第二章 苦味の疑惑

 携帯電話のアラームが鳴っている。それを止めて時刻を見ると午前7時ジャスト。アラームは6時30分から十五分おきにセットしていたから三回目でようやく目が覚めたわけだ。さすがは睡眠薬、おかげですぐに寝付けたけどその分目覚めにくくもなったらしい。少し重たい体を起こして大きくあくび。ベッドから這い出て伸びをする。久しぶりにぐっすり眠った実感があるのはやっぱり嬉しい。
洗顔を済ませてパンとコーヒーで簡単な朝食、朝のニュースを横目に見ながら身支度を整える。テレビを消して靴箱の上の写真立てに「いってきます」の挨拶。そこには今日もおじいちゃんとおばあちゃんが微笑んでいる。
大学卒業後も東京に残った私は小さな出版社で美術関係の本の編集をしている。さすがに絵描きにはなれなかったけど、絵画に携われる仕事ができるのは幸せだ。そのことを思うと私は毎朝二人に感謝する。
さて今日も頑張りますか、と写真立ての近くに手を伸ばす。しかし…そこにあるはずの家の鍵がない。いつも帰宅したら必ず靴箱の上に置いている鍵だ。下に落ちたのかと床を見回してもどこにもない。おかしい…念のために玄関のドアを確認するとちゃんと施錠されてチェーンロックも掛かっている。夜中に泥棒が侵入して鍵を盗んでいったはずはない。
ということは…きっと家の中の別の場所に昨日自分で置いてしまったんだろう。だけど今はのんびり探している余裕はない。まあ今夜ゆっくり見つければいいか。
私は引き出しから合鍵を取り出すとそれで玄関を施錠して出勤した。

 昼休み。職場の近くのコンビニでお弁当を選んでいると、ふとドリンクコーナーに並ぶオレンジジュースが目に留まった。
そうだ、オレンジジュース…。昨夜睡眠薬と一緒に口に含んだ時に感じた、甘酸っぱさの中に独特の苦さが混じったあの味…前にも確かに味わった。子供の頃からずっと好きだったオレンジジュースが、なぜかその時だけ苦かったんだ。でも…それは一体いつ、どこでのことだっただろう。苦かったのは憶えているのに、状況がまるで思い出せない。
しばらく頭の中で模索する。でも昨夜と同様、記憶の扉は開きそうで開かなかった。

 帰宅後。夕食を済ませてからオレンジジュースを一口。うん、いつものおいしい味。
少しだけ寛いでから私は今朝見つからなかった家の鍵を探すことにした。独り暮らしの部屋だ、そんなに広くはないし鍵を置く場所なんて限られる。そのはずなのに…冷蔵庫の上やソファの上、ベッドのサイドテーブルの上、パソコンを置いた仕事机の上など自分が無意識に物を置きそうな場所は全て探してみたけど、鍵は影も形もない。
おかしい…昨日鍵を使って家に入ったんだから、必ず鍵は家の中にあるはずなのに。もう一度いつも鍵を置く靴箱の上からあらゆる棚の上、床の上から洗濯機の中、鞄の中も机の中も探したけれど見つからない。合鍵があるから生活に支障はないとはいえ、やっぱりこのままにしておくのは気持ちが悪い。
「困ったなあ…」
仕事机の椅子に座って私は溜め息。他に探す場所は…と視線を動かすと、あの宝石箱が目に留まる。子供の頃から綺麗な貝殻や大切な物をしまっていたクッキーの空箱。実家を引き払ってこっちに出て来てからもやっぱり捨てられなくて、学生から社会人になった今もそれは変わらず机の隅に置いてある。
「まさかねえ」
独り言を呟きながら手を伸ばす。蓋を開けると…。
「え、嘘」
思わず大きな声が漏れる。そこには家の鍵が入っていた。私は恐る恐る手に取る。
どうしてここに…。わけがわからない。どんなに昨日の記憶をほじくっても、鍵を宝石箱にしまった覚えはない。そもそもそんなことをする理由がない。念のため玄関に行ってドアの鍵穴に挿してみたけど間違いなくこの家の鍵だった。
背中を冷たい指がすっと撫でたような感覚。私は自分の肩を抱きしめる。
一体どういうこと?私が眠ってる間に誰かが靴箱の上に置いてあった鍵を宝石箱の中に移したの?でも誰が?何のために?だって玄関は施錠されていたはず。誰も夜中に侵入できるわけが…。
はっとして私は通帳や印鑑などの貴重品をあらためる。手を付けられた形跡はない。念のために衣裳箪笥も見てみたけどこちらも大丈夫。室内をぐるりと見回しても他に異変はなく、収納の中のダンボール箱も特に物色された様子はない。どうやら泥棒や変質者が侵入したわけではなさそうだ。じゃあどうして…?
仕事机に戻ってもう一度宝石箱を確認する。入っているのは昔拾ったたくさんの貝殻、中学卒業の時におじいちゃんとおばあちゃんがくれたブローチ、そして…片方だけの星の形のイヤリング。
そうだ、前にも同じようなことがあったじゃないか。宝石箱を開けると、見覚えのないこのイヤリングが突然入っていたんだっけ。確かあれは…そう、16歳の誕生日の翌朝。その時の私は神様からのプレゼントだなんて勝手に解釈してドキドキしてたけど…冷静に考えればそんなはずはない。おじいちゃんやおばあちゃんが勝手に入れるはずもない。
どういうこと?この宝石箱は…どうなってるの?
不安と焦りでますます混乱してくる頭。落ち着け、落ち着いて考えないと…。
そこで一つの顔が浮かぶ。アカシアメンタルクリニックの飯森先生。あの人ならきっと相談に乗ってくれるはずだ。よし、明日さっそく行ってみよう。
そう心に決めると、少しだけほっとできた。

