第一章 甘味の記憶

 自分は神経が図太い方だと思っていたけど案外そうでもないらしい。刑事たちが来た夜からさっぱり眠れなくなってしまった。別にあの女のことを考えようとしているつもりはないし、むしろ考えないようにしているつもり。なのに電気を消してベッドに入っても眠たいのに寝付けない。苦悶の時間と格闘してようやく明け方に少しだけまどろむ。一週間頑張ってみたけどさすがにこれでは体がもたない。職場に相談して午後から休みをもらうと私は病院に足を運ぶことにした。
インターネットで調べて問い合わせる。アカシアメンタルクリニックという小さな心の病院は、当日の予約でも快く応じてくれた。記載した問診票を受付の女性事務員に渡し、待合室で座っていると十五分ほどで呼ばれる。
「初めまして。竹中美鈴さんですね?私は飯森といいます。どうぞ、お掛けください」
診察室にいたのは女の先生、気さくで優しい雰囲気をまとった人だった。若く見えるけど、ネームプレートを見るとここの院長先生らしい。
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げてから私は丸いテーブルの対面に腰を下ろす。
「こちらこそよろしくお願いしますね。緊張されていますか?大丈夫ですよ。まずは詳しくお話を伺います。睡眠のお悩みとのことですが、今、どのようにお困りですか?」
初めての精神科で確かに緊張はあった。私は問診表に書いたことを思い出しながら、もう少し具体的に伝えていく。すごいなと思ったのは、先生は私の言うことを訂正したり決め付けたりせず、全て「そうですね」と頷きながら聞いてくれたことだ。だから私も安心して話すことができた。一通り言い終えると、今度は先生の方から私にいくつかの質問。それも終わると精神科医はそっと頷いた。
「教えていただいてありがとうございます。つまり警察から話を聞いたことで、せっかく遠ざけていた嫌な記憶をたくさん思い出してしまったんですね。そして寝付きまで悪くなってしまった。その刑事さんにももうちょっとデリカシーを持ってほしいですね」
薄く笑んだ瞳は、今度は真剣な眼差しで私を見る。
「竹中さんの主な症状は眠れないこと…つまり不眠症です。ただ一口に不眠症といってもいくつかの種類があり、竹中さんの場合は寝付けないタイプです。そしてここが大切なのですが、不眠症が起こる原因にもいくつかの可能性が考えられまして…」
先生は病態を丁寧に説明してくれた。私の不眠の症状は専門的には入眠困難というらしい。そして原因としてはやはり精神的なストレスが最も考えられるという。
「ストレスにも色々あります。解決できない悩みでモヤモヤしたり、心配な予定があってソワソワしたり…私なんかも当直の時は眠っててもいつ電話で呼ばれるかと思ったらハラハラして熟睡できません。竹中さんの場合は…きっと母親への陰性感情がストレスになっておられるのでしょう。わだかまり…というものですね」
「…そう思います」
私は素直に認めた。
「ですので、そのわだかまりを軽減しないと根本的な解決にはなりません。不眠症の治療はただ睡眠薬だけ飲めばいい、ということではないんです。ではどうやってわだかまりを軽減するかといいますと、まずはしっかり吐き出すこと…つまり人に話すことです。話せば心は少し軽くなりますし、人に話せるということは過去を乗り越えるための第一歩ですから」
先生はそこで一瞬視線を逸らしてからまたこちらを向いた。
「どうでしょう、この後一人予約の患者さんを診たら時間が空きますので、ゆっくりお話をしてみませんか?」
とても優しい目だった。大学生の頃、失恋した友人が眠れなくなって心療内科にかかったら五分の診察ですぐ睡眠薬だけ出されて終わりだったと聞いた。これはきっとかなり丁寧に対応してもらっているんだろう。
「よろしくお願いします」
私はそう言って頭を下げた。

一度退室して待合室で座っていると三十分ほどでまた呼ばれる。
「それでは、ゆっくりお話を伺いますね」
改めて腰を下ろした私に先生はそう静かに告げた。先ほどと同じ部屋なのに今は空気まで柔らかい気がする。
「どこから…お話すればいいでしょうか」
「竹中さんの始めたい所からでいいですよ。上手に話そうと思わないで、考えたくない、考えないようにしなきゃとずっと思ってきたことを、ぜひ思いっきり話しちゃってください」
「…わかりました」
この先生を信じてみよう。小さく深呼吸すると、私はゆっくり口を開いた。

