第三章① ~秋元早苗~

 日が暮れた。あの刑事から呼び出されて私は再び詩織のアパートへ赴く。和樹さんに一緒に来てもらおうかとも思ったけど、彼の前で嘘をつくのはもうつらい。私は一人でその部屋のドアの前に立った。

 …ピンポーン。

 インターホンを鳴らす。しばらく待ってみたけど応答がない。もう一度押してみるけどやっぱり無反応。
 約束の時刻を間違えたかな? いや、確かに午後6時半と言われたはず、そして今がその時刻。私は自分のスマホでカイカンの着信履歴にコールバックしてみたけどこれにも出ない。どういうことだろうと思ってドアノブを回すと鍵は掛かっていなかった。
「刑事さん、いらっしゃいますか?」
 呼び掛けながら中に入る。薄い闇に広がる不気味な静寂。リビングに上がって明かりをつけると私は叫びそうになった。そこにはこたつが…物入れに隠したはずのあのこたつが置いてあったのだ。まるで昨日ここを訪れた時みたいに。
「フフフ…まずはそこが引っ掛かったんです」
 不気味な笑い声に続いてどこかからあの刑事の声が聞こえた。私は思わず室内を見回す。でも…どこにもその姿はない。となるとまさか!
「そんな所で何をしていらっしゃるんですか、刑事さん」
 あえて強気で尋ねる。すると予想どおりこたつがゴソゴソ揺れて中からあの男が出てきた。そして相変わらずのコートとハット姿で立ち上がる。
「よく私がこたつの中に隠れているとわかりましたね」
「他にないじゃないですか。それよりどういうことです、人を呼び出しておいてかくれんぼですか? ふざけるのもいい加減にしてください」
「私は至って真剣です。言ったでしょう、まずはそこが引っ掛かったと。だから確かめてみたわけですよ」
 こいつは自信満々に何を言っているのだろう。
「今あなたはインターホンを鳴らしても応答がないので私に電話を掛けましたね?」
「それが何ですか」
「そう、約束の時刻に訪問したのにインターホンに応答がない。そういう状況ならまず相手に電話を掛けてみるのが普通です。しかし昨日、詩織さんの遺体を発見した時、あなたはそうしていません。あなたの証言どおりならあなたは午後5時にここに来たはずですが、彼女のスマートフォンにその時刻の着信履歴はありませんでした」
 思わず奥歯を噛む。そうか…そこまで考えていなかった。あの時私はそのまま部屋へ入ってしまった。
「まあそれも当然といえば当然です。出るはずもない相手に電話をかけても仕方ないですからね。つまり、あなたは部屋に入る前から詩織さんが亡くなっているのを知っていた、何故なら…」
 今までで一番低くて重たい声が告げる。
「あなたが殺害していたからですよ、秋元さん」
 その瞬間、カイカンの前髪に隠れた右目が光ったような気がした。

