第六章 この世界の一部

●赤井このみ

 路地に入った瞬間だった。突然強い圧迫感が顔を覆って息ができなくなる。
 …え、何?
「いいか、声を出すなよ」
 頭の上で誰かが言った。悪魔みたいな恐ろしい声…そこであたしはようやく後ろから手で口を塞がれたんだと理解する。
「お前、俺を見たんだろ? 俺があの社長を刺すところを見たんだろ? それで写真に撮ったんだよな」
 …誰なの? いったい何のこと? 見たとか写真とか。
「そうなんだろ? だったら頷いてみせろ!」
 まくし立てるように苛立った声は言ってくる。混乱であたしはわけがわかんなくて、冷凍室に放り込まれたみたいに全身がガクガク震えだす。
 …怖い、怖いよ! 助けて、誰か助けて!
 恐怖が突然湧き上がった。頭の中に色々な人の顔が浮かぶ。友達とか家族とか先生とか、そんなに親しくない人の顔までどんどん浮かんでどんどん流れ去っていく。
「おい、どうなんだ」
 …逃げなきゃ。
 ようやくそこに思い至る。そうだ、とにかく逃げなきゃ。自分は今危険にさらされてるんだ。どうにかしてこいつから逃げなきゃ!
「しらばっくれんのか、だったらこのまま黙らせてやる」
 別の手があたしの首筋に伸びてきた。氷が肌を切ったみたいに冷たい痛みが走る。
 はっとしたあたしは次の瞬間胸ポケットのボールペンを抜いて力いっぱいその手に突き立てた。
「うぐあっ!」
 鈍い声がして一瞬顔の圧迫が弱まる。すり抜けるようにそこから逃れるとあたしは振り返らずに全速力で駆け出した。ボールペンが落ちたけどそんなの気にしていられない。
 とにかく逃げなきゃ、できるだけ遠くまで!
 歯を食いしばって走りながら首に触れる。大丈夫、別に切られたりはしていない。体がもつれてあんまりスピードが出ないけど、とにかく無我夢中であたしは足を前に出す。呼吸が苦しい。胸が張り裂けそう。でも立ち止まっちゃダメ、何が何だかわかんないけど今は考えるな考えるな考えるな! とにかく遠くへ逃げるんだ!
 ジグザグに走って角を曲がると運悪くそこも暗い裏路地、人通りはない。しかも…その先は行き止まり。
「どこ行きやがった、おらあ!」
 後ろから野獣みたいな叫びが追ってくる。どうしよどうしよどうしよ…! ねえママ、すみれ、助けて。あたしどうしたらいいの?
「なめやがって、どこだあ!」
 すぐそこまで迫ってる。か、隠れなきゃ!
 あたしは間一髪で大きなポリバケツの裏に飛び込んで、膝を抱えてできるだけ体を小さくした。まだ全身が震えてる。ポケットからスマホを取り出すけど指が震えて電源も入れられない。怖い、怖いよ。
「ハア、ハア、どこに隠れやがった」
 荒井息遣いがこの路地に入ってきたのがわかる。足音が一歩ずつ近付いてくる。ダメ、このままじゃ見つかっちゃう! 神様!
「おらあ!」
 怒声と同時にポリバケツが蹴り飛ばされた。心臓が止まる。
 腰が抜けたあたしを見下ろすのは血走って見開かれた二つの目。声が出ない。体が動かない。相手はボソボソ何か喋ってるけど全然聞こえない。
 ゆっくりと太い腕が振り上げられた。その手には銀色の棒…ナイフだ、ナイフが逆手に握られてる。もうダメだ、あたし…。
 遠のく意識の中で、ナイフが振り下ろされたのがわかった。最後の力であたしはぎゅっと目をつぶる。

