第一章 驟雨

 警視庁を出た時には本降りになっていた雨だったが、高速道路を降りる頃にはフロントガラスを撃つ水滴が徐々に姿を見せなくなった。試しにワイパーを停止してみるとどうやらまた雨は上がったらしい。随分不安定な天気だ。そのまま水溜まりに気を付けながら住宅街を抜けていくと、現場の家はすぐにわかった。
道路脇に車を停めて外に出る。豪邸…は大袈裟かもしれないが、邸宅と呼んでも差し支えないだろう。庭園を備えた広い敷地にレンガ造りの二階建て西洋建築。一人で住むには十分に贅沢だ。見上げた東京の空は変わらず曇天で、またいつ崩れてもおかしくなかった。
「警視庁から来ました」
控えていた制服警官に手帳を示し、私は門をくぐった。殺人現場に踏み込む前に、小さく深呼吸。自分の任務は明日警部が戻ってすぐ動けるように、できるだけ事件の情報を収集し整理しておくこと。困ったことがあれば電話をくれていいと警部もビンさんも言ってくれたが、情報収集くらい一人で頑張らねば。
「よし!」
気合を入れて足を踏み出す。門から玄関までの距離はおおよそ5メートル。石畳が敷いてあり左右は短い芝生になっている。雨が降っていたわけだから犯人の足跡を検出するのは難しいだろう。そのまま進んで重たいドアを開けると、その光景はすぐに目に飛び込んできた。
所狭しと動き回る所轄捜査員と鑑識員。被害者は土間から一段上がった玄関のフローリングにうつ伏せでこちら向きに倒れ、その頭頂部から沁み出した血液がオレンジ色の玄関マットをどす黒く染めていた。そして辺りには無数の陶器の破片…事前に聞いていたとおり、被害者は撲殺されているようだ。
「あ、ご苦労様です。本庁の方でいらっしゃいますか?」
捜査員の一人が私に気付いて話しかけてくる。くたびれた茶色のスーツに無精髭、肩幅のがっちりした刑事だった。
「捜査一課の…ムーンと言います」
毎回この自己紹介がストレスだ。場合によってはニックネームを名乗っている理由を説明しなくてはならない。しかし彼は特に気に留めた様子はなく、自らを南原と名乗った。
「あんまりお若くてお綺麗な方なんで女優さんかと思いましたよ。ハハハ、すいません、現場でふざけてちゃいけませんな。よろしくお願いします」
彼は金歯を見せて愛想よく笑うと深々とお辞儀した。未だに父親ほどの年上からペコペコされるのは慣れない。
「こちらこそよろしくお願いします。あの、実は…」
捜査を担当する警部が明日にならないと臨場できないこと、まずは部下である自分が初動捜査を代行することを私は手短に説明した。まあいつも警部はまず私だけを現場に先行させ、自分は後から来て話を聞くのが定番。そういう意味では普段と大差ないのだが…やはり今日は自分だけに現場が任されていると思うと緊張する。こんな緊張感はまるで初めて殺人現場に臨場した時のようだ。
「警部さんの代わりですか、それはそれは大変ですな。ではさっそくご報告致してよろしいですかな?」
「お願いします」
南原が手帳を取り出したので、私も自分の手帳を開きペンを構える。
「ホトケは権田雄三、54歳の男で、このお屋敷を見てのとおりの金持ちです」
「何のお仕事なんですか?」
「若い頃に株で大金を儲けて、今は所有するマンションの家賃収入やらビルのテナント料やらで悠々自適に暮らしとったそうです。まったくうらやましい限りですな…あ、これは失礼。ホトケは独身で、結婚の経験もありません。同居人もおりません。じゃあ普段は何をして過ごしていたのかといいますと、美術品や骨董品を収集したり、旅行に行ったり、時には銀座に飲みに行ったりと…ようするに独身貴族を満喫しとったわけです」
