第一章 DEPARTURES

「北海道へはご旅行ですか?」
私が青い旅行バッグを受け取りながらそう尋ねると、彼女は控えめな笑顔で「ええ、まあ」と返した。細身の身体、その腕はこんな大きなバッグを持っていたら折れてしまうんじゃないかと心配になるくらい華奢だった。
「ちょっと長めのお休みをもらって日本を色々回ってるんです」
「それは楽しそうですね。よいしょっと」
頭上の荷物入れに彼女のバッグを押し込む。
「あの…どうもすみません、荷物を上げてもらっちゃって」
「いえいえ、自分のを上げたついでですから。ささ、お席にどうぞ」
大袈裟に頭を下げる彼女に着席を促す。可愛く、そしてどこか儚く笑んでから彼女は窓際の35のA席へ腰を下ろした。一つ空席を挟んで私は通路側の35のC席に座る。
「あの、そちらもご旅行ですか?」
遠慮がちに彼女が尋ねてきた。
「いえ、私はその…仕事ですね」
「ご出張ですか?」
「まあ、そんなところです」
「素敵ですね。かっこよく働く女性ってあたしも憧れてたんですよ」
「いえいえ、そんなたいそうなものじゃありませんよ」
自分で答えながら少し憂鬱になる。せっかく北海道へ行くというのにまるで余暇の時間がない明日からの研修スケジュールが頭を過ぎった。
「私はあなたがうらやましいですよ。日本を回ってらっしゃるんですよね、これまでどちらへいらっしゃったんですか?」
「かなり無計画なんですけど、沖縄の首里城とか、長崎のハウステンボスとか、広島の宮島とか、京都の銀閣寺とか…これまで行きたかった場所を南から北へ巡ってます」
「南から北…まるで渡り鳥ですね。それで次が北海道ですか」
「そうですね、まあ北海道で最後の予定ですけど。おしまいは渡り鳥の最終居留地へ行こうかなって」
オシャレな表現だと思った。そこでまた彼女は儚い笑顔を作る。20代半ば…私と同じくらいだろうか。会話を続けたものか思案しかけたところで機内アナウンスが流れた。
「皆様、この度はガーネット航空をご利用頂き誠にありがとうございます。当機はビーイング609便、新千歳空港行きです。現在お客様を機内にご案内しております…」
羽田から発つ夜の便。行楽シーズンも終わりかけた11月下旬ということもあって、座席は満席ではない。それでもスーツ姿のビジネスマンを中心に8割方は埋まっている。はしゃぐ子供の声もなく、乗務員も含め機内にはどこか一日の疲労感のような雰囲気が漂っていた。
彼女と私もそのまま会話を止めた。淡いクラシック音楽が流れる中、アナウンスとエンジンの音だけが響いている。私はシートベルトを締めて腕時計を見た。もう出発時刻の午後8時だが…まだ動き出す様子はない。点検に時間がかかっているのだろうか。
「ごめんなさいね、つい買い物に夢中になっちゃって」
突然遠くから場違いに陽気な声が聞こえてきた。見ると派手な服装の若い女性客が乗務員に誘導されてこちらにやって来る。明るく話すその女の傍らには夫とおぼしき大柄な男の姿もある。
「お客様、大丈夫ですのでご安心ください。間に合われてよかったです」
漏れ聞こえる会話から推測すると、どうやらこの夫婦が搭乗手続きを済ませているにも関わらずゲートに姿を見せないので出発が遅れていたらしい。そういえば時々「お客様のお呼び出しを申し上げます」なんてアナウンスを空港で耳にする。客を連れて疾走している地上係員の姿も目にする。今機内で夫婦を誘導しているあの女性乗務員もきっと内心では「遅れてんじゃねーよ、さっさとしろよ」くらい思っているかもしれないがそんなことはおくびにも出さない。大変な仕事だな、と私は勝手に想像して感心する。
