第三章 聴取

 僕はカイカンに導かれ一人隣の部屋に移った。先ほどの会議室の四分の一ほどしかない狭い室内、小さな机が一つと折りたたみ椅子がいくつか置いてある。窓はなく物置のように使われている部屋らしい。片隅には輪投げの輪やその的、ダルマ落とし、カルタやお手玉といった昔懐かしい玩具がほこりをかぶっていた。以前はこの公民館で子供たちが遊ぶ催しでもあったのだろうか。
「では奥森さん、適当に座ってください」
言われるままに近くの椅子に腰掛けた。カイカンも対面の椅子に座る。
「そんなに緊張なさらず、少しお話を伺うだけですから」
そう言われてもこの状況では無理がある。
「寒くないですか?一応部屋を暖めておいたのですが」
足元にポータブルストーブが置いてある。正直室温を感じる余裕もなかった。僕は大丈夫だと伝える。
「わかりました。それにしても…突然のことで本当に驚かれたでしょう。お察しします」
「はい…驚いたっていうか、まだ現実のような気がしません」
「そうですか。でもみなさんさすが医学生だけあって落ち着いていらっしゃる。この状況ならもっと取り乱す人がいてもおかしくないのに。
…ところでみなさんはサークルか何かのお仲間ですか?」
僕は首を横に振った。そしてポリクリと呼ばれる医学部5年で行なわれる病院実習のこと、その際に出席番号で決められた班が僕らの関係の始まりであることを説明した。
「ナルホド、それで今でも仲良くされてるんですね。そうですか、班の仲間ですか…青春だ」
カイカンは少し微笑む。不謹慎な気もするが…この人なりに緊張をほぐそうとしてくれているのかもしれない。
「しかし医学生の卒業旅行といえばもっと派手なものをイメージしてました。それこそ海外とか」
「そういうグループもいますけどね、僕らは観光よりもみんなでゆっくりしたかったんです。それで女の子たちがこの町の温泉旅館を見つけてきて…」
「ナルホド」
それ以上刑事は言葉を続けなかった。変な間が空いたので今度は僕から尋ねてみる。
「刑事さんたちは仕事でいらっしゃったんですか?」
「いえいえ、出先からの帰り道にたまたま立ち寄ったんです。実は私の部下、ほらさっき私といたあの女性刑事…ムーンっていうんですけど、彼女が学生時代にあのスナックでバイトしてたそうなんですよ」
ムーン、というのもまたおかしな名前だ。このカイカンといい何なんだ?昔の刑事ドラマみたいなニックネームだろうか。
「まあバイトといっても夏休みだけの短期間なんですけどね、ムーンがあそこのママさんに随分お世話になったってことで、それならせっかく近くまで来たんだから寄ってみようって私が勧めたんです。挨拶だけのつもりがつい話し込んでしまって…」
「そうでしたか」
自分でした質問ではあったがさほど興味のない話だ。しかしカイカンは続けた。
「そんなわけで私たちはお酒も飲んでいなかったんです、車で警視庁まで戻らねばなりませんので。まあそのおかげでこうして捜査協力できたわけですが…。お医者さんもそうですよね、飲酒して仕事するなんて許されません。アルコールは色々なものを鈍らせますから。注意力、判断力、思考力、自制心…」
と、そこでこちらが無口なのに気付いたのか、カイカンは言葉を止め少し神妙な顔をした。それにしても…長い前髪が不気味だ。
「すいません、つい関係ない話をしてしまって…そろそろ本題に入りますね」
「お願いします」
僕は少し冷たくそう答えた。刑事はバツが悪そうに一度座り直した後、ゆっくりと話し始めた。
「それでは…奥森さん、私は荻野みどりさんの死の真相を解明したいと思っています。ご協力をお願いします」
「はい、もちろんです」
「ではもう一度時間経過を確認していきます。みなさんが今夜あのスナックにいらっしゃったのは午後8時半。それまではどちらに?」
「旅館です。日中は温泉入ったり卓球やったりして、6時から夕食を摂りました。その後でどこか飲みに行こうってことになったんです。それで旅館の人にあのスナックを教えてもらって」
「スナックがお好きなんですか?」
「別にそういうわけでは…。ゆっくり飲める店を尋ねたらあそこを紹介されたんです。多分他に手ごろな居酒屋とかなかったんでしょうね。でもまあ、本当にゆっくりできましたけど」
「私たちがいなければ貸切り状態でしたもんね」
と、またカイカンが少しだけ微笑む。
「店のママにボトルを入れてもらいましてね。お水と凍りももらって自分たちで好きにやらせてもらっていました」
「確かあなたがみんなのお酒を作っていらっしゃった」
「そうです、このメンバーで飲む時はいつも僕がその役なんです」
話しているうちにみんなで飲んでいた光景、みどりの笑顔が思い出されて胸が絞め付けられた。
「そして午後10時、みどりさんは電話のために店を出た。その時の様子で何か気が付いたことはありますか?」
真顔に戻って尋ねるカイカン。僕は特になかったと答える。この刑事はメモも何も取らずに話を聞いているけど…全て記憶できるのだろうか。
「次に10時半、黒川さんが店を出た。彼女は五分ほどで戻ってきたと記憶しています。トイレのついでにみどりさんの様子も見に行った…でも地上に出た所にはいなかったとおっしゃってましたね」
「僕もてっきりその辺で電話をしていると思っていたので、それを聞いた時少し不安になりました」
カイカンは頷いてから続けた。
「黒川さんが戻ってきた後、10時45分、今度は菊川さんが店を出た。タバコのためとおっしゃっていましたが、あのスナックは近縁ではないですよね?」
「僕らに気を遣ってくれたんですよ。他は誰も吸わないので」
刑事はまた「ナルホド」と頷く。まさか菊川を疑って…?
