第二章 豪雨

 証拠品保管室。私は念のため美佳子に頼んで車にはねられた男の衣服と所持品を見せてもらった。白いワイシャツ、灰白色のズボン、白いスニーカー…と、その男の好みなのか白色系で統一され、カバーに入った折り畳み傘、これもまた白だった。ただしワイシャツとズボンは泥と血液で汚れており、事故の凄惨さを生々しく物語る。ズボンの尻ポケットに入っていたという携帯電話も割れて壊れていた。
だが私が一番着目したのは、胸ポケットから出てきたという陶器の破片だ。手に取って色や感触を確認すると、それはあの殺人現場でつまんだ物と同じように私には思えた。
「持ってきたよ」
そこで後ろのドアが開く。
「都内の地図。机に広げる根」
「ありがとう美佳子。ごめん、帰るところだったのに引き止めて…」
「気にすんなって。ええと、事故の現場でしょ…あった、ここよここ」
彼女のサバサバした雰囲気は陰鬱な仕事にも清涼感を与えてくれる。その長い指が指し示した地図の位置を私も見る。
「さすが交通課ね。すぐに場所がわかるなんて」
「そりゃ太いのから細いのまで、23区内の道路は頭に入ってますから。それで?あんたが担当した殺人事件の現場は?」
私が住所を伝えると美佳子はそれもすぐに示してみせた。
「ここだね。二つの現場の距離は…直線で2.5キロメートルくらい。一般的な成人男性で考えると…信号や曲がりくねりも踏まえて徒歩四十分ってとこかな」
「交通事故の発生時刻は?」
「タクシー運転手の通報があったのが午前11時35分だから…その直前ね」
となると事故は11時半くらい。権田雄三の死亡推定時刻は10時から正午の間。寝室にあったメモによると桂沢が権田邸を訪れたのは11時。そこで凶行に及んで逃走したとするとどうだ?歩いて四十分なら少し走れば三十分弱で交通事故の現場までたどり付けるはず。しかも犯行の直後で気が動転していたのなら慌てて車道に飛び出してもおかしくない。まるでパズルのピースがどんどん頭の中で組み合わさっていくようだ。
「ちょっとあんた、突然固まってどうしたの?」
美佳子の呼び掛けで私は我に返る。推理をしながら石になるなんてまるで警部みたいだ。どうしよう…ここまでの経過をあの人に連絡しようか。いや、ここまできたらいっそもう少し踏み込んでからでもいいか。
「助かったわ美佳子。おかげで明日警部にはいい報告ができそうよ」
「珍しく自信満々じゃん。じゃあ今度ラーメンおごってね」
「了解。最後にもう一つだけ教えてもらっていい?」
私は証拠品を棚に戻してから言った。
「桂沢さんが運ばれた病院はどこ?」

 雨脚は少しずつ強まってきていた。ワイパーをフル稼働させながらたどり着いたすずらん医大病院はもう夜勤帯に入り、ロビーにも病棟にも闇と静寂が広がっている。桂沢の担当医は手術も執刀した藤原という口髭の医師だった。私は残業で残っていた彼に事情を説明する。もちろん桂沢に殺人容疑がかかっているなどと直接的な言い方は避け、ある捜査で重要な証言が得られるかもしれないから面会したいとだけ伝えた。当初藤原はあまりいい顔をしなかったが、私の熱弁に折れてくれた。
「まあ…面会謝絶という状態ではありませんから、本人が了承すれば構いませんよ」
「桂沢さんの怪我はいかがなんですか?」
「正面からはねられたにしては軽症です。大きな負傷は肋骨の骨折くらいですから。まあでも当分はベッドで安静にしていてもらいますが」
並んで薄暗い廊下を歩き私たちは病室の前まで来る。中からは談笑の声が漏れ聞こえてきた。
「誰かいらっしゃってるんですか?」
「奥さんですよ。あ、正確には元奥さんだそうです。桂沢さんが目を覚まされた後、連絡を取ってほしいとのことで電話したらすぐ飛んできてくれました」
小声でそう説明すると、藤原はドアをノックする。そしてまずは一人で入室していった。どうやら警察の面会について了承をもらってくれているらしい。やがて戻ってきて「どうぞ」と私に告げて、担当医はその場を去っていった。
「失礼します」
二度ノックしてから私はドアを開く。暗い病棟とは対照的に室内は明るかった。