 無言の対峙が続く中、私は頭の中で必死に考えた。
 落ち着け、まだ何も証明されたわけじゃない。こんなのいくらでも言い返せる。
「そんなまさか」
 表情を緩めて私は会話を動かした。
「電話しなかっただけで私が犯人ですか? 冗談ですよね。だって私と詩織は親友だったんですよ。お互いの部屋を気軽に出入りする関係です。そりゃ詩織が和樹さんとつき合うようになってからはこの部屋には来てませんでしたけど、詩織がインターホンに応答しないからってわざわざ電話したりしません。うたた寝でもしてるのかなと思って遠慮せずに入っただけ。それが…それが、私たちらしいルールです」
「そうですか」
 カイカンは静かに答えた。
「それに詩織は昨日の午後1時から3時の間に殺されたんですよね? その時間私は街でショッピングとランチをしてました。レシートだって見せたじゃないですか。あれが偽造書類だとおっしゃるんですか?」
「いえ、あれは本物です。あなたはその時刻確かに街にいらっしゃった。買い物をされたお店の防犯カメラにはあなたが写っていましたし、昼食を摂られた洋食店の店主さんもあなたのことを憶えていました。ちゃんと裏は取れています」
「だったら私が犯人なわけないでしょ。犯人はやっぱり空き巣ですよ」
「フフフ、ではどうぞこちらへ」
 カイカンはまた不気味に笑って奥の寝室へと向かう。私も仕方なく従った。
「ベランダを見てください。ブラウスが干してあります」
「それが何です?」
「昨日警察が到着した時にはブラウスは完全に乾いていました。それにブラウスからは気持ちの良い洗剤とお日様の香りがしていました。フフフ、私も一人暮らしだからわかるんです。これは洗濯物がしっかり太陽を浴びた時の香りだと。乾燥機じゃこうはなりません」
「ですから、それは午前中に詩織が洗濯物を干してたってことでしょう」
「あれ、お忘れですか? 詩織さんが両肩を痛めておられたことを」
 私ははっとする。
「両腕が上がらない詩織さんにブラウスは干せません。なのにこうやって干してあるのは何故でしょう? 別の人間が干したからですよ…詩織さんがちゃんと生きていたと見せかけるために。つまりこれは殺人犯の偽装工作なんです。もちろん空き巣がそんなことをするわけがない」
 カイカンが右手の人差し指を立てた。
「ボウリングの件もそうです。詩織さんがボウリングをしようなんて言うはずがない。詩織さんと電話で話したというあなたの証言、あれも彼女が生きていたと思わせるための嘘です」
 くそ、くそ、くそ! せっかくの仕掛けが全部裏目に出てる。
「あなたは昨日の午前中にここを訪れましたね。そして午前9時頃に詩織さんを殺害した。さらに自分のアリバイを作るために彼女が午後まで生きていたように偽装工作したんです。洗濯物を干したのもそう、彼女のスマートフォンを持ち出して洋食店で自作自演の会話劇を演じたのもそう、宅配便の再配送を依頼したのもそうです」
「殺してなんかいません!」
 私は叫んだ。
「詩織は親友です。かけがえのない存在です。なのにどうして…」
「親友だから余計に許せなかったのではありませんか?」
 カイカンの左目がじっと私を見る。そしてゆっくりと続けた。
「あなたも水橋さんのことを想っていた。その想いをずっと秘めたまま二人と接していた。きっと…つらかったですよね」
 こいつ、どうして…。私は口に出さなかったが刑事はその疑問に答えた。
「昨日ここでお会いした時と今朝喫茶店でお会いした時とであなたのお化粧が違っていました。昨日よりも今朝の方が念入りで華やかな気がしたんです…事件のショックで本当はすっぴんでもよかったはずなのに。
 あなたがおっしゃっていた女心ですかね、無意識かもしれませんがあなたは明るいメイクで彼に会った。まるで自分を見てと願っているかのように。それは彼のことを…」
「勝手なこと言うな!」
 絶叫したその時、キッチンの方からメロディが聞こえてきた。これは…『アマリリス』だ。緊迫した空気の中で軽快な旋律が余計に神経を逆なでする。イライラしながら私は吐き捨てた。
「冷蔵庫が開けっ放しじゃないですか」
「え?」
「だから冷蔵庫の扉が開いてます!」
「どうしてです?」
「だってアマリリスのメロディが…」
 そこまで言って私は口を押さえる。カイカンはフッと笑うとキッチンに引き返した。私も憮然として従うとそこにはあの女刑事が立っていた。
「ムーン、もういいよ」
 彼女は手にしていたボイスレコーダーのスイッチを押してメロディを止めた。そして私に「失礼しました」と表情のない顔で告げる。
「秋元さん、今あなたは確かにおっしゃいました…冷蔵庫が開けっ放しだと」
 カイカンは語りを続ける。