「続いて11時に桑田さんが店を出た。そして入れ代わりに菊川さんが戻ってきた。彼もみどりさんはいなかったとおっしゃってましたね」
「はい。店に戻ったあいつにそれを聞いて、いよいよ心配になってきました」
「それで捜しに行くことになったんですね。11時20分頃に桑田さんが戻ってきて、あなたと菊川さんは席を立った」
そこまで言うとカイカンは黙り込む。右手の人差し指を立て、また前髪をクルクル巻き付け始める。僕も閉口して次の言葉を待ったが、待ちきれなくなりずっと気になっていたことを尋ねた。
「刑事さん、質問していいですか?」
カイカンの指が止まる。
「け、警察は僕らの中の誰かが荻野さんをあんな目に遭わせたと考えているんですか?」
一瞬考えてから低い声が静かに答える。
「正直まだ何とも言えません。先ほどはお伝えしませんでしたが、実は現場から少し離れた所にみどりさんの財布が落ちていました。学生証が入っていたので彼女の物には間違いないんですが…お札が一枚も入っていませんでした」
「ということはつまり…荻野さんは強盗に襲われたと?」
心に僅かな安堵が浮かぶ。
「つまり、僕らの中の誰かが彼女を死なせたわけではないんですね、刑事さん?強盗が財布を奪って、その時に撲ったってことですよね?」
「確かにその可能性もあります。しかし…」
曖昧な返事。カイカンの答えは必ずしも僕の期待どおりではなかった。
「実は遺体を調べた時に気付いたんですが、彼女は一番上に赤いカーディガンを着ておられましたよね。その前合わせのボタンが…一つずつ掛け違いになってたんです」
「…どういうことですか?」
「大きなボタンですし、ずれていたら本人か近くの誰かがすぐ気付いたと思うんですよ」
奥歯に物が挟まったように、刑事は「ですのでもしかしたら…店から出た後で一度外して留め直したのかもしれません」と続けた。僕の中で別の不安が膨らんでくる。
「つ、つまり犯人が彼女の服を脱がせたと?」
「まだ何とも言えません。彼女はカーディガンの下のシャツもズボンもしっかり着ていましたし、明らかな性的暴行の痕跡はありませんでした。それに彼女が暴漢に襲われたのなら、ボタンは外れたままになっているはずです」
きっと僕は般若のような顔になっていたのだろう、カイカンはなだめるように「ですからけしてその可能性が高いわけではありません」と告げた。一応は胸を撫で下ろす。
しかし…仮に未遂だったとしても、もしそんな暴漢がいたら…僕はそいつを許さないだろう。いや、僕にそんな資格はないけど。
「それで奥森さん、先ほどのご質問への答えなのですが、金銭目当ての強盗のような痕跡もあり、衣服に不自然な点もありで…犯人像がまだ絞れないんです。それに…強盗にしても暴漢にしても、そもそもそんな行きずりの通り魔がこの町にいるのでしょうか?
今日は平日です。みなさんのような観光客が訪れるのも稀です。スナックのママもおっしゃってました…客が来るのは週末くらいで、普段夜の町はほとんど人通りがないと」
「確かに…襲う相手もいないのに通り魔がさまよっているとは考えにくいですよね」
僕がそう返すと、刑事は申し訳なさそうに「ですからどうしてもみなさんも容疑者として考えなければならないわけです」と続けた。
何も言葉が出てこない。紀子、菊川、恵…あの中の誰かがみどりを殺した犯人だなんて考えたくもない。
「すいません奥森さん。それであなたに、他の三人とみどりさんとの関係を教えてほしいんです。もちろん犯人は全く他にいる可能性だってあるんです。あまり思い詰めず、ご協力願えませんか?」
カイカンの低い声が狭い室内に響く。
あの三人を裏切るような真似はできない。でも…みどりの死の真相を解き明かすために僕は努力を惜しむべきではない。そうだ、これは形式的な取り調べだ。特に誰かが疑われているわけではない。みんなの無実を証明するためにもちゃんと事実を答えなければ。
大丈夫、僕らの中に犯人がいるはずないさ。症状を隠せば誤診が起こる。そう、ただ事実だけを伝えればいいんだ。
「…わかりました、刑事さん。ご協力します」
そう答えると、カイカンは「ありがとうございます」と頭を下げた。

 また座り直してから刑事は言う。
「それではお尋ねしますが…メンバーの中でみどりさんと特に確執があった人はいますか?」
僕は自信を持って答える。
「いませんね。さっきも言いましたが僕らは本当に仲良しで、だからこうやって一緒に旅行にも来てるんです。荻野さんを憎む人なんて…」
「男女関係などはいかがです?」
カイカンはやや強い口調で問う。これも…嘘をつくべきではないだろう。
「た、確かに荻野さんは1年生の頃に菊川と交際していた時期があります」
刑事の左目が一瞬ピクリと動いた。
「彼女は可愛くて性格も明るいから…人気がありました。菊川の他にも大学内でつき合った奴はいます」
言いながら僕はあの頃の気持ちを思い出していた。みどりの色恋の噂を聞く度に胸が掻き毟られ、どこにもぶつけられない衝動をいつも抑え込んでいたあの気持ちを。
「でも、菊川とはすぐ別れて…今菊川は桑田さんとつき合ってます。もう…三年近くなりますね」
「桑田恵さん…ですか」
「でもそのことはみんな知ってます。その上でみんな仲良しなんです。刑事さん、これは本当です。菊川は真剣に桑田さんとつき合ってるし、荻野さんもそれを祝福していました」
つい声が大きくなる。カイカンが「では菊川さんとみどりさんが昔のことでもめたり、桑田さんが怒ったりということは…」と言いかけたので、僕は絶対にないですと打ち消した。
そう、有り得ない。確かに恵はヤキモチ焼きでカッとなるところはあるが、今更過去の交際のことでみどりを恨むはずがない。
「それでは黒川さんとみどりさんの関係はいかがです?」
カイカンは矛先を変える。
