第二章 疑惑

 間もなく女刑事の連絡で先ほどの男刑事と菊川が駆け付けた。みどりに近付こうとする菊川を女刑事が制し、僕ら二人は路地の外まで出るように言われた。
闇の中、刑事たちはみどりとその周辺を何やらコソコソ話しながら調べている。その間、僕も菊川も何も言えずただそこに立ち尽くすしかなかった。
「ご苦労様です」
やがて地元の駐在と思われる老警官が懐中電灯を手に到着する。三人で何やら相談すると、今度は男刑事が僕らに近付いてきた。
「おつらいですね、お察しします」
先ほど店内でも感じたがその声はとても低くてよく通る。僕らは黙ったまま頭を下げた。「みなさんにはお話を伺わなければなりません。スナックに残られている女性お二人も含めて」
返事がないのを確認して刑事は続けた。
「この町には小さな交番しかありません。事情聴取のために公民館の部屋を使わせて頂けるそうですので…一緒にそちらに移動しましょう」
「そんなことより、あの…本当に…彼女は助からないんですか?」
僕はようやくそう絞り出す。刑事は申し訳なさそうに頷き、「残念ながら…絶命されています」と答えた。

 その後、再び言葉を失った僕はただ男刑事に言われるままに歩いた。菊川も放心したように無言で従っている。そしてあのビルの入り口まで戻ってくる。その場で待つように言い、刑事だけがスナックのある地下へと階段を下りていった。
数分して彼と共に恵と紀子が上がってきた。二人とも強い困惑と動揺の中にいるのはその表情から明らかだ。僕らを見て、まず紀子が小さく口を開いた。
「ねえ…間違いないの?み、みどりちゃん…」
菊川は無反応。僕は目だけで頷く。彼女のメガネの奥の知的な瞳に驚愕が浮かぶ。隣で恵は顔を伏せていた。
「それではみなさん、行きましょう。公民館はすぐ近くですから」
刑事が歩き出す。何をどう考えたらいいのか、今どうするべきなのか…きっと誰にもわからなかったのだろう。賛成しているわけではなく、かといって反対することもできず、僕らはただ夜道に響く低い声に先導されてとぼとぼ歩くしかなかった。
本当にこれは現実なのか?悪い夢なら早く醒めてくれ。醒めろ、醒めろ、醒めろ!

 静寂の公民館に到着すると、僕らは会議室らしき大きな机がある部屋に通された。並んで座るよう指示される。室内は古い蛍光灯が一本あるだけでけして明るくはないが、しばらく外にいたせいか妙に眩しく感じた。窓に背を向ける形でドアから近い順に僕、菊川、恵、紀子の並びで着席する。ふと壁の時計を見るともう午前0時半を過ぎていた。
あの路地でみどりを発見してからここに来るまで…何だかあっという間だった。きっと頭がまともに働いていないのだろう。
「みなさん…」
刑事は机を挟んで僕らの正面に立つと、静かに口を開いた。
「本当に…おつらいと思います。ご友人に何が起こったのか…まだ何もわかりませんが、心よりお悔やみ申し上げます」
頭を下げる刑事。薄暗いスナックの店内で観た時から違和感はあったのだが、明るい所で改めて見るとこの男の風貌はかなり変わっている。ボロボロのコートにハット、そして長い前髪は右目を隠している。
…異様だ。刑事として、というより一般人として普通の容姿ではない。この人はどうしてこんな格好なのだろう。警察手帳を示されなければ刑事だと言われてもまず信じられない。まあそんなことが気になり始めたということは、ようやく僕の頭は働きだしたのかもしれない。
「私は、警視庁捜査一課のカイカンといいます。今夜はたまたまこの町に滞在していましたが、担当捜査員が来るまで私が捜査の指揮を執ります」
カイカン…?名前まで変わっている。
刑事は「みなさん、どうかご協力をお願いします」と言葉を続けたが、誰も何も答えない。横に目をやると、三人とも俯いて何もない机を見つめていた。
沈黙が流れたが、やがてまたカイカンが口を開く。
「スナックでみなさんの会話が少し耳に入ってしまったのですが…みなさんは医学生でいらっしゃる?」
また無言。しかし数秒の後、菊川が「はい…すずらん医科大学の6年生です」と小さく答えた。その声にはいつもの明るさは微塵もない。
「そうですか、すずらん医大…。では旅行か何かでこの町に?」
今度は僕が口を開く。
「そうです。みんなで計画した卒業旅行でした。でも…こんなことになるなんて」
「ご友人の死については、現在私の部下と地元の警官が現場検証をしています。詳しいことがわかったらみなさんにもお伝えしますので、どうかこのままここでお待ちください」
「荻野さんのそばにいてはいけないんですか?」
「申し訳ありません。事件性のある現場なのでお控えください」
また頭を下げる刑事。そんな…、と僕は共感を求めて隣を見たがみんな俯いたままだ。困惑する僕を一瞥してからカイカンはコートから携帯電話を取り出す。
「それではみなさん、また来ます」
それだけ言うとどこかにコールしながらカイカンはゆっくり部屋を出ていった。電話はおそらくあの女刑事にかけているのだろう。「そっちの様子はどうだい?」「何か見つかったかい?」などの声が廊下から漏れ聞こえ、次第に遠ざかった。
沈黙だけが残された室内。壁の時計の秒針と窓の外を通り過ぎる夜風の音だけが微かに息づいている。みんな石のように固まっていて何も話さない。
「…俺たちのせいだ」
数分して、隣の菊川が突然言った。怒りとも悲しみともつかない声だった。
「俺たちのせいだよ、もっと早く捜しにいってたら荻野さんは…」
「そんなこと言うなよ」
僕も感情が定まらない声で返す。
「誰かのせいとかじゃないだろ。それにまだ何が起こったかわからないんだ」
また黙る菊川。恵も紀子も何も反応しない。
僕も再び口を閉じ、視線を机に落として考える。
そう、みどりを発見した時あの女刑事が言っていた…撲られたような傷があると。ああ、本当に一体何が起こったっていうんだ?電話するために店を出た彼女の身に…何が降りかかったっていうんだよ?