いや…その明るさはきっと照明だけでもたらされたものではなかったのだろう。こちら向きに置かれたベッドには肩から胸にかけて包帯を巻いた三十代半ばの男。彼は上半身を起こした状態でおり、傍らには彼より少し若い女がぴったり寄り添って座っている。元夫婦ということだがその姿は絵に描いたように仲睦まじく、あたたかい光に包まれていた。こちらに向けられる二人の目もとても優しい。私はここを訪れた目的を一瞬忘れそうになる。
「あの、警視庁捜査一課のムーンと申します。桂沢弘明さんですね?大変な時にすいません」
こちらが一礼すると、体が不自由な彼に代わるように彼女が丁寧に頭を下げる。そして「的場千恵です」と自己紹介した。肩までの茶色い髪によそ行きメイク、小奇麗な服に身を包み、手の指には立体のネイルアートも施されている。多少派手な印象も受けたが、その顔立ちはかわいらしく、礼節のしっかりした女性だった。椅子も勧めてくれたがそれをやんわり断わり、私は彼女とは逆サイドのベッド脇に歩み寄る。
「少しだけお話をお伺いしてよろしいでしょうか?」
「もちろんですよ。国民として協力を惜しみません」
彼が答えると、彼女が小声で「ふざけないの」とたしなめる。そしてまた微笑み合う二人。これが…殺人犯のする顔だろうか。いや、どんな心をしているかなんて見た目ではわからない…人間とはそういう生き物だ。
「ではさっそくお尋ねしますね」
まず生年月日や現住所といった基本的なことを確認する。彼はスラスラと答え、その内容は借用書の記載と一致していた。
「わかりました。では…」
私が先に進もうとすると、彼はそこで「ちょっとすいません」と断わってから彼女に「飲み物買ってきてほしいな」と頼んだ。
「まったくもう。いつものコーヒー牛乳でいい?」
「あれはコンビニでしか売ってないだろ。自販機のお茶でいいよ」
「病院のすぐ近くにアキナーマートがあったから行ってくるわ」
彼女が腰を上げる。
「いいっていいって、外は雨だし」
「大丈夫、ちゃんと持ってきてるから」
彼女はハンドバッグの中から赤い折り畳み傘を得意げに見せる。彼も嬉しそうな顔…と、そんな和やかさに調子を狂わされている場合ではない。
「手短に済ませますので話を続けてよろしいですか?的場さんもできればここにいてください」
私が仕切り直すと彼女もすごすごと着席した。
「桂沢さん、あなたは権田雄三さんという方をご存じですか?」
二人の顔から笑みが消える。揃って意外な質問をされたという感じだ。
「ご存じなのですね?」
私がくり返すと彼は「はい」と認めた。
「知っています…今日も会ったばかりです」
「何時頃にお会いになりましたか?」
「午前…11時です」
「どこでお会いになったんですか?」
「…権田さんのお宅を訪問しました」
先ほどまでと異なり、彼は一問一答でいちいち黙り込んでしまう。自分で話を転がす気はないらしい。
「どんなご用件で訪問されたんですか?」
「それは…」
弱弱しくなる彼の声と反比例して厳しくなってしまう私の声。限られた時間内でそこにある核心を掴むために焦っているのだ。私は冷静になれと自分を戒める。
「お金を…払いに行ったんです」
数秒の沈黙を挟み、彼が俯いて返した。隣の千恵は不安を浮かべた瞳で彼と私を交互に見ている。私が「借金の返済ですか?」と問うと、桂沢は黙って頷いた。
「権田さんは個人で融資をされていたそうですね。失礼ですがどのくらいの負債があったのですか?」
「五百万円です」
これも借用書の記載と一致する。全てを嘘で固めようというつもりはないらしい。
「それは…ちゃんと返されたのですか?」
そこで彼は顔を上げる。
「はい。今日全額支払い終えたところです」
意外な答えだった。今日…払い終えた?それなら殺人の動機はなくなる。
しかし、この男の借用書に完済の印鑑は押されていなかった。ということは…この男は嘘をついていることになる。ではどうして嘘をつく?それは殺人犯だと疑われたくないからだ。しかし私はまだ権田が殺されたとは伝えていない。病院に運ばれ手術を受けていたこの男がテレビやラジオでそのニュースに触れる可能性も低い。つまり…この男自身が犯人だからそのことを知っているのではないか?
