第五章 雷雨

「犯人は…桂沢さんじゃ…ない…」
気付けば私はそう反復していた。警部は頷く。
「そうだ。彼が犯人だとすると大きな矛盾がある。いいかいムーン?今君が伝えてくれた鑑識結果をよく考えてごらん。割れた壺の破片を全て調べても、誰の指紋も出なかったんだよ」
再び右手の人差し指が立てられる。
「これはとてもおかしなことなんだ。壺が届いたのは事件の前日だったね。玄関の棚の上に置かれて梱包が解かれて、そのまま誰も触らなかったとすれば、権田さんや家政婦の石崎さんの指紋が出なくてもおかしくはない。でも…」
前髪に隠れていない左目が私を見る。
「犯人の指紋は必ず出るはずだ。両手で抱えて振り下ろさなくちゃ壺を凶器にできないからね。なのにどうして破片から指紋が出ないのか」
「犯人が拭き取った…」
そう言いかけて口をつぐむ。そんなはずはない。壺は砕け散っているのだ。全ての破片の指紋を拭き取るのは不可能、しかも人を殺して一刻も早く立ち去りたい犯人が現場でそんな作業をするはずがない。
「すいません、拭き取るのは有り得ませんね」
「そう。となると指紋は最初から付着しなかったことになる。それは何故か?」
「犯人は指紋が着かないように工夫していた…」
「具体的には?」
「手袋をしていたのでしょうか。いえ警部、それも有り得ませんよ。凶器がその場にあった壺だったことも、現場が玄関だったことも、これが衝動殺人だったことを物語っています。犯人はカッとなって凶行に及んだ…であれば犯人が事前に手袋を用意しているはずがありません」
「ということはどうなる?衝動殺人なのに手袋をしていたとすれば、もう可能性は一つしかない」
立てていた指が鳴らされた。行く手を阻む鋼鉄の壁に、警部がついに突破口を撃ち抜く。
「犯人は夏でも常時手袋をしている人間だ。それは桂沢さんではない。事件関係者の中で普段から手袋をしている人間が一人だけいる」
私は思い浮かべる。そんな人間がいただろうか。家政婦の石崎?確かに彼女なら掃除の時にゴム手袋をするかもしれないが常時というわけではない。それに高齢の彼女が重たい壺を振り上げたとも思えない。
まさか的場千恵?いや、彼女の指には立体的なネイルアートが施されていた。手袋をするはずがない。
他に誰がいる?そこで私は現場で南原と会った時のことを思い出す。あの時彼は手袋を着けてから遺体の傷口を見せてくれた。確かに捜査員なら手袋を持ち歩いている。
いやいや待て、だとしても日常的に着用しているわけではない。権田は客として犯人を玄関に迎え入れたはずだ。この季節に相手が手袋をしていたら普通はいぶかしむ。犯人は手袋をごく自然にしている人物でなければならない。
「すいません警部、私には…」
「タクシー運転手だよ」
低い声が響く。私は唖然とする。そんなまさか…桂沢をはねたあの運転手が?
「そう考えれば辻褄が合う。タクシー運転手も実は権田さんに借金をしていた。そして昨日の午前11時過ぎ、桂沢さんが帰ったすぐ後に権田さんを訪問し、そこで彼を撲殺してしまった」
予想だにしていなかった道筋を警部の推理はどんどん加速していく。
「そして慌ててタクシーで逃走、その途中で桂沢さんをはねてしまった。気が動転していて不注意だったのは運転手の方だったんだよ」
「ちょっと待ってください!」
私は思わず声を荒げる。
「た、確かに可能性はあります。でもそれはあくまで警部の想像です。桂沢さんの後に運転手が被害者を訪問した証拠がありません」
「あるよ」
上司はポケットから一枚の紙を取り出す。それは…権田のメモのコピーだった。
「ここには『6月7日AM11、カツラザワ払う』と書いてあるように見える。でも本当にそうかな?この不自然な『払う』は一体何だろう?
フフフ…被害者が金貸しだったから、私たちはみんな借りたとか払ったとか口にしながら捜査をしていた。だからついこれを『払う』と読んでしまったんだよ」
私はコピーを受け取り改めてその走り書きを読む。『払う』じゃないとしたら…。
「タクシー運転手の名前は?」
メモと格闘している私に警部が尋ねた。彼の名前…事情聴取の時に美佳子が呼んでいた。確か…。
「木村さんです」
「では『カツラザワ』と同じようにカタカナだと思ってそのメモを見てごらん」
私は驚愕する。
それは確かに読めた…『6月7日AM11、カツラザワ キムラ』と。