「そうでしたか、それはご心配でしたね」
話を聞き終えた飯森先生は自分のおでこに右手を当てる。まるで熱を測ってるみたいでそんな仕草がちょっと可愛かった。
「すいません先生、予約を変更して急に来てしまって」
「いえいえ、むしろ来てくださってありがとうございます。そうですか、寝ている間に勝手に鍵が…」
先生はそう答えながら頭の中で色々考えているようだった。私はしばらく黙って待つ。やがておでこから手を離して先生は口を開いた。
「外部からの侵入者は考えられないわけですよね。そうなると…一番可能性が高いのは睡眠時異常行動です」
もちろんそれだけでは意味がわからない。先生は「安心して聞いてくださいね」と前置きしてからその病態を説明してくれた。その語り口はとても優しく、そして医学に疎い私にもとても呑み込みやすかった。きっとこの人は話をする時、常に聞く側の気持ちを考えながら言葉を選んでるんだろうな、と改めて感心する。
睡眠時異常行動というのは、寝ている間に出現する病的な行動の総称らしい。例えば有名な金縛りもその一つ。先生によれば、まるで心霊現象のように見える金縛りもちゃんと精神医学で説明がつくという。
「金縛り以外にも、いわゆる夢遊病症状も睡眠時異常行動の一つです。つまりですね、竹中さんが眠っている間に鍵を移動させたのは…竹中さん、あなた自身ということです。眠ったまま室内を歩き、靴箱の上の鍵を手に取って宝石箱にしまったと考えられます」
驚きの結論だった。私が…入れた?唖然としていると先生はそっと頷く。
「びっくりされましたよね。でも、けして珍しい症状でもないんですよ。中には眠っている間にお菓子を食べたりごはんを食べたりして、翌朝その痕跡を見つけて驚かれる人もいます」
そんなことが…。でも確かに、家の外から侵入した誰かがやったとするよりも、家の中にいた自分が寝ぼけてやったと考える方が納得しやすい。
「じゃあ先生、私は脳の病気なんですか?」
「安心してください」
先生はまたそうくり返す。
「確かに症状が頻発する場合は精密検査も必要です。高齢者の場合は認知症の可能性も考えなければなりません。でも竹中さんはお若いですし、症状も頻繁に起きているわけではありません。それにちゃんと原因も推察できます。症状が起きた夜、飲酒していたり、体調不良で熱が出ていたりということはなかったですね?」
私は大きく頷く。
「であれば、原因は…先日処方した睡眠薬でしょう。鍵が移動した前夜に睡眠薬を内服しませんでしたか?」
確信に満ちた声…確かにそれは図星だった。
「はい、飲みました。でも…睡眠薬のせいなんですか?」
「そうです。睡眠薬によって夢遊病のような状態が誘発されることがあります。もちろん全ての人に起きるわけではありませんし、同じ人でも毎回必ず起きるとも限りません。なるべくそのような副作用がないお薬を選んだつもりでしたが…ごめんなさい」
頭を下げられて私は恐縮する。
「いえ先生、大丈夫ですから。でも…夢遊病なんて、そんな不思議なことがあるんですね」
