第一章 悲痛

 午後10時を回った。掘り返せば思い出の鉱山から話題はいくらでも出てくる。僕らは笑ったり手を叩いたりしながら会話を楽しみ、心から寛いでいた。
そういえばこの店に来てもう一時間半くらい経つが、一向に新たな客が来る気配はない。最初からカウンターにいた二人の客がママと親しげに話しているだけだ。
「みどり、顔赤いよ。大丈夫?」
恵が言った。みんなも少しずつ酔いが回り始めたようだ。
「大丈夫、このくらいで酔わないって。久しぶりだからかな」
笑って答えるみどり…と、そこで彼女は赤いカーディガンの胸ポケットに手をやった。
「あれ、電話だ。…あ、実家から」
取り出したスマートフォンの画面を見ながら言う。
「実家~?ほんとは彼氏なんじゃないの?」
からかう恵。みどりは「違うって、はいもしもし」と電話に出たがよく聞こえないようで何度も「もしもし」をくり返している。
「ここ地下の店だから電波悪いのかも」
僕がそう言うと、みどりは「そうかも、ちょっと外でかけてくるね」と立ち上がった。そのままドアに向かう彼女の足もとは少しふらついている。紀子が「大丈夫?一緒に行こうか」と声をかけた。
「大丈夫大丈夫。外で夜風に当たって酔いを醒ましてこよっかな」
振り返ってそう答えると、彼女は明るく店を出ていった。
「怪しい…あれは男からの電話だね」
お嬢様がしつこく邪推する。その隣で菊川は苦笑い。
まあ…それも無理はない。1年生の頃の短い期間とはいえ、菊川はみどりの彼氏だったのだから。そのことは僕も紀子も、もちろん恵も知っている。もうとっくに恵とつき合っている期間の方が長いのだけれど、今でもみどりと菊川が楽しく話しているのを見て恵がムッとしている時がある。
正直僕だって菊川に対してドロドロとした感情がなかったとは言えない。でも菊川がいい奴なのは間違いないし、みどりも過去の色恋沙汰を持ち出すような大人げないことはしない。男とか女とかは置いておいても、僕はやっぱりこの仲間が好きだ。みんなもきっとそうなんだと思う。
そこで僕はグラスを一気に空けてから言った。
「まだ10時だ、明日には帰るんだから今夜はとことん楽しもう!」
「よく言ったケン、飲むぞ!」
菊川もグラスを空ける。紀子と恵もそれに続いた。

「じゃあ黒川さんはやっぱり法医学に進もうって考えてるんだ」
と、僕。話題はいつしかお互いの進路のことになっていた。
「うん。今のところ一番興味あるからね。まあ一年時間ができたからもう一度ゆっくり考えてみるけど」
「法医学か…でも興味あるとこに進むのがいいよな」
菊川がしみじみと言う。
「菊川くんだってうちの大学病院の救命救急センターに行くんでしょ?すごいじゃない。倍率高くてなかなか入れないって聞くよ」
「まあね…。あそこでまずは主義の腕を磨こうかなって。いずれは親父の病院を継がなくちゃいけない運命だけど、いきなり実家に戻るのはちょっとね」
「菊川の家はでっかい病院だもんな。将来はそこの院長先生か。となると桑田さんは院長夫人?」
僕がそう言うと、恵は嬉しそうな顔をしながらもまた彼氏の耳を引っ張る。
「さあね~、いつになったらプロポーズしてくれるのやら」
戸惑う菊川の様子にまた笑いが起こる。
それにしても…みどりはまだ戻ってこない。もう出ていって三十分は経つ。
「遅いな、荻野さん」
僕がそう言うと紀子も腕時計を見た。
「そうね、電話が長引いてるのかな。私トイレに行くついでにちょっと見てくる」
彼女はそう言うとソファを立って店を出た。
このスナックは小さなビルの地価1階にある。まあ雑居ビルといっても支障はない佇まいの古いビルだ。外壁の錆びついた看板を見るとかつては上階にも飲食店がいくつか入っていたことがわかる。旅館の受付に近所で飲める店を訊いたらここを教えられたのだが…おそらく唯一の選択肢だったのだろう。
そんなわけでトイレは店内にはなく、店を出て廊下を少し行った所にある。そしてトイレの横の階段を上がると地上に出る。みどりは多分そこで電話をかけているのだろう。
菊川も「まさか荻野さん、酔っ払って歩いてるんじゃ」と心配そうな顔をしたが、恵が「大丈夫よ、あの子酒強いし。今日だって私たちより飲んでないから」とそれを一蹴した。そして話題はまたお互いの卒業後の進路に戻る。
五、六分ほど話していたら紀子が一人で戻ってきた。恵が「紀子、みどりいた?」と尋ねる。
「それがね、階段上がった所にはいなかったの。トイレにもね」
「マジで酔い醒ましの散歩でもしてるのかな」
と、菊川。
「大丈夫よ、あの子その辺りはしっかりしてるから。今までだって泥酔して記憶飛ばしたとか一回もなかったし」
紀子は「うん、そうね」と元の席に座る。女二人の対応がやや冷たい気もしたが、まあ…大騒ぎする状況でもないことは確かだ。僕たちはまた四人で飲み始めた。

