第一章② ~ムーン~

 秋元早苗を玄関先まで見送ってから、私は溜め息混じりに室内へ戻った。
「いい加減にしてくださいよ警部。秋元さん、びっくりして悲鳴を上げてたじゃないですか。関係者を驚かせてどうするんです」
 そう苦言をぶつけたが当の本人はリビングの隅にしゃがんで何かを見つめている。
「どうかされましたか?」
「これだよムーン、見てごらん」
 警部は壁の下の方を指差す。顔を寄せるとコンセントの差し込み口。
「何かおかしいでしょうか」
「差し込み口は二つあるのに一つの方にタップを付けてそこにテレビと固定電話のコンセントが差してある。どうしてだろうね。タップなんか使わなくても一つずつ差せばいいのに」
「それは…掃除機を使う時のために一つ空けてあるんじゃないですか?」
「お、冴えてるね。でもあっちの壁を見てごらん」
 警部が指差した方を向く。ソファの陰、そこにもコンセントの差し込み口がありそちらは二つとも塞がっていた。一つは空気清浄機、もう一つは…」
「あれは充電式の掃除機だ。つまり掃除機のためにこっちの差し込み口を空けておく必要はないわけさ」
「そうですね。となると…どういうことでしょう。寝室にラジカセがありましたからそれをリビングに持ってきて使ってたんでしょうか」
「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない」
 そんな曖昧なことを言いながら警部は腰を上げた。
「それよりムーン、何だっけ?」
「はい?」
「 ほら、さっき君がこの部屋に戻ってきた時に何か私に言ってたでしょ」
 すっかり忘れてた。私は咳払いをする。
「ですから、警部のせいで秋元さんが悲鳴を上げておられたと苦言を申し上げたんです」
「ああ、ごめんごめん。でも悲鳴ってのは大袈裟じゃないかい?」
「まったく…」
 ちっとも反省していやしない。この人の下について五年、警部がこんな格好なのも、事件現場に遅れてやって来るのも、今更腹を立てても仕方ないいつものことなのだが。

 私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。そして私の上司、つまり今めの前にいるこの不審人物はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

「警部、そろそろ現場をご覧になりますか?」
「そうだね、そうしよう」
「では、こちらです」
 奥の寝室へ変人上司をお連れする。入れ替わるように作業を終えた鑑識員たちが去っていき、室内は警部と私と被害者の彼女だけになった。薄い桃色を基調とした優しい色合いの寝室、そのベランダに出るガラス戸のそばに彼女は仰向けに倒れている。
「むごいねえ」
 警部は膝をついてその傍らにかがみ込んだ。私は手帳を開いて報告を再開する。
「被害者は及川詩織さん、26歳女性、職業はOLです。死因は背後から首を絞められたことによる窒息死、凶器はご覧のように首に巻き付いている延長コード、もともと室内にあった物と思われます。くり返しになりますが、現場の検死では本日の午後1時から3時の間に亡くなられたと見られています」
「そう…それにしては死後硬直が進んでる気もするけど」
 遺体の腕や指先を触りながら低い声が答える。
「それに、吉川線もないね」
 吉川線とは首を絞められた人間がそれをはずそうと抵抗して首に残る引っかき傷のこと。
「はい。被害者には抵抗した形跡がありません。衣類には少し床を引きずられたような跡もありますがこれも明確ではありません」
「フローリングの床だから仕方ないね」
 警部は立ち上がるとゆっくり室内を見回す。そう、探しているのだ…捜査方針を決めるための『取っ掛かり』を。
「戸棚の引き出しがいくつか荒らされてるみたいだね」
「はい、宝石箱が空っぽでしたので中に入っていた物が盗まれたと思われます」
「さっき秋元さんが言ってたようにこれは空き巣の犯行…なのかな? ねえムーン、君はどう思う?」
「その線もあると思います。あるいは被害者は若い女性ですから痴漢や暴漢が侵入した可能性もあるかと」
「確かにね」
 警部はベランダのガラス戸を空けた。少しだけ冷たい夜気が迷い込む。
「ブラウスが5枚干してあるね。洗剤の香りもするし、しっかり乾いてるからきっと今日の日中に干された物だろう」
 そこで警部がまた右手の人差し指を立てて黙る。何かに気付いたようだ。私もベランダに歩み寄った。
「ねえムーン、よく見てごらん。5枚のうち、2枚はちゃんとボタンが留めてある。でも3枚は留められてなくて前が全開だ。これはどうしてかな?」
「どうしてと言われましても」
 全く予想外の着目だった。
「全部同じデザインで色も白だし、これはきっと出勤の時に着るブラウスだ。月曜日から金曜日までの五日間で5枚。なのにどうしてボタンが留まっている物と留まっていない物があるのかな」
 わからない。そんなことに意味があるのだろうか。しかし変人上司は伺うように私を見ている。
「すいません警部、私には…ただ脱ぎ方が違うとしか」
「そう、そういうことだよ。脱ぎ方が違うんだ。前が全開になってるブラウスはボタンをはずして腕から袖を抜いた…こんな感じでね」
 実際に警部がコートを脱ぐジェスチャーをする。
「じゃあムーン、ボタンが留まったままのブラウスはどうやって腕を抜いたと思う?」
「それはその、こうやってバンザイする感じで頭と一緒に」
 今度は私がジェスチャー、すると警部が立てていた指をパチンと鳴らす。
「そのとおり。では同じブラウスなのにどうして脱ぎ方が違うのか、ここがポイントだ。ただの気まぐれかもしれないけど、人間っていうのは習慣の生き物だからね、習慣が変わるにはそれなりの理由があると思うんだよ」
 ブラウスの脱ぎ方が変わる理由…。
「ひょっとして、腕を怪我したとかでしょうか」
 そこでもう一度指がパチン。
「そう。肩や腕を痛めてる時はバンザイして脱ぐのは難しいよね。ねえムーン、私はよそを向いてるから被害者の身体を確かめてみてよ」
「わかりました」
 警部は壁の方を向く。ド変人なくせにこういう所は律儀なんだよなあ、この人。例え死者でも若い女性の羞恥心に気を遣ってあげる…私が警部を嫌いになれないのはその優秀さだけでなくちゃんとこういう優しさを持っている人間だからだ。私は床に膝をつくと、失礼して彼女の上半身の服をめくって調べる。すると両肩と両上腕からほのかに湿布の香り…指で触れると少しベタベタするからきっと塗るタイプの湿布だ。
「警部、ビンゴみたいです。そのまま少々お待ちください」
 服を戻してから私は立ち上がる。さっき調べた時、寝室の戸棚には湿布薬はなかった。だとすると…私にも経験がある、塗り薬は入浴の後で塗る人が多いはず。脱衣場の洗面台をチェックすると、歯ブラシや化粧水に並んでスティック状の湿布薬が置いてあった。蓋を開けてみると同じ香り。しかもゴミ箱には薬の効能を記した病院発行の説明書、しっかり処方日も印字されている。それらを手にして私は寝室へ戻った。
「間違いありません。被害者は両肩と両上腕を痛めておられたんですよ。水曜日に病院で塗り薬をもらっておられます」
 報告すると、壁を向いたままだった警部も満足そうに振り返った。
「これで吉川線がなかった理由もわかったね」
「はい、腕が上がらなかったとすれば首を絞められても抵抗できません」
「となると…おかしなことになるよね」
 変人上司はまたゆっくりベランダを見た。白いブラウスたちがわずかに夜風にそよいでいる。
「腕が上がらないのに、どうやって洗濯物を干したのかな?」
 警部の口元に笑みが浮かぶ。見つけたのだ…『取っ掛かり』を。