「ただいま!」
あれは小学校1年生の時だった。学校で褒められた母親の似顔絵を手にして帰宅した私を待っていたのは、薄暗い部屋に広がる冷たい静寂だった。もう一度「ただいま」と呼び掛けてもやっぱり返事は返ってこない。投げかけた声はそのまま無人の空間に呑み込まれるだけ。靴を脱いで、台所、お風呂場、寝室、ベランダと回っても母親の姿はどこにもなかった。
ただの留守ではない…子供心に異変を察知しながらも当然何も為す術はなく、私はリビングの床にうずくまってただただ母親の帰りを待っていた。やがてカーテンの向こうで日が沈む。暗くなる室内。寂しくていっぱい涙が出て泣いて、泣き付かれたら眠って、目が覚めたらまた涙が出て…そうしているうちにカーテンの向こうに日が昇る。ほのかに明るくなる室内。
お昼になった頃、ようやく玄関のドアが開いておじいちゃんとおばあちゃんが迎えに来てくれた。おばあちゃんは潰れるほど私を抱きしめ、おじいちゃんは「よく頑張ったな」と頭を撫でてくれた。

それから私は長い時間電車に揺られおじいちゃんとおばあちゃんの家へ向かう。到着して駅から出ると、迎えてくれたのは潮の香り。そこは新潟県にある海が近い小さな町だった。三人でアスファルトじゃない土の道を歩いていく。
「そこの足元は気を付けるんだぞ、ハハハ」
家に到着した時、おじいちゃんが笑いながら教えてくれた。家の前はすぐ通りに面していて、道の側溝に蓋をする形で石の板が置かれていたのだ。その上を歩くと石板は少し動いてゴリッと音を立てた。
「ほんとだ、音がするね」
「美鈴ちゃんにいらっしゃいって挨拶してるんだよ」
おばあちゃんも私の手を引きながら笑った。そして玄関を開けて中に入る。
「今日からここが美鈴の家だぞ。美鈴の部屋は2階だ、すぐに勉強机も買ってやるからな。よしばあさん、今夜は美鈴の歓迎会だ」
「そうですね。じゃあ急いで晩ごはんの仕度をしましょう。美鈴ちゃんは食べ物は何が好きかしら?」
「オムライスとね、エビフライとね、ハンバーグ!あとオレンジジュース!」
無邪気に答える私。
「あらあら、たくさんね。これからは作り甲斐があるわ」
「おいおいばあさん、わし一人じゃ作り甲斐はないのか?ハハハ」
正直何がどうなってるのか、どうして自分はここに連れてこられたのか、その時の私はさっぱりわかっていなかった。でも二人の楽しいやりとりを見ているだけで、なんだか自然に元気が出てきていた。

それから小学校は転校になったけど、すぐに新しいクラスに馴染むことができた。放課後は友達と遊んで、日曜日はおじいちゃんやおばあちゃんと出掛けて、私は特に寂しさを感じることなく暮らしていた。おばあちゃんは毎日おいしいごはんを作ってくれ、私の好物のオレンジジュースもいつも用意してくれていた。母親といた頃はごはんもインスタントが多かったしあまり会話もなかったから、賑やかに食事ができるのがすごく嬉しかった。
ただ…母親のことだけは尋ねてはいけない気がして何も口にしなかった。どうしても考えてしまいそうな時は一人で海へ行った。
家から五分も歩けば海が見えてきて、そのまままっすぐ進むと切り立った断崖。でもそこは危ないからと子供たちは近付くことを禁止されていた。だから私は左の小道に折れて緩やかな坂道を下り、その先の浜辺まで行くのが好きだった。母親のことを考えて少し気持ちが沈んでも、そこで綺麗な貝殻を見つけて拾って帰ると明るくなれた。そしてそのお土産の貝殻は勉強机の上の小さな宝石箱にそっとしまった。まあ宝石箱といってもクッキーの空箱だけど、おばあちゃんにもらったその箱を私はとても大切にしていた。