「…よい友達だと思います。まあ黒川さんは講義をいつも一人最前列で受けるような勉強一筋のタイプで、荻野さんは遊びも含めてみんなとワイワイするタイプだから…普段から一緒にいるわけではないですが。でもこのメンバーで集まる時はとても仲良しです」
そう、二人は「みどりちゃん」「紀ちゃん」と呼び合う仲だ。スナックでも楽しそうに話していた。紀子がみどりを憎む理由はない。
「そうですか…」
また立てた指を前髪に巻き付けるカイカン。そして僕の目を見て言う。
「ちなみに奥森さん…あなたはみどりさんのことをどう思っていたんですか?」
…一瞬迷った。僕にとってみどりの存在は言葉では形容できないほど大きく大切なものだ。ただそれをここでこの刑事に告白するのはためらわれる。みどりの死の真相を解明するために事実を言わなくてはいけないのはわかるが、さすがに心の奥の秘密まで打ち明けるわけにはいかない。
「僕にとっても…よい友達です」
とりあえずそう答えた。そしてふと気になったことを尋ねる。
「刑事さん、僕も…容疑者なんですか?」
カイカンは人差し指を下ろし、大袈裟に首を振った。
「いえいえ、あなたはみどりさんが店を出てから一度も席を立っていません。彼女をどうこうできるはずがありませんから」
それを聞いて、みんなには悪いが正直ほっとした。
その後もみどりやみんなの人となり、大学のことなどについていくつか質問されたが、広く浅くといった感じで特にカイカンが気に留めた様子はなかった。
「では、奥森さんからお話を伺うのはこんなところですかね…」
そう言ったタイミングで、後ろのドアがノックされた。

「警部、よろしいですか?」
「どうぞ」
入ってきたのは先ほどの女刑事…確かムーンとかいう。明るい所で見るとかなりの美人だ。切れ長の瞳に少し茶色がかった髪をセンターで分け肩まで伸ばしている。名前だけでなく、本当に女優が演じるドラマの中の刑事のようだ。この人もきっと、学生時代は男に人気だったに違いない。
「ムーン、何かわかったかい?」
「ええ、いくつか」
そこで彼女はちらりと僕を気にした。カイカンはそれに気付いたようで「大丈夫、彼は捜査協力者だよ」と微笑んで言った。
「それではご報告します。まず見つからなかった荻野みどりさんのスマートフォンですが、道脇の側溝に落ちていました。そして確かに午後10時に実家と通話している履歴がありました」
「側溝っていうのは、みどりさんが発見されたあの路地の?」
「いえ、スナックのビルの入り口付近の側溝です。マナーモードになっていたのでコールしてもなかなか気が付きませんでした」
「入口付近…おそらくみどりさんが地上に出て電話をかけていた辺りだね。電話の後で落としたのかな…」
みどりのスマートフォン、そんな所にあったのか。僕が何度コールしてもわからなかったわけだ。女刑事は僕からの不在着信もちゃんと残っていたと説明した。
「あと報告ですが、間もなく所轄警察署から鑑識さんも到着しますので現場の指紋などのより詳しい調査ができると思います。それと、みどりさんのご遺体ですが…もうじき法医学教室に到着予定です」
その言葉はやはり僕にとってつらいものだった。みどりの解剖…事件解決のためとはいえ想像するだけで気が狂いそうになる。
「警部はこれからどうされますか?」
「そうだね、私は他の三人にも一人ずつ事情聴取してみるよ。君は現場に戻って到着した鑑識さんと改めて現場検証してちょうだい」
女刑事は「わかりました」と手慣れた調子で何やら手帳にメモした。僕らにとっては絶望の非日常でもこの人たちにはこれが日常。まあそれは…医者も同じか。
「あと念のためみなさんの指紋も採っておきたいから、鑑識さんが到着したらここに一人来させてね。…以上」
女刑事はメモを走らせるとパタンと手帳を閉じ、「了解です、では」と颯爽と部屋を出ていった。
狭い室内に残される二人。カイカンが僕を見て言う。
「ということですので、後でみなさんの指紋を採取させてもらいます」
小さく頷く僕。するとカイカンは椅子から立ち上がった。
「それでは次の方をここに呼んできてもらいましょう。そうですね…黒川さんにしましょうか。お手数ですが彼女と交代お願いします」
わかりましたとだけ答えて僕も腰を上げる。諮問採取に事情聴取…そんなことはないと考えようとしても、どうしても仲間への悲しい疑惑が頭に過る。
…と、そこで僕は一つ思い当たった。
「あの、刑事さん」
「はい、何か?」
「黒川さんなんですけど…実は彼女、この卒業旅行には参加してるんですけど卒業はできてないんです。卒業試験に失敗しちゃって…。本人は僕らに気を遣って明るく振舞ってますけど、きっと落ち込んでると思うんです」
「ナルホド」
「ですからその辺りのことは慎重に…」
こちらの意図を察したのか、カイカンはそこで「わかりました」と優しく微笑んだ。お願いします、と会釈して僕はそのまま部屋を出る。

 会議室に戻ると、三人は先ほどの位置のまま無言で座っていた。僕に気付いた菊川が力なく言う。
「ケン、どうだった?」
「うん、まあ…時間経過とかもう一度確認された感じかな」
「警察は俺たちを疑ってんのか?」
菊川の問いに紀子と恵も少し顔を上げてこちらを向く。僕はできるだけ平然と答えた。
「何ていうか、可能性の一つって感じみたいだ。通り魔に襲われた可能性もあるから別に俺たちだけが疑われてるわけじゃないよ」
菊川は「そうか」と再び視線を机に落とす。他の二人も同様だ。
「みんな、大丈夫だって!この仲の誰かが荻野さんをどうこうするなんて有り得ないじゃないか。俺たち仲間だろ?警察は仕事だから一応調べてるだけだって」
同調してほしかったが…誰も何も言わない。
「それで…次は黒川さんに隣の部屋に来てほしいって、刑事さんが」
紀子は不安に満ちた目を向けた。僕は無理に笑顔を作る。
