7月に入りようやく梅雨が明けた頃、警部と私は的場千恵と喫茶店で落ち合った。警部とは初対面だったらしいが、彼女は「ユニークな変装ですね」と微笑んでくれた。それぞれ飲み物を注文してしばしの沈黙。
「少しは…落ち着かれましたか?」
警部が優しく言った。彼女は小さく頷く。
「はい、まだ時々涙は出ますけど…あの人はあの人らしく生きたんだって今は思えます」
「そうですか」
警部がちらりとこちらを見る。私は頷いてあの傘を取り出した。
「桂沢さんの持っておられた傘です。どうぞ」
私が差し出すと彼女はそっと両手で受け取る。そしてしばらくそれを見つめた後、目尻に浮かんだ涙を指で払った。
「ごめんなさい、ダネだな私。ありがとうございます」
無理して笑いながら千恵は自分のバッグからもお揃いの折り畳み傘を取り出す。白いカバーの赤い傘、赤井カバーの白い傘…それは二人の出会いの記念品であり、離れてもお互いを支えた愛用品であり、そして真実を解き明かしてくれた証拠品でもあった。ようやく一緒になれた二本の傘は彼女の腕の中で仲良く並んでいる。
「これからも大切にしてください」
「…はい」
警部の言葉に彼女はあたたかく頷いた。
*
やがて飲み物も運ばれ、警部と私は彼女の思い出話に心を預ける。二人が歩いてきた道を、育ててきた気持ちを、確かめるように…解き放つように。
カップが空いた頃にその語りも終わる。すると彼女は背筋を正し、私に向かって深々と頭を下げた。
「本当に…ありがとうございました」
私が恐縮して言葉に迷っていると、警部はそっと席を立ってどこかへ行ってしまう。顔を上げた千恵はまた涙ぐんでいた。
「あの時…あの人に無実だって言ってくださったこと…一生忘れません。おかげであの人はとても安らかでした。安心して…天国に行けました」
「はい…」
愚かな私はそんな言葉しか返せない。
「あの人も嘘をつくのが苦手な人で…すぐ顔に出ちゃうんです。嘘も方便でしょって私が言っても、どうしてもそれができないんです。でも私が初めて作った料理を食べた時だけは…実は私、調味料を思いっきり間違えてたんですけど、彼、無理しておいしいって言ってくれました。
あの時の刑事さんも…その時の彼と同じ顔してたから、きっと…。でも嬉しかったです。一生懸命嘘ついてくれて、感謝してます」
「…ありがとうございます」
気付けば私もそう伝えていた。彼女は涙を拭うと鞄から一枚の紙を取り出す。
「これ、南原さんからいただいたんです。弘明が部屋の机に大切にしまってたみたいで…」
見るとそれは婚姻届…すでに桂沢の署名と捺印が済んでいた。きっと借金を完済したらすぐにそれを持って彼女の所へ行こうとしていたのだろう。だから…急いで脇道から飛び出してしまったのかもしれない。
「最初に彼と一緒になった時もジューンブライドだったんです」
千恵が遠い目で言う。
ジューンブライドか…確か前に美佳子から聞いた。気候の不安定なイギリスではこの季節に晴天が多い、だから6月に結婚できる花嫁は幸せ…それがジューンブライドの由来なのだと。じゃあ日本の6月は梅雨なんだから意味ないじゃないと私は返したが…。
「もう提出はできませんけど、私も署名しようと思うんです。お願いなんですけど…お二人に立会人のサインをいただけませんか?」
…それでもジューンブライドに幸せの願いは託され続けるのだろう。
*
まず彼女が署名し、続いて私、最後にどこかから戻ってきた警部が署名する。もちろんこの時は本名で。千恵はそれを大切にしまうと、最後にもう一度「お世話になりました」と頭を下げた。
店の外まで見送ってから、警部と私も帰路に着く。
「とりあえず…よかったね」
並んで歩きながら警部が言う。
「そうですね」
「君の方はどう?気持ちは決まったかな」
そう…退職を宣言したあの夜から私は休みを取っていた。警部の下に着いてからこんなに長い休みをもらったのは初めてだった。梅雨が明けるまでしっかり休んで、結論はそれから…というのが警部の提案だった。そして梅雨明けの今日…彼女との面会に呼ばれたのである。
「あの…」
私が言葉をもたつかせていると変人上司は続けた。
「私もね、今でも迷う時がある。事件を解決できても人を幸せにできない刑事もいれば、事件は解決できなくても人を幸せにできる刑事もいる。名刑事はどっちだろうってね。君はどう思う?」
「私は…」
また言葉は止まってしまう。そんなこと今まで考えたこともなかった。
「ねえムーン、それがわかるまで警察官失格なんて言えないんじゃないかな?」
そう…そうだな、きっと私はこの仕事のことをまだ何も知らない、何もわかっていないのだ。
大通りまで出たところで警部が言った。
「じゃあ、私は地下鉄で警視庁まで帰るから」
「車で来てますから…お送りしますよ」
警部は立ち止まる。このくそ暑いのにコートとハットをまとったその姿は…紛れもなくド変人。
「いいのかい?」
「ええ、警部がまた不審者として逮捕されたら、身柄を引き取りに行く部下としては大変ですから」
部下、という言葉を強く告げた。上司は受け取ってくれたらしい。
「じゃあ…お願いするよ、ムーン」
「はい」
また並んで歩き出す。
「そういえば思ったんだけど、君の名前、ムーンじゃなくてレインでもよかったね。雨が似合う刑事って感じでさ」
「そうなったら即刻辞めさせていただきます」
少しだけ笑ってそう答える。見上げた空は真っ青な夏空。確かに梅雨は明けた。それでも…この事件の雨滴は私の心に残り続けるのだろう。いつかそれを振り払える日が来るのか、来ないのか…もちろん今はわからない。わからないから続けるのだ。
警部と駐車場まで歩きながら、私はポケットの中の紙をそっと握りつぶした。
-了-