エピローグ

カイカンと二人きりになった会議室、会話は一切なく時間だけが過ぎる。僕は脱力して座っていた。激しい運動をしたわけでもないのに全ての体力を奪われたようだ。時刻はもう午前5時を回り、鳥たちの声も遠くに聞こえている。
机の上には3ピースのパズル…『嫉妬』、『保身』、『憎悪』。僕らを壊しみどりを奪った三つの悪意。
「みなさん…本当に良いご友人だったんだと思いますよ」
立ったままのカイカンがそっと言った。
「私が事情聴取をした時、誰も他の誰かに罪を着せるようなことはおっしゃらなかった。みなさんそれぞれにやましい所があったのに、それでも仲間を庇うような言葉ばかり…とてもあたたかいものを感じました」
聴取の最中にカイカンが何度か優しく微笑んでいたのを思い出す。
「ありがとうございます、刑事さん」
そう頼りなく返す。
「でもこんなことになるなんて…なってしまうなんて…。本当にどうしてこんな…」
「奥森さん、その原因の一つは…お酒、かもしれませんね」
「え?」
カイカンは一歩前に出る。
「人間誰しも悪意が生まれてしまうことはあります。でもそれが心を支配することはない…負けないくらい理性や良心を持っているからです。しかし…アルコールというのは理性を鈍らせ感情を膨らませる薬ですからね。膨らむのが明るい感情だけならよいんですが、時には暗い感情を増大させてしまう。悪意を膨らませてしまう。
シラフのみなさんだったら…たとえ同じ状況であったとしても、悪意に負けてしまうことはなかったと思いますよ。お酒って…怖いですね」
僕は何も言えない。
それにしてもこの刑事…風貌は異様だが頭の回転はとんでもない。現場の状況や証拠の数々を一つのストーリーに繋げただけでなく、あの三人それぞれの悪意を見抜きそのパズルを組み合わせてみせた。並の推理力ではない。
そこでまたしばしの沈黙に包まれる。カイカンはコートのポケットから昆布を取り出して口にくわえた。
「奥森さん…最後に一つだけ伺ってよろしいですか?」
優しい声が言った。僕は何でしょうかと返す。
「あなたはみどりさんのことを…好きだったのではありませんか?」
その質問の真意は掴めなかったが、もう隠し立てする意味はないように思えた。
「さすがですね、刑事さん。お察しのとおりです…まあずっと片思いでしたけど」
苦笑いの僕にカイカンは「そうですか」とどこか残念そうに返した。そしてその瞬間…おそらく気のせいだとは思うが、カイカンの長い前髪に隠された右目が光ったような気がした。

