第一章① ~秋元早苗~

 心臓麻痺を起こすかと思った。危うく叫びそうになる口を私はとっさに手で覆う。
 鳴ったのは玄関のインターホン。こんな時に来客…まさか和樹さん? どうしよう、こんなとこ見られちゃったら私…。背中に冷たい汗が伝うのがわかる。

 ピンポーン。

 再び鳴らされるインターホン、続いて「宅配便でーす」の声。よかった、和樹さんじゃない。よし、焦るな、焦るな。なるべく物音を立てないように私は息を殺して直立を保つ。

 ピンポーン。

 三度目が鳴る。反応がないのであきらめたのか、宅配員は郵便受けに不在伝票を差し入れて去っていった。
「ハア…」
 やっと息がつける。私はペタンとキッチンの床にへたり込んだ。

 脈が落ち着くのを待って私は腰を上げた。さてと、これからどうするか。ちょっと取り乱しかけたけど今の私は驚くほど冷静だった。
 潔く警察に自首する? それは嫌。人を殺すのは悪いことだけど、詩織だって浮気して和樹さんの心を殺した。私のことだって傷付けた。先に裏切ったのは詩織だもん。もし浮気が和樹さんの勘違いだったらいいなって私も最後まで願ってた。でも…詩織は認めた。背徳のシナリオを演じたのは詩織だ。悪人を罰したんだからこれは私利私欲の殺人じゃない。だから私が刑務所に行くのはおかしい。
 よって自首は却下。となると次に考えるべきはどうやったら逮捕されずにすむかだ。このまま彼女の遺体を放置して立ち去ったらどうなる? うまくいってなかったとはいえ、和樹さんはメールか電話くらいは必ずする、詩織からの応答がずっとなければやっぱり訪ねて来ちゃうだろう。仮に和樹さんが来なくても明日になれば無断欠勤で職場の誰かが見に来るかもしれないし、連絡が取れなければ実家の親だって動くだろう。いずれにしても何日も遺体が発見されないなんてことはない。
 じゃあ遺体を隠しちゃう? 遠くの山まで運んで埋めるとか? 無理無理、文科系の私にそんな体力はない。これも却下。やっぱり遺体はこの部屋に置いていくしかない。
 じゃあこのまま遺体が発見されたとして、警察はどう考える? 犯人は部屋に出入りするような関係…きっと顔見知りの犯行だって思うよね。となれば家族とか友達とか恋人とか。ダメダメ、それだと私だけじゃなくて和樹さんまで疑われちゃう。
 それを避けるには…外部犯の仕業に見せかけるしかない。そうだ、前にこのアパートで空き巣騒ぎがあったって詩織が言ってたっけ。犯人はベランダから侵入した空き巣、詩織はそいつと鉢合わせして顔を見たから殺された。よし、これでいこう。
 あとは…そうだな、アリバイってのが作れたらいいんだけど。詩織が殺された時刻に私は別の場所にいましたって言えたら完璧。何とかならないかな。
 リビングを振り返った時、さっきまで入ってた家電が目に入る。
「こたつ…」
 思わず呟く。そして私の中に一つのアイデアが舞い降りた。そうだ、前に推理小説で読んだことがある。小説では電気毛布だったけど、きっとこたつでも同じことができるはず。うまくいけばアリバイを確保できちゃうかも。
 となるとあれも必要だ。私は遺体のポケットをまさぐって詩織のスマホを取り出した。指紋認証が掛かってるけどここに指があるから問題なし。なんなくロックを解除して私はそれを自分の上着のポケットに滑り込ませる。
 次は遺体をこたつの中へ運ぶ作業。両脇を持ってズルズルキッチンからリビングへ移動、うまくすっぽり中に納めることができた。熱さの設定は3段階の2にしておく。正直ビギナー殺人者の私には適温なんてわかんない。でも確か遺体をあたためておけば死亡推定時刻を遅らせることができたはずだ。壁の時計を見ると午前9時半。今度は洗面所へ行って洗濯機を覗く。仕事用の白いブラウスが結構たまってる。よし、じゃあこれを…。
 私はそばにあった液体洗剤を投入して洗濯機をスイッチオン。すぐにゴトゴトと回り始めた。洗濯機が回ってる間にいかにも空き巣に荒らされたって感じで寝室の戸棚を物色、宝石箱のアクセサリーを適当にポケットに忍ばせる。使い古しの腕時計もあったけど…まあこれはいいか。
 三十分ほどで洗濯が仕上がったのでそれを寝室のベランダの物干し竿にハンガーで吊るしていく。詩織は几帳面な性格だって思ってたけど案外そうでもないみたい。ブラウスはしっかり前がボタンで留められてる物もあれば、全く留められてなくて全開の物もあった。でも変にそれらを統一すると逆に不自然かもしれないから私はそのまま干すことにした。
 よし、お洗濯は完了。これで警察は午前中は詩織が生きてたって思ってくれるんじゃないかな。私は今から街をぶらついて夕方までのアリバイを作ればいい。そうだ、私だけじゃなくて和樹さんのアリバイもあった方がいいよね。
 自分のスマホで彼にコール。これまでは発信ボタン一つがなかなか押せなかったのに、今はこんなにあっさりできるのが不思議。何かがふっ切れたみたい。
「もしもし水橋です」
 彼はすぐに出てくれた。
「あ、私、秋元です」
「早苗ちゃんか、昨日はサンキュ。どうしたの? もしかしてもう詩織と話してくれたの?」
「えっと、それはまだなんですけど、今夜にでも詩織と一緒にごはん食べようかと思ってるんです。その時に頃合いを見て探ってみようかなって。だから和樹さん、今日は詩織を刺激しないようにそっとしておいてあげてください。電話もメールもしない方がいいかな」
「わかったよ。そうだね、そうする。じゃあ悪いけど早苗ちゃんに託すよ」
「和樹さんも今日は一日リフレッシュしてください。一人でモヤモヤしてちゃダメですからね」
「了解。ちょうど男友達と遠出しようかなって思ってたんだ」
「いいと思います。ぜひそうしてください。大丈夫です、私は二人のキューピッドになりますから」
「本当にありがとう、早苗ちゃん。詩織といい関係に戻れたら絶対お礼するから」
「三人でおいしい者食べに行きましょうね、もちろん和樹さんのおごりで。なーんて、それじゃあまた」
 明るく通話を切る。詩織といい関係に戻れたら…そんな彼の言葉が胸にチクリと痛んだ。でも、彼のためにもこの計画は絶対にやり遂げないと! 友達と遊ぶんならひとまず和樹さんのアリバイは大丈夫、彼が警察に疑われることはない。よし、これでよし。
 ちょっと涙が出そうになるのをぐっとこらえて私は玄関へ向かう。確かこの辺りに…あった、この部屋の鍵。靴箱の上のそれを手にした時、そこに置かれた写真立てが目に入る。それは…詩織と私のツーショット。学生時代最後の思い出にって、一緒にサイパンに行った時に撮影した一枚。二人でキャーキャー言いながらパラセイリングに挑戦して、熱帯魚を見て、カクテルで酔っ払って…相変わらず浜辺でナンパされるのは詩織ばっかりだったけど、それでも…楽しかったな。
 私はそっとこたつを振り返る。
 詩織…どうして、どうしてこんなことになっちゃったんだろうね。あの時和樹さんと出会ったファミレスに入ろうって言ったのは私。この運命の糸を手繰ったのは私なんだ。
 でも詩織、私、ごめんねは言わないよ。詩織を殺しちゃったのはきっと一生つらいだろうけど…でも私、絶対後悔しない。ここから必ず幸せになってみせる。
 ぎゅっと鍵を握り締める。見るとドアの郵便受けにさっきの宅配便の不在伝票。詩織が生きてたように思わせるためには再配送も頼んでおいた方がいいよね。私はそれもポケットに突っ込むとそのまま部屋を出てドアを施錠、人目につかないようにアパートを立ち去った。

