第五章 悪意

 殺風景な室内。無言で固まっている僕ら。ドアの前で目を見開いている老警官。ほのかに白み始めた窓の外の闇。鼓膜が潰れそうな重たい沈黙。誰もが固唾を呑んで待っているのだ…正面に立ったこの男が時間を動かすのを。
…待っている?いや違う、恐れているのだひたすらに。
「…よろしいですか?」
木の葉が音もなく池に着水するように、カイカンはそっと口を開いた。低い声が空気に小さく波紋を打つ。
「それではご説明します、みなさんのご友人である荻野みどりさんの身に一体何が起こったのか…彼女はどうしてあんな状態で亡くなっていたのか」
僕は砕けそうなほど奥歯を噛み締める。怯えるな、怯えるな、怯えるな…!こうなったらどんな真相であろうと迎え撃ってやる。たとえ…この中の誰かが犯人だと名指しされたとしても。
「みどりさんの死に何者かが関与しているのは間違いありません。彼女の頭部には角材で殴打された痕跡があり、彼女の財布はお札を抜かれて投げ捨てられ、着ていたカーディガンにはボタンを留め直された形跡がありました。そもそも電話をかけるために外に出たはずの彼女が、どうしてあの路地に移動していたのか…」
カイカンは自分で自分に確かめるように語る。
「強盗に襲われたのか、暴漢に襲われたのか、それともみなさんの中の誰かともめ事でもあったのか。奥森さんを除く三人はみどりさんが店を出た後で一度ずつ席を立っている、つまり外で彼女と会う機会がありました」
室内の緊張がさらに強まる。
「しかし…みなさんには彼女に危害を加える動機がない。どんなに考えても、卒業旅行の最中に命を奪わねばならないほどの強い感情が誰かにあったとは思えない。一人の悪意がこんな悲劇を引き起こしたとは思えないんです」
そこで刑事はコートのポケットから小さな紙片のような物を取り出して示した。あれは…事情聴取を受けた部屋に置いてあったジグソーパズルのピース。
「みなさんからお話を伺い、私は一つの可能性に気付きました。この悲劇はいくつかの悪意によって起こったのではないか…と。そう、まるでこのパズルのピースのように、複数の悪意が組み合わさって残酷な絵が完成したのではないかと」
…パズル?複数の悪意?一体どういう意味なのか想像もつかない。
「そう考えた時、全ての状況に説明がつくストーリーが見つかりました。それこそがこの事件の真相だと…私は確信しています」
カイカンは力を込めて言い切った。誰も微動だにしない。
「それでは、一つ目のピースから説明しましょう」

 カイカンはパズルのピースを左手に掲げたまま解説を始めた。
「まず午後10時、みどりさんは店を出た。地上に出て実家に電話をかけるためです。そして10時半、今度は黒川さんが店を出る。トイレのついでにみどりさんの様子を見に行った…そうでしたね?」
カイカンは紀子に一歩近寄る。そして力なく顔を上げた彼女に、低い声は驚くべきことを告げた。
「あなたが階段を上がって外に出た時、そこにはみどりさんがいましたね?」
紀子の顔色が変わるのが僕にもわかった。菊川と恵も彼女を見る。
「い、いませんでしたよ…」
怯えるように答える紀子の目は視線が定まっていない。
「刑事さん。な、何度も話したじゃないですか。私が外に出た時、彼女はそこにいなかった…私は見てません」
「いいえ、それは嘘です」
平然と返すカイカン。「本当です!」と紀子も声を荒げて連呼する。
「本当に本当ですか?辺りは暗かったと思いますが」
「本当です、私ちゃんと確認しました!みどりちゃんが倒れていたら絶対わかります!」
紀子の声が悲痛に響く。これでは水掛け論だ。こんな決め付けで警察は何を証明しようとしてるんだ?