「確かにこの冷蔵庫は扉が開けっ放しの時に音で知らせてくれます。最初はピーピーというアラーム、だんだんそれが大きくなって、そして10分が経過した時にアマリリスのメロディが流れるんです。まあ今のはムーンに録音を流してもらっただけですが。
 でもあなたがどうしてそのことをご存じなんですか? 今朝喫茶店でお話した時も私はアラームのことしか言ってません。そしてこの冷蔵庫は冬に入る前に新しく購入された物です。夏からここに来ていないあなたが今のアマリリスを聞くことはできないんですよ」
 人差し指を立てたままカイカンが一歩踏み込んでくる。
「あなたは昨日の午前9時、ここで詩織さんの首を絞めた時に聞いたんですよ。お隣の住人もその時刻にアラームとアマリリスを聞いたと証言しています。あなたは両手で延長コードを引っ張っていたから冷蔵庫の扉を閉めることができなかったんですね」
 畜生、はめられた。口が滑った。わざと私に余裕がないタイミングを見計らってアマリリスを流しやがったんだ! でも…負けてたまるか。私は幸せにならなくちゃいけないんだ、絶対、詩織の分まで!
「何度も同じことを言わせないでください。詩織が殺されたのは午後1時から3時の間なんでしょ、だったら私には無理です!」
「確かに当初はそう思われました。しかし死亡推定時刻は遺体の状態だけを見て算定するわけではありません。遺体が置かれていた環境が特殊な場合は当然それも加味します。例えば極端に寒い場所、あるいは熱い場所」
 カイカンはリビングのこたつを一瞥する。
「あなたはこたつで遺体をあたためましたね? こうすることで体温の低下や死後硬直を通常よりも遅らせることができる。あのこたつ、私が入れたくらいですから詩織さんの遺体を入れることは十分できたでしょう」
「こたつなんて知りません! 私がここに来た時にはこたつなんてありませんでした!」
「いいえ」
 カイカンの口元が少し緩んだ。
「あなたはこたつがあったことをご存知でした。だって私はあなたからこたつの存在を教えてもらったんですから」
「そんなはずありません」
「でしたらあの果物を見てください」
 カイカンが立てていた指を倒してこたつの上を指差す。そこには昨日と同じように籠に入ったミカンが置かれている。
「ミカンがどうかしましたか?」
「フフフ…」
 刑事は不気味に笑いながらこたつの上の籠を取る。そして私の目の前に示した。
「手に取ってよく見てください。この果物…何ですか?」
 いったいこれが何だというのか。また話の脱線か? そう思って一つを手に取った時、私は驚愕する。
「これ…オレンジ」
 思わず口から洩れる。そう、それはミカンではなく明らかにオレンジだった。このサイズ、この形はミカンじゃない。なのに、今の今まで私は完全にミカンだと思い込んでた。カイカンは右手を腰に当てる。
「こたつにはミカンっていうのが日本人の心なんですかね。こたつの上にオレンジ色の丸い果物があったらミカンに見えてしまう。でもほら、こうすると…」
 今度は籠をキッチンのテーブルの上に置くカイカン。私は嘆息する。それはどう見てもオレンジでしかなかった。
「よろしいですか」
 空気を切り裂くようにまた人差し指が立てられた。
「昨日ここで初めてお会いした時もあなたはオレンジのことをミカンと呼んでおられました。もともと区別のつかない人なのかなとその時は思ったのですが、今朝喫茶店でお会いした時は、水橋さんがミカンと言ったのをちゃんとオレンジだと訂正していらっしゃった。
 それで気が付いたんです…あなたは事件現場のオレンジをミカンと錯覚していると。ではどうして錯覚しているのか、もしかしたらこたつの上に乗っていたのを見たからではないか、でも警察が到着した時にこたつはなかった、肩を痛めている詩織さんにこたつを片付けることは不可能、となれば第一発見者のあなたが片付けたとしか思えない、ではどうして片付けたのか、それはこたつが重要な証拠だから、ではどうして重要な証拠なのか」
 立てていた指がパチンと鳴らされる。
「それはこたつを使って死亡推定時刻をずらしたからです」
 もう言葉もなかった。とんでもない推理力だ。女刑事も目を丸くしている。
 どうしよう、もう…無理かな。認めちゃった方がいいかな。でも、もう少し、もう少しだけでも和樹さんと二人で過ごしたい。彼の正面に座れるこの世界を失いたくない!
「ねえ刑事さん」
 全く覇気のない声で私は返した。
「もし私がこう言ったらどうします? ミカンとオレンジはたまたま見間違えたんだって。アマリリスのことも、前に詩織から聞いて知ってただけだって」
 カイカンは哀れむような目を注いだ。でも、多少苦しくてもこれで筋は通る。悪あがきだって構わない、みっともなくたっていい。一秒でも長くこの世界に居座るためなら私はいくらでも泥試合を演じてやる!
 もう一度奮起してカイカンを睨み返そうとしたその時だった。