 翌日、朝一番で警部と私は拘留中の木村を訪問した。同じ事情聴取でも昨日とはまるで意味が異なる。最初は変わらず意気消沈した様子の彼であったが、警部が権田雄三殺害の容疑を向けると途端にその眼差しに敵意をあらわにした。
「そんな…メモに名前があったからって、それだけで私が犯人だとおっしゃるんですか?無茶苦茶でしょう、世の中に木村という人が何万人いると思ってるんですか。それに手袋のことにしたって、そんなの証拠になりませんよ」
「おっしゃるとおりです。でも私はあなたが犯人だと確信しています」
警部の低い声が室内に響く。
「よろしいですか?『犯人は夏でも手袋をしている人物』という条件は、確かにあなたが犯人だと断定するには不十分でしょう。しかし桂沢さんが犯人ではないと除外するには十分なんですよ。彼は犯人では有り得ない。それなのにどうして彼の服から凶器の壺の破片が出てきたのか?それは誰かが仕込んだからとしか考えられない。ではそんなことができたのは誰か?
…あなたですよ。あなたにしかできない。彼をはねてしまった後、彼に罪を着せるために」
警部は投げつけるように推理を語っていく。私はその後ろでまっすぐ木村を見据えた。この男が…そんな非道なことをしたのか?怒りと共におぞましさが込み上げてくる。
「あなたは勤務中のタクシーで権田さんを訪ねた。そして借金を返せないことを伝えた…しかし相手は許してくれず口論になり、思わずその場にあった壺で殴ってしまった。その時に破片の一つがあなたの服に入った。あなたがそのことに気付いたのはタクシーで逃走した後です。そして直後に桂沢さんをはねてしまった」
木村は知らないといったふうに視線を壁の方に逸らす。
「おそらくあなたは…桂沢さんが権田さんの家を出てくる姿を見ていたのでしょう。だから彼に罪を着せることができるかもしれないと思い至った。禍を転じて福となそうとしたわけです。だから破片を彼の胸ポケットに仕込み、素直に119番に通報した…善良な運転手を演じたのです」
「いい加減にしろ!」
彼がこちらを向いて憤怒を爆発させる。
「そんなの全部あんたの想像だろ。どこに証拠がある?」
しかし天才刑事がひるむことはない。
「だってあなた、昨日ムーンが聴取した時におっしゃったそうじゃないですか。交通事故の時は道路が白く煙っていた、だから白い服装の桂沢さんに気付くのが遅れたかもしれない、せめて傘を差してくれていたら目立ったのにと」
「それが何です?」
「どうして傘を差したら目立つと思われたのですか?」
「何を言ってんだ。格好だけじゃなく言うことまでふざけてやがるな。白く煙っている中で赤い傘を差せば目立つだろ?」
警部が言葉を止める。私もふっと息を吐いた。突如生まれた沈黙に木村は戸惑いを浮かべる。
「え?一体何だってんですか。一体それが…」
警部がゆっくり右手の人差し指を立て、圧力を増した声で尋ねた。
「あなたはどうして桂沢さんの傘が赤いことをご存じなんですか?事故当時は雨は降っていなかった、傘を差してはいなかったはずですが…」
「それは…」
思わぬ指摘に木村は焦り始める。
「そ、そんなの…差してなくてもわかりますよ。あの人をはねてしまって慌てて駆け寄った時…きっとそこに落ちてる傘を見たんでしょう」
「いいえ違います」
低い声は言い切る。
「あの傘は折りたたみ傘です。事故の時、桂沢さんは折りたたんでカバーに入れていたんですよ。そしてそのカバーの色が…白なんです」
木村は目を見開く。私は警部の合図で実物の折り畳み傘を取り出して示した。
「これは事故当時のままです。ムーン、カバーをはずして」
そう、私も最初に証拠品保管質で見た時には白い折りたたみ傘だと思った。しかしこの白いカバーをとると…中からは鮮やかな赤い傘が現れる。桂沢の愛した彼女の色が現れる。
「何が言いたいかおわかりですね?」
言葉を失った男に警部はさらに続けた。
「あなたが傘の色を知っていたということは、傘を差して歩く桂沢さんを事故よりも前に見ていたということです。彼が権田さんの家を出た午前11時過ぎの時点ではまだ雨は降っていました。あなたはその時に見たんです。
…いかがです?認めていただけますか?」
「どうして…カバーと傘の色が違うんだよ」
彼は腹立たしげに言った。それは問い掛けではなく嘆きだったのかもしれないが、警部は説明した…誰よりお互いを思いやりながら借金返済のために別れる決意をした二人のことを。そして別れ際に思い出の傘を交換したこと、それから苦節十年、ようやく借金を返してまた一緒に生きていこうとしていたことを…。
「あなたが聞いた『チエ』という彼の言葉は、彼が愛した女性の名前です。あなたが罪を認めなければ、彼女はずっと苦しむことになります。彼の名誉もこのまま回復できません。
木村さん、確かに私が並べた証拠は全て決定的なものではありません。だから…否定されるならそれでも構いません」
両手で顔を覆う男。そして警部は心が潰れそうなほど重たい声で告げた。
「その時はあきらめます…あなたという人間を」
窓のない密室で、私は雷鳴を聞いたような気がした。

