プロローグ ~秋元早苗~

 親友。それは私にとってかけがえのない存在。いくつもの喜びを与えてくれ、いくつもの苦しみから救ってくれた恩人。自分を犠牲にしても守りたいと思うベストパートナー。
 なのに…私は今、その親友に手を掛けている。白くて細い首に延長コードを巻き付け、後ろから力の限り絞め上げている。

「悪いね、急に来てもらって」
 和樹さんから呼び出されたのは昨日…東京の汚れた空にも早春の水色が広がる土曜日の昼下がり。喫茶店で対面の椅子に腰を下ろした時、私は初めて彼の顔を正面から見た気がした。
 だって私の生きてる世界では彼の顔はいつも斜めから見るアングルだったから。大抵私の正面に詩織が座ってその隣に和樹さん。たまに詩織が私の隣に座ってもやっぱり和樹さんは彼女の対面に座る。どっちにしたって私と彼はいつも斜めの位置関係。当たり前だよね、和樹さんは詩織の彼氏なんだから。

 詩織とは大学のゼミで知り合った。美人で快活な詩織はテニスサークル所属、人並みの容姿で内気な私は文芸サークル所属。絵に描いたような光と陰ではあったけど不思議と気が合って、卒業してお互い就職してからもしょっちゅう一緒に過ごしてた。詩織には当然浮いた話がたくさんで、私はさっぱりだったけど、それでも二人で過ごす時間は楽しくて、彼女も恋人の有無に関わらず変わらぬ友情を私に注いでくれた。そりゃ胸の奥にちょっと針先が触れるくらいの痛みは時々あったけど、まあしょうがない、私には私の幸せがあるってことにして心のバランスを保ってた。
 それが一年前の春、和樹さんと出会ったことでこのバランスが崩壊する。
「よかったら相席しない?」
 詩織と二人で入ったファミレスはとても混んでて、たまたまそう言って相席を申し込んできたのが彼。一目惚れなんて人生初、私は自分でも笑っちゃうくらいあっさり恋に堕ちた。気さくな和樹さんのおかげでその場の会話も盛り上がり、連絡先を交換して解散。それから時々三人で遊ぶようになって、それで…二人から交際を告げられたのが夏だった。わかってたけどね、途中から三人で会ってても私だけ取り残される空気が二人の間にあったから。私も自分の想いをおくびにも出さなかったし、詩織に相談したりもしなかった。自分も男だったら絶対詩織を選ぶと思うし、まあ仕方ない、しょうがない、どうしようもない…笑顔でおめでとうを贈りながら心の中では私はがっくり肩を落としてた。そしてこの時、今までで一番詩織のことがうらやましいって思った。

 それからも二人はよく私を食事や遊びに誘ってくれた。嫌味やノロケとかじゃなく、本当にそれは二人の友情だったんだと思う。でも私にとっては地獄同然の時間。お決まりの斜めのアングルで、けっして私には注がれることのない彼の瞳を見つめてた。遊園地に行ったって二人乗りの乗り物は当然二人がセット、ジェットコースターの二人の後ろの席に私は一人で座って、いったい何をやってんだろって感じ。
 解散する時だって二人は一緒に帰っていく、私は一人の帰り道。ここから先は友情が立ち入れない愛情限定の時間…それがルールだもん。
 寂しくて悔しくて気が狂いそうになった。どんなにポジティブ思考を働かせたって私は可哀そうな存在だった。親友の幸せを喜べずに、心の中では別れてしまえって願ってる、そんな自分が嫌だった。

 それが年明けくらいからかな、詩織が前みたいに笑顔で和樹さんの話をしなくなった。バレンタインデーの時もこっちからどうだったのって話題を振っても流されちゃう感じ。もしかしてうまくいってないのかななんて思ってたけど、そうしたら和樹さんからの呼び出し。詩織には内緒で喫茶店に来てって言われて、私は後ろめたさよりもきっと期待を膨らませてた。
「どうしたんですか、改まっちゃって。あ、もしかして詩織と喧嘩ですか?」
 二人分のホットコーヒーが運ばれてもなかなか本題に入らない彼に私はそんな言葉を投げてみた。和樹さんはカップに指を掛けたまま重たい口をゆっくり開く。
「もしかしたらなんだけどね。詩織のやつ…いや、俺の勘違いかな」
 明るく振る舞ってるけど気落ちしてるのはすぐわかる。私は小首を傾げて先を促した。
「いや、詩織の親友の早苗ちゃんにこんなこと言うのは本当に申し訳ないんだけど」
「いいんです、言ってください」
 私は自分のカップを置くと思わず拳を握った。
「ありがとう。実はね、あいつ、浮気してるかもしれないんだ。確実な証拠があるわけじゃないよ。だから考え過ぎかもしれない。でも…最近話してても上の空っていうか、様子が変なんだよね」
 聞いた瞬間、心の奥で一つの感情が着火するのがわかった。
「いや、ごめんごめん、やっぱりこんなこと言っちゃダメだよな。ただの勘違いだから忘れてよ」
「いいんです」
 手を振って発言を取り消そうとする彼に私の口は告げた。
「それとなく確かめてみます。少し時間ください」
「本当に? ありがとう早苗ちゃん。でも…無理はしないでいいからね。あ、お礼って言うのはまだ早いかもだけどここおごるから。コーヒーだけじゃなくてケーキも食べない? 俺も甘い物が欲しくなっちゃったし、一緒にさ。男一人だけケーキってのも恥ずかしいし、つき合ってよ」
 私はクスッと笑う。つらいはずなのに優しく気を遣ってくれる…和樹さんのこんな所が私は大好き。その後は二人で談笑しながらケーキを選んだ。楽しくて嬉しくて…せつない時間だった。