 そこからはアリバイ作り。盗んだアクセサリーを川に捨てるとバスで街まで出て、できるだけ防犯カメラがあるような大きなお店を巡ってショッピング、レシートもゲット。
 ランチはお昼時なのにガラガラの小さな洋食店で摂ることにした。ここなら店主さんが顔を憶えててくれそうだ。あえてカウンターの近くの席に座る。壁の時計は午後1時。注文したオムライスが届くまでここで偽装工作を講じることにする。
「あ、もしもし詩織?」
 自分のスマホからポケットの中の詩織のスマホへ発信。客席での通話はマナー違反だけど他にお客さんもいないし、それにその方が店主さんの印象に残るだろう。
「今夜晩ごはん一緒にどう? よかったらついでにカラオケかボウリングでも…え、ボウリング? 詩織も好きだねえ。了解、でも勝つのは私よ」
 迫真の一人芝居を打つ。
「はいはい、じゃあ私が5時頃詩織の部屋に迎えに行くから。楽しみにしてるね、うん、じゃあまた後で」
 茶番劇を終えて二つのスマホの通話を切る。
これでよし。詩織が1時までは生きてたって証拠になるはずだ。おっといけない、あれも忘れないうちにやっとこう。私は店主さんにトイレの場所を聞き、個室に入ると不在伝票を取り出し、今度は詩織のスマホで再配送センターに電話した。
「すいません、今朝不在伝票が入ってた及川ですが」
 彼女を装って伝票に記された必要事項を伝えると、オペレーターは手際よく応対してくれた。
「ご確認が取れました。本日ですと午後4時頃の再配送が可能ですが」
 それはまずい。詩織の部屋に戻って偽装工作してる時に鉢合わせしちゃたまらない。
「いえ、本日は都合が悪いので…明日でお願いします」
「明日の何時頃に致しましょう」
「何時でも…」
 そう言いかけて口をつぐむ。危ない危ない、明日は月曜日、詩織が生きてたら当然会社へ行ってるはずだ。
「一番遅い時刻でお願いします」
「かしこまりました。では明日の午後7時から9時の間で承ります」
「よろしくお願いします」
 通話を切る。よし、これで詩織が午後1時過ぎまで生きてたことはさらに確実になった。私は計画の進捗にほくそ笑む。
 トイレから戻るとちょうどオムライスも来た。確かに特別な味じゃないけど十分おいしいレベル。お客が少ないのはやっぱり店が地味だからかな。綺麗にたいらげると私は店主さんにお礼を言って洋食店を出た。

