第二章① ~秋元早苗~

 また眠れない一夜を過ごして喫茶店で和樹さんと会う。お店は一昨日と同じでも雰囲気はまるで別物。あの時は詩織の浮気のことで悩んでた彼だけど、今のダメージはその比じゃない。モーニング代わりに注文したはずのフルーツの盛り合わせにもお互いほとんど手が伸びない状態。
「和樹さん、今日お仕事は?」
「休んだよ、さすがにそんな気分じゃないから」
「私もです」
 また沈黙。会話はすぐに止まってしまう。窓から差し込む眩しいくらいの朝日もちっともこの場を明るくしてくれない。それでも…彼の顔を正面から見られる今の世界は私にとって幸福だった。詩織には悪いけど、これからは私が和樹さんの正面に座るわ。
「そういえば今朝、女の刑事さんから電話があったよ」
 コーヒーを一口飲んでから彼が言う。
「聞き間違いかもしれないけど、ムーンとかいう変な名前の刑事さんだった。詩織がどんな貴金属を持ってたのか質問されたけど、正直俺にはわからなくて」
「きっと空き巣に何を盗まれたのかを調べてるんでしょうね」
「あと、昨日一日どこでどうしてましたかって訊かれたよ。友達とドライブしてたって言ったら一応納得はしてくれたけど…これってアリバイ確認ってやつだよね。俺、疑われてんのかな」
「ごめんなさい」
 私は頭を下げる。
「そのムーンっていう刑事さんに和樹さんの連絡先を教えたのは私なんです。昨日、詩織の部屋で会った時にどうしてもって言われて。でも、大丈夫ですよ。アリバイ確認なら私もされました。関係者全員にする質問だって言ってました」
「ならいいけどさ。ほら、頭上げてよ、別に早苗ちゃんを責めてるわけじゃないから。ハハハ、詩織がいなくなっただけでも死にそうなのに、殺人犯にされちゃったら本当に俺、生きていけないなあ」
 彼は冗談めかしながらフォークで器用にマスカットを取って口に運んだ。
「ほらほら、早苗ちゃんも食べて。詩織のためにも俺たちは元気出さないとね」
「そうですよね」
 私も無理に笑ってオレンジを一口。なんだかとっても苦かった。
 そう…わかってたけどね。詩織がいなくなったからって私がそのポジションにおさまるわけじゃないって。和樹さんにとっての詩織は唯一無二、この世から消えたって追憶のヒロインとして永遠に彼の心に君臨する。
「早苗ちゃん、どうしたの? 恐い顔して」
 小首を傾げる彼。気付けば私は険しい顔で歯を食いしばってた。
「あ、ごめんなさい。事件のこと考えてたらつい」
「そっか、そうだよね。俺だって犯人は絶対許さない。でも…ありがとう、早苗ちゃん」
「え?」
「詩織のために怒ってくれてさ。あいつも天国で感謝してるよ」
 優しい笑みに胸が締め付けられる。やっぱり…あきらめられないよ。
 神様、願ってもいいですか? 他に何もいりません。彼の心の中でも詩織のいた席に私を座らせてください。どうか…このとおりです!