 陥落した後の木村は堰を切ったように全てを自白してくれた。婿養子であった彼はずっと妻や義両親の顔色を伺いながら真面目に清潔に生きてきた。しかしある夜、酔った女性客を乗せて走った際、女は払うお金が足りないからと淫らな交渉を持ちかけてきた。深夜のタクシーの車内、ずっと抑圧してきた感情が爆発し彼は身を任せてしまった。
しかしそれが転落の始まりだった。その女は裏社会と繋がっていたらしく、彼は後日女の夫と名乗る人物から多額の慰謝料を請求…いや脅迫された。誰にも相談できず途方に暮れていたそんな時、たまたま乗せた客が権田であった。彼は言葉巧みに木村の事情を聞きだし大金を工面した。しかし間もなく妻や義両親に事情がばれ、木村は家を追い出される。そしてそこから…木村は完全な権田の捕虜になったのである。
6月7日午前11時、彼は権田邸の前に停車して悩んでいた。予定どおりに金を払えそうもない、それをどう伝えるかを…。すると玄関から出て来たのは赤い傘を差した男。晴れやかな顔に軽い足取りで駆けていく男の姿に木村は自分との落差を感じずにはいられなかった。そして重い足取りで入れ替わりに権田を訪ねる。素直に返済を待ってほしいと頼んだが、権田はそんな彼を罵倒した。
「さっきの男は真面目に全額払ったんだぞ。それに比べてお前はどうだ。だからお前はダメなんだ。お前の借金なんてな、その壺の半分にも満たない金額なんだぞ!」
その瞬間、頭に血が上り…気付けば彼は壺を権田の頭に振り下ろしていた。目の前に倒れた相手がもう死んでいることに気付き慌ててその場を去る。そして混乱したまま車を走らせていたところに、脇道から飛び出してきたのはあの男…。一瞬ブレーキが遅れたのは、もしかしたら彼への妬み…無意識の殺意が生じたのかもしれないと木村は後に供述している。
倒れた男に駆け寄って肩を掴んだ時、木村の胸ポケットからあの壺の破片が落ちた。その瞬間、耳元で悪魔が囁いたのだ…こいつに罪を着せてしまえ、と。