 …あれ? 痛くない。あたしもう死んじゃったのかな?
 恐る恐る目を開くとそこには…。
「南波先生!」
 思わずそう呼んだ。あたしの目の前にはチャビンが背を向けて立っていたのだ。そしてその向こうには一回り大きな男の影。
「てめえ、何すんだ!」
「お前こそ、うちの生徒に何してるんだ!」
 二つの声が路地に響く。チャビンはナイフを持った男の右腕をひねり上げてた。そしてその手からナイフが落ちる。やった、と安堵した次の瞬間、相手の巨体がタックルしてチャビンがあたしの隣に倒れた。
「先生!」
「逃げろ赤井、逃げろ!」
 土で汚れた顔をしかめながら必死に訴えるチャビン。あたしは体に力を入れてみるけどやっぱり立てない。
「お前らあ…」
 ナイフを拾い直すと、血に飢えた獣みたいにまた男が迫ってくる。その時「やめなさい!」という女の人の叫び声。その人は後ろから男に飛び掛った。振り乱された長い髪の間から顔が見える。
「ムーンさん!」
 あたしも叫んだ。ムーンさんはナイフが握られた右腕に掴みかかる。同時にチャビンも起き上がって男の両足にしがみついた。
「放せ、くそ、放せえ!」
「いい加減にしなさい、落ち着きなさい!」
「うるせえ、クソ女が!」
 危ない! ナイフがムーンさんの綺麗な顔をかすめて空を切った。
「うおおおお!」
 なんて馬鹿力なんだろう、男は必死に抑え込む二人を払い飛ばしてしまう。ムーンさんは路地の壁に打ち付けられチャビンはまた路面に転がった。このままじゃみんなが、みんなが殺されちゃう! なのにあたしの体はちっとも動いてくれない。動け! 動け! 何もできない悔しさで涙が出てくる。すると…。
 ブガガガガガン!
 滲んだ視界に突然大きな音とまばゆい光が乱入してきた。耳と目がくらむ。乱暴な運転で突っ込んできたのは一台のミニパト。バケツや空き缶を蹴散らしながら停車すると、間髪要れずに運転席から背の高い婦人警官さんが飛び出してくる。その人はしなやかな動きでたった数歩で男の前までたどり着いた。
「お前え!」
 男がナイフを振り上げて迎え撃ったと思った瞬間、世界はスローモーションになる。その巨体はまるで重さがないみたいに宙を舞い、婦人警官さんの細い腕に導かれて大きく弧を描くとそのまま仰向けに地面に叩きつけられた。
「ぐあっ」
 低い呻きでまた時間が普通に流れ出す。婦人警官さんが男の手からナイフをもぎ取ると、ムーンさんとチャビンも加勢してその巨体を完全に抑え込む。
「放せ、放せ、放せえ!」
 暴れ疲れた男は次第におとなしくなっていく。叫び声が荒い息遣いだけに変わった頃、ミニパトの助手席がゆっくり開き、ボロボロのコートとハット姿が暗い路地に現れた。
「みなさん、お疲れ様でした」
 あの低い声が夜の空気に響く。そして取り押さえられた男の横に立つと、カイカンさんははっきりと告げた。
「やはりあなたが犯人だったんですね、村井さん」
 その時、ミニパトのヘッドライトの逆行の中で、カイカンさんの前髪に隠れた右目が光ったような気がした。