指先がじんわり冷たくなる。今頃になってようやく実感が湧いてきた…みどりがいなくなったのだと。
吸い込まれそうなあの黒く大きな瞳も、春風のように輝く笑顔も、世界を浄化する太陽のようなあたたかさも、どんな傷痕も癒してくれる優しさも…もう二度と出会えない。僕の世界は最愛の存在を失ったのだ。

 深夜1時を回り、カイカンが戻ってきた。
「みなさん…お待たせしました」
低い声が空気の淀んだ室内に響く。
「そのままでいいので聞いてください。ここまでの調べでわかったことをお伝えします」
刑事は無言の僕らを順に見ると、小さく深呼吸して語りを始めた。その声は物語の朗読のように穏やかでなめらかだった。
「まず、亡くなられたのはみなさんのご友人の荻野みどりさん24歳に間違いありません。失礼ながら、旅館の宿泊名簿からみなさんのお名前も確認させて頂きました。
…彼女はあの路地の木箱に腰掛けた姿勢で亡くなられていました」
みどりの死…わかっていたことだが、改めて告げられると胸が痛む。いや胸だけではない。天から地に叩きつけられたように全身がジンジン痛んでいる。みんなもそうだろう。しかし誰も泣いたり叫んだりしないのは…やはり医学生だからだろうか。僕らは臨床実習で人の死を何度も見た。人間は死ぬこと、それは誰にでも起こりうることを同世代の人間よりも実感として知っている。
「みどりさんがあの路地で発見されたのは午後11時40分です。そして死亡推定時刻はおおよそ午後10時半から11時半の間と思われます。みなさんは医学生ですからはっきり言いますが、発見時私の部下が確認したところ死後硬直はほとんど出ていませんでしたので」
法医学の試験で憶えた知識が蘇る。
続いてカイカンは死因についても説明した。それによるとまだ直接死因は確定されていないらしい。頭頂部に傷があり、路地には凶器と思われる血液の付着した角材が落ちていた。誰かがそれでみどりを撲った可能性は高いが、それが致命傷かどうかは現場の検死だけでは断定できないという。
「詳しくは、ご遺体を大学病院に運んで調べてからになります」
「調べるって…まさか解剖するんですか?」
紀子がようやく顔を上げて尋ねた。彼女も自分が目指していた法医学にこんな形で関わろうとは思ってもいなかっただろう。
「場合によっては…それも有り得ます」
「そんな…」
声を震わせる紀子。僕の胸もまた痛んだ。この町は東京都だが23区の外、近くに専門設備はない。みどりの遺体は司法解剖が行なえる都心の大学の法医学教室まで運ばれるのだろう。せめてうちの大学病院が担当でなければよいが。そんなことになれば、彼女の死は噂好きな連中の恰好の餌食になってしまう。
「刑事さん、荻野さんのご家族には…」
菊川が言った。
「連絡しました。しかしご両親は福岡県におられるんですよね。こちらに到着されるまでまだ時間がかかるでしょう」
そう、みどりは博多の出身。卒業したら帰って地元の病院で研修をすると言っていた。突然の娘の訃報に実家は悲しみに包まれているだろう。
…実家?そういえば…、僕は思い出して尋ねる。
「刑事さん、スナックにいた時に荻野さんに電話がかかってきました。実家からだって彼女は言ってましたけど」
「ええ、そうです。お母さんがかけたとおっしゃってました。10時からだいたい十五分くらいお話をされたと」
そこで刑事は右手の人差し指を立てた。
「ちょうど電話の話が出ましたので、その辺りの経過を整理しましょう。私もあのスナックにいましたが意識して記憶していたわけではないので、みなさんの記憶とぜひ照合させてください」
再びカイカンは僕ら四人に順に視線を送る。
「ではまず、みなさんが店に来たのが8時半頃でしたね。私もその少し前からカウンターにいました。そして、10時頃にみどりさんが外に出ていかれた。これは電話のためですね?」
カイカンがこちらを見る。僕は頷いた。
「はい。店の中は電波が悪かったので」
「そうですか…ちなみにあなたのお名前は?」
「お、奥森です。奥森ケンです」
宿泊名簿で僕らの名前は調べたと言っていたが、まだ誰が誰なのか一致していないらしい。まあそれも当然か。そういえばバタバタしていて自己紹介などしていなかったから。
「奥森さんですね、了解しました。では話を続けましょう。次に店を出たのはあなたでしたね、確か10時半頃です」