「大丈夫だって、ただの状況確認だよ」
「でも私たち、疑われてるんでしょ?」
僕が返事に困っていると、震える声はさらに続けた。
「じゃあ奥森くんも一緒にいてよ」
「え?」
「きっと警察も奥森くんのことは疑ってないと思うの。だってみどりちゃんがいなくなってから一度も奥森くんは店を出てない。だから、同席しても許可してくれるんじゃないかな」
さすがは特待生…紀子の聡明さには驚かされる。ショックを受けながらも、冷静に現状を分析していたのだ。しかしその論理的思考も不安に押し潰されかけているのは表情から明らかだ。もしかしたら卒業試験の失敗も…そんな精神面の弱さが原因だったのかもしれない。
「わかった、一緒に行こう」
僕は力強く頷いたが、彼女の顔に安どが浮かぶことはなかった。

 紀子と一緒に戻るとカイカンは少し驚いていたが、仲間が不安を感じているからと僕が説明するとあっさり同席は許可された。紀子がカイカンの正面に座り、その斜め後ろに僕が腰を下ろす。
「黒川紀子さん…そう緊張なさらず」
「は、はい」
彼女の声は裏返っている。カイカンは先ほど僕にしたように時間経過を確認していった。
「10時半にあなたはトイレに行くために店を出た、そうですね?」
「はい、そ、そうです」
「そしてそのついでにみどりさんのことも確認に行った…その時のことを詳しく教えてください」
前髪に隠れていない左目が紀子を見つめる。僕は縮こまる彼女の背中に、落ち着いてと小さく声をかけた。やがてゆっくりと口が開かれる。
「あの、私、トイレの後で階段を上がって地上に出ました。きっと彼女はそこで電話をかけてると思ったので。で、でも…いませんでした」
「本当にいませんでしたか?」
カイカンの語調がやや強まる。
「はい、いませんでした」
「外は夜で暗かったと思いますが…」
「私の見える範囲にはいませんでした」
そこで刑事はなおも執拗に「本当ですか?」とくり返した。
「本当です、私ちゃんと見ました!みどりちゃんが倒れていたら絶対わかります!」
声を荒げる紀子。カイカンは申し訳なさそうな顔をした。
「すいません、怒らせてしまって。ちなみにみどりさんは少し離れた路地で発見されましたが、あなたはそちらには行かれてないですか?」
「はい…そこまで捜し回ってはいません。外に出た所にいなかったので、私はすぐに店に戻りました」
紀子はまた声を落として答えた。
その後カイカンは彼女が店に戻ってからの経過も確認したが、それは先ほど僕が述べたのと同じ内容であったため、特に新たな言及はなかった。続いて発見されたみどりの財布やカーディガンのボタンの掛け違えについてもカイカンは説明したが、紀子からそれらについて新しい情報が出ることもなかった。
「ただ…彼女が店にいる時、カーディガンのボタンは変じゃなかったと思います。じっくり見たわけじゃないですけど」
「そうですか…」
カイカンは少しだけ黙り、そこで話題を転じた。
「ところで、みどりさんのことはどう思っていましたか?」
ストレートな質問だ。紀子は少し間を置いてから答えた。
「…大切な友達です」
「入学当時からですか?」
「いえ…5年生で同じ班になるまでほとんど話もしませんでした。私は自分から友達を作れる性格じゃないですし、休み時間も一人で勉強してる地味な学生ですから。反対に彼女はいつも明るくて…みんなに囲まれてました」
僕には紀子の声が懐かしい記憶をたどっているように聞こえた。
「まるで陰と陽ですね。そんな私なのに、同じ班になった時、彼女は紀ちゃん紀ちゃんって気軽に話しかけてくれて。最初は戸惑ったけどいつしか私もみどりちゃんって呼んでました…」
そこで紀子は右手で両目を覆った。
「まさか…こんなことになるなんて」
涙声だ。僕は進言する。
「あの刑事さん、そろそろ終わりに」
「わかりました。あともう少しだけ…よろしいですか?」
カイカンはそこで右手の人差し指を立てた。
「あなたは卒業試験に失敗なさったそうですが、そのこととみどりさんには何か関係がありますか?」
…この野郎!
心の中で拳を握る。僕はその話題を出したカイカンを睨む。しかし紀子は気丈に答えた。
「一切関係ありません。当然ながら、全て自分の責任です」
刑事はそれ以上の追及はせず、代わりに別の質問をした。
「では、菊川さんか桑田さんがみどりさんともめていた…ということはありますか?」
「…ないです」
紀子は言い切る。
「刑事さん、私たちはみんなみどりちゃんが好きでした。この仲間が好きでした。私はみんなのおかげで学生時代を楽しいなって思えたんです。みんなとっても優しい人たちです。
私たちの中の誰かが故意に彼女を…なんて絶対ありません」
僕も無言で頷く。カイカンは順に僕らの顔を見た後、そっと微笑んで言った。
「わかりました…以上です。黒川さん、お疲れ様でした」
紀子と僕は一礼して部屋を出ようとする…と、そこでカイカンは僕を呼び止めた。
「あ、奥森さんはよかったらこのままここにいてもらえませんか?」
「え?」
「一対一よりもあなたがいた方がみなさんリラックスしてお話ができるような気がして…いかがでしょうか?」
僕は少し考えてから、構いませんよと返す。
「ありがとうございます。ではすいませんが黒川さん、次に菊川さんを呼んでもらえますか?」
「わかりました…奥森くん、ありがとね」
そう言うと彼女は部屋を出ていく。すると入れ代わりにまたあのムーン刑事が現れた。

「失礼します。警部、鑑識さんを一人連れてきましたが」
「あ、そう。じゃあ隣の会議室にいる三人の指紋をお願い」
「わかりました」
「現場検証の方はどう?」
カイカンはそう尋ねながらコートのポケットから取り出した物を口にくわえる。タバコかと思ったが…違う。何だ?黒い小さな棒…まさかおしゃぶり昆布?