 …ピンポーン。

 玄関のインターホンが鳴った。女刑事が応対する。和樹さんが助けに来てくれたのかと思ったけど、それは宅配業者だった。見れば時刻はもう午後7時過ぎ、そういえばこの時刻に再配送をお願いしたんだっけ。
「警部、届きました」
 女刑事から小さな箱を受け取るとカイカンはゆっくり表面のガムテープを剥がす。
「これを開封することについては詩織さんのご遺族から承諾をいただいております」
 そして箱の中から取り出されたのはプレゼント包装された四角い物。
「あなたにです、どうぞ」
「え?」
 差し出された物を見ると確かにラッピングの中央に『Dear早苗 From詩織』と書かれたカードが添えられていた。恐る恐る受け取ってリボンを解くと出てきたのは古びた一冊の本。しかもこれは…。
「あなたがずっと探しておられた物ですよね」
 優しく言うカイカン。本を持つ指先が震えた。この表紙の絵…間違いない。子供の頃からずっとずっと探し続けてきたあの本だ。何百軒も古書店を巡って、それでも見つけられずにいた本だ。
「詩織さんのお母さんがおっしゃっていました。詩織さん、先週お母さんに少しだけお金を工面してほしいと頼んだそうです。理由を尋ねると希少な本を買うためだと。全国の古書店やブックオフを電話やメールで当たって親友が探していた本をついに見つけた、ちょっと値が張るけどどうしても買ってプレゼントしたいからと」
「嘘…」
 確かに学生の頃、この本のことを詩織に話したことはあった。でもまさかずっと探してくれてたなんて。そしてそれを見つけて私にプレゼントしようとしてくれてたなんて。昨日の朝、私が急にこの部屋を訪ねた時に詩織が「ちょうどよかった」って言ったのは、ちょうど9時にこの本が届くからだったんだ。
 そんな…そんなそんな…。目の奥がじんわり熱くなってくる。
「秋元さん」
 刑事は穏やかに続けた。
「再配送センターのオペレーターに確認しました。昨日確かに詩織さんのスマートフォンから若い女性の声で再配送の依頼を受けたそうです。最短で午後4時には届けられると提案したのに、その女性は翌日でいいと答えたそうです。
 どうでしょう。もしそれが本当に詩織さんがかけた電話だったら、4時に届けてくれって言ったんじゃないですかね。だって5時にはあなたに会う予定だったんですから。きっと早くあなたにプレゼントして、あなたの喜んだ顔を見たかったはずです」
 視界がぼやけて何も見えない。熱湯みたいに熱い涙が頬を伝ってポタポタ本に落ちた。
「それとも…あなたとの友情はそこまででもなかったんですかね?」
 意地悪な質問だ。でも、この質問にだけは私は嘘をつきたくない。詩織が私のために一生懸命この本を探してくれた、プレゼントしようとしてくれてた、その友情だけは…嘘にしたくない。
 私は服の袖で涙を拭うとしっかりカイカンを見て告げた。
「もし詩織が再配送の電話をかけたんだったら、絶対4時に届けてもらったはずです。私のために、絶対そうしてくれたはずです」
「ということはつまり…」
「あの電話は私がかけた偽物です。詩織じゃありません」
 私は言い切る。カイカンは悲しく笑んで最後の質問をした。
「それは自白と受け取ってもよろしいですか?」
「ええ」
 私はバカだ、大バカだ。友情を裏切られたと思って親友を手に掛けたのに、友情を信じてその罪を白状するなんて。だったら最初からずっと…ずっと信じていればよかった。たとえどんなに嫉妬や恋心に邪魔されたって、この友情は変わらないって。そうしてれば詩織から届いた本をプレゼントされて、私は心から感謝して、二人で喜び合って、これからもずっと友達でいられたのに。

 …ごめんね、詩織。