 …カラン。

 入り口のドアが開くカウベルの音。そっちを見て私はまた叫びそうになった。あの異様な刑事が立っていたのだ。

 確か名前は…カイカン。刑事は私に気付くと片手を挙げて会釈した。
「あの人誰?」
 私の視線に気付いた和樹さんが尋ねる。
「刑事さんです。詩織の事件を担当してる人。和樹さんが電話で話したムーンさんはあの人の部下なんです」
「そうなんだ。じゃあ俺に会いに来たのかな。いや、その電話で今日は早苗ちゃんとこの喫茶店で会う予定って伝えたから」
「そうだったんですか」
 そうこうしてるうちにカイカンはここまで来た。
「おはようございます秋元さん。そして…水橋和樹さんですね。初めまして、警視庁のカイカンと申します。少しご一緒してよろしいですか?」
 店内は空いていた。だから私たちは四人掛けのテーブルに二人で座ってた。それがいけなかった。カイカンはアイスコーヒーを注文すると平然と私の隣に腰を下ろしてしまう。
「お二人はホットコーヒーですか。私は根っからの猫舌でアイスコーヒーしか飲めないんですよ」
 そんなどうでもいい話題を振りまきながらカイカンは私と和樹さんの顔を見比べる。特に私の顔は失礼なくらいジロジロ見てる。
「今日は何の集まりですか?」
「何のって…」
 私は不機嫌になって答えた。
「詩織を偲ぶために決まってるじゃないですか。あんなことがあって、一人でいてもつらいですから、それで二人で話すことにしたんです」
「そうですか…そんな所に割り込んじゃってごめんなさい」
「いえ、いいんです」
 今度は和樹さんが答えた。
「俺も警察からゆっくり話が聞きたかったんで。捜査の方はいかがですか? 早苗ちゃんからは詩織は空き巣に襲われたのかもしれないって聞きましたけど」
「そうですね」
 カイカンは少し辺りを伺ってから答えた。
「確かにその可能性もあります。実際にあのアパートには前にも空き巣が入ったことがあるそうで、近くの交番に記録が残っていました。亡くなった及川詩織さんの部屋は2階、プロの空き巣ならベランダから侵入できたでしょう。実際に寝室の引き出しからアクセサリーも盗まれてるようですし」
「じゃあやっぱり、彼女は空き巣と鉢合わせして襲われたんですね」
「そうとも限りません。色々と不可解な点もありましてね。例えばそう、確かにアクセサリーは盗まれてるんですがそれは普段身に着ける物でそれほど高価な物ではないんですよ。実際に洋服箪笥の奥にあった高額のジュエルは手付かずでしたし、ベッドの下の引き出しの奥には現金と一緒にカードや通帳も保管されたままでした。プロの空き巣が見落とすとは思えないんですけどね」
「それは…詩織を殺してしまったから、探さずに大慌てで逃げたんじゃないですか?」
 私が言う。くそ、くそ、洋服箪笥とかベッドの下の引き出しとか、そこまではチェックしなかった。普段あんまりアクセサリーとかしないから宝石箱にあったやつだけで十分高級品だと思ってしまった。
「しかしですね、盗まれたアクセサリーと同じ引き出しに入っていた腕時計も手付かずなんですよ。これ、かなりの高級品でしてね、売れば百万円は下らない代物です。亡くなったお父さんの形見で、詩織さんはよく身に着けておられたそうです」
 あの使い古しの腕時計が…私はぐっと唇を噛む。すると和樹さんが自分の腕時計を示しながら言った。
「見てください刑事さん、これだってそこそこの値段ですけどみんながその価値を知ってるわけじゃありません。世の中には目利きができない空き巣もいるんじゃないですか?」
「まあ…」
 カイカンが水を一口飲む。
「そうかもしれません。でも不可解なのはそれだけじゃないんです。昨日もお伝えしましたが、玄関のドアの鍵が掛かっていなかったのは謎です。ベランダから侵入した空き巣が玄関から逃げるとは思えません。
 それともう一つ…冷蔵庫のアラームの謎」
「え?」
 彼が聞き返す。当然だ、突然そんな単語を出されても普通はわけがわからない。でも私は心臓が止まるかと思った。あの時の…キッチンで詩織の首を絞めた時の情景が目の前にフラッシュバックする。