カイカンは虚空を切り裂くように右手の人差し指を立てた。
「黒川さん…あなたは嘘をついています。今もそうですが、事情聴取の時もあなたはこうおっしゃった…『みどりちゃんが倒れていたら絶対わかる』と」
「それが何ですか?」
「『倒れていたら』とおっしゃったんですよ。…どうしてあなたは彼女が倒れている姿を考えているのですか?」
口を開いたまま紀子の言葉が止まった。
「よろしいですか?誰もみどりさんが倒れていたなんて言ってないんです。そもそも彼女は外で電話をかけているはずでした。その後に路地で発見された遺体も、木箱に座っている状態でした。つまり、誰も倒れている姿なんて見てないんです。
しかしあなたの頭の中にはそのイメージが強くある…何故か?それは実際に倒れている彼女をその目で見たからです」
紀子のメガネの奥の瞳を指差すカイカン。
「あなたが外に出た時、彼女はそこに倒れていた…そうですね?」
がっくりと頭を下げる紀子。初めて見る特待生が屈する姿…それはカイカンの指摘が真であることを意味していた。僕は思わず言葉を投げる。
「刑事さん、どういうことですか?黒川さんが行った時には、そこに荻野さんがもう倒れていたなんて…。やっぱり通り魔に襲われたということですか?」
みどりがいなくなった後、最初に店を出たのは紀子だ。その時点ですでにみどりが殺害されていたのなら、僕らの中に犯人がいるはずがない。
「いいえ。強盗や暴漢が関与している可能性はゼロです」
カイカンは断言する。
「みなさんにはまだお伝えしていませんでしたが、荻野みどりさんの死因は撲殺ではありません」
恵が「え?」と声を漏らす。僕も驚いた。撲殺じゃ…ない?
「先ほど法医学教室で特定されました。彼女の頭頂部の傷には生活反応がなく出血も少量。脳にも致命傷になるような損傷はありませんでした。彼女の死因は…急性アルコール中毒だったのです」
胸の深部に激痛が走る。まさか…。
「医学生のみなさんにご説明する必要もないですね。急性アルコール中毒とは、血中のアルコール濃度が高くなり過ぎて循環器系や呼吸器系に機能不全が起きた状態です。私も経験があります。座って飲んでいる時は平気なつもりでも、立ち上がると急に酔いが回って具合が悪くなる…。
みどりさんも外で電話をかけているうちにだんだん具合がわるくなったのではないでしょうか。彼女は母親との電話の後、その場に倒れ込んでしまったんです」
「どうしてそこまでわかるんですか?」
と、僕がさらに尋ねる。
「側溝に彼女のスマートフォンが落ちていたからです。電話を終えてポケットに戻す時に落としたのでしょう。もし彼女が正常な状態なら、すぐにそれを拾ったはずです。それができなかったということは…それほど酔っていたということですよ」
…確かに筋は通っている。でも、やっぱりおかしい。
「でも刑事さん、もし黒川さんが倒れてる荻野さんを見つけたんなら、すぐみんなにそれを報告するはずですよ!」
紀子は俯いて今にも泣きそうな顔をしている。彼女を見つめたまま刑事はゆっくり頷き…さらに驚くべきことを告げた。
「黒川さんは…あえてみどりさんをその場に放置したんです」
頭が真っ白になる。そんな、どうして…?