「誰だお前!」
 くすぶりかけた怒りがまた燃え上がったみたいに男が声を荒げる。
「警視庁のカイカンと言います。先週の金曜日、『セブンファイブフォー』という会社のオフィスで発生した殺人事件を調べています。名越社長を殺害した犯人は村井達彦さん、あなたですね?」
「まさかあんただったなんてね、釈放するんじゃなかったよ」
 男の右腕を抑えたまま婦人警官さんが言う。男は「は? そんなの知らねーよ」と突っぱねたけど、カイカンさんは右手の人差し指を立てて坦々と語りを続けた。
「いいえ、あなたですよ。今、氏家巡査が言ったように、昨日通学中の女子生徒の隠し撮りをして逮捕されたあなたが実は殺人犯だったとは確かに意外でした」
 …え?
「お認めになりませんか? では根拠をご説明します。
 先週の金曜日の夜、居酒屋で部下と忘年会をしていた名越社長は急用で一人オフィスに戻りました。するとそこには金庫のお金を盗むために忍び込んだ泥棒がいた。鉢合わせになった二人は激しく格闘し、逃げようと背中を向けた名越社長を泥棒がその場にあった果物ナイフで後ろから刺す。そして床に倒れた名越社長は泥棒の正体を示すために血文字を書き残したのです」
 ダイイング・メッセージだ…今朝すみれから聞いた言葉を思い出してあたしは戦慄する。
「その文字は片仮名で『アイウエオ』と読めました」
「アイウエオ? ふざけんな、どうしてそれで俺が犯人になるんだよ」
「フフフ、私もさっぱりわかりませんでした」
 不気味に笑って低い声は続ける。
「アイウエオをどう変換しても意味のある情報にはならない。しかし、ある人が文房具店の験し書きでアイウエオと書いたのを見て思い付いたんです」
 ちらりとこっちを見るカイカンさん。あたしが適当に書いた文字を見てカイカンさんは動きが固まっちゃったっけ。あの時…頭の中ではダイイング・メッセージを解いてたんだ。
「アイウエオは単なる試し書き、これ自体に意味はない、つまり文字は何でもよかったんです。では名越社長が伝えようとしたメッセージは何だったのか?
 ヒントその1、名越社長が倒れた床にはペンやマジックが散乱していた。ヒントその2、名越社長は背中の中央を刺されていた。ヒントその3、衣類のせいで出血はほとんど広がっていなかった。 …どうだいムーン、わかるかい?」
 男の左腕を抑えていたムーンさんが少し小首をかしげる。
「すいません警部、私には…」
「よく考えてごらん。実はこれ、すごく不自然な状況なんだよ」
 何だろ、不自然な状況って。考えてみるけど、すみれの推理クイズも解けないあたしにはまるでわかんない。
「いいかい? うつ伏せに倒れた名越社長が血文字を書くには、指先に血をつけるために何度も背中に手を回さなくちゃいけない。瀕死の状態で、ただでさえ手が届きにくい所にさ。ここが不自然なんだよ。
 そんな無理しなくても、ペンやマジックが手近に落ちてたんだからそっちを使えばいい。名越社長はどうしてそうしなかったのか」
 そこでカイカンさんが立てていた指をパチンと鳴らす。
「そこに名越社長の意思がある。つまり、それこそがメッセージだったわけさ。ペンやマジックを使える状況なのにあえて血液で字を書いていることが重要だった。
 名越社長のメッセージは『血で字を書いていること』、つまり『血で字』だ」
 ムーンさんは目を丸くする。あたしも驚く。つまり、書かれた文字じゃなくて書く方法が問題だったってことだ。
「村井さん、いかがです? 犯人を示すメッセージは『血で字』、これは『地デジ』、すなわち地上波デジタル放送のことです。あなたにはこの意味がわかるのではありませんか?」
 あれだけ威勢の良かった男は何も返さなくなっていた。
「名越社長があのオフィスに地デジ対応のテレビを買ったのが今年の夏、それまでは昔ながらのブラウン管テレビが置いてあったそうです。普段社員以外出入りのない会社です。名越社長のメッセージが『血デジ』だとしたら、夏にテレビを搬入した電気屋が犯人だと伝えたかったのではないか…私はそう考えました。
 だからテレビを購入した時の保証書の書類を見つけて、そしてそこから電気屋を特定し、当日オフィスにテレビを搬入したスタッフが誰だったのか調べてもらいました。それが…あなただと判明したのです。あなたは勤務態度が悪くてすぐに退職になったそうですが」
「俺は悪くねえ! 俺を理解しねえあいつらがクソなんだ!」
 男の訴えなんかまるで意に介さない様子でカイカンさんは続ける。
「犯人が電気屋…そう考えた時に色々な謎が解けました。新しいテレビを運び込んだ時、当然あなたは古いブラウン管テレビを運び出しましたね。その時に画面に反射して名越社長が金庫を開ける姿が見えたのではありませんか? 名越社長は金庫を空ける時は暗証番号を見られないように周囲の視線をとても気にしていたそうですが、まさか搬出中のテレビの画面に映っていたとは思いませんよね。まさにブラウン管ならではです。
 偶然暗証番号を知ってしまったあなたに悪魔が囁いた…もしかしたらお金を盗めるかもしれないと。あなたはこっそりその場にあったオフィスの鍵を持ち出し合鍵を造りました。テレビをセッティングする時の出たり入ったりに見せかければ、鍵をこっそり戻すこともできたでしょう。
 こうしてオフィスの合鍵と金庫の暗証番号を手に入れたあなたは、いつか盗みに入る機会を伺っていた。氏家巡査に聞きましたが、最近は仕事も見つからず困っていたそうですね。そんなあなたは先週の金曜日、ついに計画を実行に移したのです」
 男は口をつぐんだまま固まっている。
「村井さん、あなたの罪は重いですよ。身勝手な理由で名越社長を殺害しただけでなく、そこにいる女の子も手に掛けようとしましたね? オフィスの窓から彼女に犯行を目撃されたと思ったのでしょう? だから名越社長が血文字を書いているのも気付かずにオフィスを飛び出して彼女を追った…幸い彼女はその場を去っていたため難を逃れましたが」
 冷たい手が肩を触ったような気がした。別の恐怖が込み上げてくる…今の説明でどうして自分が狙われたのかがやっとわかった。金曜日の夜、あのビルの窓に映った自分に語り掛けたあの時…そのガラスの向こうでは殺人事件が起きてたんだ。おさまってきていた震えがまた全身に広がる。
「彼女に目撃されたと思い込んだあなたは、彼女を探そうとしましたね? 制服を見ればどこの中学かはわかります。あなたは通学中の女子生徒を監視しましたが彼女が見つからない…彼女は事件の日から髪の毛の色を変えていたからです。もっとじっくり確認しようと思ったあなたは生徒たちを撮影することにした…それを氏家巡査に見つかったというわけです」
 まさか…まさか…ニュースで見た殺人事件とすみれの話してた盗撮事件がこんな形であたしに繋がってたなんて。
「釈放された後、あなたは生徒の群れの中に赤い髪の少女がいたことを思い出しました。そしてそれこそが自分を目撃した少女だと思い至り、彼女の口を封じようとしたんです」
 もうカイカンさんは笑っていなかった。それどころか語調がどんどん強まっていく。
「しかし全てはあなたの勘違いです。あのオフィスの窓はマジックミラーで、外から中を見ることはできません。彼女はたまたまそこに立って独り言を言っていただけだったんです。わかりますか? 彼女には命を狙われなくちゃいけない理由などないんですよ。
 もう言い逃れはできませんよ。彼女を襲ったことはここにいる全員が目撃しています。名越社長の事件も、現場を詳しく調べればあなたの侵入した痕跡は必ず発見できます」
「俺の…せいじゃねえ」
 少し沈黙を挟んでから男が言った。
「社会が俺を…認めなかったんだ。この社会は俺にとって、生きにくいだけの世界だった」
「村井さん」
 さらに厳しくなるカイカンさんの声。
「あなた自身もこの世界の一部です。だから生きにくい世界を変えるためには、あなた自身も変わる努力をしなくてはいけない。それを放棄して犯罪に手を染めたのは誰のせいでもない、あなた自身の過ちです」
「みんな俺を…仲間外れにしただろ」
「いいえ、あなたは間違いなくこの社会の一員です。だから私もあなたを社会の一員として扱います」
 そう言い切ると、カイカンさんは黙った男に背を向けた。
「ムーン、手錠だ」
「19時37分、村井達彦、殺人及び殺人未遂の容疑で逮捕します!」
 ムーンさんが鉄の輪っかを太い腕にかける。男は麻酔でも撃たれたみたいにぐったりして、もう何も言い返さなかった。