疑惑がアメーバのように増殖していく。私は自分の思考回路におびただしい電流が流れているのを感じた。警部はいつもこうやって推理を巡らせながら容疑者と会話をしていたのか。
「それは本当ですか?本当に払い終えたのですか?」
「ちょっと待ってください」
糾弾しようとする私についに彼女が割り込んだ。
「刑事さん、これは一体何のお話なんですか?彼の借金のことを詳しく尋ねたりして…ちゃんと理由を聞かせてください」
真剣な眼差しだった。私は咳払いしてから答える。
「失礼しました。実は権田雄三さんが亡くなられまして」
二人は揃って目を丸くする。本当に驚いているようだが…いや、心象よりも物証を優先しなくては。あのメモの記載、そしてあの壺の破片、これは動かし難い物的証拠なのだ。
「殺人事件として警察は捜査をしています」
あえてはっきりと告げた。固まったままの桂沢に代わって千恵がすぐに反応する。
「殺人って…殺されたってことですか?それでまさかこの人を疑ってるんですか?」
ベッドを挟んで明らかな敵意と警戒を向けてくる。私は少しそこはぼやかした。
「いいえ、桂沢さんだけを疑っているわけではありません。権田さんにお金を借りていた方々にお話を伺っているところです」
二人は少しだけほっとした様子を見せる。そして今度は彼が口を開いた。
「まさか権田さんが殺されるなんて…信じられません。いや、個人的に親しかったわけではないですけど、やっぱり今日会ったばかりの人がもうこの世にいないっていうのは…変な感じですよ。まあ僕も一歩間違えてたらあの世行きだったわけですけど」
彼の冗談を私は無視する。
「お会いになった時、権田さんはどんなご様子でしたか?」
「どんな…そうですね、約束どおりの11時にチャイムを鳴らすとすぐに出てきてくれましたよ。そして玄関先でお金を渡すとそれを確認して…笑顔でご苦労様って言ってくれました」
「その時にトラブルなどは?」
「何もありません、終始穏やかな雰囲気でした。だってこれでようやく払い終えたんですから。会話したのも五分くらいです。雨も降ってましたし、すぐにお世話になりましたって伝えて帰りましたよ。でも浮かれ過ぎました、その帰り道で事故に遭ったわけですから」
そこで千恵はあきれたように溜め息。
「本当に気を付けてよ。それに権田さんにお世話になりましたって…そんなに善い人でもないでしょ。相変わらずお人よしなんだから」
「困ってた時に助けてもらったのは事実だからさ。悪徳なサラ金に借りるよりずっとよかったよ」
私は彼が権田に借金をしたいきさつを尋ねてみる。すると「それは私から」と千恵が説明してくれた。

 桂沢は人を疑わない男で、27歳の時に友人の借金を背負わされてしまった。夜逃げや自己破産も考えたが、それでは友人を信じてお金を貸してくれた人たちに申し訳ない、保証人としてサインした自分にも責任があると考え、彼は自分が返済することを決意した。そして妻の千恵に、迷惑をかけたくないからと別れを申し出たのだ。
当初彼女は嫌だと断わった。しかし桂沢の決意は固く、ちゃんと綺麗な身になったらやり直そうと誓い合って二人は離婚した。そして彼は質素なアパートに移り住み遮二無二なって働いた。しかしそんなすぐに大金を貯められるものではない。早く返済しろと催促して来る者も少なくなかった。そんな時に知り合ったのが権田だったのである。
途方に暮れて消費者金融の店の前まで行き、相談しようかどうか迷っていた時に声を掛けてきたのが権田だった。見ず知らずの相手だったせいか桂沢は素直に金策に窮していることを口にしたところ、「お力になりますよ」と彼は言った。そしてちゃんと借用書を書いた上で、法定限度内の利子で個人間融資を約束。そしてすぐに桂沢の負債を代わりに支払ってくれ、後は定期的に自分に払ってくれればいいと言ってくれたのだそうだ。
「十年かかりましたけど…この人は頑張ってくれました」
千恵はその言葉で説明をしめくくった。
「本当に待たせてすまなかった。寂しい思いをさせたな。約束どおりまた二人でやっていこうな」
彼が優しい目で告げる。彼女もそっと頷く。気付けば手を握り合っている…通常なら美しい絆にしか見えない場面だろう。しかし…と私は自分を奮い立たせる。
私は刑事なのだ。殺人事件の捜査をしているのだ。そして目の前の男はその最重要容疑者なのだ。全ては芝居かもしれない。彼女だってひょっとしたら共犯の可能性だってある。愛なんてものは善にも悪にも働くのだ。これまでも愛だ夢だと口にして罪を犯した者を私はたくさん目にしてきた。