 月日は穏やかに流れた。中学の卒業式を終えた夜、晩ごはんの後でおじいちゃんが「美鈴も高校生になるからな」と改まって私に着席を促した。洗い物を終えたおばあちゃんも私の隣に座って、そっと手を握ってくれた。
「いいか、落ち着いて聞くんだぞ」
そんな言葉から始まったおじいちゃんのお話。私はようやく全てを教えられる。まずはそもそも私に父親がいなかった理由、それは母親の浮気で私が物心つく前に離婚していたからだそうだ。そしてあの日母親が突然蒸発した理由、それも新しい恋人と暮らすためだった。母親は一方的な電話を実家にかけると、行き先も告げずに消息を絶ったらしい。
「これで話は終わりだ。美鈴、質問はあるかい?」
二人は心配そうに私の顔を覗き込む。どこかで予想はしていたけど、ショックがなかったといえば嘘になる。つまり母親は私よりその男を選んだわけだ。押さない心でそれを知れば、自分の存在価値を信じられなくなっていたかもしれない。
でも…今はもうそんなことはない。おじいちゃんとおばあちゃんがどれだけたくさんの愛情で自分を育ててくれたか、それは全身で感じている。参観日でも、学芸会でも、運動会でも、三者面談でも…私はちっとも惨めな思いをすることはなかった。私にとっておじいちゃんとおばあちゃんは、最高のお父さんとお母さんだった。
そのことを伝えると、今度は二人してオイオイ泣き始め、「ありがとう、ありがとう」とくり返した。もう、それはこっちのセリフだよ。私はそう言って二人に抱きつき、「結婚式の時はおじいちゃんとバージンロードを歩くから」と伝えると、おじいちゃんはますます号泣してしまった。
改めてオレンジジュースで乾杯。この甘酸っぱい味が私は大好き。そして二人は中学卒業記念にと可愛いブローチをくれた。私はそれも宝石箱の中に大切にしまう。
幸せ…そう、私は間違いなく幸せだった。

 高校生になって、私は隣町までバスで通学するようになった。中学の時は友達に誘われて運動部だったけど、高校では昔から興味があった美術部に入った。
でも夏休み前におばあちゃんが階段で転んでしまった。杖を使えば歩けないわけじゃなかったけど、遠くへ行く時は車椅子を使う生活になった。おじいちゃんは最初は心配してたけど、「ばあさん一人くらいいつでもわしが担いでやる」と持ち前の明るさで豪語し、スポーツセンターで小さな鉄アレイまで買ってきてトレーニングをする始末。
そして私も美術部を退部した。これまでずっとお世話になった分、家事や炊事くらい自分がやって二人に恩返ししたいと思ったのだ。おばあちゃんは何度も謝っていたけど、私は「絵なんて部活に入らなくてもどこでも描けるから、気にしないで」と返した。それは本心だったし、放課後はできるだけおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に過ごしたかった。私ができることは私が頑張って、二人にはいつまでも元気でいてほしかった。

