでよ！」
「違います、今は全てが可能性の段階です。誰が毒を飲ませたのかなんてわかりません。それにご自身で飲まれた可能性だってありますから」
「自殺ってこと？ バカなこと言わないで、ヒロくんがそんなことするわけないじゃない！ もういい、あんたのことパパに言いつけてやるから」
「落ち着いてください。まだ何もわからないんです」
立ち上がって退室しようとする彼女をなんとかなだめてすかして座らせる。相手を感情的にさせてしまうとは…私もまだまだだな。
「奥さん、怒らせてしまってすいません。ご主人に何が起こったのかを確かめるためにどうかご協力を」
彼女はすねたようにそっぽを向くとワンピースの足を組んだ。
「タバコ吸っていい？」
「機内は禁煙だと思います」
「うっさいわね、わかってるわよ。それで何を答えればいいの？ さっさと訊いて」
「あの、この機内に入ってからご主人が口にされた物は何かありますか？ 例えばお菓子など」
彼女は少し考えてから答えた。彼にはガムやキャンディを口にする習慣はなく、タバコも電子タバコも吸わない、機内では乗務員が振る舞ったアップルジュースと一緒に酔い止め薬を１錠飲んだだけだという。
「酔い止めの薬…それはどのような物ですか？」
「ヒロくんは時々乗り物酔いするのよ。だからいつもポケットに錠剤を入れて持ち歩いてるの。いつでもすぐ飲めるように。飛行機に乗る前にも１錠飲んだんだけど、なんかまだ気分悪そうだったから、あたしがもう１錠飲むように言ったのよ。
ねえ、まさかあれに毒が入ってたの？」
「薬はどこのポケットに入っていたんですか？」
奈々によると彼はいつも数種類の酔い止め薬をスーツの左ポケットに入れていたという。しかも機内で着ていたスーツは仕事から帰宅した後に着替えたおろしたての物であり、薬も彼が自分で新品の物を準備していたらしい。となると事前に誰かが酔い止め薬に毒を仕込むというのは難しそうだ。
酔い止め薬は関係ないのか？ では飛行機に乗るよりも前、例えば昼間仕事をしている時に毒を飲まされたとしたらどうだろう。カプセルに毒を仕込めば飲んでから実際に効き目が出るまでにタイムラグを作ることができる。
「これもあくまで可能性ですが、ご主人が日中どなたかにカプセルを飲まされる…もちろん毒とは知らずにですが、そういったことは有り得るでしょうか？」
「日中って…職場で？ それはないわね。ヒロくん、まだ支社長になったばかりで部下とうまくいってないみたいで誰も信じられないって言ってたから。誰かにカプセルを渡されて素直に飲むわけないわ」
まあ総帥令嬢と結婚したというだけでいきなり支社長になれば周囲は面白くないだろう。妬んでいた者はいたかもしれないが不仲の相手にカプセルを飲ませるというのは難しい。私はここで自殺説の検証に移る。
「奥さん、先ほど自殺するはずがないとおっしゃいましたが、彼が悩んでいたとか、少しでも心当たりはありませんか？」
「ないわよ。あるはずないでしょ。家庭のことも仕事のことも、これからこうしていこうとか、二人でいっぱい話してたんだから！」
「…そうですか。失礼なことを言ってすいません」
奈々はイライラして足を組み替える。また逆鱗に触れかねない、これ以上の聴取は難しそうだ。
「そろそろ終わりにします。最後に一つだけ教えてください。ご主人の旧姓は何とおっしゃるのですか？」
ほんの確認のつもりだった。しかし…。
「旧姓？ ああ、結婚前の名前ってことね。古井だけどそれが何？」
若き未亡人は予想外の返答をした。
＊
聴取すべきかどうか迷ったが、私は彼女にも来てもらった。そう、離陸前に間違って安土弘樹の座席に座っていた彼女。どうして自分が呼ばれたのかわからない…といった不安げな顔で細身の女性客は静かに着席する。
「突然すいません。先ほど目にされたと思いますが、あなたの前の席に座っていた男性の体調が急変し…残念ながらお亡くなりになりました」
彼女の表情が凍る。
「私は警察官として捜査をせねばなりません。ご協力いただけますか？」
「警察…だったんですか」
「はい、警視庁で刑事をしています。男性が亡くなった原因を突き止めるため、彼が機内で接触した人に一応お話を伺いたいんです」
「…わかりました」
彼女の声はエンジンの音で掻き消されてしまいそうなほど小さかった。まずは身元を確認する。彼女は東京在住の中村由加（なかむら・ゆか）、27歳と名乗った。