午後10時45分を回った。まだみどりは戻ってこない。少しずつ不安が僕の胸で膨らんでいく。
「そういえばお二人は卒業旅行とか行ったの?」
口数も増えてきた紀子がカップルに尋ねた。ほろ酔いの彼氏が返す。
「一応ちょこっと北海道にね。雪祭りのシーズンじゃないからゲレンデも空いてて、のんびり滑れたよ」
「二人ともスキー部だもんね。観光とかはしなかったの?」
「小樽の水族館とかは行ってみた。結構楽しめたかな」
今度は恵が答えた。
「え~いいな、私も一度行ってみたいんだよね。珍しい動物とかいた?」
そこで菊川が「写真見る?」とスマートフォンを出す。恵が「ちょっと、あたしの変な写真とかないでしょうね」とそれを引ったくった。
「大丈夫だって。『北海道旅行』ってフォルダに入ってるから。じゃあ俺ちょっと外でタバコ吸ってくるからゆっくり見てて」
そう言うと菊川は腰を上げる。もちろん店内は禁煙ではないが、メンバー唯一喫煙者の彼は飲み会の時いつもこうやって気を遣ってくれる。
「荻野さんがいないか見ておいてくれよ」
僕が言うと菊川は「オッケー」と返す。恵も「浮気すんなよ」と笑って言う。彼氏は「さあね~」とおどけながら店を出ていった。

その後しばらくは三人で動物園の写真を見ていたが、11時を回った頃恵が立ち上がった。
「桑田さん、どうしたの?」
「ちょっとトイレ」
菊川のスマートフォンを紀子に預け、彼女は落ち着かない様子で店を出ていった。ドアが閉まるのを待って紀子が言う。
「とかなんとか言って、きっとみどりちゃんと菊川くんのことが気になってるんだよ。恵、ああいうとこ可愛いよね」
「そうだね、でも本当に荻野さんどこ行っちゃったんだろう」
「きっと上で菊川くんと話でもしてるんじゃない?」
僕がそれに答えるより先に、ドアが開き菊川が一人で戻ってきた。
「あれ菊川、お前一人か。荻野さんや桑田さんは?」
彼は足早にソファに座ると自分のグラスに口をつけてから答える。
「恵とはそこの廊下ですれ違った。トイレ行くとか言ってたな。荻野さんは…どこにもいなかったよ」
「ほんとに?会ってないの?」
紀子が驚いた顔で訊く。
「ああ。ちょっとその辺捜してみたけどいなかったよ」
「みどりちゃん…どこ行っちゃったんだろう」
紀子がグラスを置いた。僕も身を乗り出して言う。
「確か店を出たの10時頃だろ。もう一時間経ってるよ。さすがにちょっと心配じゃないか?」
言いながら僕は自分の脈が速くなるのを感じる。
「そうだな、恵が戻ったらみんなで捜しに行こうか」
そこで紀子が思い付いたように「電話は?」と言った。そうだ、みどりは電話をかけに出ていったのだから当然スマートフォンを持っている。僕は「かけてみるよ」と自分の携帯電話でみどりにコールした。しかし…。
プップップップ…。
やはり電波が悪いのかなかなか繋がらない。気がはやる。心配そうに僕に注がれる二人の目がさらに不安をあおる。
トルルル、トルルル…。
ようやく呼び出し音はするようになったが…みどりは電話に出ない。
「ダメだ、出ない。もう1度外でかけた方がいいかもな」
そう僕が言うと二人も頷いた。僕は慌てて立ち上がる。
「おいケン、ちょっと待てよ。焦るなって」
座ったまま言う菊川。紀子もまだ腰を上げない。
「でも菊川…何か事件とかに巻き込まれてたら」
「落ち着けって、ここは都会じゃないんだぞ。そんな物騒なことあるもんか」
確かにそうだが…。腑に落ちない様子の僕に、彼は「もしかしたら旅館に何か取りに戻ってるだけかもしれない」と付け加えた。
「でも…」
「私も、事件は考え過ぎだと思うよ」
今度は紀子が僕をなだめる。僕だってもちろんそんなことはないと思うが…嫌な予感がする。
結局、恵が戻ったらみんなで捜しに行こうと二人に説得され、僕は渋々腰を下ろした。気が付けばカウンターの客もこちらをチラチラ振り返っている。菊川と紀子があまり騒がないのも、それを気にしてのことかもしれない。確かに事を荒立てたら医学生というキーワードも手伝ってスキャンダルになりかねない。
「みどりちゃん、もしかしたら恵と会って話してるのかも」
紀子が新たな可能性を挙げたと同時に、当の恵が戻ってきた。
「桑田さん、荻野さんに会った?」
僕にいきなりそう訊かれて彼女は一瞬険しい顔をする。
「え、何?あたしは会ってないよ。トイレにはいなかったし」
「外には出てないのか?」
菊川が問う。
「うん。…だって修二、さっき廊下ですれ違った時、みどりはいなかったってあたしに言ったじゃない。それなのに一人で捜しに行ったりしないよ」
少しきつい語調で返す恵。菊川はみどりがまだ戻っていないことと電話をかけても出ないことを彼女に説明する。
「じゃあとにかく、みんなで捜しに行こう」
そう言って僕が立ち上がると、今度は菊川も腰を上げた。
「じゃあ桑田さんと黒川さんも…」
「待てケン、行くならやっぱり俺たちだけで行こう。女の子が夜の町を捜し回るのは危ない」
さっきは物騒なことなんかないって言ったくせに…。まあここは知らない土地だし、万が一にもさらに行方不明者が増えてはいけない。
「わかった、じゃあ俺たちで行こう」
二人で店を出ようとドアに向かう。恵と紀子も立ち上がり、「気を付けて」と見送ってくれる。そして菊川がドアに手を掛けた瞬間…。