そしてあの日がやって来る。夏休みも終わった9月上旬。バス停からの帰り道、私はこの町に似つかわしくない派手な身なりの小太りな女を見かけた。遠目に視界に入った瞬間、背中にぞくりと広がるおぞましくて不快な感覚。その女はこちらに気付くと不気味な笑顔で歩み寄ってきた。
「美鈴、美鈴ね?久しぶり、大きくなったわねえ」
その馴れ馴れしさに胸が悪くなる。黙って固まっている私にその女は「もうどうしたの、ママよ」と絶対に聞きたくないことを言いやがった。私は数歩後ずさる。
「どうしたのよ、せっかく会いに来たのに…。高校生になったのね。もしよかったらちょっと話さない?ママ、困ってることがあって…」
「私に、母親は、いません」
語気を強めて私はそうはっきり告げた。全身をわなわなと震わす嫌悪感、そしてこの幸福な世界を壊そうとする異物に対する恐怖感。憎くて恐くてたまらなかったけど、私は女を睨み返した。
「二度と私に関わらないでください」
それだけ叩き付けると私は女を無視して走り去った。すれ違いざまに舌打ちが聞こえる。後ろで何かわめいている声がしていたけどそんなのどうでもよかった。
走って、走って、潮の香りの道を駆け抜ける。玄関の前の石板を踏むとまたいつものようにゴリッと音がした。無意識に呼吸を止めていたようで、家の中に飛び込んでから私はようやく息をついた。
きっと青ざめた顔をしていたのだろう、私のただならぬ様子におじいちゃんが「どうしたんだ?」と声を掛けてきた。黙っているとおじいちゃんの唇が「まさか…」と動く。
「まさか、芳江に会ったのか?」
その言葉で私も察する。どうやらあの女は先にこの家に押しかけていたらしい。
「おじいちゃん、あの人がそこの通りにいて…」
なんとかそう絞り出す。奥からおばあちゃんも心配そうな顔で杖を使いながら姿を見せた。
「それで、何を話したんだ?」
「何も話してない。大丈夫だよおじいちゃん、おばあちゃんも…私、無視して走って逃げたから」
顔を歪める二人に必死に説明した。本当は怖くて悔しくて泣きそうだったけど、それをしたらおじいちゃんもおばあちゃんも心を痛めるのが目に見えていた。だから私は必死に平気を装った。
「美鈴…」
おじいちゃんは悔しそうに大きく息を吐くと、私の両肩に手を置いた。
「わしらもすぐに追っ払ったんだ。すまなかった、嫌な思いをさせて。でも心配せんでいいぞ、あんな奴はお前の母親じゃない。もちろんもうわしらの娘でも何でもない。近付いてきたら容赦せん。おじいちゃんが必ず守ってやるからな」
そう言って力むおじいちゃんの顔はまるで般若のようだった。

それから一週間くらいした夜。晩ごはんの洗い物を終えて2階の自室で宿題をしていると、玄関のチャイムが鳴った。こんな時刻の来客なんて滅多にない。私は身の毛がよだつのを感じて自分の肩を抱きしめた。
間もなく「帰れ、二度と来るな!」というおじいちゃんの怒鳴り声。玄関の外からは「美鈴に会わせろ」、「母親として権利がある」などとわめき立てる声。しばらく問答が続き、おじいちゃんの「これ以上居座るなら警察を呼ぶ」の言葉に外の声はようやく静かになった。玄関からはおじいちゃんの憤りと落胆の溜め息。
ほっとした次の瞬間、空けていた部屋の窓の隙間からあの女の声が聞こえてきた。私は叫びそうになる。でもここは2階、まさか壁をよじ登ってくるはずはない。耳を澄ませると、どうやらあいつは家の周りをうろつきながら携帯電話で誰かと話しているようだった。辺りが静かなのでその声がコンサートホールのように際立つ。
「大丈夫、うまくやるから。16歳になったらあの子も店で働かせられるでしょ、そうしたらすぐに借金なんかどうにでもなるわよ。この前会ったけどあたしと同じで男好きする顔してたわ。もうやだ、何言ってんの。それにそのうちジジイとババアの遺産だって…」
そんな言葉が漏れ聞こえた。ふと気付くと階段を上って来る足音。私はとっさに窓を閉めるとベッドに横になって電気を消す。
ノックの音。「美鈴、いいかい?」とドアが少し開いておじいちゃんが顔を見せた。私はタオルケットの中で震える体を抑えながら、まるでたった今目が覚めたようなふりをする。
「おじいちゃん、どうしたの?」
「ああごめん、もう寝てたのか。起こしてすまなかったな。何でもないよ、おやすみ」
ドアが優しく閉められる。そして階段を下る足音。窓の外の悪魔の声はもう聞こえなくなっていた。