僕にとっては驚くべき行動だったが、女刑事は特に気に留める様子もなく話を続けている。…これも日常的なことなのだろうか。
「今のところ現場から新しい発見はありません。あ、凶器の角材ですがあの路地に落ちていた物のようですね。みどりさんが座っていた木箱もそうですが、あの路地にはそういったガラクタがたくさん散乱してました」
カイカンは「ナルホド」と呟いて口先で昆布を動かした。さらに昆布をタバコのように指に挟むと、女刑事に意外な指示を告げる。
「念のためあのビルのトイレも調べておいてよ」
「トイレですか?」
「そう、スナックを出た廊下にあったトイレ。ゴミ箱とか便器とかを調べておいてね」
女刑事はまた素早くメモを走らせる。それにしても…どうしてトイレを?それを尋ねようかと思ったところでドアがノックされた。菊川が来たのだ。
「あの、入ってよろしいですか?」
「どうぞどうぞ。じゃあムーン、もろもろよろしく」
菊川が入室し女刑事は出ていく。カイカンは昆布をコートのポケットにしまうと、微笑んで椅子を勧めた。出たり入ったりと何やら慌ただしさも感じながら、僕も深呼吸して菊川の聴取に臨んだ。

「あなたは10時45分頃、タバコを吸うために店を出た…間違いありませんね?」
「はい、そうです。席を立つ前、みんなに写真を見せるためにスマートフォンを渡したんですが…その時に画面の表示を見たから憶えています。確かにその時刻でした」
カイカンの質問に菊川は淡々と答えていく。斜め後ろから見る彼の面持ちは、いつもとは別人のように真剣だ。
「店を出てからのことを詳しく教えてください」
「は、はい…。店を出て、廊下を歩いて、階段を上がって…外に出ました。でもやっぱりそこに荻野さんはいませんでした」
緊張しているのだろう、必要以上に細かい説明だ。
「やっぱり、とは?」
「あ、はい。俺の少し前に外に出た黒川さんもいなかったと言っていたので」
「ナルホド、それであなたはどうしましたか?」
「ちょっと心配になってその辺を捜してみました。酔い醒ましの散歩でもしてるのかなって…。でも彼女はいませんでした」
「みどりさんが発見されたあの路地には行かなかったのですか?」
「え、ええ…そこまでは捜しませんでした。ごめんなさい、俺がもっと早く見つけていれば…」
菊川は頭を下げる。カイカンはそれには反応せず質問を続けた。
「それで…タバコは吸われたのですか?」
菊川は黙った。いつもみんなの精神的支柱になっている班のムードメーカーは、今は見る影もなく弱弱しい。肩幅の広い大きな背中が余計に内面の小心を際立たせているように見えた。
「そういえば吸ってませんね…結局」
僕も記憶をたどってみる…確かに、店に戻ってきた菊川からはタバコの臭いがしなかった。どういうことだろう。タバコを吸いに出たのに吸わずに戻ってきた…不自然さは感じる。でもまさか…そんなはずはない!
僕は膨らみかけた疑念を必死に打ち消す。しかし刑事は容赦なく「どうして吸わなかったのでしょうか?」と問う。
「荻野さんを捜すのに夢中になって…」
そうだ、そうだよ。みどりを心配していたのにタバコを吸っている方が不自然だ。何もおかしくない。カイカンも「了解しました」と頷き、次の質問に移った。
「11時、桑田さんはあなたが戻る前に店を出ました。彼女とは廊下ですれ違ったんですよね?」
「え、ええ。俺が会談を下りたところで会いました。みどりはいたかと訊かれたので、いなかったと答えました」
「他に何か話しましたか?」
「いいえ、それだけです。その後俺はすぐスナックに戻りました」
「…そうですか」
そこで沈黙が流れる。何やら考えていた様子のカイカンだったが、やがて口を開き先ほど同様にみどりの財布とボタンについて説明した。そして何か心当たりはないかと尋ねた。
「いえ、俺は何も知りません」
菊川ははっきりと否定した。僕の中でまた疑念が少し膨らみ始める。
確かに菊川はみどりのかつての恋人だ。もう過去のこととはいえ、何らかの確執はあったのかもしれない。それにみどりのカーディガンのボタンが一度外されたとすると…そんなことをするのは元恋人の菊川以外に考えられない。昔の関係を思い出し、二人はこっそり戯れていた、その果てにもめ事が起こり菊川がみどりを…?そんな映像が浮かんでしまう。
「菊川さん、あなたは以前にみどりさんと交際していたとのことですが…現在の関係はいかがだったのですか?」
「何もありません」
刑事の邪推を察したのか、菊川はきっぱりと答えた。
「確かに1年の時に俺から告白してつき合いました。でもうまくいかなくて、二人で相談して別れましたよ。それからはずっとよい友達です」
「今は桑田さんと交際されてるんですよね?」
「そうです。…いけませんか?」
そこでカイカンは「いえいえ」と困った顔をした。確かに僕らの中に事件の動機があるとすればこの三角関係が一番わかりやすい。警察が注目するのも仕方ないのかもしれない。でも…。
僕は考え直してみる。菊川とみどりは本当によい友達だった。自分の記憶をたどっても、二人の後腐れを感じる場面は一つもない。そうだ、やっぱり菊川がみどりを殺すなんて有り得ない。恵を裏切ってみどりとの関係を続けていたなんて考えられない。
僕は友人を疑った自分を恥じる。そして心の中でその大きな背中に詫びた。
「ちなみに桑田さんとみどりさんの関係はいかがでしたか?」
下世話な質問を続ける刑事に菊川は強い口調で言った。
「よい友達です。確かに恵はヤキモチ焼きなところはありましたけど、誓って俺は浮気なんかしてないですから」
僕もその言葉を信じる。刑事は少しだけ微笑むと、「桑田さんはどんな方ですか?」と尋ねた。
「そうですね…恵はお嬢様育ちで世間知らずだったり自分勝手な面はあります。すぐカッとなるから喧嘩になることもよくあります。でも…」
そこで菊川は身を乗り出した。
「あいつは人の痛みがわからない人間じゃありません。刑事さん、信じてください。恵もこの仲間が大好きでした」
…同感だ。彼女の優しさは僕もよく知っている。いつだったか、実習で僕が患者さんともめた時に間に入って取り持ってくれた。