私はちらと床に伏した男の亡骸を見る。満喫していた人生の結末がこれでは…まさに転落だ。いや、周囲が思うほどには満たされていなかったのかもしれない。高級な道楽は孤独の裏返しにも思える。左手首で光っているプラチナの腕時計が妙に物悲しかった。
「女性関係やら友人関係やらはまだよくわかりません。これからホトケの周りを聞き込みしていく予定です」
「了解しました。死亡推定時刻はいかがですか?」
「現場の検屍では今日の午前10時から正午までの間です。凶器は見てのとおり陶器の壺で…一発でやられてますよ、惨いことをするもんです」
南原は手袋を装着するとその場にしゃがみ、指で権田の頭髪をめくり傷口を示した。私も中腰になって覗き込む。
「遺体に触れても構いませんか?」
「こりゃあ勇ましいですな…いや失礼、どうぞどうぞ、いくらでもお調べください。もう写真の撮影は終わっとりますので」
私は持参の手袋をして床に片膝をつく。被害者の顔を覗き込むと、玄関マットに額をつけたまま光を失った瞳は大きく見開かれていた。全身をチェックするが特に不審な痕跡はない。衣類のポケットにも何も入っていなかった。まあ自宅にいたのだから当たり前か。
「頭の致命傷以外に争った痕跡は…なさそうですね」
「おっしゃるとおりです。しばらく取っ組み合いをした後で勢い余って撲殺、というのではなさそうですな。おそらく犯人はいきなり凶行に及んだんでしょう」
私は最後に陶器の破片の一つをつまんでから腰を上げた。
「凶器は壺とのことですが…もともとこの家にあった物ですか?」
「はい。家政婦の話ですと、先週衝動買いをして昨日届いたんだそうです。値段はまた目ん玉が飛び出るくらいの金額ですよ」
南原も立ち上がると、腰ほどの高さの靴箱の上のスペースを示した。
「ここです、ここに置いてあったそうです。大きさから見て重さは10キロ近くはあったでしょうな。そんな物で頭を殴られちゃあひとたまりもありません。割れた時にはそれなりに派手な音もしたでしょうが…今のところそんな音を聞いたという証言は入っとりません」
一人暮らしで、しかもこの広い敷地だ。玄関のドアもぶ厚い。たまたま近所住民が門の前を通りかかったとしても、音を聞いて異変を察するのは難しかっただろう。
「犯行現場はここで間違いありませんか?」
「遺体に動かされた形跡はないですし、飛び散った壺の破片から見てもここで殴られたのは明らかです。破片は家の外には飛んでいませんでしたから…犯行の時はドアは閉まっとったんでしょうな」
私はつまんでいた破片を床に戻してから改めて現場を観察する。確かに…殺人はこの玄関で起きたに違いない。犯人はおそらく今の私のように土間に立っていた。そして一段上がったフローリングに立っていた被害者に対して正面から壺を振り上げたのだ。現在午後2時過ぎ…犯行はほんの数時間前。この場にいた犯人の吐息や体温が残っているような気がして私は胸が悪くなる。
「第一発見者について教えてください」
「さっきも話に出た家政婦で…石崎という女です。住み込みではなく通いで、通報したのも彼女です。今日もいつもどおり12時半に来て、インターホンを鳴らしても応答がなく、ノブを回すとドアが開いて…この有様だったというわけですな」
南原は手袋をポケットに戻すと肩をすくめた。
「かなりショックを受けてましてな、今は奥の部屋で休んでもらっとります」
「…ありがとうございます」
私も手袋をしまうとしばしペンを走らせてから次の段階の質問に移る。
「被害者の手首には高級そうな腕時計が残っていますね。となると物盗りの可能性は低いように思います。室内に物色された形跡はありますか?」
「ないですな。札束の詰まった財布もリビングのテーブルの上で手付かずでした」
「となると犯行動機は怨恨の線が濃厚ですね。あの…現時点で容疑者は挙がっていますか?」
