エピローグ

9月末、26歳の誕生日。私は上越新幹線に乗ってあの町を訪れた。駅を出ると、変わらない潮の香りが迎えてくれた。まずは小さな丘にあるおじいちゃんとおばあちゃんのお墓に手を合わせる。そして…かつて実家があった場所に行ってみる。誰も住まなくなった家はもうなく、人の手に渡った土地は駐車場になっていた。
そのまま私は海の方へ向かう。お墓参りには毎年来ていたけど、海に立ち寄ることはなかったから、この町の海に触れるのは本当に久しぶりだ。
まっすぐ進んで断崖まで行く。子供の頃は危ないから来てはいけないと言われていた場所。絶壁に立つと、目の前に180度の視界が開けた。
雲一つない真っ青な空、それよりもっと深い群青色で彼方まで続く海、厳しさを含んだ波音、弱い陽光、濃い潮の香りを運ぶ風。景色はどこか寂しくて…まるで去り行く夏が見送られているようだった。
私はポケットからあのイヤリングを取り出す。十年前、16歳の誕生日の日の夕方、私は浜辺で貝殻を拾って宝石箱にしまった。その時には確かに入っていなかったこのイヤリングが翌朝には入っていた。それは寝ぼけた私が夜中に家の中で拾ったから。
つまりこれが…あの夜、あの女が家を来訪していたことを示す決定的な遺留品。そして…おじいちゃんとおばあちゃんがしたことのこの世でたった一つの証拠品。
ためらいはない。私はそっと投げ捨てる。その小さな星はすぐに遠くなって断崖の下の海に呑み込まれた。波が砕け、着水音さえその音が覆い隠してくれた。

 私はあの浜辺まで下りてみた。その眺望は幼い記憶と何も変わらず、穏やかな波が寄せては返していた。しばしその懐かしい揺りかごに心を預ける。
ねえおじいちゃん、ねえおばあちゃん。見てる?私は元気だよ。二人のおかげでとってもとっても幸せだよ。
だから…いいよね。このまま秘密にしたままで…いいよね?
波打ち際を歩いてみる。綺麗な貝殻がたくさんあったけど…もう拾う気持ちにはなれなかった。あの宝石箱もしばらく開かないことにしよう。私はまた遠い海の彼方に目を向ける。
「里帰りですか?」
突然低い声がした。振り向くとそこには…ボロボロのコートとハットのあの刑事が立っていた。確か名前はカイカン。女刑事の姿はない。明るい場所で見るとその容貌はますます異様で、砂浜の風景にまったく不釣り合いだった。
「奇遇ですね竹中さん。こんな所でお目にかかるとは」
「どうして…」
唇が震える。長い前髪を潮風にそよがせながらカイカンは答えた。
「例の事件の捜査ですよ。遺体が上がった岩場はこの近くでして、もう少し東へ行った辺りなんですが…一度現場を見ておこうかと思いましてね」
「そう…ですか」
少し強い風が吹き私の髪をなぶった。
「あなたこそどうしてここに?やっぱり里帰りですか?」
前髪に隠れていない左目がじっと私を見る。口元は笑っていたけど目の奥には疑心の色が浮かんでいた。
「祖父母のお墓参りに…。そして…せっかくだからこの浜辺にも来てみようかなって。子供の頃、よくここで綺麗な貝殻を拾っていたんです」
「ナルホド」
独特のイントネーションで頷くとカイカンが数歩波打ち際に寄る。砂浜には似つかわしくない革靴の足跡が残る。
「確かに綺麗な貝殻がたくさんありますね。やっぱり海はいいなあ、私も海の近くで育ったもので時々無性に波音と磯の香りが恋しくなります。フフフ、だからですかね…こいつをやめられないのは」
不気味に笑うと、ポケットから取り出した短い棒をカイカンは口にくわえる。タバコ…じゃないみたい。何だろう。もしかして…おしゃぶり昆布?
それを口元で動かしながら低い声は黙った。私もまた海の方を向く。ザブリン、ザバリンと波が物悲しい旋律を優しく奏でる。

どれくらい経っただろう。少し日も傾いてきている。ふと足元を見ると…そこにきらりと光る物があった。私は目を疑う。
そんなまさか…でも間違いない。私の手から無限の海へと放たれたはずのイヤリングはまた手が届くすぐそこまで流れ着いていた。波にゆらゆら揺られながら、浜辺に取り残されそうな、でもすぐまた沖へさらわれそうな…。
思わず私はカイカンを見た。彼は逆の方を向いていてこちらのことは意識していない。でももし…彼がこのイヤリングに気付いてしまったら?遺体が発見されたバッグの中にもう片方のイヤリングが残っていて、カイカンもそのことを把握しているとしたら?だとするとまずい。
どうする?今のうちに拾って隠した方がいいか?いや、そんな動きをすればかえって目立ってしまうか?
…やめよう。おじいちゃんとおばあちゃんは私を関わらせないようにしてくれた。それを私が台無しにしてはいけない。余計なことをしなくても、きっと天が…いや、海が裁きを下してくれる。
「あの、刑事さん」
私は明るく呼び掛ける。彼は穏やかな顔で振り返った。
「私、そろそろ帰りますね。お仕事頑張ってください」
「ありがとうございます。お気を付けて」
微笑むカイカン。私は一礼してその場を後にする。ちらりと横目で見ると、星の形のイヤリングはまだ波間で揺れながら、不安定に行ったり来たりをくり返している。
「ああそれと…」
立ち去る私の背中にこれまでで一番低い声が告げた。
「ハッピーバースデー」

 しばらく歩いてもう一度だけ振り返る。遠くなった浜辺にまだカイカンは佇んでいたけど…ふいにかがんで波打ち際の何かを拾う動作をした。
大丈夫だよね、おじいちゃん、おばあちゃん。
彼が拾ったのは、きっと綺麗な貝殻に違いない。

-了-