「…よくわかりました。ちなみに黒川さんのことはどう思われますか?この度卒業試験に失敗したと聞きましたが」
菊川はそこで乗り出した身を戻した。
「彼女は…とても優秀な人です。1年生からずっと特待生でしたし、班のみんなで一緒に勉強する時もいつも色々教えてくれました。今回の卒業試験の失敗は本当に信じられません。
進路のこともちゃんと考えていて…班の中で一番しっかりしてましたね。もちろん、荻野さんとも仲良しでした」
「黒川さんはどんな進路を?」
「法医学者になりたいと言ってましたね。それも自分で決めたことだと思います。親に言われたとか周囲に流されたとかじゃなくて…本当にすごいです」
そこでまた微笑むカイカン。
「ちなみにあなたはどんな進路を?」
事件と関係ない話題だったが…まあこの刑事なりの雰囲気作りだろう。菊川はいずれは実家の病院を継がなくてはいけないこと、その前に母校の病院の救命救急センターで研修をして腕を磨くつもりでいることを説明した。
「まあ俺は親の敷いたレールの上を進んでいるだけですよ。だから、やっぱり黒川さんはすごいと思います」
菊川だけではない。特にうちは私立の医大だから、多くの医学生が幼い頃から定められたレールの上を歩いている。そして、そこから足を踏み外すことを何よりも恐れている。
「…色々失礼な質問をしてすいませんでした、以上です」
カイカンが聴取の終わりを告げた。菊川は「どうも」とだけ答えて腰を上げる。
「次は桑田さんですので彼女にお伝えください。あと、先ほどの部屋でみなさんの指紋採取をしていますのでご協力お願いしますね」
「わかりました…」
菊川は僕とは目を合わせずそのまま部屋を出ていった。まあ同席した意味もたいしてなかった感じだし、今は余裕がないのだろう。
改めて自分の心に問いかけたが、やはりこの仲間の中に殺人犯がいるなんて僕にはどうしても思えなかった。

「警部、失礼します」
入れ代わりにまたムーン刑事が入ってくる。
「やあムーン、何かわかったかい?」
「はい、いくつか。まず先ほどご指示のあったトイレの件ですが、男女共用で、その和式便器の底にお札の切れ端が貼りついていました。おそらく一万円札です」
…お札?それってまさか。カイカンも興味を示した顔をする。
「もしかしてみどりさんの財布からなくなったお札かな?」
「そうかもしれません。しかしそれが何故あのビルのトイレから発見されたのでしょうか」
「指紋は?」
「小さな切れ端ですし、濡れていましたので…現在鑑識さんが慎重に調べています」
僕は混乱を感じた。もしみどりの財布から奪われたお札だとしたら…それはどういうことだ?
「了解。他に何かある?」
「みどりさんの遺体が法医学教室に到着して司法解剖が始まりました。衣服も調べてもらいましたが、カーディガンのボタンに本人以外の指紋が付着しているようです。現在照合中です」
やはり誰かがみどりのカーディガンを脱がせたのか?
「報告は以上です。警部、追加の指示はありますか?」
テキパキとしたやりとりだった。指示がないのを確認すると女刑事は退室した。カイカンがこちらを向いて言う。
「…ご心配でしょう、お察しします」
僕は黙って頷く。
「事情聴取はあと一人。奥森さん、同席よろしくお願いします」

 恵への聴取が始まった。僕は相変わらず黙ってそれを見守る。カイカンはまた時間経過を確認したが、菊川がタバコを吸いに店を出るまでの流れで特に恵の記憶に食い違う部分はなかった。
「それで桑田さん、あなたが店を出たのが午後11時頃でしたね」
「はい」
彼女は視線を自分の膝に落としたまま小声で答える。カイカンが「確かトイレに行かれたんですよね」と確認すると彼女は頷く。
トイレは本当かもしれないが、一番の目的は帰ってこない菊川とみどりのことが気になったからじゃないかな…と僕は思う。店を出た恵を見て、確かそんな話を紀子とした記憶がある。
「店を出て、廊下で菊川さんとすれ違ったんですよね?」
「はい、ちょうど彼が外から戻ってきたところでした。みどりがいたかを訊いたら、いなかったって言ってました。彼はそのままスナックに戻って、あたしはトイレに行きました」
「あなたは…みどりさんを捜しには行っていない?」
「…はい、行ってません」
俯いたまま答える恵。
「本当ですか?」
カイカンの語調が強まった。それに反応するように恵も顔を上げ声を荒げる。
「行ってません!さっきもそう答えたじゃないですか。修二がいなかったって言ったのにあたしがまた一人で捜しに行くわけないじゃないですか」
「桑田さん、落ち着いて」
僕はそう声をかける。恵は少しだけこちらを振り向いて頷いた。その向こうでカイカンはあたふたしている。
「ごめんなさい、あなたが見せに戻ったのは11時20分頃だったので、トイレにしては長いかなと思ったもので」
「そんなの…ほっといてください!失礼でしょ!」
彼女の声が室内に響く。刑事は謝ったつもりで火に油を注いでいる。僕はもう一度落ち着いてと伝えた。カッとなる性格は承知しているが、あまりそれを見せると警察にあらぬ疑いをかけられてしまう。
その後彼女がクールダウンするのを待って、カイカンは前の二人と同様にみどりの財布とボタンの謎について説明した。そしてこれまた前の二人と同様に、彼女は何も知らないと答えるのみだった。便器から発見されたお札の切れ端のことも尋ねるかと思ったが、カイカンはそれには触れなかった。
本当に…その切れ端は何なんだろう?もしかしたらみどりの事件とは全然関係ないのかもしれない。
「ところで桑田さん、どうか怒らずに答えてほしいんですが…」
今度は前置きしてから低い声が尋ねた。
「みどりさんと菊川さんはかつて恋人関係だったんですよね?そのことについてはどう思われてましたか?」
警察としては避けては通れない質問だろう。また逆鱗に触れるかと一瞬ヒヤッとしたが、彼女の声は思いのほか穏やかだった。
「…その質問はされると思ってました、刑事さん」
深呼吸してから恵は続けた。