「私はそこに悪意が働いたのだと思います。
黒川さん、あなたは自分だけ卒業できなかったことが本当に悔しかったのではありませんか?ずっと特待生で青春時代の多くを勉強に捧げてきたあなたは、自分の学力に自信も誇りも持っていたはずです。それなのに…仲間の中で自分だけが留年した。平気を装ってこの旅行にも参加していますが、本当はつらかったのではありませんか?」
紀子は両手で顔を覆った。僕が言う。
「でも留年は…荻野さんのせいじゃないです」
カイカンは僕を見て穏やかに答える。
「もちろん、みどりさんを恨んでいたわけではないでしょう。でもあの時、悔しい、みんなが羨ましいという気持ちが心を支配してしまった。そう、『嫉妬』という悪意が…」
そこで紀子は「ああ…」と涙声をもらした。刑事は続ける。
「倒れている彼女を見て、あなたの中の悪意が囁いた。もし彼女を放っておけば、騒ぎが大きくなるかもしれない。例えば通行人が発見して救急車を呼ぶとか、そんなことになったら…と。
医学生が泥酔して運ばれたなんてちょっとしたスキャンダルです。もしかしたら大学の耳にも入って、全員卒業取り消し処分なんてことになるかもしれない。そうなれば留年は自分だけではなくなる…」
「ごめ…ごめんなさい」
紀子は机に突っ伏して泣き出した。僕らはただ呆然とそれを見守るしかなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あの時、気持ち良さそうに横になってるみどりちゃんを見てたら…、介抱するのがなんかすごく悔しくなってきて…ああ!」
カイカンは再び彼女の方を向く。
「あなたに殺意があったとは思いません。これはほんの意地悪だった。おそらくちゃんとみどりさんの脈や呼吸も確認した上での行動でしょう」
「はい、そ、そうです。私が呼びかけたらみどりちゃんはちゃんと返事もしてました。だから大丈夫と思って…ちょっとしたらまた私が起こしに来ればいいと思って…。まさか、急性アルコール中毒になるなんて…」
しゃくり上げながら途切れ途切れに言う紀子の声が室内に散る。
思いもよらない真相だった。まさかいつも控えめで真面目な彼女がそんな思いを秘めていたなんて。そんな行動に出てしまうなんて。
泣き続ける友人にかける言葉が見つからない。菊川と恵もつらそうに眉根を寄せている。そんな中カイカンはスタスタと正面に戻ると、持っていたパズルのピースを机の上に置いてから言った。
「それでは、次に進みましょう」

 こっちは頭も心も全く整理できていないというのに、カイカンは語りを続けた。
「黒川さんが店に戻った後、みどりさんの容態は急変しました。おそらく…血圧低下と呼吸抑制が進行してそのまま心肺停止に陥ったのです」
紀子はまだ机に伏してすすり泣いていたが、低い声は止まらない。
「そして10時45分、次に外に出たのはあなたでした」
刑事は菊川の前に立つ。視線を注がれた彼は反射的に顔を逸らした。
「菊川さん…あなたが喫煙のために外に出た時、そこにみどりさんが倒れていましたね?」
頬を硬直させる菊川。
「彼女を見つけて、すぐに駆け寄って呼びかけたはずです。しかし…彼女がすでに心肺停止状態であることにあなたは気付いた」
紀子がみどりを放置したのが事実なら、時間経過から考えて次に外に出た菊川が発見しないはずがない。
「あなたはもちろん急いで心肺蘇生術を開始しました。本来ならすぐ救急車を呼びたかったでしょうが、それもできなかった。みどりさんのスマートフォンは側溝に落ちているから見当たらない、あなた自身のスマートフォンも手元になかった。写真をみんなに見せるために店内に置いてきていましたからね」
そうだ…そうだった。
「みどりさんを残してその場を離れるには彼女の容態は深刻過ぎました。しかもここは都心部ではありません、通報しても救急車の到着に時間がかかるかもしれない。そこであなたはまず何よりも救命処置を優先した。一人で必死に心肺蘇生術を行なった…そうですね?」
菊川は答えない。その隣で恵が心配そうな視線を送っている。もしカイカンの言うことが事実なら、彼の行動は別に後ろめたいものではないが…。