 さて、どうしようかな。もう少し時間があるから…やっぱり古書店巡りといきますか。
 そう、それは長年に渡る私のライフワーク。小学生の時に一度だけ古本屋で見かけた童話の本、表紙の絵がすごく素敵で、どうしても欲しかったからお小遣いを前借りして買いに行ったのにもう売れてしまっていた。それからずっと私はその一冊を探し続けているのだ。題名も憶えてないけど、表紙の絵は今でも脳裏に焼き付いてるから見れば必ずわかる。
 私はしばし犯罪計画を忘れて古書店を巡った。でもやっぱり…見つからない。
 心はまた苦笑い。つくづく私は祈るような生き方しかできないみたい。

 午後4時半。私は詩織のアパートに戻った。ドアを開けると静寂の室内に一瞬背中がぞわっとしたけど、ここまでやったんだ、もう引き返せない。私は鍵を靴箱の上に戻し、リビングに入る。こたつの中には遺体がそのままの姿でそこにあった。いい感じにあたたかい。私はまたズルズルそれを奥の寝室まで引きずっていく。ベランダのガラス戸を少し空けてその近くの床に倒れた詩織をセッティング。これで侵入した空き巣に襲われたように見えるはず。不在伝票と彼女のスマホはベッドの枕元に転がしておく。あとは…あれだ、最大の証拠品を片付けないと。
 私はリビングへ引き返す。こたつの電源を切ってコンセントを抜く。こたつの上に置かれたミカンの入った籠はキッチンのテーブルの上へ移動。こたつを解体、物入れへと運搬する。警察が物入れの中までチェックするかはわからないけど、なるべくならこたつの存在には気付かせたくない。私はできるだけ物入れの奥の方にこたつ本体をしまうと他の物品をうまく動かしてそれを隠す。こたつの脚と布団は頭上の棚の一番奥に押し込んでこれもダンボール箱でカムフラージュ。
 はい出来上がり、ぱっと見でこたつはわからない。リビングを見回してみたけど、こたつがなくなったからって特にレイアウトに不自然さはない。…完璧。これで遺体をこたつであたためて死亡推定時刻をずらしたなんて警察は想像しないはず。
 壁の時計を見ると午後5時過ぎ。よし、ここからもうひと芝居。一度ゆっくり深呼吸。うん、やれる! 私は今からアカデミー賞女優だ。自分のスマホで119番にコールした。
「あ、あの、す、すいません、救急車をお願いします。今、と、友達の部屋に来てみたら…!」