 ピッ、ピッ、ピッ…。

 ピピッ、ピピッ、ピピッ…。

 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ…。

 そうやって徐々にボリュームを上げながら鳴り響いた冷蔵庫のアラーム。
「秋元さん、大丈夫ですか? 顔色がお悪いですが」
「だ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけです。続けてください」
 私は誤魔化すようにコーヒーを飲む。カイカンはまた和樹さんに視線を戻した。
「冷蔵庫の扉が開けっ放しの時に鳴るアラームがありますよね。詩織さんの部屋の冷蔵庫は、開けっ放しの時間が長くなるほどアラームのボリュームが大きくなるタイプだったんですよ」
「そうでしたか。あの冷蔵庫、去年俺と一緒に買ったんです。冬に入る前にいくつか他の家電と一緒に」
「確かにまだ新しい冷蔵庫でしたね。うちのはもう十年くらい使ってるからかなりボロボロでして。ちなみに他にはどんな家電を買われたんですか?」
「そんなこと!」
 こたつの話題が出るのを阻止するため、私は声を荒げてしまう。和樹さんも驚いてこっちを見た。
「そんなこと、今関係ないじゃないですか。刑事さん、アラームがどうしたんですか? 私も和樹さんも無駄話できるほどまだ余裕ないんです」
「失礼しました。どうも脱線してしまう性分で。そうですね、話を進めましょう。詩織さんの冷蔵庫のアラームですが、開けっ放しになって3分経つと鳴り始めるんです。そこから1分ごとにあと二段階ボリュームが大きくなっていく仕組みでした。
 それでですね、昨日、周辺に聞き込みをしたらお隣の住人がその冷蔵庫のアラームを聞いてらっしゃったんです」
「それが何かおかしいんですか?」
 と、和樹さん。興味津々といった感じに少し身を乗り出してる。
「実際にお隣の部屋にお邪魔して確かめてみたんですけどね、ボリュームが小さいうちは壁に遮られて聞こえないんですよ。聞こえるのは最大ボリュームになってから…つまり冷蔵庫を開けて5分経過してからということです。詩織さんはどうして5分間も冷蔵庫を開けっぱなしにされたんでしょうか」
「たくさん食材を詰めていたら5分くらいかかるでしょう。不可解でも何でもないですよ」
 と、私。
「そんなにたくさんの食材は入ってませんでした。いや仮に時間がかかったとしてもアラームがピーピー鳴る中で作業するのはわずらわしいでしょう。一回扉を閉めればアラームは止まるわけですから、普通はそうしませんか? 実際にお隣さんが冷蔵庫のアラームを聞いたのは昨日が初めてだそうです。だから何の音だろうって印象に残ったとおっしゃっていました」
「それは…詩織が冷蔵庫を開けっぱなしにしたまま出掛けちゃったとか」
「アラームはその後少しして止まっています。自動的に止まることはないんで誰かが扉を閉めたのは間違いありません」
「じゃあトイレとかお風呂に入ってたとか」
 苦し紛れの私の返答にカイカンは答えない。ただ腕組みをして小さく唸るのみ。すると和樹さんがさらに身を乗り出して言った。
「ひょっとして刑事さんがおっしゃってるのはこういうことですか? アラームが止まらなかったのはその時詩織が襲われていたからだって」
 私の心臓がまた止まりそうになる。
「その可能性があると思っています。例えば詩織さんが冷蔵庫を開けたタイミングで犯人に襲われたとすればどうでしょう。しばらく犯人の両手は首を絞めるために塞がっていたことになります。だからアラームが鳴りだしても冷蔵庫の扉を閉めることができず、凶行を終えてからようやく閉めた」
 またあの時の情景がフラッシュバックする。テーブルの下で両膝が小刻みに震え出した。
「やっぱり顔色がお悪いですが、大丈夫ですか?」
 カイカンが私を見る。和樹さんが代わりに答えた。
「そりゃそうですよ刑事さん、詩織が首を絞められたなんて話されたら気分が良いわけないじゃないですか」
「そうですね、失礼しました」
「それより、もしも刑事さんの言うとおりだとしたら、お隣の人がアラームを聞いた時刻が犯行時刻ってことですよね」
「そのはず…なんですが」
