プロローグ

「おいケン、おかわり作ってくれ」
そう言って菊川がたくましい腕で空いたグラスを差し出した。あいよ、とそれを受け取りまた水割りを作る僕。
「ちょっと修二、ペース速いんじゃない?酔っ払っちゃうよ」
恵が隣の彼氏を心配した。暗い店の中でも彼女のメイクは妖艶さを放っている。
「今夜くらいいいじゃねえか、久しぶりにみんなで飲んでるんだから。それにまだ全然酔ってないって。なあケン、もうちょっと酒を濃く作ってくれ」
菊川のその言葉を今度はみどりが拾う。
「え~もう十分濃いって。そんなに言うなら自分で作りなよ。ごめんね奥森くん、全部やらせちゃって」
彼女はそこで僕を見る。そのリスのように黒く大きな瞳に見つめられると、また胸の深部に鈍い痛みが走った。
「いいっていいって、このメンバーで飲む時はいつも俺が酒を作る係だったし」
「ほんとにごめんね、でも奥森くんの作るお酒おいしいよ」
そんな無防備な笑顔を向けられると、愛しさが性懲りもなく込み上げてしまう。もういい加減けじめをつけなくてはいけないのに。
…そう、この旅行が終わったらすぐに卒業式。その後はみんなそれぞれの春が待っている。
「それにしても思った以上に田舎でびっくりしたね、ここ。東京じゃないみたい」
恵が言う。すかさず返す菊川。
「こらこらお嬢様、そんなこと言ったら怒られますぜ。東京だって23区出たらこんなもんさ」
「え~でもここはさびれ過ぎじゃない?」
「新宿とか池袋だけが日本じゃないんだぜ。だから地域の医療は大変なんだって講義でも聴いたろ?」
「あらあらそれは失礼致しましたわね」
漫才のようなカップルの会話を聞きながら僕は黙ってグラスに焼酎と水を注ぐ。みどりが「でも温泉はとってもよかったじゃない、旅館のごはんもおいしかったし」と微笑む。
「まあね。海外とか行くよりこっちの方がみんなでのんびりできるけどさ」
そう言って恵は一口飲み、さり気なくグラスに残った口紅を拭く。そんな仕草に院長令嬢の育ちの良さがかもし出される。
まあ確かにこのメンバーで楽しむなら観光より飲み会だ。旅館での夕食の後やって来たこのスナックにしてもお世辞にも綺麗とは言えないが、ほとんど貸切状態で一番大きなテーブルとソファを使えるのは有難い。
僕はグラスに氷を入れマドラーでかき回した。
「奥森くん本当に手つきがいいね、プロみたい」
と、みどり。
「もしかしたらバーテンダーの才能があるのかな、俺。ほい菊川、できたぞ」
「おうサンキュー。じゃあもし医者になれなかったらバーでもやれよ。俺が常連になって売り上げに貢献してやるから」
グラスを受け取りそう言った瞬間、菊川ははっとして紀子を見た。彼女もそれに気付く。真顔になって「ごめん、黒川さん」と謝罪が告げられ、場の雰囲気も一瞬滞る。
「え、あ、やだな、もうそんなの気にしないでよ」
そう言って笑顔を取り繕う紀子。メイクは女三人の中で一番控えめ、黒縁メガネとポニーテールも大学内にいる時と全く変わらない。髪を明るくしてブランドに身を包んでいる恵とは対照的だ。
「やだなあ菊川くんったら」
必死に空気を悪くしないようにしているのが伝わってくる。紀子はもともと自分から喋るタイプではないが、彼女が今日いつも以上に口数が少なかったことはみんなも感じていただろう。まあ無理もない。一緒にやってきた仲間の中で一人だけ卒業できないんだから。
「みんなも気にしないでよ。私はもう気持ちの整理はついてるんだから」
そう言って彼女はグラスにちょんと口をつける。
「それに私ね、浪人も留年もせずにここまでやってきたでしょ?だから今回のことはいい機会かなって思ってるんだ」
そうだね、と僕が相槌。みどりも「大丈夫、一年の遅れなんて紀ちゃんならすぐ追いつくって」と続いた。すると恵も彼氏の耳を引っ張って「そうそう、修二なんか医学部入るのに浪人三年もしてんだからそっちの方が問題だって。もうすっかりオッサン」。
「イテテテ、おい痛いよ恵」
おどける菊川の姿に笑いが起こった。紀子も一緒に笑っている。僕はほっとして水割りを飲む。雰囲気も回復しそこからはまたいつもの飲み会が回り出した。
…このメンバーでよかったな。こんな時、そのことを強く実感する。
医学部5年生の時、ポリクリと呼ばれる臨床実習を行なうために組んだ五人の班。学校から出席番号で決められただけの班だけど、僕たちはなんとなく馬が合って6年生になってからも一緒に勉強したり飲んだりしてきた。
思えば面白い取り合わせだ。1年生の頃から特待生、いつも教室の一番前で講義を受けていた黒川紀子。代々続く大病院の令嬢で、服に車にマンションと贅沢に身を包んだ桑田恵。長身でがっちりとしたスポーツマン、ハンサムなのにお調子者の菊川修二。なまじ勉強ができたせいで親や先生に言われるままに医学部に来て、どこか周囲に馴染めず過ごしていた僕。そして…いつも笑顔と優しさでその場を明るく照らしてくれる、同級生のアイドル・荻野みどり。偶然とはいえ本当に不思議なメンバーが揃ったと思う。
確かに全員の共通項なんてないかもしれない。でもありきたりな言葉になるけど、みんな本当にいい奴らだ。医者を目指す人間だからなのか、それとも裕福な家庭で育って余裕があるからなのか、誰もが他者をいたわる思いやりを持っている。僕も含め世間知らずなのは間違いないけれど、それを差し引いてもみんな本当にあたたかい心を持っている。壊したくない大切な関係。失いたくない最高の仲間。
紀子が卒業試験に落ちてしまったのは残念だったけど、でもそれでこの仲間がバラバラになるわけじゃない。中にはほとんど口も聞いていないような班もある、それを考えたらこの班になれて自分は幸せだと心から思う。
それに…。
僕はそっとみどりの横顔を見た。彼女は紀子にたくさん話しかけて一緒に笑っている。なんでそんな嬉しそうな顔ができるのさ…また心の中で抱きしめてしまう。
そう、話しかけることもできず4年生まで憧れの存在でしかなかったみどり。彼女と二年間一緒に過ごせたのだから…神様に感謝しなくちゃいけない。
「おっしケン、またみんなで乾杯しようぜ」
菊川が言った。僕も「おっしゃ!」と答えてグラスを掲げる。
「みなさんグラスは空いていませんか?お酒がない人はこのバーテンダー奥森がお作りしますよ」
また笑いが起こる。そしてみどりが指揮を執った。
「それじゃあみんな、これからも仲良くいこう、カンパーイ!」
「カンパーイ!」
五つのグラスが重なり音を立てた。そう、それは間違いなく幸福の音色だった。