 その後、男はミニパトに乗せられるとそのまま連行されていった。車が発進する前、カイカンさんとチャビンが何か話してたけど、結局カイカンさんもミニパトに乗ったのでチャビンだけがその場に残った。チャビンは車を見送ると、急にこっちを振り返って歩み寄ってくる。その顔は鬼みたいにカンカンで、今までで一番怒ってた。
「せ、先生…」
「馬鹿野郎!」
 狭い路地に怒声が響く。
「何をやってんだお前は。授業をさぼって夜の街なんか歩いてるからこんな目に遭うんだろうが!」
「先生、どうして助けに来てくれたんですか?」
 みっともなく地べたに座ったままあたしは尋ねる。自分でも驚くほどか細い声だった。
「当たり前だろうが! 最近様子がおかしいから心配になって探し回ってたんだ。てっきり悪い連中にそそのかされてるんだと思って。まさか殺人犯につけ狙われてるとは思わなかったがな」
 そこでチャビンは急に眉毛を下げて優しい顔になる。
「でもよかった…無事で。ほら赤井、立てるか?」
 手を取られてあたしはようやく立ち上がる。あったかくて大きな手だった。そこでチャビンのワイシャツのお腹の部分が少し赤くなってるのに気付く。
「先生、血が」
「ん? ああ、ナイフがかすってな。大丈夫、大した傷じゃないよ。赤いのはお前の頭だけで十分だ」
 そう言ってチャビンはあたしの頭をポンポン叩き、「あまり心配かけるなよ」と微笑んだ。その瞬間、胸の奥から暑いものがじわっと込み上げて喉が痛くなる。
「ごめ…ごめんなさい」
 気付けばあたしはチャビンの胸に顔をうずめてワンワン泣いてた。
「こ、怖かった、怖かったです」
「わかったからそんなに泣くな。さっきの刑事さんに頼まれたんだ、お前を連れて病院に行ってくれってな。どこか怪我してたらいけないから。ほら赤井、聞いてるのか?」
 また頭をポンポンされながらあたしは子供みたいに泣きじゃくった。
 あれ? 子供みたいにって…あたしはまだ子供だっけ。

