第四章 永訣

 大阪。東の空がかすかに白んできた頃、一人暮らしのワンルームで三日連続の眠れぬ夜を過ごした羽間夏歩は早々に身支度を整えていた。そのスーツのポケットにはオフィスドリームズへ宛てた辞表。それが一晩かけてたどりついた彼女の結論だった。
 ふと目にした枕元の写真立てには三つの笑顔が並んでいる。新人賞を取った中田、プレゼンターとしてトロフィーを渡した山岡、それを舞台袖で見守った彼女…授与式の後、三人で写した一枚だった。

「やったやないか、中田! これでお前もいっぱしの歌手や」
「ありがとうございます、山さん。本当に嬉しいです。僕は山さんに憧れて歌手になったんです。山さんがいたから頑張れたんです」
「嬉しいこと言うてくれるやないか」
「いつか必ず恩返ししますから!」
「そんなんはええねん。それより今日は朝まで祝杯や!」
「はい、師匠!」
「あの、山岡さん、明日は朝一番でPVの撮影が…」
「アホ、何を言うてんねんサマー、お前も朝までつき合うんや。俺の愛弟子が新人賞を獲ったんやからな」
「え、私も行くんですか?」
「当り前や。よっしゃ行くで、中田、サマー!」

 そんな幸福なやりとりがつい昨日のことのように蘇る。彼女は写真から目を逸らし姿見に映った自分を確認。できる限りメイクで誤魔化したがそれでも泣き腫らした目は少し目立つ。仕方ない、瞼も心もあと一日くらいは隠し通せるだろう。唇を結び、レンズに薄い紫色の入ったいつものメガネを掛ける。鞄を握った左手の手首にはロサンゼルスの時を刻む腕時計。今日が終われば彼女は思い出と共にこれも捨ててしまうつもりだった。激流の音楽業界を生きた現場マネージャーはこうして最後の出勤に臨む。

 …コツン。

 玄関のドアを開けると何かがぶつかる音。怪訝に思いながら外に出ると、ドアノブには白いビニール袋が提げられていた。鞄を置いて手に取ると中には四つ折の紙が一枚と腕時計。そう、彼女の手首にはまっているのとお揃いの腕時計だった。取り出すとその文字盤は間違いなく日本の時を刻んでいる。
 一緒に入っていた紙を開くとそこには見慣れた筆跡でたった三行の手紙。

 サマー、長い間ありがとな。そしてすまんかった。
 お前は中田の葬式に出たれ。お揃いの腕時計見せたら家族も認めてくれるはずや。
 元気でな。またええ歌手がおったら育ててやってくれよ。

 昨夜山岡とカイカンがどんなやりとりをしたのか彼女は知らない。しかし中田一寿の奪われた腕時計がここにあることがその全てを物語っていた。
「最後まで…自分勝手なんですから」
 メガネをはずす。短い手紙に涙の雫が一つだけ落ちた。

 東京。大阪よりも少し早い太陽が昇る。その日の未明に警察へ自首した山岡重司のニュースは、そのまま午前10時のワイドショーを騒がせていた。東京駅の改札で待つムーンの前に、カイカンが相変わらずの格好で姿を見せる。
「やあムーン、迷惑かけたね」
「いえ、警部こそお疲れ様でした」
 報道で事件の結末を知ってはいたが、彼女はそれ以上のことは言わなかった。
「警視庁に戻ったら、三日分の仕事が山積みですよ」
「わかってますとも」
「それとこの前のCDのお金もまだですから」
「はいはい、それもわかってますとも」
「それでは早く戻りましょう。向こうに私の車が停めてありますから」
 二人は駅を出てせわしない都会の雑踏の中を歩く。やがて見えてくるムーンの車。ボロボロのコートの変人はその助手席に乗り込みながら言った。
「そういえばさ」
「何です?」
 運転席でシートベルトをしながら愛想のない美人は答える。
「私のいない間に事件の割り振りは来たかい?」
「はい、何件か。警部がいらっしゃらないので他のミットに代わってもらいました」
「そう…だよね。事件が起きないはずないよね」
 上司の声は少し寂しそうに聞こえた。部下はそれには答えずエンジンをかける。車体が嘶くと同時にカーラジオも流れ始めた。
「じゃあ警部、出発しますよ。シートベルトしてください」
 しかしカイカンは動かない。ただスピーカーを見つめている。
「この曲…」
 それは山岡重司のヒット曲だった。どうやらニュースの中で彼の軌跡を振り返っているらしい。そのまっすぐで力強い歌声に周囲の雑踏がかすむ。
「警部…」
「ねえムーン、ある人が言ってたんだよ、歌手は楽曲の中で永遠に生きてるって。確かに音楽の中には永遠の時間があるのかもしれない。でも」
 低い声が優しく続けた。
「でも、音楽を聴く人間の時間は動いていなくちゃいけないよね。ちゃんと未来に向かって」
 女刑事はやはり何も答えなかった。変人上司の胸中などわからないしわかりたくもない。ただ何も心配することはなさそうだと彼女は思う。
 カイカンがシートベルトをすると、ムーンはそっとアクセルを踏み込んだ。