そういえば小学校の修学旅行の時、同じ部屋に泊まった子が夜中にむくっと起き上がり、しばらく上半身を起こしたままぼんやりして、また横になって眠るのをたまたま見かけた。翌朝そのことを言っても彼女はちっとも憶えていなかった。あれももしかしたら…。
尋ねてみると先生は薄く笑む。
「そうかもしれませんね。金縛りもそうですが、夢遊病も普段と違う環境で眠った時に起きやすいという報告がありますから。
他にも…ほら、童話で靴屋のおじいさんが眠ってる間に小人たちが代わりに靴を縫ってくれるっていうお話がありますよね。朝目が覚めたら靴が完成していて驚くっていう…。もしかしたらあれも、おじいさんが寝ている間に自分で縫っていたのかも…なんて精神科医は考えたりしてしまうんです。あのおじいさんは認知症の初期かな、それとも睡眠薬を飲んでいたのかな、なんて。ごめんなさい、メルヘンが台無しですね」
思わず私からも笑みがこぼれる。やっぱりこの先生は…場を和ませるのが上手。
「ですから竹中さん、もうあの薬は飲まないようにしましょう。きっとあなたは睡眠薬が合わない体質なんだと思います。ちなみに昨夜は飲まれましたか?」
「いいえ。外から誰か来るんじゃないかと一晩中寝ずの番をしてました」
「それは…本当にご苦労をおかけしました。ではこのまま薬をやめていただいて、それでもう同じことが起こらなければ、睡眠薬が原因の一時的な症状だったということでよいと思います」
「…わかりました」
私は90パーセント安心して胸を撫で下ろす。そしてまだ胸の奥に引っ掛かっている残り10パーセントの不安についても口にした。そう、16歳の誕生日の翌朝に出現したイヤリングのことだ。
「そうですね…」
聞き終えた先生は笑みを弱めて眉根を寄せる。
「それについては正直…なんともいえません。夢遊病の症状は脳が未発達な子供の方が起こりやすい傾向があります。あくまで可能性ですが、たまたま症状が起きて竹中さんがどこかでイヤリングを拾ってきたのかもしれません。あるいは祖父母が何らかの理由でこっそり…」
そこで言葉を止める先生。私は首を振る。
「いえ、おじいちゃんやおばあちゃんがイヤリングを勝手に箱に入れたりはしないと思います。私のプライバシーはとても尊重してくれてましたから」
先生は一瞬意表を突かれた反応を見せたけど、「そう…ですよね」と優しく答えた。そこで沈黙が生まれる。
もう十年も前のこと…精神科医でもさすがに解き明かせないか。
「先生、気になさらないでください」
私はもう一度笑顔を作る。
「今日はありがとうございました。お薬なしでやってみますね。大丈夫です、昨日は徹夜ですから今夜はきっとぐっすり眠れます」
「はい。もし症状がくり返すようなら、ちゃんと検査をしますのでおっしゃってください」
「わかりました。あの先生、お薬なしでもまたお話をしに来てよろしいですか?」
そこで女医は嬉しそうに目を細めた。
「もちろんですよ、お待ちしています」