「いえいえ、さすがにそこまでは。ただ…全くあてがないわけでもないんです」
ボールペンで耳の後ろを掻きながら彼は答える。
「実はこのホトケ、これまでにもいくつかトラブルに関わっていましてな。ホトケは頻繁に個人間融資…要するに金貸しをしとったんですよ、もちろん利子もありで。金銭がらみのいざこざが何度か…それで警察にも記録があったんです」
「被害者は強引な取り立てをしていたわけですか?あるいは違法な金利を?」
「いえいえ、権田雄三は裏社会の人間ではありません。そういったつながりもないですし、ちゃんと借用書を書かせて法律に抵触しない程度の利子で小遣い稼ぎをしとったわけです。まあ金を払わない輩には催促はしとったようですが、それも常識的な程度です。株で大儲けするような奴ですからな、頭も切れるんでしょうし、法律の知識もあったんでしょう」
「それでもお金を貸した相手から恨まれていた可能性はありますよね」
「もちろんです。あてがあると言ったのはその方面です。これまでにも金を払えなくなった相手から逆に脅されたり、逆恨みで殴られたりしてましてね…まあいずれも交番レベルで処理された案件ですが」
となるとまずはその線で調べていくのが妥当だろう。今現在被害者から借金している者、その中でも特に鐘を払えず追い詰められている者がいればそれが容疑者候補となる。私がそう口にしようとしたら、先に南原が言った。
「さすがは本庁の刑事さん、察しがおよろしいですな。ではいつまでも玄関で立ち話もなんですから、どうぞどうぞ、上がってください」
まるで知人宅に招かれた時のような言い回しで妙な気分がした。
「まずは家政婦から話を聞いてみてくださいな。その次は書斎に案内します。実は私らも先ほど書斎で借用書の束を見つけましてな、そこから容疑者をリストアップし始めたところなんです」

 リビングのソファに座る石崎は60過ぎの女性。家政婦としてここに出入りするようになってからまだ半年足らず。直接被害者に雇われていたわけではなく、登録している会社からの派遣で、勤務は平日の午後が基本だったという。
「たまには外での用足しを頼まれることもありましたけども、ほとんどはお部屋をお掃除して、洗い物とお洗濯をして、ご夕食の用意をして帰るだけの仕事でした」
彼女は視線を床に落としたまま申し訳なさそうに供述する。
「まさか、こんなことが…」
「権田さんとプライベートなおつき合いはありましたか?」
「めっそうもないです」
私の問いに、彼女は顔を上げて大きくかぶりを振った。
「そういうことは会社からも禁止されていますし、会話といったら挨拶程度でした」
「権田さんに対してはどのような印象を持たれていましたか?」
「いつも穏やかに迎えてくださったので…特に悪い印象はございません、私は」
「私は、ということはそうでもない人もいるという意味ですか?」
数秒逡巡してから家政婦は続ける。
「時々、怒っていらっしゃる姿はお見掛けしました。電話口や玄関先で…怒鳴っていらっしゃいました」
重要な証言が出る、と私は直感した。
「どのような話題で怒っておられたのでしょう」
「詳しい内容はわかりません。聞き耳は立てないようにしておりましたし、訪ねてきたお客様のお顔もなるべく見ないようにしておりました。ただ権田さんは、とっとと払えとか、これ以上は待たんとか、そんな言葉で怒鳴っておられましたので…」
彼女は言い淀む。私が「お金のことでもめていたんですね?」と確認すると、その薄い唇は「おそらく」と答えた。
「権田さんともめていた相手について、名前とか、容姿とか、一人でもご記憶ありませんか?」
「誰も…知りません」
家政婦は両手で顔を覆った。念のために彼女のアリバイも確認したが、午前中は出勤前まで自宅で家族と過ごしていたとのことだった。他にも権田の人となりについていくつか伺うも、特に実のある情報は出てこない。