 それから一夜空けて今日…日曜日。あれこれ一晩中考えたけどやっぱり直接確かめてみることにした私は詩織の部屋に向かった。アパートの2階、インターホンを鳴らすと彼女が姿を見せる。憎らしいくらいの美人だけど少し憂いを帯びた顔。
「ごめんね、急に来ちゃって」
「ううん、ちょうどよかった」
「え?」
「あ、その、あたしもちょっと話したいことあったから。どうぞ」
 靴を脱いで上がるとキッチンと人つながりのリビングには見慣れない物がある。それはこたつ。いかにもって感じでミカンが入った籠がその上に置いてあった。
「詩織、こたつなんか持ってたっけ」
「そっか、ここに来るの久しぶりだもんね。去年買ってみたの。ちょっと小さめのサイズで可愛いでしょ? すっごくホカホカして気持ち良いんだから」
「それにしたってもう3月だよ。さすがに片付けたら?」
「そうしようと思ったんだけどね…まあせっかくだから入ってみてよ」
 詩織はいつもどおり優しい。私は内心の戸惑いを抑えながら言われるままにこたつに入った。彼女も体面に入る。確かに小さめのこたつだから定員は二人って感じ。ホカホカして気持ち良いけど…今は和んでる場合じゃない。しばらく待っても詩織が何にも言わないからこっちから口火を切ることにした。
「今日は和樹さんは来ないの?」
「うん。昨日も土曜日だから来るかと思ったんだけど来なかった。最近忙しいみたい」
 もちろん喫茶店で私と会ってたなんてこの子は知らない。
「今日も友達と出かけるって言ってたから…」
 詩織の声がしぼんでいく。また会話が止まりかけたのでこっちからさらに切り込む。
「それで? 話したいことって何?」
「早苗の方こそ何か用事があって来たんじゃないの?」
「ううん、久々に遊びに来ただけ。まあ強いて言えば詩織が最近元気ないから様子見に来たってとこかな」
「やっぱりわかる?」
「わかるよ、長いつき合いだもん」
「…ありがとね」
 彼女は弱弱しく笑む。
「実はね…和樹さんとのことなんだけど」
「うまくいってないの?」
「なんていうかその…あたしと彼の間だけのことじゃなくて。いやでも、やっぱりあたしに原因があるのかな」
 数秒の沈黙。そして次の言葉が私の殺意の引き金を引く。
「つき合ってる人がいるのに別の人を好きになるなんていけないことだよね」
 心が騒然とする。室内を通り過ぎるしめやかな静寂。私は何も答えなかった。きっと能面みたいに無表情だったに違いない。彼女はちらりと壁の時計を見る。つられて目をやると午前9時を回ろうとしていた。
「あ、ごめんね、飲み物も出さないで。お茶でいいかな? よかったらこれも食べて」
 ミカンの籠を差し出されたけど私はノーリアクション。腰を上げた詩織はキッチンの冷蔵庫に向かう。後を追うようにそっと立ち上がる私。部屋の隅に置いてあった延長コードを手に取るとゆっくり彼女の背後に近付いた。そして彼女が冷蔵庫の扉を開けた瞬間…。

「さ、早苗…」
 搾り出すように詩織が私の名前を呼んだ。でも私の手が力を緩めることはない。延長コードはその華奢な首の気道を確実に圧迫していく。不思議なほど私の頭の中は空っぽだった。ちゃんと意識はあるのに何も考えない、考えられない変な感覚。心は全く波立っていない。

 ピッ、ピッ、ピッ…。

 ふいに冷蔵庫から機械音が鳴り始めた。開けっ放し予防のアラームだ。私は少し我に帰る。彼女は絞められる首に手を伸ばすこともなくただ体を震わせている。

 ピピッ、ピピッ、ピピッ…。

 アラームが速くなり、ボリュームも大きくなる。それでも私は手を緩めない。

 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ…。

 さらに速く大きくなって室内に響く無機質な音。やかましくてうっとうしくて気に障る。でも…落ち着け、今手を放すわけにはいかない。焦るな、焦るな…。
 延長コードを握る手に力を込めていると、アラームが懐かしいメロディに変わった。これは…童謡の『アマリリス』。開けっ放し予防にはいいかもしれないけど今の私には全くもって余計な演出だ、こんな時に童謡なんか聴きたくない。
 やがて詩織の身体から力が抜けてあたしにもたれかかってくる。さらに一分くらい絞め上げると彼女はついに崩れ落ちた。
 ようやく延長コードから手を放す。そして冷蔵庫の扉を閉めるとアマリリスも鳴り止んだ。気付けば自分の呼吸が随分乱れている。
 目を閉じて息を整える。そしてゆっくり目を開く。何度も遊びに来た部屋、立ち尽くす私の足元で親友は完全に絶命している。そして息をつこうとした瞬間、玄関からまた別の機会音が鳴った。

 …ピンポーン。