第三章② ~ムーン~

 警部は彼女に手錠を掛けさせなかった。それでもまるで見えない鎖に拘束されているかのように、秋元早苗は無抵抗で警視庁への連行に応じた。その後の取り調べでも慟哭に打ちひしがれながら、親友への殺意を行動化した自分を懺悔し続けていた。それはまるで神に許しを乞うかのような、痛ましくも慎ましい姿だった。
 きっと彼女はどこにでもいる普通の人間だったのだ。友人を思い、恋心を秘め、その狭間で葛藤する当たり前の人間だったのだ。私なんかよりもずっと人間らしい心を持った人間だったのだ。
 時間はかかるかもしれない。途方もない暗闇かもしれない。それでもいずれ彼女に贖罪の光が射すことを私は信じたい。

 こうして殺人事件の犯人は逮捕された。彼女が犯人であることは間違いない。しかし…冷徹な私の心の奥底には釈然としない疑惑が一粒だけ溶け残っていた。

 それは紛れもなくあの男…水橋和樹のことだ。彼自身が提出した事件当日のレストランのレシート。あれ自体は本物だ。彼はあの日確かに友人とドライブをしていて鉄壁のアリバイがある。ただ問題なのは、それは本当に友人だったのかということだ。
 私はレストランの防犯カメラをチェックした。確かに彼は来店していたが隣にいたのは若い女だった。もちろん及川詩織でも秋元早苗でもない全く別の女。女友達? しかしカメラの映像はそれ以上の関係を漂わせているように私には見えた。

 また別の疑問もあった。早苗の自白によると、彼女が親友を殺害した動機は詩織が自分の想い人と交際しておきながら実は浮気をしていたことへの憎悪だった。しかし…これも裏付け捜査をしてわかったことだが、どれだけ詩織の周辺を調べても彼女に別の男の影などなかったのだ。
 そもそも早苗が詩織の浮気を疑ったのは水橋からそう相談を受けたからだ。しかし実際には水橋に別の女の影があり、詩織には別の男の存在など確認されない。これはどういうことだろう?

 まさか…。醜悪な想像が過る。
 私はどうかしていたのかもしれない。でもどうしても確かめずにいられず、一計を案じた。

 秋元早苗の逮捕から一週間後の夜、私はあえて彼の行きつけのバーを来店した。彼がしょっちゅうここに来ることは事前に尾行して調べてあった。入口からよく見えるテーブル席に私は一人で座る。
 一時間後に彼が来店、物憂げな顔でグラスを口に運ぶ私。すると魚はすぐに餌に食いついた。
「よかったら相席しない?」
 そんな言葉で彼が声を掛けてくる。
「ほら、店も混んできてるしさ。おごるよ」
 彼は私の正面に座る。女性好きのする優しいマスクと気さくなトークが向けられる。そして一通り受け流してから私は言った。
「最愛の恋人が亡くなったのに随分ご機嫌ですね」
 彼の表情が引きつる。そして伺う目で私を見た。
「どうしたんです、そんなに驚かれて。直接お会いするのは初めてですけど、前にお電話で話したじゃないですか。警視庁のムーンですよ」
 悪魔にでも出くわしたかのように彼は凍り付く。そしてすぐに表情を取り繕った。
「あ、ああ、あの時の刑事さんでしたか。偶然ですね。いや、これはその…」
「いつもそうやってナンパしてるんですか?」
「いやその、いやだなあ、ナンパなんて。ちょっと酔ってたみたいです。ハハハ、失礼しました」
 席を立つと彼はそそくさと店を出ていった。

「つまり、何が言いたいんだい?」
 警視庁のいつもの部屋。私は裏付け捜査の報告として水橋和樹の真実を警部に伝えた。
「浮気をしていたのは彼の方だったんですよ。彼は常に複数の女性と関係を持っていたようです。詩織さんが本命だったとも思えません。そして、詩織さんが浮気をしていた痕跡は全くありませんでした」
 警部は目を細める。そしてくわえていたおしゃぶり昆布を指に挟んだ。
「でもムーン、詩織さんが浮気をしているって秋元さんに相談したのは水橋さんでしょ? 実際に浮気をしていたのが彼なんだったらどうしてそんなことをするんだい」
「これは私の想像ですが、彼は詩織さんの存在がだんだん重たくなっていたんじゃないでしょうか。うまく別れたいけど詩織さんは応じてくれそうにない。そこで秋元さんを利用することを思い付いた。
 秋元さんが自分に好意を寄せていることに彼は気付いていたんですよ。そして詩織さんが浮気をしているかもしれないなんて相談すれば、二人がもめることも予測できた」
「君はそうやって水橋さんが秋元さんを殺人に駆りたてたっていうのかい?」
 私は黙って頷く。早苗は取り調べで証言した。彼女の殺意が発動したきっかけは詩織の「つき合っている人がいるのに別の人を好きになるなんていけないことだよね」という一言だったと。これは詩織が自らの浮気を省みた言葉ではない、恋人である水橋の浮気を疑っての言葉だったのだ。きっと彼女は彼に自分以外の交際相手がいることに薄々気付いていたのだろう。
「実はね」
 警部が声を落として言う。
「私もその可能性は考えていた。詩織さんがプレゼントの本を買うために母親にお金を頼んだのが気になってね、彼女の口座を調べてみたんだ。そうしたら何度か水橋さんの口座にお金を振り込んでた。そしてそれらが返金された形跡はない。だから詩織さんにはお金の余裕がなかったんだ」
「彼は詩織さんにお金を無心していたんですよ。きっと他の女と遊ぶためのお金です。もしかしたらそのお金を返すのが嫌になって彼は…」
「ただし」
 そこで警部の声が厳しくなった。
「いいかいムーン、それは殺意の証明にはならない」
「しかし警部、彼はわざと秋元さんに詩織さんの浮気をほのめかしたんですよ?」
「わざとかどうかは立証できない。本当にそう思ってたと彼が言ったらおしまいだ。それにその言葉で秋元さんが必ず詩織さんを殺害するなんて計算できたはずがない。今回はたまたまそうなっただけだ」
「わかっています、彼のしたことは殺人教唆には当たりません。でも…未必の故意にはなりませんか?」
 警部は大きく息を吐く。そう、私も本当はわかっている。未必の故意とはそうなることを積極的に望むわけではないがそうなればいいなと思うくらいの故意、言うなればささやかな悪意だ。本人が認めない限りこれを立証するのは不可能に近い。
 そんなことはわかっている、わかっているが…彼の悪意によって詩織が奪われる必要のない命を奪われ、早苗が汚す必要のない手を汚したのだとすれば、二人はあまりにも浮かばれないではないか。
「疑心暗鬼になっちゃダメだよ、ムーン」
 警部が少しだけ明るく言った。
「こんな仕事をしてて今更だけど、疑心暗鬼になっちゃいけない。確かに水橋さんが未必の故意を働かせた疑いはある。でもそうじゃない可能性も十分ある。疑わしきは罰せず…わかるね?」
 それは私たち司法に携わる者の基本ルール。とても…私たちらしいルール。
「はい」
 そう答えるしかなかった。変人上司は昆布をコートのポケットに戻す。
「そうですね…」
 呟いてから私はそっと虚空を仰いだ。

 人間が裁けないのなら、あとはもう…信じてもいない神に託すしかないのだ。