カイカンは紀子を見た。彼女はゆっくり「はい」と返す。
「あなたのお名前は…」
「黒川紀子です」
「了解しました。黒川さん、あなたは店を出てどこに?」
「トイレです。そのついでにみどりちゃん…あ、すいません、荻野さんの様子も見に行きました」
紀子の声は小さい。刑事は一歩彼女に寄った。
「つまり廊下の階段を上がって外に出た、ということですか?」
「は、はい…」
「その時みどりさんは…」
紀子は一度歯を食いしばり、搾り出すように答える。
「いませんでした。捜し回ったわけじゃないですけど、少なくとも見える範囲にはいませんでした。だから…すぐ店に戻ったんです」
「ナルホド」
妙なイントネーションでカイカンは頷く。
「了解です。ええと、そして次に店を出たのが…」
「俺です」
菊川が言う。刑事も彼を見た。
「そうでしたね。確か10時45分頃でしたか、ええと…菊川修二さんですね?」
このメンバーで男は二人だから消去法で菊川の名前がわかったのは当然だ。
「はい、そうです。タバコを吸いに外に出ました」
「その時にみどりさんの姿は?」
「見てません。階段を上がった辺りにはいませんでした」
「そうですか…それであなたも店に戻ったんですね。確か彼女と入れ違いに」
次は恵が指名される。恵はここまでずっと一言も声を発していない。
「桑田恵さんですよね。確かあなたは11時頃に店を出た」
顔を上げたが無言のままの恵。両手を膝の上で強く握り、頑なに口を一直線に結んでいる。ボンボンの多い市立医学生の中でも一際満たされた環境の中で生きてきた彼女。この状況を受け入れること自体、精神が拒絶しているのかもしれない。
「ご友人のためと思って、どうかお答え頂けませんか」
優しく言うカイカン。
「…はい」
恵はようやく口を開く。その声には妙に冷静な迫力があった。「11時に店を出たんですね?」とくり返したカイカンに彼女はこくんと頷いた。
「桑田さん、あなたはどこに行かれたんですか?」
「トイレです。廊下で階段を降りてきた修二…き、菊川くんとすれ違いました」
言葉の語尾が僅かに震えた。
「何かお話をされましたか?」
「みどりがいたかどうかを訊きました。でもいなかったって言うから、あたしはそのままトイレに行きました」
菊川も「間違いありません」と付け加える。しかし恵はそれを無視するように視線をカイカンに向けたまま動かさない。
「ナルホド、では桑田さんは会談を上がって外には出て…」
「出ていません。トイレが終わったら店に戻りました」
彼女は相手が言い終わるのを待たずに答える。敵意を含んだ声だった。
カイカンはそれ以上言及せず「了解です」とだけ言うと、再び四人の正面に立って語りを続けた。
「そして桑田さんが店に戻ってから、みなさんはみどりさんを捜しに行くことにした。奥森さんと菊川さんに私と部下が同伴して店を出た…これがおおよそ11時半。そうでしたね」
誰も特に答えなかったが、カイカンは「わかりました」と呟き納得したように頷く。そして言葉を止めて虚空を仰いだ。
…思考を巡らせているのだろうか。やがて彼は立てていた人差し指に長い前髪をクルクル巻き付け始めた。不気味な癖だ。室内には再び沈黙が下りてくる。ふと見ると、窓の外には漆黒の闇が広がっている。
この刑事は…どう考えているのだろう。みどりには撲られた傷があった、事件性があるのは間違いない。だから解剖まで行なわれるのだ。事件だとすれば、すなわちこれは…殺人。
まさかその犯人が…この中にいると?
僕はようやくその可能性に思い至った。背筋が凍る。まさかそんな…この中の誰かがみどりを…?
改めてみんなを観察する。
誰も虚ろな目でバラバラの方向を見ている。確かに僕以外は全員一度ずつ店を出た…みどりと会うチャンスはあった。だとすると…。
有り得ない!ずっと一緒にやってきた仲間だぞ。そんなこと絶対に有り得ない。でもそう思うのは僕らがお互いを知っているからだ。初対面の警察からすれば、十分容疑を向けられる状況なのは間違いない。
僕はまたカイカンを見た。やがて彼は人差し指の動きを止め、ゆっくりと言った。
「やはり…みなさん一人ずつからお話を伺った方がよさそうですね」
室内の緊張が強まったのがわかる。そしてカイカンはこちらを見て言った。
「それではまず…奥森さん、別室でお話よろしいですか?」