 そこでカイカンの注文したアイスコーヒーが運ばれてくる。刑事はじらすようにゆっくりストローを取り出すと少しかき混ぜてから一口飲んだ。そんな仕草を私と和樹さんで見守る。
「やっぱりプロのコーヒーはコクが違いますね。えっと、それで続きですが、ご遺体を調べたところ亡くなられたのは昨日の午後1時から3時の間と推定されました。しかしお隣の住人が冷蔵庫のアラームを聞いたのは朝の9時頃なんです」
 和樹さんが落胆して息を吐く。
「だったらアラームは無関係じゃないですか」
「だとすると詩織さんはどうして5分間以上冷蔵庫を開けっぱなしにしたんでしょうか」
「知りませんよ、そんなの!」
 私はまた怒ってしまう。
「昨日の午後、私は詩織と電話で話しました。一緒に晩ごはんとボウリングに行く約束をしたんです」
「詩織さんのスマートフォンにも履歴が残っていました。通話されたのは午後1時頃です」
「そうですよ。だったら詩織はその時まで確実に生きてたわけですから、午前中の冷蔵庫のアラームとか全然関係ない話じゃないですか」
 カイカンは口の中で「確実…」と呟く。それが余計に私の神経を逆なでした。
「まあまあ早苗ちゃん、そんなにエキサイトしないで」
「だってこの人、詩織が死んじゃったのに関係ない話ばっかり」
「怒らせて閉まってすいません。ただですね秋元さん、どうも詩織さんの行動がちぐはぐなんです」
 カイカンはまたストローに口をつける。
「実はあなたとの通話の後に詩織さんは一つ電話をかけておられました。宅配便の再配送依頼です」
「それがおかしいんですか? だったら早苗ちゃんが言うように、やっぱり詩織はその時刻まではちゃんと生きてたってことでしょう」
 和樹さんが加勢してくれて私は百人力を得る。しかしこのむかつく刑事は全くひるまない。
「再配送を依頼したということは一度届けに来た時に受け取れなかったということです。確認したら届けに来たのは昨日の午前9時頃、つまりさっきの冷蔵庫のアラームと同じ頃です。何度かインターホンを鳴らしても応答がないから不在伝票を残して宅配のお兄さんは去ったそうです。
 変ですよね、その時詩織さんが在宅してたのなら、どうして宅配を受け取らなかったのでしょうか?」
「それこそトイレや風呂に入ってたとかじゃないですか?」
「時間指定の、しかもなるべく早く届けてほしいという注文だったそうです。それを忘れてお風呂に入るとはさすがに…」
 和樹さんもぐっと唇を噛む。私は小さく深呼吸すると少し笑って打開策に出た。
「やだなあ刑事さん、女心がわかってませんね。応対に出たくても出られない時だってあるんですよ。例えばすっぴんでメイクしてなかったとか。詩織は美人だからそういう意識も高いんです」
「ナルホド、そういうことですか」
 カイカンもわずかに笑顔を見せる。
「それは思いつかなかったなあ。やっぱり三人寄れば文殊の知恵ですね」
「それに詩織が亡くなったのは午後なんですよね? だったら午前中の行動にそんなにこだわらなくてもいいと思いますけど」
「おっしゃるとおりです。不愉快な質問ばかりしてごめんなさい。ただ事件前の被害者の様子を知るのも捜査ではとても重要なことなんです。けっして興味本位でつつき回しているわけではないので、どうかそれはご理解ください。すいませんでした」
 今度は馬鹿に素直に頭を下げる。この豹変が不気味だ。この刑事、いったいどこに本心があるのか。
「俺たちこそ、突っ掛かっちゃってごめんなさい」
 和樹さんが代表して謝ってくれる。
「詩織を殺した犯人を逮捕してほしい気持ちは俺たちも一緒です。ね、早苗ちゃん?」
 もしも逮捕されたら私、もう和樹さんに会えなくなっちゃうんだな…そう思って一瞬テンポが遅れた。私は急いで「はい」と答える。
「そのためなら俺たちいくらでも協力しますよ、刑事さん」
「ありがとうございます。ではもう少しだけよろしいですか」
 カイカンは視線を上げると、また私と和樹さんの顔を見比べた。そしてコートのポケットから取り出した物体を口にくわえてから言う。
「お二人と詩織さんのこれまでのことを教えていただけますか? ちなみにこれはタバコじゃなくておしゃぶり昆布ですからご安心ください」