 9月末、その日は私の16歳の誕生日だった。晩ごはんの仕度はしなくていいと言われていたので、私は学校帰りにいつもの浜辺に立ち寄った。誰もいない、どこか寂しい夕暮れの海。ザブリン、ザバリン…波音というのはどうしてこんなに心を落ち着かせてくれるのだろう。ぼんやり波打ち際に立っているだけで嫌なことが全部沖へ運ばれていくような気がする。
あれから…もう二週間。通学の途中もビクビクしていたけど、あの女が姿を現すことはなかった。おじいちゃんもおばあちゃんも穏やかで特に何も言わない。このまま幸福な日常に戻れますように…そう神様に願いながらまた綺麗な貝殻を一つ拾う。あんまり遅くなると心配されちゃうな。私は帰宅して、そのお土産を宝石箱にしまった。
気付けば宝石箱も貝殻でいっぱい。一個ずつ取り出して眺めてみる。もちろん箱にはおじいちゃんとおばあちゃんがくれたブローチも入っている。
やがて階段の下から呼ぶ声。
「おーーい美鈴、ごはんだぞ」
食卓にはおじいちゃんが買ってきたご馳走が並んでいた。おばあちゃんがケーキの十六本のロウソクを着火、私が吹き消すと二人は拍手で祝ってくれた。そしてずっと欲しかった画材のセットをプレゼントしてくれた。
「ありがとうおじいちゃん、おばあちゃん」
心の底から感謝を伝える。私は胸がいっぱいになって、ついでにお腹もいっぱいになって、世界一幸福な誕生日を過ごした。
「今日は最初にお風呂にお入り。上がったらオレンジジュースもあるから」
おばあちゃんに勧められて有難く一番風呂をいただく。ゆっくり肩まで浸かって鼻唄。窓から見える空には大きな満月…月明かりでほんのり明るい夜だった。

 翌朝目覚めると体がなんだか重たい。ベッドを這い出して私は大きくあくび。カーテンを開くと快晴だった。何となく昨日拾ってきた貝殻を触りたくなって、机の上の宝石箱に手を伸ばす。すると貝殻に混じって、一つ見覚えのない物が入っていた。
…星の形のイヤリング。こんなの入れていたっけ?いや、こんなの持ってた覚えはない。でもどこか…懐かしい感じ。そういえば幼い頃、こんなイヤリングを欲しがってた気がする。でもどうして…まさか神様からのプレゼント?
少しドキドキしてくる。着けてみようかとも思ったけど、さすがに校則違反か。それにイヤリングなんだから片っぽだけじゃ変だよね。宝石箱を探ってみたけど、他には貝殻とブローチしか入っていない。一体このイヤリングは…。
そこで枕元の目覚まし時計が目に入る。もう8時近い。7時のアラームにも気付かず寝過ごしてしまったらしい。ひとまずイヤリングを宝石箱に戻して1階へ駆け下りると、食卓ではおじいちゃんが新聞を読み、おばあちゃんがお茶を入れていた。
「ごめん、寝坊しちゃった。朝ごはんの仕度できなくて…」
「おはよう美鈴ちゃん。いいんだよいいんだよ、夕べは誕生日だったんだから。ごはんは私が作ったから食べてからお行き」
笑うおばあちゃん。おじいちゃんもニコニコしている。それはいつもどおりの家、いつもどおりの二人、いつもどおりの光景。
それなのに…私は何かが違うような変な感じを覚えた。なんだろう、この違和感。そうだ、さっきのイヤリングは…。
「あの、プレゼントありがとね」
さり気なく探りを入れてみるけど、「しっかり絵を描くんだぞ」と言われるだけ。やっぱり二人のプレゼントは画材セットだけでイヤリングは違うらしい。
釈然としないままごはんをよそってお味噌汁に口をつける。あれ…少ししょっぱい。おばあちゃん、こんな味付けだったっけ?やっぱり何か…今朝は何かがおかしい。
食べ終わると急いで着替えて私は家を飛び出す。するとそこでつんのめって転びそうになった。見ると玄関の前のあの石板にヒビが入って割れている。そこに爪先が引っ掛かってしまったらしい。普段から踏んづけていたけど…いつの間に割れたんだろう。
やっぱり変だ。まるで世界が変わったような…、これまでいた世界と違うような…。
なんてね、そんなことあるわけないか。それより遅刻しちゃう。私は潮の香りの通りをバス停へとダッシュした。