「気にならなかったと言うと嘘になります。自分でもヤキモチ焼きだと思いますし。でも…みどりもそのことはわかってくれてて、随分気を遣ってくれてたと思います。だから…この仲間でいるのはあたしも苦痛じゃなかった、というか好きでした」
「みどりさんともご友人だったんですね?」
彼女は少しだけ微笑んで頷く。そう、癇癪持ちではあるけれど恵はとても優しい心を持っている。
「正直言うと…昔はみどりのこと嫌いでした。あの子、男子にも気軽に話しかけるし、何ていうか…誰にでも気があるみたいな接し方するから勘違いしちゃう男子も多くて。ほら、そういう子っているじゃないですか。八方美人っていうか、ブリッ子っていうか、女子からすれば迷惑な子。実際修二以外にもいろんな人から告白されてました」
僕も勘違いした一人かな、とそこで密かに思う。
「あたし、女としてみどりにコンプレックスがあったんでしょうね。でも5年生で同じ班になって、あの子と触れ合って…わかったんです。あの子はあたしが思ってた八方美人じゃない、みどりはそんな計算何もしてない…あたしなんかよりずっと綺麗な心を持ってるんだって」
懐かしそうに恵はそこでクスッと笑う。
「なのに勘違いされて女子には嫌われてたりして…そんな孤独を抱えてる子でした。でもいつも明るく振舞って…そんなみどりのことがわかったから、あたしは彼女を信じようって決めました」
恵のこんな話を聞いたのは初めてだ。その口ぶりからそれがでまかせではない本心だということは十分伝わる。
そうだな、人気者だからこその孤独…確かに学内でのみどりはそんな影もまとっていた。だからこそ、みどりにとってもこの仲間が居心地良かったのかもしれないな。
「それなのに…こんなことに…」
恵はそう言うと再び顔を伏せる。膝の上に涙が数滴落ちた。それを見て僕も目頭が熱くなる。みどりは…もう戻ってこないんだ。明日になっても明後日になっても、二度とあの笑顔には会えないんだ。
カイカンは声を殺して泣く恵に優しく言った。
「…正直に話してくださってありがとうございます」
「いえ、ごめんなさい」
彼女は顔を上げ手で涙を拭った。少し待ってから今度は菊川に対する見解をカイカンは尋ねる。
「修二は…お調子者だけど根は真面目な人です。自分が大切にしてもらってるのもわかるし…あたしは幸せだと思います」
僕も心の中で頷く。菊川が恵を傷つけるようなことは絶対しない…あいつはそういう男だ。いつか二人で飲んだ時も、一人前になったら自分からプロポーズするつもりだとこっそり教えてくれた。
続いてカイカンは紀子に対する見解も尋ねる。恵は「尊敬してます。自分が患者だったら絶対彼女に診てもらいたいです」と答え、最後に大切な友人だと付け加えた。
「紀子だけじゃない…みどりも、奥森くんも、そしてもちろん修二も…あたしにとってはかけがえのない存在です。あたしは…確かに裕福に育ちましたが、その分窮屈に生きてきました。どう言えばいいのか、何不自由しない暮らしでも精神的には不自由と言いますか…。
贅沢な悩みなのは百も承知です。でも幼い頃から、勉強も学校も部活も友達も…自分で選ぶことはあたしには許されていませんでした。すずらん医大に入ったのも、昔からの言いつけを守っただけであたしの意志ではありません」
彼女の独白は、多くの医学生たちが抱えるジレンマを代弁しているように聞こえた。
「でも5年生になって、この仲間に出会えて…初めて医学部に来てよかったと思えたんです。一緒に勉強して、実習して、あたしも医者になりたいって思えたんです。後付かもしれないけど、自分の人生に誇りを持てたんです…みんなのおかげで。
だから刑事さん、この仲間の中の誰かが犯人なんてことは絶対にありません。あたしたちの中で裏切りや憎しみなんて…絶対にないです」
恵は言い切った。感動…そう、僕は密かに感動していた。
刑事は「そうですか」と微笑む。そして少し座り直してから、雰囲気を変えるように穏やかに尋ねた。
「ちなみにあなたは卒業後どうされるんですか?」
「はい、眼科医志望なんで…卒業したら都内の病院で研修医です」
「…わかりました。ありがとうございます、お話は以上にしましょう」
こうして、僕らの事情聴取は終了した。

 話を終えた後、涙が止まらなくなった恵に僕は自分のハンカチを渡す。「ありがとね、奥森くん」とそれを受け取りながら彼女は腰を上げ、そのまま部屋を出ていった。僕も一緒に出ようかと思ったが、やはり気になってその場に残った。見るとカイカンは椅子に座ったまま黙り込み、また前髪を人差し指にクルクル巻き付けている。
「あの…刑事さん?」
思い切って尋ねてみた。
「あの、三人の仲に犯人がいるなんてこと…ないですよね?」
カイカンの指が止まる。そして虚空に視線を向けて答えた。
「非常に不可解な事件です。みなさんがどれだけお互いを思いやっているのか、今の事情聴取でよくわかりました。誰一人、みどりさんを殺害する動機のある人なんていない。動機もなく事件が起こるはずはありません」
「ですよね。だったら…」
「状況証拠もちぐはぐです。留め直されたボタン、お札を抜かれて投げ捨てられた財布、トイレの便器から発見されたお札の切れ端…。そもそもみどりさんはどうしてあんな路地に移動したのか、誰が何のために角材で彼女を殴ったのか…全てがバラバラです」
カイカンは言葉を止めた。僕も何も言えない。沈黙の室内にはポータブルストーブの無機質なうなり声だけが聞こえている。
みどり…君は一体…。
「わからない、わからないぞ」
呟くカイカン。再び人差し指もクルクル動き始めた。その状況が五分ほど続いたか、ふいに彼の指が止まる。見るとその視線は室内の一点に注がれていた。
…何だ?カイカンが見ているのは古い机に置かれている…ジグソーパズルだった。ダルマ落としや輪投げに混じってほこりをかぶっている。
「刑事さん、どうかしましたか?」
「…パズル」
呟くカイカン。
「ええ、そうですね。色々なおもちゃが置いてありますから、以前は子供たちが使っていたんでしょう。それがどうかしましたか?」
カイカンは何も返さない。見るとその全身は凍りついたように固まって微動だにしていない。…な、なんだ?