「石崎さん、以上になります。ありがとうございました」
私が聴取終了を告げると、別の捜査員に連れられて彼女は部屋を出ていった。
「テレビドラマみたいに家政婦が見て事件解決、とはなりませんでしたな」
南原がそう言って苦笑い。私も格好だけ合わせて微笑む。
「ただ金のことでホトケともめとった輩はいたようですな。やはりその線で行かれますか?」
「よいと思います。借用書をお調べになってたんですよね?私にも手伝わせてください」
「ではこちらへ、書斎は2階です」
そこにあるかもしれない…そう、警部がいつも捜査の最初に探している『取っ掛かり』が。

 被害者が几帳面な性格で助かった。借用書はちゃんと日付順にファイリングされ、金額はもちろん借用人の住所や連絡先も記されていた。そして無事に全ての金額を払った者には『完済』の赤い印鑑が押され、払った日付も添えられていた。
しかし…驚いたのはその枚数。金を貸した相手の数はこの二十年ほどの間に実に三百人以上にも上る。すぐに人数がわかったのは、被害者がご丁寧にも通し番号を振っていたからだ。貸している金額は数百万円の高額もあれば数万円のものもあり幅が広かった。
それにしてもそのファイルを堂々と書斎のデスクに並べているとは…。ページをめくりながら、私にはそこにナンバーリングされた名前たちがまるで捕虜や囚人のように見えた。
被害者はこのデスクに掛けて夜な夜なこれを見ながらある種の悦に浸っていたのでは…そんな不気味な想像が過る。豪勢な家具で飾り付けられた書斎に冷たく置かれたファイル。決めつけてはいけないが、権田雄三という男はきっと慈善や慈愛で金貸しをしていたわけではないだろう。かといって利子で儲けようとしていたわけでもない。彼には浪費しても余りある金があった。それを貸すという行為で歪んだ優越感に浸っていたのではないだろうか。亡き男の陰湿な悪意がこの部屋に染みついているように私には思えた。
「ちょっとよろしいですか」
隣の寝室を調べていた南原が私を呼ぶ。
「どうしました?」
「見てくださいよ、これ」
私が行くと、彼はベッド脇のサイドテーブルに置かれたメモ用紙を指さしていた。上から一枚ずつちぎれるタイプ、その一番上の紙に何やら記されているらしい。
「被害者のメモですか?」
「そのようですな。備え付けのボールペンで走り書きしたようです」
私は覗き込んでそれを読み上げた。
「…6月7日AM11、カツラザワ、払う」
「私にもそう読めます。『AM11』というのは午前11時のことでしょう。『カツラザワ』とカタカナで書いてあるのはいささか妙ですが、まあ漢字で書くのが面倒だったんでしょうな。もしもこの『カツラザワ』ってのが名前だとすると…」
「はい。6月7日は今日ですから、つまりこのメモは今日の午前11時にその人物がお金を払いに来るという意味になります」
私はそう言いながら書斎に踵を返す。南原も意を察して後ろを追ってくる。そして二人で先ほどのファイルをチェックしていった。否が応でも鼓動が速まる。見落とさないように、見過ごさないように、しかし迅速に綴じられた借用書をめくっていく。
「ありましたよ、南原さん!」
見つけた私は思わず大きな声を出してしまう。
「桂沢弘明…十年前に被害者から五百万円を借りています。まだ完済の印鑑は押されていません」
「やりましたな。こいつが午前中にホトケを訪問してたとすると、一番の容疑者になります。さっそく確認しましょう」
南原も私の手元を見て意気込んだ。念のためにファイルを全てチェックしたが、他に『カツラザワ』に符合する名前の人物はいなかった。