 月日はまた穏やかに流れた。三人で暮らす幸福な時間、あの女もあれきり姿を見せなかった。ただ高校2年生の秋におばあちゃんが入院、実は前から病気を診断されていて私には内緒にしていたらしい。おじいちゃんも私も頻繁にお見舞いに通ったけど、おばあちゃんは高校3年生の春に天国へ行った。苦しいとかはほとんど言わず、とても穏やかな最後だった。
ただおばあちゃんがいなくなってからおじいちゃんは体調を崩すことが多くなって、時々入院もするようになった。
「お前の生きたいように生きていい」
夏休みにお見舞いに行った時、ベッドのおじいちゃんは突然私の手を取ってそんなことを言った。
「自由に生きなさい。ずっとわしやばあさんに遠慮していたと思うが、これからはそんなことは気にしなくていい。わしらはお前と暮らせて本当に嬉しかった」
「ちょっと、何言ってるのおじいちゃん」
「大学に行って…絵の勉強をしたいんだろ。だったらそうしなさい」
口にしたことはなかった。高校を卒業したら就職して早く自立して…それが自分の人生だと心に納得させていたから。でも…二人はわかってたんだ。
「お前が大学へ行ったら、じいちゃんは家を引き払って施設で暮らすから心配せんでいい。学費や生活費も大丈夫、贅沢はさせてやれんがそれくらい蓄えてある。それに…」
おじいちゃんは少しだけ厳しい目をして続けた。
「もう誰もお前の人生を邪魔しない。安心して生きなさい」
胸が熱くなる。気付けば私はおじいちゃんにすがりついて泣いていた。

旅立ちの春。おじいちゃんは無理して卒業式にも来てくれた。私は東京の下宿へ、おじいちゃんは施設へ行くための荷造りをする。
「おじいちゃんは座ってて。私がやるから」
「すまんなあ。美鈴がたくましくなってくれて嬉しいよ」
「もう、女の子にたくましいなんて言わないで」
「こりゃ失礼した、ばあさんに怒られちまうな、ハハハ」
そんな調子で軽口を交わしながら部屋を片付けていく。育った家がなくなるのは寂しいけど、でも大丈夫、私の胸には二人がくれたたくさんの愛情と思い出が詰まっている。
「そういえばおじいちゃんの鉄アレイどこだっけ?使わないんなら私がもらって行くけど」
「あれは…もう捨ててしまったよ。それにそんなの持ってたらボーイフレンドができても逃げられちゃうぞ」
「余計なお世話よ」
二人で笑う。そして荷造りも無事終わり、おじいちゃんと私はそれぞれの新しい生活を開始した。

 東京に出てからも私は月に一度は新潟へ帰省しおじいちゃんの施設を訪ねた。最初の頃は「ちゃんと私とバージンロードを歩いてね」なんて励ましていたけど、途中からそれもやめた。私の前では強がってたけど、おばあちゃんがいなくなってからのおじいちゃんは生きるのが本当に寂しそうだったから。無理しないで早く天国でおばあちゃんと会えた方が…おじいちゃんはきっと幸せなんだろうなって思った。

そして大学2年生の冬、おじいちゃんは安らかに天国へ行った。おじいちゃんから頼まれていたのか、遠い親戚や町の知り合いの人たちも駆けつけてくれて、一緒にお葬式を手伝ってくれた。おじいちゃんを見送るのは寂しかったけど、でもこれでやっとおばあちゃんに会えるね。きっと二人は天国でも仲良くやるんだろうなって思うとあんまり涙は出なかった。
手を合わせながらやっと気付く。最低な母親の姿を知っても私が恋愛や結婚を嫌悪せずにいられるのは、おじいちゃんとおばあちゃんの姿を見て育つことができたからだ。二人みたいな素敵な夫婦になれるんだったら…私もいつか恋をしてみたいな。