 病院の待合室で診察を待っているところにママが来た。ママはあたしを見るなり抱きしめてきた。周りに人がいたのにそんなのお構いなしでよかったよかったって何度も言いながら、あたしの制服を涙でぐしゃぐしゃにした。
 そういえばママの涙ってすごく久しぶりに見た気がする。そう、きっとパパがいなくなった時以来だ。

 …ごめんね、ママ。

●ムーン

 村井達彦の聴取はつつがなく終了した。彼はもうふてくされることも取り繕うこともなく、ただただ警部の言葉に頷いていた。彼が焦ってこのみを狙ったのは、彼女がスマートフォンで自分の姿を撮影したと思ったからだった。きっと彼女が時刻かメールを確認するためにスマートフォンを取り出したのをそのように誤解したのだろうと警部は言っていた。

 取調室を出た私は、少し気になって交通課を訪ねる。やはり美佳子はそこにいて、深夜のデスクで一人肩を落としていた。自分を責めているのはその後ろ姿からも伝わってくる。
「お疲れ、美佳子」
 二人分の缶コーヒーを置いて隣に座る。そして彼女に感謝を伝えた。
「ありがとね、何て言うか、その、色々と」
 確かに美佳子の取り調べでは村井が殺人犯だと見抜くことはできなかった。でも美佳子が昨日逮捕していてくれなければ村井はもっと早くこのみを発見していたかもしれない。今夜も美佳子がミニパトで巡回してくれていたから、すぐに連絡を取り合って村井を追い詰めることができた。どちらも交通課の枠をはみ出してまで彼女が頑張ってくれたおかげだ。
 それに…至らなかったのは私も同じ。美佳子から村井がかつて電気屋で働いていた話は聞いていたし現場のオフィスにあったテレビも見ていたのに、それがダイイング・メッセージに結び付くなんて想像もしなかったんだから。昼間に警視庁の玄関で釈放された村井とすれ違った時も、まさか自分が追いかけている殺人犯だなんて微塵も思わなかった。村井の方は現場のビルに出入りする私を見て私が事件を捜査している刑事だと知っていたらしいが…そんな内心の動揺を私は見抜けなかった。
 そう、私たちは天才じゃない。英雄でもない。己の無力を知りながらただ全力を尽くすしかない存在。そんな私たちでもこの世界の一部。
「さっき警部が言ってたの。耳鼻科の診察をして眼科の病気を見つける医者はいない、警察官もそれぞれの専門を頑張ればいいんだって。だから、ね、その…美佳子もあんまり気にしないで」
「…サンキュ」
 不器用でまとまらない私の言葉を聞き終えると、友人はそう言って缶コーヒーを手にした。私も「うん」とだけ返して缶コーヒーを取る。

 その後は二人とも黙ったままコーヒーを口に運んだ。お互い何を考えていたのかはわからない。でももしかしたらあの赤い髪の少女に重ねていたのかもしれない…少しだけ、中学時代の自分たちを。