第三章 無味の真実

 私がポカポカした顔で一番風呂から上がると、おじいちゃんは居間で野球中継を見ていた。
「美鈴ちゃん、オレンジジュースがあるよ」
台所に立っていたおばあちゃんがそう言って私を招く。ありがとうと答えてグラスを受け取り一口飲む。甘酸っぱさの中に…ほんのり苦み。
「あれ、今日のオレンジジュース…ちょっと苦いね」
「そうかい?果汁100パーセントだからね、オレンジの皮の成分とかも入ってるんでしょ。ほら、もったいないから全部おあがり」
耐えられない味でもなかったので私は素直に従う。飲み干してグラスを洗おうとすると「今日は誕生日なんだから」とおばあちゃんが代わってくれた。またありがとうと答えて私はおじいちゃんの隣に座る。ナイターは7回裏。
「負けてるみたいだね」
「なんのなんの、まだまだわからんぞ」
やがておばあちゃんもこっちに来てしばらく三人で見ていたけど、9回表の頃には私はまぶたが重たくなっていた。
「どうした美鈴、ぼんやりして」
おじいちゃんに尋ねられて私はあくび。
「ごめん、眠たくなっちゃった。もう寝るね」
「ご馳走をいっぱい食べてお腹が膨れたんでしょ。今夜はゆっくりおやすみ。階段から落ちないようにね」
優しく言うおばあちゃん。私は二人におやすみを伝え、自室に戻るとそのままベッドに倒れ込んだ。

 一度見た絵画や一度聴いた音楽が強烈な印象として記憶に残ることがある。しかしそんな感覚の記憶は視覚や聴覚に限ってのことではない。むしろ日常の何気ないことに関しては、臭覚や味覚の方が無意識のうちにしっかり記憶に刻まれていたりする。甘酸っぱさの中に独特の苦さが混じったあのオレンジジュースの味は、私の脳にしっかり保管されていた。
私は確信する。飯森先生にもらった睡眠薬をオレンジジュースと一緒に飲んだ時の味と、あの誕生日の夜のオレンジジュースの味は全く同じだった。つまり…おばあちゃんが渡してくれたあのオレンジジュースには睡眠薬が混入されていたんだ。翌朝目覚まし時計のアラームにも気付かず寝坊してしまったのも、なんだか体が重たかったのもそれを裏付けている。当然おじいちゃんも把握していたことに違いない。
じゃあどうして二人はそんなことをしたのか?どうして私を熟睡させようとしたのか?それはあの夜、私にはけして知られたくないことを実行するためだ。

つまりそれは…あの女の抹殺。
二人は考えてくれたんだろう。あの女は自分たちの財産を狙うだけじゃなく必ず私にも危害を加えてくる。訪ねて来たあいつをおじいちゃんが追っ払った夜、私もこの耳であの女が外で電話で話しているのを聞いた。あいつは私を水商売で働かせて自分の借金を返済させようと企んでいた。自分の都合であっさり捨てた娘を、今度は自分の都合だけで利用しようとしていたんだ。
悪魔…あいつは間違いなく悪魔だった。二人は老い先短い自分たちがいなくなっても未来永劫に私の安全が保証されるために、悪魔を葬る鬼になってくれたんだ。

あの女は私が16歳になったら店で働かせるとほざいていた。だからおじいちゃんとおばあちゃんは誕生日の夜、私が眠りに入った遅い時間帯にあいつを呼び寄せた。表向きは話し合いのため。でもきっと…それで決着しないことはわかっていただろう。
殴ったのか首を絞めたのか、それとも毒でも飲ませたのか…具体的な手段はわからない。二人はやって来たあの女を家の中で殺害。そして海まで運んだ。あの小太りな体を抱えるのは骨が折れるけど、ちょうどおあつらえ向きの道具があった。そう、おばあちゃんの車椅子だ。
運んだのはおじいちゃんだろうけど、おばあちゃんもきっと一緒に行ったと思う。だってあの二人はいつも一緒だった。そしてそれが翌朝玄関前の石板が割れていた理由。おじいちゃんとおばあちゃん、そしてあの女と車椅子。全ての重量が家を出る時に一気にかかって割れてしまったんだ。
遺体を座らせた車椅子をおじいちゃんが押し、その隣をおばあちゃんが杖をつきながらとぼとぼ歩き、そうやってゆっくりゆっくりほんのり明るい月明かりの夜道をあの断崖まで向かう。たどり着いたらあらかじめ用意しておいたスポーツバッグに遺体と重りを詰める。重りにはきっとおじいちゃんの鉄アレイを使ったんだろう。だから実家を引き払う時に鉄アレイはもうなかった。
そうやって…かつて娘だった悪魔を二人は海の深くに沈めたんだ。

一つだけ誤算だったのは、私が睡眠薬の副作用で夢遊病の症状を起こしてしまったこと。二人がいない間に私はむっくり起き上がり、家の中を歩き回った。そしてその時…あの女が落としたイヤリングを拾ってしまった。きっと殺害されて床に倒れた時にでも一つだけはずれたんだろう。無意識のまま宝石箱にそれをしまい、私はまたベッドに入る。そして翌朝自分で入れたそのイヤリングを発見して、神様からのプレゼントだなんてメルヘンみたいな勘違いをしたんだ。

昨日イヤリングの話をした時、飯森先生は「祖父母が何らかの理由でこっそり…」と言いかけて口ごもった。私はその先に続く言葉が「イヤリングを宝石箱に入れたのでは」だと早合点して会話を続けた。でもきっとそうじゃなかった。先生はこう言おうとしたんだ…「こっそりあなたに睡眠薬を飲ませたのではないか」と。聡明なあの先生ならその可能性も思い付いたはず。でも無理にそれを言わなかったのは…やはり私を思いやってくれてのことだろう。私がおじいちゃんとおばあちゃんに妙な疑念を抱かないように。

私はもう一度手にした似顔絵を見る。星の形のイヤリングはあの女のお気に入りで、一緒に暮らしていた頃によく着けていた。だから幼い頃の私はそれに憧れ、似顔絵にまで描いたんだ。
16歳の誕生日の夜、どうしてあいつがあのイヤリングをして現れたのかはわからない。もしかしたら…昔と同じ格好をすることで少しでも私の警戒心を解こうとしたのかもしれない。そうすれば自分が受け入れられるとでも思ったんだろうか。そんな浅はかな考えであの女は実家を訪れ、かつて親だった二人に消されたんだ。
そういえば誕生日の翌朝、おばあちゃんのお味噌汁の味がしょっぱかった。あれも…夜中に重労働をした影響だったんだろう。人は疲れていると料理の味付けが濃くなるというから。

以上、これで全て説明がついてしまった。
私は…何もわかっていなかった。そんなことは何も気付かず、いつもの朝の光景にまるで世界が変わったような不思議な違和感だけを覚えていた。
確かに変わっていた…私の住む世界から悪魔が消し去られていたんだから。二人がくれた本当の誕生日プレゼントは、安心な未来だったんだ。
お見舞いに行った時のおじいちゃんの言葉が聞こえる。

「もう誰もお前の人生を邪魔しない。安心して生きなさい」