 世の中には上には上がいるって本当だな。救急隊が詩織の死亡を確認してから三十分後、やってきた女刑事はまるでドラマで女優が演じてるみたいな美人だった。切れ長の瞳に少し茶色に染めた肩までの髪。黒髪和風美人の詩織とは違うタイプだけど…もうここまでくるとうらやましいとも思わない。それに今の私はそんな感想をおくびにも出せない立場、親友を襲った悲劇に打ちひしがれなきゃいけないんだから。
 奥の寝室では現場検証っていうのか鑑識作業っていうのか、専門の人が写真を撮ったり指紋を採取したりなんだか色々やってる。私はリビングの隅で立ち尽くしているポーズ。すると寝室からあの女刑事が出てきた。
「申し送れました、警視庁捜査一課のムーンと申します」
 改めて警察手帳を見せられる。近くで見ても超美人…なのはいいとして、ムーンってそれ本名? でも今はそこに妙なリアクションもできない。
「通報した秋元です」
「この度はとんだことで…。大丈夫ですか?」
「はい…いえ、あんまり大丈夫じゃないかもですけど」
「当然です。お話を伺うのはもう少しあとにしましょうか」
「いえ、それは平気です。詩織のためにいくらでも協力したいんで」
 大袈裟に拳を握って答えると、女刑事は表情を崩さずに小さく頷いた。
「わかりました。ではいくつかお尋ねしますね。まずは亡くなった及川詩織さんとのご関係、そして遺体発見の経緯を…」
 彼女は手帳を開くとペンを構え、慣れた手並みでいくつかの質問を投げた。それに答えるという形で私は詩織とのことを話していく。大学時代からの親友で社会人になってからも交流が続いていたこと、今夜も一緒に食事とボウリングをする約束をしていたこと、それで迎えに来たら心室で倒れている彼女を発見したこと…。不思議だった。半分以上は嘘なのにそれでも話しているうちに涙が溢れたのだ。
「おつらいですよね。これ、使ってください」
「いえ、大丈夫です」
 差し出されたハンカチを断わって私は自分のハンカチを目に当てる。すると少し声色を変えて女刑事は別の角度からの質問を向けた。
「詩織さんにこんなことをする人物に心当たりはありますか?」
「それって…知り合いが詩織を殺したってことですか?」
「現段階ではあらゆる可能性を考えています。いかがでしょう、彼女が誰かに恨まれていたということはありませんか?」
「ないですね」
 私はきっぱりと答えた。
「詩織は優しくて思いやりがあって…殺されるほど誰かに恨まれるなんて絶対ないです」
「男性関係はいかがでしょう。彼女がおつき合いされていた方とか、一方的に彼女につきまとっていた方とか、ご存じありませんか?」
 鋭い目が向けられる。一瞬女刑事の仲に男への憎悪みたいなものを感じたけど…考え過ぎかな。若い女が被害者の場合は痴情のもつれが動機…そんなセオリーが警察にはあるのかもしれない。
「彼氏はいました。でも…そんなことする人じゃありません」
「その方のお名前、もしご存じでしたら連絡先も伺えますか?」
 有無を言わさぬ語調だった。しょうがない、遅かれ早かれ警察は和樹さんの存在にたどり着くだろう。私はスマホを操作して彼の名前と電話番号を示した。
「水橋和樹さんですね。ありがとうございます」
 素早くメモしてから女刑事は室内を振り返る。
「いかがでしょうか。何かリビングとキッチンに不審な所はありませんか? 例えば何かがなくなっているとか、動かされているとか…どんな些細なことでも結構です」
「そう言われても」
 私は一応一通り見回してから答える。
「半年くらいここには来ていなかったんで。でも、記憶してる部屋の様子と特に違う所はありません」
「どうして半年来てらっしゃらなかったんですか?」
「去年の夏から詩織と和樹さんが交際を始めたんで…遠慮したって言いますか、外では変わらず会ってたんですけど。今日も迎えに来ただけで、詩織が出てくれば部屋の中まで入るつもりはありませんでした。
 そんなことより刑事さん、リビングとキッチンに不審な所はないかって…詩織は奥の寝室で殺されたんじゃないんですか?」
「遺体の服に少し引きずったような跡があります。もしかしたら別の部屋が犯行現場かもしれません。あくまで可能性ですが」
「そんな…でも、リビングもキッチンも綺麗に片付いてるじゃないですか。ここで争いがあったんなら、テーブルがずれたり、ミカンが落ちたりしてると思います」
「フフフ…」
 突然不気味な笑い声。驚いて振り向くと玄関に異様な人物が立っていた。ボロボロのコートにハット、長い前髪は右目を隠してる。
「キャア!」
「大丈夫です、秋元さん」
 思わず悲鳴を上げた私にすかさず女刑事が声をかぶせた。
「この人は私の上司で、この事件を担当される警部です」
 こいつも刑事? しかも警部ってことは結構偉い人? でもなんでこんな格好してんの?
「驚かせてしまってすいません、警視庁のカイカンです」
 低くてよく通る声が挨拶した。カイカンって…見た目もおかしいけどその名前はいったい何? でもこっちの戸惑いなんかお構いなしにそいつはズカズカとリビングに上がってくる。
「警部、いつからそこにいらっしゃったんですか」
「やあムーン、ごめんごめん、話し掛けるタイミングがなくて。こちらの女性が第一発見者かい?」
「はい、被害者の友人の秋元さんです。秋元…」
「早苗です」
 そういえば下の名前を言ってなかったんで私は自分で付け加えた。カイカンは一瞬私を見ると、「よろしく」と答える。近くで見るとますます不気味。こんな奴が刑事なんてとても信じられないけど、女刑事は手馴れた様子でさっき私から聴取したことを報告してる。
「ナルホド」
 聞き終えてから独特のイントネーションで頷くと、カイカンがまた私を見る。
「秋元さん、お友達の遺体を発見されたわけですからさぞかしショックだったでしょう」
「それはもちろん」
「ですよね。あの、いくつか確認したいのですが」