 宣言どおりその夜は睡眠薬なしでも熟睡できた。翌朝は鍵も消えていなかったし、室内を動き回った形跡もない。よかった…原因がわかってほっとした私は、写真立ての二人に「行ってきます」と元気に告げて出勤した。

そして昼休み。コンビニでまたオレンジジュースが目に留まる。一人のサラリーマン風の客がそれを手に取りながら連れと話していた。
「これ買って帰ろう。やっぱり風呂上がりはオレンジジュースだよな」
「そうっすか?ビールの方がうまいですよ」
「馬鹿、オレンジジュースに勝るもんはねえんだよ」
そのとおり、と私は見知らぬ彼の意見に胸の中で賛同する。そこでふと『風呂上がり』という言葉が気に掛かった。それはまた遠い記憶の扉をノックする。
そういえば…16歳の誕生日の夜、一番風呂に入らせてもらったっけ。浴室の窓から見た夜景は月明かりでほんのり明るかったのを憶えている。
でも、お風呂から上がった私は…どうしたんだっけ?

 少しだけ残業をしてから退勤。帰宅して夕食を済ませると、私はオレンジジュースは飲まずにソファに掛けた。なんだかモヤモヤしている。記憶の扉が開きかけてはまた閉じる、そんなもどかしい感覚が続いている。中が覗けそうで覗けない。
リモコンでテレビを点けて適当にチャンネルを回すと野球中継をやっていた。そこでもまた扉がノック。
野球中継…そうだ、あの夜、私がお風呂から上がるとおじいちゃんは居間で野球中継を見ていたんじゃなかったっけ?じゃあおばあちゃんは…おばあちゃんは何してた?
そうだ、おばあちゃんは台所にいて、私に飲み物を用意してくれた。飲み物はジュース…そう、オレンジジュースだった。私はそれを飲んで…。
そう思い至った瞬間、頭の中がはじけた。重たい扉が一気に開き、中からまぶしい光が溢れ出してくる。覗き込むと、その真っ白な光の向こうには…十年前の夜の光景。
やっと思い出した!甘酸っぱさの中に独特の苦さが混じったあの味…あの夜のオレンジジュースの味だ!一口飲んで、いつもと違って苦いなって私は思ったんだ。それが記憶に残ってたんだ。
じゃあ飲んだ後は…飲んだ後はどうしたっけ?確かおじいちゃんの隣に座ってしばらく一緒に野球を見て、でも眠たくなって先に私だけ部屋に戻って…きっとそのまま眠ってしまった。
別に大した記憶じゃない。でもどうして今こんなにはっきりあの夜のことを思い出したんだろう。逆に言えば、これまでどうしてまるで封印するみたいにその記憶に触れることができなかったんだろう。あんなに幸せだった16歳の誕生日の思い出なのに!

考えているうちにテレビの野球が終わる。どっちが勝ったのかも私には届いていない。今は頭の中の奮闘に意識の大半を奪われている。何だろう…まだ何かが引っ掛かっている変な感覚。あの16歳の誕生日の夜と迎えた翌朝、この二つの間に何かが…。
やがて画面がニュースに切り替わり、男性キャスターが感情のない声で原稿を読み始めた。私は内容そっちのけでただぼんやり眺めていたけど…急に実家がある新潟県のあの町の名前を言われてはっとする。
「岩場に打ち上げられたスポーツバッグの中から発見された女性の遺体について、警察は身元の特定を急いでいます」
映し出された海には見覚えがあった。バッグが発見された岩場というのは私が貝殻を拾っていたあの浜辺と同じ沿岸で、距離も数キロメートルと離れていなかった。まさかこんなに近い場所だったなんて。テレビの映像に私は懐かしさよりも恐ろしさを感じる。
刑事たちからあの女かもしれない遺体が北陸の海岸で発見されたと聞いた時、確かに妙な感じはした。でも北陸の海岸線はとても長い。だから偶然だろうと思った。でもそれが新潟県のあの町だなんて。いくらなんでも距離が近過ぎる。どこか遠い海に沈められたバッグが波に流されてたまたま実家の近くに流れ着くなんて…そんな偶然あるはずない。ということは…。
「警察の発表によりますと、バッグの遺体は少なくとも死後七年以上経過しており、骨格や歯形から個人を特定するのは難しい状態です。ただ…」
再びニュースキャスターの声。
「身に付けていた衣類やアクセサリー、そして所持品などから、警察は十年前に疾走している女性である可能性が高いとし、殺人事件も視野に入れて慎重に捜査を進めています」
アクセサリー…その単語で私はそっと腰を上げた。そして収納の奥の古いダンボール箱を持ってくる。これは実家を引き払って東京に出てきた時に、小学校時代の思い出の品を詰めた箱。特に新潟へ転校する前の学校は1年生の短い期間しかいなかったから、当時の筆箱やお道具箱、日記帳やノートもなんだか捨てられずにいた。引っ越し以来一度も開いてはいなかったけど、確かここに…あれがあったはずだ。
ガムテープを剥がして中を確認。そして…輪ゴムで縛って丸められたその画用紙を発見した。そう、あの女の似顔絵…あの女が男と蒸発した日、私は学校で褒められたこの絵を得意げに家に持って帰ったんだ。そんなのとっとと捨ててしまえばよかったけど、私にとって人生で初めて褒めてもらえた絵だったからどうしても捨てられなかった。
テレビを消す。ごくりと唾を飲み下し、私は輪ゴムを解く。そしてゆっくりかつて描いた母親の絵を開いた。見た瞬間、両腕と両膝がわなわなと震えだす。
そんなまさか…すぐには現実を受け止められない。でも私にはわかってしまった。あの夜、オレンジジュースがなぜ苦かったのか。

クレパスで描かれた母親の両耳には、星の形のイヤリングが光っていた。