私は自分の胸が熱くなるのを自覚する。今日は情報収集だけのつもりだったが…もしかしてこのまま一気に…犯人逮捕まで行けるかもしれない。そう、警部の到着を待たずに。

 そんなにスムーズには行かなかった。まず借用書に記された桂沢弘明の携帯電話の番号にコールしてみたが、電源を切っているのか繋がらなかった。南原が部下数名を自宅に向かわせたがそれも留守で空振り。まさか逃走したのでは…と一瞬考えたが、さすがに緊急配備を敷く段階ではない。桂沢が事件と無関係の可能性も十分にある。
私は遺体搬出の許可を出すと、南原と所轄警察署に赴き捜査会議に参加した。引き続き桂沢の行方を追うのは当然として、他にも負債を払えていない人間がいるようなのでそれも当たっていく。また聞きこみで被害者の交友関係について調べ、金銭以外でも動機を持つ者がいないかを探っていくこととなった。
「その方針でよろしいですかな?」
会議中、南原が気を遣って何度も私に確認を求めてくれた。そこに集っているのは所轄の屈強な猛者ばかり、年齢も私よりずっと上だろう。そんな捜査員たちのきつい視線を度々浴びながら、私は渇いた喉で「それでお願いします」とくり返すしかなかった。

 すっかり凝ってしまった肩と首を回しながら私は愛車を走らせた。警視庁に戻った頃には長い夏の日もさすがに暮れており、駐車場にはアスファルトと排気ガスの臭いを含んだ夜気が立ち込めていた。
「あー疲れた!」
いつもの部屋まで戻ると、私はそう言って伸びをしながらドアを開ける。
「お疲れだね」
なんとそこにはビンさんが座っていた。私は慌てて伸ばしていた腕を下ろして一礼する。
「失礼致しました、お疲れ様です」
「そんなに恐縮しなくていいよ。君はいつも肩に力が入り過ぎだ」
ミットの長は優しく笑む。恥ずかしい姿を見られてしまった。きっと思いっきり油断して間抜けな顔になっていたに違いない。私は顔が赤くなるのを隠しながらドアを閉めた。
それにしてもビンさんがまだ残っているなんて…。早く上がることはあっても残業している姿なんてほとんど見たことがなかった。
「それで?今日は急遽カイカンなしで行ってもらったけど、捜査はどんな按配だい?」
「ご報告してもよろしいですか?」
「もちろん」
私は室内に数歩進むと、手帳を見ながら説明を開始する。ビンさんは時々小さく頷きながらそれを聞いてくれた。
「…現時点では以上です」
「了解だ。初動捜査としてはまずまずじゃないかな。う~ん、それにしても…」
上司は改まったようにこちらを見た。私が「何か不手際がありましたか?」と問うといやいやと手を振る。
「そうじゃなくてな、君もなかなか立派になったと思っただけさ。情報のまとめ方も然り、報告の仕方も然り、捜査方針の立て方も然りね。最初カイカンに指導を任せた時は不安もあったが…あいつもちゃんと教えてたんだな」
「ありがとうございます。警部からはいつもためになる指導をいただいております」
と、多少はお世辞も入れておく。
「あいつも僕も良い部下を持って幸せだ」
そう言いながらビンさんは腰を上げるとデスク脇のショルダーバッグを手にした。
「じゃあ僕は帰るけど、君はまだ残るのかな」
もしかして…いや、間違いない。ビンさんは私の様子を確認するために残ってくれていたのだ。
「明日警部にすぐ見てもらえるように、報告書だけまとめてから帰ります」
「わかった。でもあまり無理しないように」
部屋を出ていく上司に私は「お疲れ様でした」と深く一礼。やがてドアが閉まり足音が遠ざかって行く。頭を上げると思わず溜め息が出た。
馬鹿…「私も良い上司に恵まれて幸せです」って、どうして言えなかったんだろう。社交辞令ばかりスムーズで大切な言葉が口にできない、そんな自分が私は嫌いだった。