「ねえまだ? 席が遠いわ。歩くの疲れちゃう」
悪びれもせず派手な女が言う。機内の穏やかな空気にナイフを入れながら夫婦はどんどんこっちに近付いてくる。そして通り過ぎるかと思ったらなんと私の目の前で立ち止まったではないか。しかも夫は妻の目を盗んで一瞬私を舐めるように見た。
…またか。私の人生にことあるごとにまとわりついてくる不快な視線。込み上げる嫌悪と悲しみを私は奥歯を噛んで抑え込んだ。
それにしてもおかしい。私の左側の空席はB席一つしかないし、通路を挟んだ右側のD・E・F席も埋まっている。夫婦はどうしてここで立ち止まるのか。
「あれ、変ね。ねえヒロくん、あたしたちの席は35のAとBでしょ?」
「うん、そのはずだけど」
チケットを確認して夫が答える。そして彼は私の頭越しに窓際席の彼女に不機嫌そうに呼び掛けた。
「あのすいません。あなた、席を間違っていませんか? そこは俺たちの席なんですけど」
窓を向いていた彼女は振り返って目を丸くする。数秒そのまま固まっていたが、慌てて自分のチケットを確認した。
「ええと、あの、ここ36のA席じゃ…」
「何言ってんのよ、よく見なさいよ。ここは35の列じゃない」
今度は妻。窓際の彼女は急いで立ち上がると「失礼致しました」と激しく頭を下げた。女性乗務員が両者をなだめるように「お客様、大丈夫ですのでゆっくり移動してください」と仲裁する。席の入れ換えの都合上、私もシートベルトをはずして通路に立った。
「すみません、すみません」
「いえいえ、大丈夫ですから。あ、荷物も移した方がいいですよね。俺、やりますよ」
女性乗務員の優しさにほだされたのか、それとも邪な気持ちからか、夫も急に柔らかい物腰に変わる。返事も待たずに彼は頭上の荷物入れから彼女の青いバッグを取り出すと、「あらよっと」と一つ後ろの荷物入れに入れてやった。大柄で長身のため特に労力もなくひょいといった感じだ。
「本当に失礼致しました」
泣きそうな顔で彼女は本来の居場所である36のA席に落ち着いた。36のB席は空席、C席に座っていたのはビジネスマン風の男で、特に気に留めた様子もなく黙って目を閉じている。
「荷物なんて自分でやらせればいいじゃない」
妻はそう言って小さく、しかし確実に彼女に聞こえるように舌打ちをした。綺麗な身なりをしていても人間そのものは安っぽいな…と私は密かに軽蔑する。
「それではお客様、席におつきください。間もなく出発致しますので」
女性乗務員は如才なく言い、足早にその場を離れた。夫は手慣れた感じで妻と自分のバッグを頭上の荷物入れに押し込む。
「ほらヒロくん、座ろう。さっきの人のぬくもりが残ってたら気持ち悪いからヒロくんが窓際に座って」
「オッケー。でもその前にジャンパーを脱ぐよ。さすがに暑くなってきた」
彼は首元までジッパーを上げて厚手のジャンパーを着ていたが、わずらわしそうにそれを脱ぐと、適当に丸めて荷物入れに押し込んだ。そして仕立ての良いブランドのスーツ姿が現れる。
「だから北海道に着いてから着ればいいって言ったのに」
「まあそうプリプリすんなって、せっかくの旅行だろ」
夫が窓際のA席、妻が隣のB席に座る。私も心の中で溜め息をつきながら、すっかり環境の変わってしまったC席に腰を下ろした。それから五分としないうちにドアが閉められ、機体がのっそりと動き出す。そしてまたアナウンス。
「皆様、ご搭乗ありがとうございます。この便の機長は坂井、チーフパーサーは大畔でございます。当機はこれから滑走路に向かって移動致します。ご着席の上、お座席のベルトをしっかりお締めください。携帯電話などの電波を発する機器は機内モードに設定するか電源をお切りください。今から機内で安全にお過ごしいただくためのご案内を致しますので正面のスクリーンにご注目ください…」