 …ピルルルル。
刑事の携帯電話が鳴った。カイカンは昆布をくわえたままそれに出る。
「やあムーン、お疲れ様。…結果は出たかい?」
相手はあの女刑事らしい。何かの報告を受けながら頷くカイカン。そういえば…僕が事情聴取の部屋を出た後、あの女刑事に何やら調査を頼んでいたな。事件も解明されたというのに今更何を?
短い通話を終え「ありがとう」と電話を切ると、カイカンはくわえていた昆布を一気に飲み込んだ。そしてこちらを見て言う。
「奥森さん…パズルの最後のピースが見つかりました」
…え?
カイカンはポケットから四つ目のピースを取り出す。そしてゆっくりと歩み寄り戸惑う僕の正面に立った。
「どういう意味ですか?」
「実は部下に調べてもらっていたんですよ…みなさんがスナックで使用していたグラスを。正確に言えばそこに残っていたお酒を」
脈が速くなる。
「特にみどりさんの飲み残したお酒について、もしかしたらと思いましてね、急いで警視庁の科学研究質まで届けてもらったんです。そして検査の結果、奇妙なことがわかりました」
カイカンはじっと僕の目を見て言った。
「みどりさんの飲んでいたお酒だけが…他の四人よりも明らかにアルコール濃度が高かったんです」
背筋を冷たい汗が滑り落ち、膝の上に置いた手が震え出す。
「最初から不思議だったんですよ、どうしてみどりさんだけが度の過ぎた酔い方をしてしまったのか。今までも何度も一緒に飲んだ仲間との飲み会だったのに、どうして飲み方を間違えてしまったのか。
彼女だけそうと知らずに強いお酒を飲んでいたのなら、それも納得です。本人もそして周囲の仲間も注意できませんよね」
そこで低い声が厳しさを帯びる。
「みなさんのお酒を作っていたのはあなたでしたね…奥森さん。どうしてあなたはみどりさんにだけ強いお酒を?」
まさか…そんな…。僕は視線を逸らすこともできずただ震えを抑える。
「まあ、想像はつきますよ。男が女を酔わせる理由なんて他にありませんからね。卒業したらみどりさんは福岡に帰ってしまう。こんなふうに一緒に飲むのはもう最後のチャンス…そこであなたは思いを遂げようとしたのではありませんか?お酒の力を借りて」
脳天を貫く閃光が走り、みどりの笑顔がフラッシュバックして闇に消えた。カイカンの言葉がどこか遠くで聞こえるようだ。
確かにあの時僕は…みどりにだけ濃い酒を作っていた。明確な意図があったわけじゃない、彼女を酔わせたからといってどうこうできるとは限らない。でもあの時僕は…密かに期待していた。
「つまり、みどりさんの死にはあなたにも大きく責任があるということです」
ずっと…怯えていた。まさかとは思ったが、僕が酒を盛ったせいでみどりがあんなことになったんじゃないかと。彼女を失った悲しみに暮れながら、頭に殴られた傷があると聞いて僕はほっとしていた。
でも死因は急性アルコール中毒。そうだ、みどりを殺してしまったのは…。
「あなたの悪意もアルコールによって膨らまされたのかもしれませんね…『欲望』という悪意が」
「欲望なんかじゃない!」
僕は叫んで立ち上がる。そしてカイカンの持つパズルのピースを手で乱暴に払い飛ばした。
そうだ、けしてそんなふうにみどりを見ていたわけじゃない。
…愛していたんだ、誰よりも!同じ班になって彼女は僕に微笑んでくれた、話しかけてくれた、ずっと遠い存在だと思っていた彼女が僕のそばにいてくれたんだ!この二年間、僕がどれだけ幸福だったか。
「愛していたんです、みどりを!それを汚い物のように言わないでください。悪意なんかじゃない!」
窓の外から眩い朝日が差し込んでくる。ハットの影でカイカンの表情は見えなくなった。
数秒間の無言の対峙。ただ僕の荒い息遣いだけが室内に聞こえている。
「…そうですか」
やがてカイカンはそう言うと、ゆっくり歩き出した。僕の近くを通り過ぎ、ドアまで行くと振り返らずに言う。
「全ては状況証拠です。それが愛だったとおっしゃるのなら、あなたを裁く法はありません」
歯を食い縛る僕。カイカンはノブに手をかけ、ドアを開いてから言った。
「でも私は思うんです…それは『自己愛』ではないかと。自己愛という名の…最低な悪意ではないかと。ゆっくり考えてみてください」
返事を待たずに出ていくカイカン。

…バタン。

ドアが重たく閉まり足音が遠ざかる…やがてそれは聞こえなくなった。明るい部屋に取り残されたのは僕だけ。
みどり、僕は君を…。
ふとそこで手に握っていたハンカチに気が付く。
「うわあっ!」
心が何かを拒絶して僕はそれを投げ出した。脈も呼吸も乱れている。ただ、おぞましくて仕方がない。自分という存在が!
その場に腰を抜かすと、そっと手のひらが何かに触れた。見ると先ほどカイカンの手から払ったパズルのピース。
「あああああ!」
醜い獣のような絶叫が響く。照りつける日の光から逃れるように、僕は部屋を飛び出した。

-了-