 さっそく報告書を…とパソコンに向かったが、そこでようやく空腹に気付く。そういえば夕食をすっぽかしていた。この時刻、もう職員食堂は営業していないが自動販売機のパンくらいは残っているだろう。私は席を立って部屋を出た。

営業終了後の食堂は照明が落とされ、明るいのは一角だけとなっている。適当にパンと缶コーヒーを買って私はそのテーブルに着いた。そしてモグモグしながら頭の中で報告書の構成を考えていると…。
「ヤッホー、美人刑事!」
突然耳元でそう言われ頬に冷たい感触。驚いて振り返るとそこにはペットボトルを手にした美佳子が立っていた。
「ちょっと、びっくりするじゃない」
「天下の捜査一課が何をおっしゃる」
そう言って私の隣に座る彼女は氏家美佳子、警視庁の交通課に勤務する婦人警官。そして私の数少ない友人と呼べる存在。制服姿でなく髪も下ろしていることからして、どうやら退勤するところらしい。
「ジュースを買って帰ろうとしたら、あんたが座ってるのが見えたのよ。その様子だとまだ仕事?」
「うん。今日担当した事件の報告書を作らなくちゃいけないの、明日警部が来たら見せるから」
「あら、その言い方だとお宅のカイカン警部さんは今日お休み?」
「出張から戻るのが一日遅れちゃったのよ。だから今日は私一人で臨場したの」
「すごいじゃん!」
そこで美佳子は大袈裟に拍手。
「ついに一人で捜査を指揮するようになったか、こりゃあ将来有望だ」
「もうやめてよ、たまたま臨時でそうなっただけ。私の階級じゃ指揮権なんてないでしょ」
美佳子とならこんな軽口も叩ける。私が完全に自分のことを嫌いにならずにいられているのは、きっと美佳子のおかげだ。
「謙遜しなさんな。あ、そうだ、じゃあ一つ謎を解いてほしいのよ」
彼女の声が少しだけ真剣さを帯びる。
「実はお宅の警部さんに意見を伺おうかなと思ってたのよね。ちょっと不思議な話だから。でも今日はあんたが代打なら、あんたにお願いするわ」
そんな…と断わろうとしても美佳子はすっかりその気だ。昔からこの強引さは変わらない。引っ込み思案の自分にはそれが心地良くもあるんだけど。私はパンを呑み込んでから「どうぞ」と促した。
「今日あたしが担当した交通事故なんだけどね。タクシーが歩行者をはねたのよ。歩行者は突然脇道から飛び出してきて、雨で道路も濡れてたからブレーキが間に合わなかったみたい」
彼女はさらに声を落とす。
「幸い一命は取り留めて今病院で手当てを受けてる。タクシーの運転手もすぐにその場で救急車を呼んでくれたの。それはよかったんだけどさ…そのはねられた人の衣服から妙な物が出てきたのよね」
「妙な物?」
私は反復する。
「そう。その人はワイシャツを着てたんだけど、その胸ポケットから…陶器の破片がね」
呼吸が止まる。陶器の破片?途端に今日目にした殺人現場の映像がフラッシュバックした。
「美佳子、その人は破片を隠し持ってたの?」
「そこが知りたいのよ。どんな理由で陶器の破片を持ち歩いてたのか…もちろん交通事故とは関係ないんだけどさ、なんか気になっちゃって。もしかしたらたまたま何かの弾みでそこに入っちゃってたのかもしれないけど。ほら、持ち歩くんならせめてハンカチでくるむとかするでしょ」
たまたま入ってた…?もしも被害者を殺害する時に飛び散った壺の破片が犯人の衣服に入ったとしたら…!
「その交通事故が起きた場所の住所、わかる?」
私の雰囲気が変わったのに美佳子も気付いたらしい。警察官の顔になって彼女はその住所を告げた。近い…権田雄三の邸宅から徒歩圏内だ。
脈が速くなる。私は目を閉じて一度深呼吸。そして少し震える唇でその質問を口にした。
「タクシーにはねられた人の名前、教えてくれる?」
美佳子はペットボトルを机に置いてから答えた。
「名前は…桂沢弘明さんよ」
窓の外にはまた雨が降り出していた。