同じ内容を今度は英語で復唱してからスクリーンに注意事項や緊急脱出時の説明映像が流れる。隣の夫婦…特に妻の方はそんなのお構いなしに喋り続けている。夫の方はまだ妻よりは自分たちに向けられている周囲の意識を感じ取れているのか、どこかよそよそしく相槌だけを打っていた。
私はもう一度心の中で溜め息をつく。旅の恥はかき捨てとはよく言ったものだ。まあいいか、もともと楽しむための旅ではないのだから一期一会を期待するべきではない。それによくよく考えればこの三日間まともに寝ていなかった。左側が少々騒がしいが、このフライトは睡眠時間に当てることにしよう。
やがて説明映像が終わり機体も滑走路に進入する。
「皆様、これより離陸致します。もう一度お座席のベルトをご確認ください…」
アナウンスを聞きながら私はそっと目を閉じた。

 近くで人が動く気配で私は目を醒ます。どうやらあっという間に眠りに落ちていたらしい。腕時計を見ると三十分ほどが経っていた。通路にはドリンクをサービスしている女性乗務員、離陸前の座席騒動にも立ち会っていた彼女だ。前列の乗客に紙コップで飲み物を振る舞っている。
「ヒロくん、なんか今日ノリが悪くない? あ、もしかしてまた乗り物酔い?」
隣の席の妻が言った。窓際の夫は緊張した面持ちで「そうかもしれない」と答えている。
「だったらもう一回お薬飲んだら? ちょうど飲み物も来たしさ」
「そうだな」
少し耳がツンとする。そう、ここはもう地上を遥か彼方に離れた上空なのだ。
「お飲み物はいかがですか? 冷たい緑茶にお水、アップルジュース、ホットコーヒーと北海道産のジャガイモを使った特製コンソメスープをご用意しております」
ドリンクサービスがこの列に来た。夫はアップルジュース、妻はコンソメスープをリクエストした。私は冷たい水をお願いする。乗務員の彼女は「かしこまりました」と慣れた手つきでカートに積まれたポットから紙コップに飲み物を注いでいく。
「どうぞ、お召し上がりください」
窓際の席から順に手渡される。
「ねえヒロくんのもちょっと飲ませて、あたしのも飲んでいいから」
「まったくお前は…ほらよ」
夫婦はキャッキャと紙コップを交換し合っている。中学生のカップルなら微笑ましい光景かもしれないが、こんな夜分に機内で大人がこのテンションなのはやっぱり痛い。私と同じ気持ちなのか、乗務員の彼女も夫婦に冷たい一瞥を送ってからまた次の乗客へとドリンクサービスを続けていった。
受け取った水を一気に飲むと、私は再び目を閉じる。今どの辺りを飛んでいるのか。まあ到着するまでもう一眠りできるだろう。

「…ねえヒロくん、大丈夫? ねえ、ちょっと」
また左側が騒がしくなってきた。今度は何だ? 睡魔に奪われかけていた意識を引き戻して私は目を開ける。見ると夫の方が喉を押さえながら苦悶の表情で呻いていた。
「う、うう、うう…」
「ちょっとヒロくん、気分悪いの? しっかりして!」
鈍い声を漏らす夫の肩を妻が掴む。どうやらただ事ではない。どうかしましたかと声を掛けようとした時、後ろの列でドリンクサービスをしていた乗務員の彼女が異変を察して引き返してきた。
「お客様、どうかされましたか」
「あ、CAさん。ヒロくんが苦しんでるの、何とかして」
ヒステリックに妻が言い、周囲の乗客からもにわかに注目が集まってくる。
「とにかく、呼吸が楽になるように彼のシートベルトをはずしましょう」
身を乗り出して私が進言した。その時、ふと鼻につく臭い…これは…!