 そこでカイカンは右手の人差し指を立てた。
「あなたがここにいらっしゃったのは午後5時でしたね」
「ええ。それが詩織との約束の時間でしたから」
「インターホンは鳴らしましたか?」
「あ、はい」
 実際には鳴らしてないけど私はそう答える。
「でも詩織さんは出てこなかった。それであなたはどうされました?」
「中に入りました」
「ではその時、玄関の鍵はどうされたのですか? あなたは合鍵を預かっていらっしゃった?」
「いえ、そうじゃなくて…鍵は掛かってませんでした」
 とっさにそう答える。そりゃそうだ、鍵を持ち出していたとは言えない。
「鍵は掛かってなかった…女性の一人暮らしにしては不用心な気がしますが」
「私が来るから開けておいてくれたのかもしれません」
「ムーン、被害者の死亡推定時刻は?」
 カイカンが女刑事を振り返って尋ねる。
「正確なものは解剖を待ってからになりますが…体温もそれほど下がっていませんでしたので、午後1時から3時頃と思われます」
 それを聞いて私は心の中でガッツポーズ。いい感じじゃん。それなら私のアリバイは完璧だ。しかし目の前のカイカンは渋い顔。
「遅くても3時頃には亡くなっていたわけだね。約束は5時…二時間も前から玄関の鍵を開けて待ってるものかな、う~ん…」
 しばらく唸ってから、刑事はさらに別の質問を投げた。
「ねえムーン、容疑者についてはどうなの?」
「まだはっきりしたものはありません。ただ、寝室のベランダのガラス戸が少し開いていました。遺体が倒れていたのはその近くです。一つの可能性ですが、ベランダから侵入した何者かが…」
「空き巣です!」
 私は思わず口走った。二つの顔が驚いてこっちを向く。
「あ、すいません…割り込んじゃって。でも、前に詩織が言ってたんです、このアパートで空き巣騒動があって警察も来たことがある、自分も気を付けなきゃって」
「そうですか。だとすると玄関の鍵を開けておくのはなおさら不用心ですね」
 カイカンが指摘する。くそ、そうか! 一貫性のある嘘をつくのは難しい。異様な刑事はそこで少し穏やかな声になって続けた。
「確かにここは2階ですから空き巣が侵入するリスクはありますね。留守だと思って入ったら詩織さんがいて、顔を見られたから思わず彼女を襲った…そういうことかもしれません。ムーン、室内に物色された形跡は?」
「寝室の戸棚がいくつか…今、鑑識さんが調べてくれています」
「ほら、だったらやっぱり空き巣ですよ」
 渡りに舟で私が言う。
「ベランダから入った空き巣は寝室を荒らして玄関から逃げた。だから玄関の鍵は掛かってなかったんですよ」
 うまく辻褄を合わせたつもりだったけどカイカンはまた顔をしかめる。
「それはいかがでしょう。ベランダから入った空き巣ならベランダから逃げそうなもんですが。それにベランダから玄関まで行ったのなら室内に土足で歩いた痕跡が残るはずです。まさかわざわざご丁寧に靴を手に持って歩いたとも思えませんから。ムーン、そんな足跡はあったかい?」
「いえ、ありません」
「リビングやキッチンが物色された形跡は?」
「それもありません」
 このカイカン…見た目は異様だけど頭は結構切れるらしい。余計な口添えなんかしたらかえって足元をすくわれかねない。これからは発言に注意しよう。
「ごめんなさい、素人が勝手なこと言って」
「いえいえ、むしろ助かりますよ」
 今度は途端に優しく微笑む。私はほっとしかけたが…。
「秋元さん、今日一日のあなたの行動を教えていただけますか?」
 突如向けられる質問。カイカンの口元は笑っていたが前髪に隠れていない左目はじっと私の反応を見てる。首筋にナイフを当てられたような気がした。こいつ…やっぱり油断できない。
「どういう意味ですか? それって、私を疑ってるってことですか?」
 こっちも少しきつめに返す。カイカンは右手の人差し指を立てたまま大袈裟に首鵜を振った。
「いえいえとんでもない。これは関係者のみなさん全員にうかがう形式的な質問です。いかがでしょう、午後5時にここに来るまでの間、あなたはどこで何をしていらっしゃいましたか? できるだけ詳しく思い出してください」
 本当に形式的な質問なのだろうか。私は慎重に回答した。
「今日は…特に予定もなかったんで朝はゴロゴロして、昼前から街でショッピングをして過ごしました」
「お一人のショッピングですか?」
「ええ、詩織と違って彼氏もいませんから。ちなみにランチも一人でしました。そうそう、ランチのために入ったお店で私から詩織に電話したんです、一緒に晩ごはん食べようって。それで5時の約束をして、また街をブラブラしてからここに来ました」
「ナルホド。念のためですが、ショッピングやランチをしたお店は憶えてらっしゃいますか?」
「やっぱり疑ってるんですね。適当に歩いたから全部は憶えてませんけど…そうだ、その時のレシートならあります」
 私は財布から数枚を取り出す。受け取ったカイカンはそれをじっと見てから満足そうに頷いた。
「ここに買い物や食事をされたお店とその時刻が書かれています。不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい、どんな可能性も考えなくちゃいけないのが私たちの仕事でして。でもこれで十分です。詩織さんが襲われた頃、あなたは街にいらっしゃった。それがよくわかりました。このレシート、お預かりしてもよろしいですか?」
「いいですよ。私こそ怒っちゃってすいません」
 そこで改めて二人の刑事の顔を見た。
「お願いしますね、詩織を殺した犯人を捕まえてください、絶対に」
 言いながらまた涙が溢れてくる。私の涙腺はいったいどうなってるんだろう。
「詩織は、詩織は…本当にいい子でした。私の親友です。どうか、よろしくお願いします」
 ダメ押しで頭を下げると床にポタポタ涙が滴る。刑事たちはもう何も言わなかった。