「菊川さん、あなたの指紋がみどりさんのカーディガンのボタンに残っていました。心臓マッサージをする際に邪魔になるのでカーディガンの前を開いたのでしょう。もう…認めて頂けませんか?」
その瞬間菊川の頬に涙が伝った。いつもおどけているムードメーカーの涙を…僕は初めて見た。
「すいません…そのとおりです。俺は全力でマッサージしました」
たくましい腕で涙を拭う菊川。彼は「でも彼女は蘇生しなかった…蘇生しなかったんです!」と必死に訴えた。しかしカイカンはそれには何も返さず、厳しい声で言った。
「その時ですね…あなたの心に悪意が生まれたのは」
菊川の勢いが止まる。カイカンはコートのポケットから新たなピースを取り出して続けた。
「もしこのことが公になったらどうなるか、あなたは想像した。酒を飲んで友人を急性アルコール中毒で死なせる…それだけでも大スキャンダルなのにさらに自分が心肺蘇生を施したのに助けられなかったなんてことが広まれば…救命救急センターに就職しようとしている将来を棒に振ることになりかねない、と」
菊川が顔を伏せた。その唇は強く噛みしめられている。
「あなたの中の悪意が囁いた…せめて自分は知らなかったことにしろ、と。『保身』という悪意が。あなたは彼女を人目につかない路地に運びましたね。そして手ごろな木箱に座らせた。そう、まるでみどりさんがそこに座って休んでいるうちに具合が悪くなって亡くなった…と見えるように。
でも焦っていたのでしょうね、カーディガンのボタンを留め直す時に一つ掛け違えてしまった」
みどりの衣服の不自然さはそういうことだったのか…。それに三人の中でみどりを運べるとしたら、唯一の男であり体力も十分な菊川しかいない。そんなことをしていたのなら、当然タバコを吸う暇などなかっただろう。
…これもまた思いもよらない事実だった。だが辻褄が合い過ぎていて、否定したくてもできない。カイカンの推理を跳ね返す言葉が浮かんでこない。
「申し訳ありませんでした…」
僕が何も言えないでいるうちに菊川はそう呟いた。両方の拳を強く握り、細かく全身を震わせている。隣で恵も俯いていた。
カイカンは二つ目のピースを机上に置いた一つ目のピースにはめ込む。
「では…先に進みましょう」

「みどりさんの遺体を路地に運んだ後、菊川さんはビルに戻りました。そして、階段を下りたところで桑田さんと会った」
そう言うとカイカンは今度は恵の前に立った。
「11時過ぎ、あなたはトイレに行くために店を出た…そうでしたね」
恵は黙っている。ああ、さらに悲しい事実が明らかにされるというのか?もういい、もうやめてくれ…そう叫びたくなる。しかし刑事の言葉は止まらない。
「桑田さん、あなたが店を出た本当の理由は、みどりさんと菊川さんのことを確かめるためですね?元恋人の二人がなかなか戻ってこないわけですから、気になるのも当然です」
彼女は顔を上げカイカンを見た。その表情はどこかぼんやりとしていて夢を見ているかのようだった。
「あなたは階段を上がってみどりさんを捜しに行きましたね?」
この質問に対して、恵は急に険しい顔になり怒りを見せた。
「刑事さん、何度も答えたじゃないですか。修二と廊下で会った時、彼からみどりはいなかったとあたしは聞いてるんです。いなかったと言われてるのに一人でまた捜しに行くわけないでしょ!」
隣の菊川も顔を上げ、「廊下で恵にそう言ったのは本当です」と擁護した。しかしカイカンはひるまない。
「いえ、まさにその時に見てしまったんですよ。桑田さんは…菊川さんの唇に付着したみどりさんの口紅を」
恵の表情が凍る。
「そう、菊川さんはみどりさんの心肺蘇生をしました。突然のことでもちろん器具など持ち合わせていない、人工呼吸はマウストゥマウスで行なったはずです。その時にみどりさんの口紅が菊川さんの唇に付着した…。問題はそれを見た桑田さんがどう思ったかです。
桑田さんは心肺蘇生の事情なんて知らない。みどりさんが外にいると認識していてそこから戻ってきた菊川さんの唇に口紅、しかも二人は元恋人同士です。当然思ったでしょうね…二人が口付けをしていたのだと」
恵が目を見開く。菊川もはっとした様子で彼女を見た。