「男性が苦しみだすまでの間、後ろの席にいらっしゃって何か気が付かれたことはありませんか？」
「気が付いたことですか…。いいえ、あたしにはあの人の後頭部が少し見えてただけですから。それにあたし、ずっと窓の方を向いていたので…すみません、何も気付きませんでした」
「いえ、気になさらないでください」
深々と頭を下げる彼女を私はねぎらう。それを謝られたらすぐ近くにいたのにグースカ寝ていて何も見ていないこちらの立場がない。
「中村さんはお休みをとって旅行中とのことでしたが、お仕事は何をされているんですか？」
緊張を緩めるため私は話題を逸らすことにした。
「あ、はい、接客業です…喫茶店の」
「ウエイトレスさんですか。中村さんは可愛いから似合いそうですね」
「いえいえ、そんな」
ようやく彼女が少し笑う。
「あたしなんかダメダメですよ。いつも先輩に怒られてばっかりで。先月もお客様にお水を配る時にスキップしちゃって大目玉を食らいました」
ルンルン気分のウエイトレスか…可愛いけどさすがにそれは怒られるだろう。そういえば…私が警部に叱ってもらったことってあまりないかも。
「刑事さんはかっこいいですね。バリバリ働いてて憧れちゃいます。それにすっごい美人だし、なんかドラマの中の刑事さんみたい」
「そんな…それに私もまだまだ見習いです。どうしていいかわからなくて現場であたふたしてばかりですよ」
「ほんとですか？ あたしもいつもあたふたして、ギャレーでてんてこ舞いです」
「ギャレーって何ですか？」
「あ、失礼致しました。お料理やお飲み物を用意する場所で…厨房のことです」
ようやく会話が温まってきた。私は世間話を続けながら頭の中で考える。この可愛いがどこか儚い雰囲気を持つ女性が彼の死に関わっていることがはたして有り得るだろうか？ 機内で交わした言葉もほんのわずか、座席を間違えるトラブルはあったがあんなことで殺意が生じるはずもない。それに後ろの席にいてどうやって毒を盛る？
私は会話の最後に念のため確認した。
「中村さん、亡くなった男性とは面識がありましたか？」
「え、あたしが？ そんなまさか」
一人旅の女性客は大きく驚いてから、また可愛く笑った。
３
三人の聴取を終えた私は医務室に戻る。遺体のポケットを確認するためだ。妻が証言していたように確かにスーツの左ポケットには薬がジャラジャラ入っていた。錠剤が入ったシートを１錠ずつ切り刻んでいる。いつでも取り出して飲めるようにだろう。薬は数種類あるようで大きさが微妙に異なっている。
ポケットには二つ分、錠剤が抜かれた殻も入っていた。飛行機に乗る前に１錠、ドリンクサービスの時に１錠…計算も合う。
私は改めて彼の死に顔を見た。簡易ベッドの上、若き支社長は苦悶の表情のまま永眠している。名門の安土グループに婿入りしたわけだから当然戸籍は確認されているだろう。彼の旧姓が古井であることは間違いない。では一年前に名乗っていた三枝という名前は何だったのか？
その場でしばし考えているとドアがノックされて岡本仁美が姿を見せた。
「失礼致します、間もなく着陸態勢に入りますので席にお着きください。先ほどの乗務員控室の座席で構いませんので私と一緒に行きましょう。着席されたらベルトもお願いします」
「わかりました。あ、岡本さん…」
もう一度三枝という名前について確認してみる。彼女はきっぱりと「彼にそう自己紹介されました」と答えた。
お礼を言って私は彼女と共に医務室を出る。途中で静養室の奈々にも声を掛け、三人で乗務員控室の座席に腰を下ろした。間もなく機内アナウンスでも乗客に着席が告げられた。
＊
機体は水平飛行から少しずつ高度を下げていく。
続きの捜査は空港に着いてからだ。私はここまでの情報をもとに頭の中で考えを整理する。そう、いつも警部がホワイトボードでしているように。
まず他殺説とした場合。
疑問①、毒はどうやって盛られたのか？ そして疑問②、犯人は誰か？
服毒経路として最も可能性が高いのは酔い止め薬。あの錠剤の一つに毒が仕込まれていたとすれば、誰かが毒入り錠剤をスーツのポケットに放り込んだことになる。
安土弘樹は今日おろしたてのスーツを家で着てから出かけている。空港までの移動はマイカーで、彼は飛行機の席に座るまでスーツの上にジャンパーを着ていた。誰かがスーツのポケットに手を伸ばすのは難しい。