これが事件の真相。桂沢の借用書に完済の印鑑がなかったのは、押す前に権田が殺されてしまったから。ファイルに木村の借用書が見当たらなかったのは、婿養子であったため当時は姓が違っていたからだった。その名前で調べるとちゃんと借用書は見つかったと南原が教えてくれた。

 同日夜、桂沢弘明の通夜がしめやかに執り行われている時刻。警視庁のいつもの部屋で私は警部に退職を申し出た。窓の外にはまだ梅雨が続いている。
「そう…」
それだけ言って黙り込み、警部は「理由は?」とだけ返した。
「警察官として…許されないことをしました」
私はきっぱり答える。
「桂沢さんを問い詰めたことかい?」
「いえ、それもありますが…」
もう迷いはない。深呼吸して先を続ける。
「彼が亡くなった時、私は…」

***

「弘明、しっかりして!」
病室には千恵の叫び。ベッドの上の桂沢はまたくり返した。
「俺は…お前を裏切るようなことは…絶対してない。権田さんを殺してなんか…」
「わかってる、わかってるから、もう言わないで」
「俺は…殺してない」
半分うわごとのように彼はくり返す。それだけ気に病んでいるのだ。私は全身が熱くなり、衝動に支配されていくのを感じた。
…このまま死なせてはいけない、疑われていると思ったまま終わりにさせてはいけない。
どこかからそんな声がした。誰の声?私だ。自分自身の声だ。
「千恵、ごめんな…」
「桂沢さん!」
次の瞬間、美佳子や藤原たちを押しのけて私は前に進み出ていた。
「あの、今連絡がありました。権田さんを殺した犯人は…今逮捕されました。だから…もう大丈夫です、あなたの疑いは晴れました!」
喉の奥から叫んだ。千恵が目を丸くしている。彼もこちらを見てそっと微笑み、そのまま視線を彼女に向けた。
「聞いたか…俺の疑い晴れたって…。もう何も心配しなくていいからな」
「うん、うん、そうだね」
千恵が頷く度に涙が顎から滴っている。
「ごめんな…幸せに…してやれなくて」
「幸せだったよ、ずっと…ずっとずっと幸せだったよ!だからこれからも…そばにいて!一緒に笑って、一緒に泣いて、また一緒に傘差してデートしよ!ほら、弘明の好きなコーヒー牛乳も買ってあるんだよ!」
「ありがと…」
そこで彼の言葉が止まる。彼女の頬に触れた手が落ち、眠るように瞳を閉じる。ボリュームの絞られた心電図モニターがツーと一つの長い音を鳴らした。
「いや、弘明!」
千恵がベッドに覆いかぶさった。藤原が桂沢の手首を取って小さく首を振る。わんわん泣き続ける彼女を見ながら…私は抜け殻になって佇んでいた。

***

 説明を終えた私は警部に頭を下げたまま動けなかった。
「本当に…取り返しのつかないことをしました。感情的になるなと言われていたのに、私は…」
「嘘をついたことを悔やんでるんだね。確かにあの時点では犯人も判明していなかったし、桂沢さんへの疑いも晴れていなかった」
「はい。わかっていて虚偽を伝えました。彼は私の嘘を信じたまま…永眠したんです。もう…どうやっても償えません。明日、ビンさんに辞表を出します」
「顔を上げて」
警部の足音がゆっくり近付いてくる。そしてあたたかい手が私の後頭部に触れた。
「お疲れ様、ムーン」
雨が降っている。それは別れの調べだった。