全てが一段落して東京に戻って三ヶ月が過ぎた頃、弁護士が訪ねてきた。おじいちゃんの遺言で私に遺産が相続されるらしい。本当にもう…どうしてそんなに優しいの?おじいちゃんもおばあちゃんも最後まで私のことを気遣ってくれたのだ。何度も涙ぐみそうになりながら手続きの説明を聞いた。
「以上になりますが、何かご不明な点はございますか?」
話しの終わりにそう訊かれて私は気になっていたことを尋ねた。
「あの…私の母親のことなんですが。もしも急に現れて遺産をよこせなんてことに…なったりしないでしょうか。いやあの、お金を渡したくないとかってことより、何かされるんじゃないかとそれが不安で」
「お爺様からも伺っております」
弁護士は笑みを消した。
「確かに法的には芳江さんにも遺留分が発生します。しかし私の調べたところでは芳江さんは現在どこでどうしておられるのかまったくわかりません。芳江さんがどのような方だったかもお爺様から教えていただきました。こういったケースですと葬儀の席に押しかけてきて騒ぐ方もおられるのですがそれもなかった。三ヶ月待ちましたが、特に芳江さんからの音沙汰はありません」
「そう…ですか」
私は曖昧に頷く。てっきり遺産を狙っていると思ってたけど…あの女は別の金蔓でも見つけたんだろうか。
「大丈夫ですよ、美鈴さん。ご実家はもう引き払われていますしあなたもこうして単身東京で暮らしておられます。芳江さんがあなたを見つけて何かしてくる可能性はかなり低いと思います。お爺様もそれはないだろうと確信しておられるご様子でした。
それでももし、何か不穏な動きを感じられましたら私にご連絡ください。必ずお力になりましょう」
「よろしくお願いします」
私は頭を下げ、差し出された名刺を大切にしまった。

「母親の名前を聞いたのは、弁護士さんに会ったその時以来でした」
私はその言葉で語りを終える。飯森先生は時々吐息のような優しい相槌だけを打ちながら一切言葉を挟まずに聞いてくれた。話は以上であることを目で伝えると、先生はまたそっと頷く。
「しっかり話してくれてありがとう」
一言だけ敬語をはずして彼女は言った。
「大変でしたね…母親に対する竹中さんのお気持ちは何もおかしくないと思います。あなたは何も悪いことはしていませんよ。ですから、まずは今日までしっかり生きてきた自分にちゃんとお疲れ様を言ってあげてください。本当によく頑張ってこられたと思います」
「…はい」
胸の奥がじんわり熱くなる。
「竹中さん…体に条件反射があるように、心にも条件反射があります。母親を憎み、恐れる気持ちはあなたの心に残っている条件反射かもしれません。つまり…その憎しみや恐怖を感じているのは過去のあなたの心。今のあなたの心ではありません。
でもいいんです、誰だって過去があっての今の自分なんですから」
まっすぐこちらを見る先生。その言葉は無抵抗に私の中に溶けていく。
「ゆっくりでいいです、ゆっくり今の心で過去の心を包んであげていってください」
「ありがとうござ…」
最後は声になっていなかった。不眠の相談に来ただけのつもりだったのに…私はまるで魂が浄化されたような気がした。

 胸の内を吐きだしてすっきりできたけど、それで睡眠改善効果が出るには時間がかかるという。そのため先生は「どうしても眠れない時だけ使ってください」と三回分だけ睡眠薬をくれた。私が錠剤を飲むのが苦手だと伝えると、薬局で砕いて粉薬にしてもらえるよう処方箋に書いてくれた。
「でも砕いちゃった分少し苦いかもしれないから、飲みにくければジュースとかで飲んでくださいね」
「はい。先生、本当にありがとうございました」
二週間後の予約を入れて、私はクリニックを後にした。薬局で薬をもらって帰宅する。なんだか体まで軽くなった気がした。

夕食、入浴と済ませて午後9時にはベッドに入る。さあどうだ…と一時間頑張ってみたけど、やっぱりそううまくは寝付けない。私は意を決してキッチンに戻り、処方された薬を一袋手に取る。いつものオレンジジュースをグラスに注ぎ、粉薬と一緒に飲み下した。
…口の中に広がるオレンジの甘味と酸味、そしてそこに含まれる薬独特の苦味。
その瞬間、不思議な感覚に襲われる。まるで頭の奥で遠い記憶の扉がノックされたような鈍い刺激…。
知ってる、私はこの味を知っている。前にもこんなふうにオレンジジュースが苦かったことがあった。でもそれはいつ、どこでのことだっただろう。
私はいつかどこかで知っていたはずの味の記憶をたどるけど、たどり着くよりも先にふわっと睡魔に包み込まれた。グラスを置いて寝室へ。ベッドに入ると私はそのまま目を閉じた。