「あなたは愕然としたでしょうね。ずっと信じていたみどりさんに裏切られた、もしかしたらこれまでずっと騙されていたのかもしれない…そんな気持ちが激しくあなたを突き動かしました」
カッとなりやすい恵だ、きっと頭に血が上って死にもの狂いでみどりを捜したことは想像に難くない。その気になればあの路地にたどり付くのにそんなに時間はかからなかっただろう。ああ…なんてことだ。なんて残酷な勘違いだ。
恵は突然両手で耳を塞いで机に伏す。しかし全てを知る男はなおも続けた。
「発見したみどりさんを見て…あなたは死んでいるとは思わなかった。辺りは暗かったですし、彼女は木箱に腰掛けた体勢でした。一見座って寝ているようにしか見えなかったでしょう」
カイカンはポケットから三つ目のピースを取り出す。
「自分の恋人を奪っておいてのん気に寝ている友人…その時あなたの心は悪意に完全に支配されていた。嫉妬よりもはるかに強い『憎悪』という悪意に。
…あなたは落ちていた角材を握り、彼女の頭に振り下ろしました」
「もうやめて!」
恵が叫び、耳から手を離して立ち上がった。
「そうよ、あたしが撲ったのよ。だって…修二と浮気したと思ったんだもの!信じてたから、ずっとみどりのこと信じてたから!」
恵は絶叫する。もはやそれが激情なのか劣情なのか僕にはわからない。いつも余裕に満ちたお嬢様の面影はもうどこにもなかった。
「桑田さん…」
叫びが止むのを待ってカイカンは言う。
「撲った後で冷静になったあなたは気付いた…みどりさんが亡くなっていることに。当然自分が殺したと思った。怖くなったあなたは凶器の指紋を拭き取り、強盗の仕業に見せかけました。彼女の財布からお札を抜き、急いでビルに戻ってお札を破ってトイレに流したんです」
それが便器で発見された切れ端の答えか…きっとお札をずっと持っていることなど恵にはできなかったのだろう。裕福に育った彼女にとって、その状況なら一万円札を破り捨てることなど何の抵抗もなかったに違いない。
菊川が「恵、お前…」と声を震わせる。カイカンはそこで発見された切れ端から彼女の指紋が検出されていることを告げた。
「やめて!」
恵はほとんど悲鳴のようにそう言うと、腰を砕いてガクンと椅子に座った。そしてその瞳から大粒の涙がポロポロと溢れてくる。
「だって…みどりを殺しちゃったと思って…。こ、殺すつもりなんかなかった、ただ…人の彼氏とキスしてなにのん気に寝てんだよって、叩き起こして問い詰めようと思っただけ…。
でも…最初から死んでたなんて、わああ!」
机に突っ伏して大泣きを始める恵。
「みどり、ごめんね、ごめんね。勘違いして、ひどいことして、ごめんね、ごめんね…」
恵の声が破裂する。そして紀子と菊川も声を上げて泣き始めた。
「みどりちゃん、ごめんね、ごめんね」
「許してくれ、あああ!」
口々にみどりへの謝罪と懺悔を吐露する三人…僕はただそれを見ることしかできなかった。とても現実とは思えない光景…みんなで笑い合っていた時間が遠い遠い昔の幻に思える。
カイカンは黙って三つ目のピースもはめ込む。老警官は無言で哀れみの視線を僕らに注いでいた。

 三人の声がすすり泣きに変わったところで、カイカンはまた静かに口を開いた。気付けば夜は明け窓辺には朝日がこぼれている。
「私からの説明は…以上です。誰か一人が悪かったわけじゃない…みなさんの心に生まれた小さな悪意が組み合わさってこんなことになってしまったんです。残念でなりません」
言葉を返す者はいない。
「みなさんは…医師を志した人間です。自分のしたことにどう責任を取ればいいか…おわかりですね?」
穏やかだが厳しさを秘めた声だった。やがて菊川がゆっくりと立ち上がる。恵と紀子も続いた。
「わかってます、刑事さん。本当に…すいませんでした」
涙声で言う菊川。カイカンはそっと老警官を見た。彼は黙って頷き、「じゃあみなさん、行きましょうか」と寂しく告げた。
頷いて部屋を出ていく三人。誰も僕には視線をくれず声もかけなかったが、恵だけがそっと僕にハンカチを手渡した…事情聴取の時に貸した物だ。

…バタン。

ドアが閉まり足音たちが遠ざかっていく。そしてあの幸福な時間も、もう永遠に戻ってこない。