「警部、失礼します」
ノックがしてまたムーン刑事が入ってきた。しかし彼女の上司は依然として固まっている。
「急に動かなくなっちゃったんですよ」
僕は医学生とは思えない間抜けな言葉で状態を伝えた。
「ああ、警部は今考え中なんですよ。すいません、驚かせてしまって」
女刑事は平然と答える。これもこの人たちにとっては日常だということか。やがてカイカンは小さく「もしかすると…」と呟き、立てていた指をパチンと鳴らした。それが合図のように全身が動き出し、何事もなかったかのように低い声は会話を続ける。
「ところで奥森さんは卒業後どうされるんですか?」
急にそんな質問がくる。戸惑いながら僕は答えた。
「一応、精神科医志望です。母校の大学病院で研修する予定です」
「精神科ですか…ではお尋ねしたいのですが、普段は思いやりに満ちた優しい心が突然生まれた悪意に支配されてしまう…なんてことはありますか?」
「それはどういう…」
そう言いかけた時、カイカンは僕の隣に視線を送って「あれムーン、いつの間に」と言葉を遮った。
「先ほどからいましたよ、警部。いくつか報告してよろしいですか?」
彼女の表情が厳しくなる。
「どうぞ」
「それではお伝えします。まず便器から発見されたお札の切れ端ですがやはり一万円札の切れ端でした。そして二人の指紋が出ました。一つは亡くなられた荻野みどりさんのもの、そしてもう一つは…」
女刑事は一瞬僕を気にしたが、そのまま続けた。
「桑田恵さんのものでした」
なんだって?どうして恵の…。強心剤を注射されたように鼓動が一気に激しくなる。
「もう一つ報告です。法医学教室からの連絡ですが、みどりさんのカーディガンのボタンに付着していた指紋は…菊川修二さんのものでした。先ほどここで採取した彼の指紋データを送ったら、一致したんです」
さらに鼓動が激しくなる。どうして菊川の…?
僕にとっては混乱を強める情報でしかなかったが、それを聞いたカイカンはゆっくりと頷いている。そしてその口元は「やっぱり」と動いたように見えた。
…どういうことなんだ?どこに納得しているんだ?
「法医学教室によれば解剖ももうじき終わるそうですから、死因も確定されるかと…」
そこでカイカンは口元に人差し指を当て、部下に閉口を指示した。そして僕の方を向き、静かに言った。
「奥森さん、ご協力頂きありがとうございました。みなさんのいる部屋に戻って結構です。そこに鑑識さんもいますので、念のためあなたも指紋採取をよろしくお願いします」
ここから先は捜査機密、というわけか。刑事たちの様子から僕がここにいてはまずいのがわかった。頭を下げても多分教えてはくれないだろう。
僕はわかりましたとだけ答えて腰を上げる。頭の中は疑問だらけで心臓が強いポンプで全身に緊張を行き渡らせているが、ここは引き下がるしかない。ムーン刑事にも会釈してドアに向かう。そして廊下に出た後、ドアが閉まる直前に室内からカイカンの声が少しだけ聞こえた。
「ムーン、おおよその真相がわかった。最後にもう一つだけ調べてほしいことがある。もしかしたらなんだけどね、それは…」
そこでドアが閉まったのでそれ以上はわからなかった。でも…カイカンは確かに言った、「真相がわかった」と。

 会議室に戻ると、そこには三人の他に鑑識官と思われる男性がいた。僕の指紋を取ると彼は部屋を出ていく。菊川も、恵も、紀子も…みんな口を閉ざし座っている。僕も黙って元の席に腰を下ろした。
「ハア…」
思わず溜め息が出る。壁の時計はもう午前4時…カイカンに頼んで一度旅館に戻らせてもらおうか。いや、戻ったってどうせ眠れやしないか。
僕は横目で三人を見る。
…お札には恵の指紋、ボタンには菊川の指紋。どういうことだよ、なあ、誰か何かを隠してるのか?
心の中で何度も問いかける。でも…言葉は何も出てこない。
みんな…今何を考えているんだろう?
わからない、そんなのわかるわけがない。でもあの刑事は何かがわかったようなことを言っていた。
急にどっと疲れてきた。心拍数も落ち着いていく。僕は机に両肘をつき、組んだ両手に額を預ける。そしてそ
のままそっと目を閉じた。