「ヒロくん、ほら、ゆっくり息して」
「奈々…」
妻がシートベルトをはずした直後、夫はその言葉を最後にピクリとも動かなくなった。両目を裂けるほど見開き口を歪めたその顔は、まるで悪魔に出会ってそのまま恐怖で凍りついてしまったかのようだ。妻が体を揺さぶるが全く反応はない。
「ヒロくん、ヒロくん、どうしたの、ねえしっかりして!」
「大丈夫ですか、三枝様!」
半狂乱の妻に続いて乗務員の彼女も大きな声を上げた。まずい、これは一歩間違えるとパニックになりかねない。
私は自分のシートベルトをはずして立ち上がる。落ち着け、何が起こったのかはわからないが、今はとにかく最善の対処を!
「急病かもしれません。どこか応急処置ができる場所はありませんか?」
そう尋ねると女性乗務員ははっとしたように答える。
「は、はい。医務室が…」
「ではそちらに移しましょう。手伝ってください」
大柄な男を私と彼女が両側から肩を貸してなんとか立ち上がらせ、そのまま狭い通路を後方へ進む。男は自分の足では全く歩いていないのでほとんど引きずっていく格好だ。否が応でも視線が集まる。ふと見ると36のA席の彼女もこちらを見て青い顔をしていた。

 機内にこんな部屋があったのか…と感心している場合じゃない。私たちは男を簡易ベッドに寝かせる。彼はぐったりとしたまま微動谷しない。手早く生体反応を確認する…肩を貸している時から気付いていたが、呼吸も脈も完全に停止していた。
「心肺蘇生を行ないます!」
乗務員の彼女が私を押しのけて心臓マッサージを開始する。しかし…全く効果はない。機内には他の乗務員によって「お医者様はおられませんか?」のアナウンスも流されたが名乗りを上げる者は誰もいなかった。もしいたとしても私の推測どおりなら…手の施しようはなかっただろう。
「人工呼吸をします!」
乗務員の彼女がそう言った。私は反射的に「待って!」と制する。
「待ってください、それは…危険です」
「どういう意味ですか?」
それには答えず腕時計の時刻を記憶すると、私は医務室の壁際に立ちすくむ妻を振り返る。そして慎重な声で伝えた。
「残念ですが、ご主人はお亡くなりになっています」
言葉が届くまでに十五秒ほどを要した。妻は腰が抜けたように突然その場に崩れると、定まらない視線を床に落とす。その顔は先ほどまでのはしゃいでいた姿とはまるで別人だった。
「お客様!」
駆け寄った乗務員の彼女もしきりに自分の髪を触っていた。明らかに動揺している。プロとはいえ突然の緊急事態に冷静さを欠いているのだろう。
…こんな時、実感してしまう。自分はショックに慣れているのだと。もともと無感動な素質な上に、職業病でさらにそれが強化されてしまった。
「あの、すいません」
ようやく理性が働きだしたのか、乗務員の彼女がこちらを振り向いて問う。
「お客様、あの、失礼ですが、あなたは…」
そういえば名乗っていなかった。私も自分が思うほど冷静ではないらしい。内ポケットから黒い手帳を示すと私は告げた。
「警察の人間です」
そう…私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
「刑事さん…ですか」
彼女は目を丸くする。床にへたり込んだ妻もわずかに顔を上げてこちらを見た。
「はい」
私はしっかり頷く。普段はカイカン警部の指示のもとで捜査に当たるが、今この場ではそうはいかない。先ほどは周囲に動揺を与えぬよう急病と言ったが、病死の可能性は極めて低い…というのも、男の口からアーモンド臭がしているからだ。唇や肌の色、苦悶した様子などから見てもおそらく間違いない。これは、青酸系化合物による中毒死だ。残念ながら心肺蘇生術の効果は期待できない。
薬物による中毒死となると可能性として考えられるのは二つ…自殺、あるいは他殺。もちろん詳しい検死や鑑識作業は空港に到着してからだが、今のうちにできるだけの初動捜査はしておかねば。
エンジンの音だけが鈍く響く狭い室内。私は二人の目を見ながら告げた。
「今から調べなくてはいけないことがあります。みなさん、ご協力をお願いします」