プロローグ

ポツポツ、シトシト、ザアザア…雨音を表す擬音はいくつかあるが、今日の雨はシトシトとザアザアの間といったところだろうか。例年より早く梅雨入りした東京の空は、今日も飽きることなく雨粒を降らせている。街も人も濡らされ、景色は水彩画のように滲んでいた。

私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

6月7日、警視庁のいつもの部屋。始業時刻を過ぎてもそのカイカン警部の姿はなし。上司は現在単身出張中…戻って来るのはお昼の予定。部下の私はそれまでの間に溜めていた書類を片付けるべく、こちらも単身デスクワーク中。狭い室内に、クーラーの音、パソコンをタイプする音、そして雨の音が穏やかな協奏曲を奏でる。たまにはこんな勤務も悪くない。
集中していると時間は速く流れる。書類はつつがなく完成、伸びをして壁の時計を見るとちょうど11時半…気付けば少し前から雨の音も止んでいた。窓際に立って外を見るといつまた降り出しそうな雨雲が灰色の空を覆っている。ぼんやりその淀んだ景色を見ながら私はふと考えた。
…このままでいいのだろうか。
ここに配属されてもう四年。仕事もわかってきて大きなトラブルもなく日々をこなしている。もちろん自分は警部の指示に従って動いているだけ、捜査の指揮を執っているわけではない。変人上司に振り回されてうんざりすることもあるが、それでも恵まれた環境で働けていると思う。むしろ最初は絶対無理だと思ったあの人の下で今日までやってこれたのだから喜ばしいことだ。
なのに…時々込み上げる虚しさは何だろう。多忙と充実は違う。不満がないことと満たされていることとは違う。私はいつまで…ムーンと名乗ってここで働くのだろうか。特段何かを切望しているわけでもないくせに、現状を儚むなんて…心というのは本当に我侭にできている。
私はそっと窓を開けた。爽やかな風を期待したが、流れ込んだのは熱気と湿気を帯びた生ぬるい空気だった。

やがて正午を過ぎる。デスクで一人持参したおにぎりで昼食を済ませて私はまた窓の方を向く。退屈なくらい平穏な時間だった。
廊下からは何やら騒がしい声や駆け抜ける足音が聞こえてくる。きっと事件を割り振られているミットの刑事たちだろう。そう…自分が平穏だからといって世界から犯罪が消えたわけではない。ただ把握しているか否かの差に過ぎないのだ。
それにしても…警部、まだかな。

「お疲れさん」
午後1時を過ぎた頃、ドアが開いて現れたのは警部ではなくビンさんだった。彼は警部と私の上司で階級は警視、このミットの長である。警視と呼ばれるのがあまり好きではないらしく、警部と私は親しみを込めてビンさんと呼ばせてもらっている。もちろんビンというのもニックネーム。
この人は基本的に現場には出ない。提出された報告書をチェックしたり、庁内の委員会に参加したり、過去の未解決事件の捜査資料を読み返したり、その関係者を当たったり…とかなり自由に勤務している。今朝も一度部屋に顔を出したきりふらりとどこかへ行ってしまった。
「お疲れ様です」
私は起立して一礼。
「警部はまだ戻られておりません」
「いやそれなんだがね、実はちょっと困ったことになっちゃってな…」
ビンさんは白髪の混じった頭を掻く。
「あいつが戻ってる予定でさっき捜査の割り振りを受けちゃったんだよ。そうしたらその後でカイカンから電話があって、帰るのが一日遅れるっていうんだ。明日の朝に向こうを発って昼に戻るってさ…自由な奴だよまったく」
この上司にしてこの部下あり、と内心思うが…もちろん口にはしない。
「それでどうしたものかと思ってな…別のミットに代わってもらおうにもみんな忙しそうだし、僕も午後に予定を入れちゃったから」
警部は帰ってこない…しかし捜査を割り振られたということは事件が発生したということ。明日まで放置というわけにはいかない。
「どのような事件なのですか?」
私が尋ねるとビンさんは優しい笑みを少しだけ弱める。
「撲殺事件だ。発生は今日の午前中、三十分くらい前に通報があった。現場は被害者の自宅、今所轄の捜査員が臨場してる」
「そうですか…」
私がここでのんびりしている間にも誰かが誰かに命を奪われていたのだ。
「弱ったなあ…」
腕を組むミットの長を見ているうちに、私には一つの意志が芽生えていた。もちろん自分の階級では捜査の指揮権はない。しかし捜査すること自体が禁じられているわけではもちろんない。
「あの、ビンさん」
私は一歩前に出る。
「もしよろしければ…」
窓の外からは再び雨音が聞こえ始めていた。