私は隣の奈々を盗み見る。半年前に結婚した彼女…夫婦円満のように見えて実は夫を憎んでいたとしたら？ 彼は飛行機で乗務員をナンパするような男だ、そんな本性をを知ったとしたら？
だとすれば動機はある。妻としてそばにいた彼女ならば、彼がジャンパーを着る前、あるいは脱いだ後でこっそり錠剤をポケットに放り込むこともできたかもしれない。
酔い止め薬に毒が仕込まれたとすれば、彼女が一番の容疑者だ。いやしかし…うまく１錠放り込めても、期待どおりに彼がそれを飲んでくれる確率は低い。かといって確率を上げるために５錠も10錠も放り込めばさすがに気付かれてしまうだろう。殺害方法としては不確実だ。
では毒が酔い止め薬以外に仕込まれていた可能性を考えてみるか。他に彼が口にした物は機内でサービスされたアップルジュースのみ。あれに毒が仕込まれていたとすればどうだろう。
私は今度は対面に座る仁美を盗み見る。一年前に彼にナンパされた彼女…誘いは断わったと言っていたが実際は応じていたとしたら？ 恋愛に発展していたとしたら？ 彼が地位に目がくらんで総帥令嬢を選び、彼女が手ひどく捨てられたとしたら？
だとすれば動機はある。乗務員としてドリンクサービスをしていた彼女ならば、当然毒を仕込むこともたやすい。
ジュースに毒が仕込まれたとすれば、彼女が一番の容疑者だ。いやしかし…それはあまりにもあからさまな方法だ。しかも毒物は青酸系化合物、強烈な苦みがある。錠剤やカプセルでコーティングしているならまだしも、液体に溶かせばその味で相手に気付かれてしまい、下手すれば途中で吐きだされてしまう。そうなれば疑われるのは彼女だ。殺害方法としてはリスクが高過ぎる。
他殺説は行き詰ってしまう。いや待て、安土弘樹に接触した人物はもう一人いる。彼の席に間違えて座っていた中村由加だ。
彼女は席を移動する時に彼のすぐそばを通った。その瞬間にスーツのポケットに毒入り錠剤を？ …それはない。その時点では彼はまだジャンパーを着ていたし、近くに奈々や仁美、私もいたんだから。
いや、彼女が犯人だとすれば別の服毒経路がある。実はわざと35のA席に座っていて、座席の彼が触りそうな部分…例えば肘掛けに毒を塗っていたとしたら？ 彼がその部分に触れ、彼の指に毒が付着、そしてその指で酔い止め薬を飲んだため体内に毒が入ったとしたら？
無理がある。彼が必ず肘掛けに触るとは限らないし彼が酔い止め薬を飲むかどうかもわからない。そもそも彼女がわざと席を間違えていたとすれば、彼が35のA席に座ることを事前に知っていたことになる。どうやって調べる？ 航空会社のデータをハッキングしたとしても、夫婦で予約しているから彼が必ず窓際のA席に座るとは限らないのだ。
それに…席を間違っていると指摘された時の彼女の顔、あれは演技ではなく心底驚いているように私には見えた。そもそも赤の他人である彼女には彼を殺害する動機もない。
ダメだダメだ、この推理も行き詰まる。ええと他に容疑者はいるか？
もちろん機内にはたくさんの乗客がいた。しかし安土弘樹は一番最後に搭乗したので彼が現れた時には他の乗客は全員着席していた。そして彼が苦しみだすまで誰も席を立っていない。
となると乗務員か？ しかしドリンクサービスをした仁美以外に彼に近付いた乗務員もいない。乗客でも乗務員でも、接触せずして毒を盛れるわけがない。まさか遠くから吹き矢を放った？ 有り得ない、遺体には毒矢も毒針も刺さっていなかった。
ダメだダメだダメだ、他殺説は行き詰まってしまう。では自殺説が有力か？
確かに彼が自分で毒を用意し自分で飲んだとすれば物理的な疑問は何もなくなる。しかし逆に心理的な疑問はかなり大きくなる。夫婦で旅行している最中、しかも空を飛んでいる飛行機の中で自殺を決行する理由があるか？ そう、自殺説の最大の謎はこれ。あまりにも状況が不自然なのだ。これを疑問③にしようか。
「皆様、間もなく着陸致します。座席のベルトをしっかり締め、これ以降の化粧室のご利用はお控えください」
アナウンスが入る。そこで機体が前下方に傾き、揺れが強くなってきた。降下速度がどんどん上がっている。地上が近いのだ。室内の緊張が高まる。奈々は思い詰めたように目をぎゅっとつぶり、仁美はまっすぐ前方の壁を見つめていた。
…ガガガン。
そして私の疑問は宙を舞ったままだが、巨大な鉄の鳥は無事に北の大地に羽根を下ろした。