 グズつく私を女刑事は玄関先まで見送ってくれた。
「元気を出してください…といっても難しいとは思いますが、せめて今夜は早めに休まれてくださいね。ご協力ありがとうございました」
「いえ、また何かあればいつでもご連絡ください。事件の捜査、よろしくお願いします」
「恐縮です。ではここで失礼します」
 そんなやりとりをして詩織のアパートを出た。すっかり日は暮れている。涙が乾くまで少し歩いてから私は和樹さんに電話した。彼は出なかったけど、私が発信を切るとすぐにコールバックしてくれた。
「もしもし早苗ちゃん?」
「あ、今よろしいですか?」
「大丈夫だよ。詩織のこと、何かわかった?」
 不安と期待が入り混じった声。私は意を決する。
「和樹さん、詩織が…」
 彼女が殺されたこと、自分が第一発見者になったことを伝えた。彼は当然受け入れるまでに数分を要する。そして矢継ぎ早にいくつかの質問を投げた後、言葉を失くして慟哭した。
「和樹さん…思い詰めないでください。私にできることがあれば何でも、何でもしますから」
「ありがとう。でもきっと早苗ちゃんの方がもっとつらいよね。俺とはせいぜい一年、早苗ちゃんと詩織は学生時代からの親友なんだから」
「そんなこと…」
「いや、でも、ありがとう。そうか、詩織が死んじゃったのか。結構きついなあ」
「わ、私も淋しいです」
 お互い涙声で慰め合い、励まし合ってから、私たちは明日またあの喫茶店で落ち合うことを約束して通話を終えた。

 明日また和樹さんに会える…こんな時だっていうのに、それだけで私は嬉しかった。