第三章 ARRIVALS

新千歳空港に到着。殺人事件と断定されていない現状では当然乗客たちを足止めすることはできなかった。
午後11時、乗客たちがいなくなった機内で、私は空港警察の捜査員と共に現場検証を続けている。鑑識の報告によれば、夫婦の使用した紙コップからは毒物の反応は出なかった。安土弘樹が座っていた35のA席の肘掛けやテーブルからも同様だ。念のため周辺の席も調べてもらったがどこかに毒が塗られていた痕跡はなし。現場で検死した監察医の話では、青酸系化合物による中毒死で間違いないだろうとのことだった。

さて…どうしたものか。このままでは風変わりな自殺ということで決着してしまいそうだ。あるいは本当にそれが真相なのかもしれないが。
そう思いかけたところで鑑識から新たな報告が。安土弘樹の携帯電話を調べたところ、彼は飛行機に乗る直前にDVDの通信販売を申し込んでいたことがわかった。注文確認のメールが届いていたのだ。おそらく妻が買い物に没頭している間に注文したのだろう。
なんてこった。自殺する直前にDVDを注文するはずがない。となればやはりこれは他殺ということになる。でもそれなら誰が? 一体どうやって?
そこで私は自分の携帯電話の電源をオフにしたままだったことを思い出す。電源を入れると警部からの着信が来ていたので急いで折り返す。
「…はいもしもし」
いつもの低くてよく通る声が現れる。
「夜分にすいません、私です」
「やあムーン、無事北海道に降り立ったかい?」
「ええ、着きました。すいません、電話の電源を切ったままにしてしまって。今、空港警察と機内を調べているところなんです。警部、事件のことはお聞きになりましたか?」
「坂井機長から伝言をもらったよ。君の近くに座っていた男性客が亡くなったらしいね。それでどう? 真相は解明できそうかい?」
「それが…」
つい声が暗くなってしまう。私は中毒死であること、自殺説は否定されたこと、それ以上はまだ何もわかっていないことを説明した。
「そう、犯人も犯行手段も見えてこないんだね」
「あの、すいません警部、すぐ近くにいたのに私は眠っていました。私がもっと注意深く観察していれば…」
「バカ、何を言ってるんだ」
そこで急に警部の声が厳しくなる。警部からバカなんて言われたのはおそらく初めてだ。
「いいかいムーン、私たちの仕事は人を見定めようとするとても無礼な仕事だ。本来なら許されないおこがましい仕事だ。だから仕事以外の時間まで人を見定めようとする目なんて持たなくていいんだよ。
私はね、君に優秀な刑事になってほしいと思っているけど、人をそんな目でしか見れない人間にはなってほしくないんだ」
顔を見ずに話しているせいだろうか。警部がどこかいつもと違うように感じた。室内でもボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪で右目を隠した警視庁きっての不審人物。それが視覚を遮って声だけ聞くと案外まともな上司に感じてしまう。
「だからね、事件が起こる前のことなんて注意して観察してなくていいんだよ。それが当たり前なんだから。刑事としてじゃなく、あくまで個人の視点として君が憶えていることを教えてくれればいい」
「…了解しました」
不思議な安心を得た私は、搭乗してから安土弘樹が急死するまでのこと、三人の容疑者に聴取したことなどをできるだけ細かく説明していく。その最中、電話の向こうからはモグモグという音…どうやら警部が好物のおしゃぶり昆布を口にくわえたらしい。そう、これもこの人の奇妙極まりない習慣。
…よかった、私の上司はやっぱり変人だ。

「ナルホド」
一通り聞き終えた警部は独特のイントネーションでそう言った。その後は沈黙。きっと右手の人差し指を立ててそこに長い前髪をクルクル巻き付けているんだろう。考え事をする時の癖だから。
「…もしかしたら」
やがて低い声は小さくそう呟いた。
「何かわかりましたか、警部?」
「ちょっとビンさんに確認したいことがある。また電話するよ」
そこで通話は切れる。ビンさんというのは警部と私の上司でミットの長でもあるビン警視のこと。警部が発想の名人ならビンさんはまさに生き字引、教養から雑学まで幅広い博識を誇る。
私が電話をしまうと、待っていたかのように近くの捜査員が声を掛けてきた。
「もうじき道警の担当警部がここに到着されます」

 警部からのコールが鳴ったのは三十分後だった。再び携帯電話を頬に当てるとあの低い声が早口にまくし立ててくる。
「ムーン、一つのストーリーがつながった。安土弘樹さんの死の真相がわかったかもしれない」
私は息を呑んだ。警部の真相解明が唐突なのはいつものことだが、さすがに遠く離れた東京から電光石火で告げられると驚く。この三十分で一体何をどうしたらそうなるのだろう。
「警部、申し訳ありません、私には何が何だか…」
「いいかいムーン? 君の絞った容疑者も、君が整理した疑問も妥当なものだ。でも君は最も根本的な疑問を忘れている。そのせいで答えが出ないんだよ。そしてある意味では自殺説も当たっていたことになる」
どんどん言葉を続ける警部に私は全くついていけていない。
「ムーン、ここからは時間との勝負だ」
そこで警部がくわえていた昆布を飲み込む音がした。

★読者への挑戦状
ここまでの情報をもとにカイカンは一つのストーリーを構築しました。はたして機内で起こった毒死事件の真相は?
ぜひ謎という名の飛行機を、あなたの推理という名の誘導灯で無事大地に着陸させてみてください。