「権田さんとの関係、そしてお二人の絆はよくわかりました」
私はあえて冷たい口調で言った。
「しかし、その権田さんが本日殺害されたのです。犯行推定時刻は午前10時から正午まで、ちょうどあなたが訪問したとおっしゃっている時間帯です」
桂沢の顔色が変わる。
「借金を全額支払い終えたのならあなたに動機はありません。しかしそれは本当でしょうか。権田さんは払い終えた人の借用書には完済を示す印鑑を押していました。あなたの借用書にその印鑑は…押されていませんでしたよ」
「本当ですよ!本当に払い終えたんです」
「あなたが交通事故に遭った場所は権田さんの家から近い場所です。車道に飛び出したそうですね、まるで慌てて逃げているように…」
「違います!」
身を乗り出そうとする彼を彼女がいさめる。
「落ち着いて弘明、あなたがそんなことするわけないじゃない。刑事さんももうやめてくださ…」
「桂沢さん、実はあなたの衣類から…権田さんが撲殺された時に砕けた凶器の破片が発見されているんです。これをどう説明されますか?」
「そんな…」
息を呑む桂沢。千恵も驚愕の顔。
「お、俺は殺してなんか…」
搾り出すように彼は言った。かなり苦悶している…事件と無関係ならこんなに動揺するはずはない。やはり犯人は…。
「ちょっと、大丈夫?」
ふいに千恵が呼び掛けた。私もはっとなる。確かに彼は苦悶しているが…その苦しみ方は尋常ではない。とても精神的な動揺から来るものとは思えない。そういえば先ほどからどんどん顔色が悪くなっていた気がする。
私は馬鹿だ!彼は交通事故に遭って緊急手術を受けたばかりの身なのだ。それを失念して問い詰めてしまった!
「ちょっと、弘明、返事して!ねえ弘明!」
ぐったりとなる彼に彼女が叫ぶ。繋がれた心電図モニターもけたたましく鳴り始めた。私は…何もできず硬直している。この馬鹿、動け、動け!
「どうしました!」
藤原と看護師が駆け込んでくる。千恵と私はベッドから離され、急いで処置が始まった。看護師が血圧低下を報告し、藤原が桂沢の瞼を押し上げて瞳孔を確認している。
「プレショック状態だ。昇圧剤準備!」
「すいませんが外でお待ちください」
千恵と私は看護師に半ば強引に退室させられる。ドアが閉まる直前まで元妻は彼の名を必死に呼び続けていた。廊下の壁にすがりついて泣く彼女。私は呆然とそれを見ていたが…やがて振り返った彼女と目が合う。
「あの…」
言葉を発するよりも先に彼女の平手が私の頬を撃った。

 その場にいることは許されない…そう直感した私は無言のまま立ち去った。誰もいないロビーの椅子に腰掛け、ただそこにある暗闇に包まれている。全身が打ちのめされたように痛い。
最低だ…私は。
改めてそのことを実感する。どうして自分はいつも人を傷付けてしまうのだろう。人の痛みに気付けないのだろう。そして…どうしてこんな時でさえ涙の一つも出ないのだろう。心は平然としているのだろう。
焦る必要は何もなかった。今日はあくまで情報収集をするのが目的だった。無難に報告書をまとめて明日警部に伝え、あの人の指示に従って動けばそれでよかったんだ。何をいきがっていた、何を躍起になっていたんだ私は。自分だけで事件を解決しようなんて…何を思い上がっていたんだ。その結果がこれだ。彼を危険にさらしてしまった。
そこで私は思い至る。氷のような悪寒が背中を走り抜けた。
私は…彼に疑惑を向けたままだ。犯人はあなたではないのかとぶつけていたも同然だ。そして彼は…自分が疑われていることを認識したまま意識を失った。もしも…もしも彼が無実だったら?そしてこのまま命を落としてしまったら?疑われたと思い込んだまま亡くなるなんて…これほど残酷な死があるだろうか。
そしてそれをもたらしたのは紛れもなく私。愚かな私という存在がいなければ彼がそんな無念な死を迎えることはなかったはずだ。
「ああ…」
少しだけ声が漏れる。両膝が小刻みに震えだす。それでも涙は出てこない。
足りない…頬を撃たれた程度ではまるで足りない。どうすれば購える?どうすれば償える?神でも悪魔でもいい、こんな命ならいくらでも差し出すから、どうか彼の命を奪わないでくれ!それができないのなら、せめて私を狂わせてくれ!
どうか、どうか…!

耳の奥でゴウゴウと音がする。いや、これは窓の外からの音だ。雨は私を責め立てるように激しく降り狂っていた。