「ちょっとお待ちください」
突然の低い声が僕と菊川を呼び止めた。驚いて振り返ると、声の主はカウンター席の客。室内だというのにコートとハットを着用した妙な男だった。
「え、何です?」
僕が尋ねると相手はゆっくり椅子から立ち上がって言った。
「みなさんのやりとりが少々耳に入りまして…ご友人が一人戻ってこないんですね?」
「そうですよ、だから今から捜しに行くんです」
菊川が苛立った様子で答える。すると男は平然と「私たちも同行します」と返した。…一体何なんだ、この人?
「い、いや俺たちで捜しますから」
そう僕が答えても男は「いえ、遠慮なく」と引き下がらない。押し問答をしていると、今度は男の隣に座っていた女性客も立ち上がった。そしてコートのポケットから黒い手帳を示す。
「ご安心ください、私たちは警察の人間です」

予想外の増員を得て、捜索隊は四人で地上に出た。警視庁の刑事だと言う二人のうち男が菊川と、女が僕とペアになってまずビル周辺を捜すこととなる。菊川らが左に、僕らは右に進む。歩きながらみどりの電話を鳴らしてみるが、やはり出ない。
「そのまま鳴らしていてください、着信音が聞こえるかもしれませんから」
女刑事は周囲に鋭い注意を払いながら僕と並んで歩く。
「はい、わかりました。でも…店内で彼女に電話がかかってきた時も着信音は聞こえなかったので、マナーモードになってるのかもしれません」
「そうですね。ちなみにその時の電話はどちらからかかってきたのですか?」
「確か、実家からだって言ってました」
「そうですか」
そんな会話をしながら夜風の中を進む。もう春とはいえ、この時刻はまだ肌寒い。そして15メートルほど行ったところで、狭い路地を発見した。もしかしたら、とそこに入ってみると…。
「あっ!」
思わず声が出た。月明かり以外に照明がないためはっきりとは見えないが、そこには木箱に腰掛けているみどりの姿があった。見覚えのある赤いカーディガンにショートボブの黒髪…間違いない。彼女は背中を丸めて下を向いている。
まったくこんな所で寝ちゃって、心配させんなよ。…でもよかった。
「見つかりましたよ刑事さん、お手数おかけしました」
僕はそう礼を言い、「ほら荻野さん、起きて」と声をかけながら彼女に近付く。しかし反応はない。よっぽど熟睡しているのか、あるいは泥酔しているのか。
「ほらほら荻野さん、風邪引くよ」
肩をポンポン叩いてみたがそれでも彼女は俯いたまま微動だにしない。
「お待ちください!」
突然、女刑事が厳しい語調で言った。え、何だ?
「下がってください、すいません」
彼女は僕を退かせ、代わりにゆっくりみどりに歩み寄る。そして首や手首の辺りに手を当てている…脈を確認しているのだ。おいおい、どういうことだ?まさか…。
「荻野さん、荻野みどりさん、聞こえますか?」
彼女は地面に片膝をついて大声で呼びかけながらみどりの肩を揺する。みどりはピクリとも反応しない。女刑事はみどりの口元に耳を近付けた…今度は呼吸を確認している。おいおいおい…!
その後も慎重に彼女の全身を確認し、衣服も一通り見まわした後、女刑事は腰を上げた。そしてこちらに向き直ると感情を抑えた声で言った。
「亡くなられています…頭頂部に撲られたような傷もあります。血の臭いがしたのでまさかとは思ったのですが…」

目の前が真っ暗になった。夜の闇よりもさらに濃い黒。
なんだって?
みどりが…死んだ?