 話を聞きながらカイカンは好物だというおしゃぶり昆布をタバコのように指に挟んだり、口にくわえて腕組みしたりしていた。私と和樹さんも時々フルーツをつまみながら、詩織との思い出を言葉にしていった。そして一通り聞き終えると不自然なくらいゆっくりと刑事は頷いた。
「詩織さんがお二人にとってどれだけ大切な存在かがよくわかりました。それでは水橋さん、特に彼女ともめていたなんてことはなかったわけですね?」
「そりゃあまあつき合ってたら喧嘩したりは時々ありましたけど、でもまあ早苗ちゃんも相談に乗ってくれるし、そんな深刻なものはなかったですよ」
「そうですか。秋元さん、あなたは水橋さんと詩織さんにとってキューピッドなんですね」
「やめてください、そんなたいそうなことはしてません。ただ二人とも私にとっては大切な存在ですから」
「いやあ、本当にいい人ですね」
 目を合わせずにそう言うとカイカンはくわえていた昆布をポケットに戻した。
 いい人…か。そう、私はいい人。親友が自分の恋した人とつき合ってもちゃんと祝福するいい人、二人の雰囲気が淀んだ時は冗談言って場を和ませるいい人、二人が二人っきりになりたそうな時は気を利かせて先に帰るいい人…!
「早苗ちゃん?」
 正面の和樹さんの顔がぼやけた。気付けば私の瞳からはポロポロ涙がこぼれてた。
「やっぱりつらいよね。ほらこれ使いな」
 彼がハンカチを渡してくれる。受け取って目に当てるととっても柔らかかった。
「ごめんなさい、和樹さん」
「いいっていいって。ほら、ミカンが残ってるぞ。食べる?」
「もう、それ、オレンジですってば」
 そう答えながら私は笑った。泣きながら笑った。そしてちょっとドジだけど心があたたかいこの人がやっぱり大好きだって思った。
 慰めてもらいながら一口食べると今度はとっても酸っぱい。そんな私の様子を見て和樹さんも小さく笑む。そして私たちは初めて無言で見つめ合った。
 そのまま彼の瞳に吸い込まれそうになったけど、ふと気付けばカイカンは黙ったままだ。視線を逸らして隣を見ると刑事は沈黙…いや、沈黙というより完全に固まってる。まるで凍り付いてしまったみたいにそのままの姿勢で動かない。
「刑事さん?」
 和樹さんが尋ねる。でも全くの無反応。二人で顔を見合わせたところでようやく低い声が答えた。
「すいません、考え事をしていました。ではそろそろ私はおいとましますね」
 カイカンがコーヒーを飲み干して席を立つ。すると和樹さんが慌ててポケットから何か小さな紙を取り出した。
「あの、刑事さん、これ。今朝電話で話した女刑事さんから言われたんですよ、昨日の日中、友達とドライブに行ってたことを証明する物があれば提出してほしいって」
「ナルホド」
 カイカンは受け取ってそれをまじまじと見た。
「昨日はお台場まで行ってたんで。途中で寄ったレストランのレシートです。これでよろしいですか?」
「十分でしょう。ご協力感謝します」
 刑事はそれもポケットにしまうとまだ少しグズついている私を見る。
「お邪魔しました、秋元さん」
 そのままテーブルを離れていく。ようやくこれでまた二人だけの時間…と思ったが、カイカンの足はピタリと止まった。
「ああそうそう、一つ言い忘れていました」
 右手の人差し指を立てると少しだけ振り返って低い声は続ける。
「詩織さんですが、両肩を痛めておられたことがわかりました」
「えっと、それは…犯人に襲われて痛めたんですか?」
 和樹さんが問う。
「いいえ、水曜日に会社の倉庫で痛めたそうです。重たい荷物を持ったまま転んだとかで。その日に整形外科を受診して塗り薬をもらっていらっしゃいます。お医者さんに確認したら、両腕を肩より高く挙げるのも難しかったそうです」
「そうでしたか。すいません、先週は忙しくて詩織と会ってなかったんで。でも、それが何か?」
「いえいえ、特にそれがどうのというわけではないんですが」
 そこで刑事は視線だけを私に向けた。
「肩を痛めてるのに…ボウリングの約束をしますかね?」
 途端に涙が止まった。今度は私が凍り付く。
 誰も何も発さない中、やがて進行方向に向き直るとボロボロのコートの後ろ姿はそのままレジへ行き、またカランとカウベルを鳴らして喫茶店を出ていった。