第三章 喝采

 大阪。再び夜が明けた。相変わらずテレビやラジオからは中田一寿の事件がセンセーショナルに、時にエモーショナルに報じられているが、人々はそれはそれとして朝食を摂り、服を着替え、そしていつもどおりに街に出ていく。太陽も変わらず昇り、意地悪く人間たちの頭上に居座ってからやがてビルの谷間へと落ちていった。
「どないしてん、夕陽なんか見つめて」
 テレビ局の廊下の窓辺、夕焼けに頬を染めていた夏歩は山岡の声で我に返った。
「すいません、ぼんやりして。もうディレクターとの打ち合わせは終わられたんですか?」
「ああ。なんかこれまでの中田とのメモリアル映像もVTRで流してくれるそうや。それが終わったら俺が新曲を歌い始める流れやて」
「そうですか」
 彼女は力なく笑む。山岡は窓の向こうの斜陽に目を向けた。
「見事な夕焼けやな。オレンジ色…っちゅうか真っ赤や」
 そっとマネージャーの横顔を伺う。
「中田も夕焼けが好きやったよな。曲の歌詞にもよう出てきてた」
「はい」
 寂しそうに答えた彼女の肩に山岡は手を置こうとしたが、それをやめて背を向けた。
「サマー、お前もう帰れ」
「え?」
 意外な言葉に彼女は視線を上げる。
「でもこれからテレビ出演ですよね」
「音楽番組で一曲歌うだけや。お前がそばにおらんでも何とでもなる」
「いえ、そんな…すいません、私が元気ないって思ったんですよね。大丈夫です」
「どこが大丈夫やねん。ええから帰れや」
「いえ、仕事ですから。番組が終わったらスタッフや共演者のみなさんに挨拶しないといけませんし」
 山岡はプッと噴き出す。
「頑固やなあ。出会った頃から変わらんわ」
 彼は振り返ってニッと笑った。
「せやったら終わるまで喫茶店で待っとれや。テレビ局のそばにあったやろ。俺は出演まで楽屋でひと眠りしとるから」
 再び背を向けて廊下を去っていく山岡。その後ろ姿が夏歩にはひどく寂しそうに見えた。
「山岡さん」
 思わず呼び掛ける。
「大丈夫ですか? …歌うの」
 山岡は振り返らずに頭を掻く。
「おいおい、プロの歌手やぞ。喉の調子は万全や」
「いえ、その…」
 マネージャーは言葉を詰まらせたが彼は全てを汲み取ったように続ける。
「大丈夫やて。どんな時でも幕が上がったら歌わなあかんのが歌手やろ。ほな」
 そして廊下の向こうへ消えていく歌手を彼女は泣きそうな瞳で見送った。

 完全に日も没した午後7時30分、夏歩はテレビ局の隣のオープンカフェにいた。今頃山岡は売り上げ好調の新曲『イシュタル』を披露している頃だ。熱気を含んだビル風が彼女のワンレンの裾を揺らす。注文したアイスコーヒーとサンドイッチにもほとんど手をつけず、メガネの奥の眼差しは虚空へと注がれていた。
「こんばんは」
 後ろから呼び掛けられる。彼女にはその低い声の主がすぐにわかった。
「まだ大阪にいらっしゃったんですね、刑事さん」
 振り返るとそこにはカイカンが立っていた。ビル風は刑事の長い前髪も静かに揺らしている。
「お食事中にすいません。テレビ局に行ったら、こちらだと言われたもので」
「ええ…山岡さんは今番組に出演中で。あ、どうぞ」
 彼女は着席を促す。刑事に対して言い知れぬ不安も覚えていたが、同時にすがりたいような気持ちもどこかにあったのかもしれない。彼女の心はそれだけ寄る辺を見失っていた。カイカンは「では」と対面の椅子に腰を下ろす。
「現場マネージャーさんが現場にいなくてもよろしいんですか?」
「いなくちゃいけないんですけど…どうも体調がすぐれなくて。そうしたら山岡さんがここで休んでいていいと言ってくれたんです」
「お食事も進んでいないようですね」
 刑事はテーブルに右肘をつく。
「山岡とは長いんですか?」
「ええ。デビュー間もなくからですから」
「あいつは…どんな奴ですか?」
「それは刑事さんの方がご存じなんじゃないですか、高校時代からのおつき合いなんですから」
「二十年くらいブランクがありますけどね」
 カイカンは少しだけ笑む。
「そう、あいつは…自信家で、見栄っ張りで、世話好きで、負けず嫌いだけど姑息な手は嫌いで、真正面から挑むけどいつも勇み足で。私の知ってる山岡はそんな奴です。ありゃ、欠点ばっかり言っちゃったかな」
 夏歩もクスッと笑う。
「私が知ってる山岡さんもそんな人ですよ。自分勝手で気分屋で我侭で。すぐ勢いで行動しちゃうからトラブルも多くて…後始末するこっちの身にもなってほしいです。一般の会社だったらとっくにクビでしょうね」
「フフフ、でも根はお人よしで甘えん坊だからそんなに腹も立たない…そんな奴ですよね。まあ自分勝手は私も人のことは言えません。たくさんの人に迷惑をかけています」
「刑事さんにもお世話してくれる人がいらっしゃるのかしら」
「優秀な部下に助けられてますよ。まあ本人は内心文句たらたらでしょうけど。山岡も私も優しい人たちのおかげでこの世界で生きていられる人間です」
 今夜の刑事の雰囲気はどこかあたたかい…夏歩は少しだけ亡き恋人に似た空気を感じた。カイカンはそこで一度言葉を止め、話題を転じる。
「先ほど体調がすぐれないとおっしゃいましたが、お気持ちの方はいかがですか?」
「それは」
 彼女は目を伏せる。
「胸の中に重たい鉛が入ってるみたいです。中田さんがいなくなって、お葬式にも出られなくて…私は何やってるのかなって」
 刑事はそれには答えず肘をついた右手で彼女の腕時計をそっと指差した。
「時刻…まだ直してらっしゃらないのですね。今は夜の7時半なのに、2時半になってますよ」
「…ええ」
 ふいに強い風が吹く。それが通り過ぎるとカイカンは肘をつくのをやめて座りなおした。
「狭間さん、私の推理をお話しします。その腕時計に関する推理です。聞いていただけますか」
 夏歩は顔を上げただけで返事はなかった。しかし語りは開始される。
「まず最初のクエスチョン、どうしてあなたは腕時計の時刻を直さないのか。マネージャーというスケジュール管理をする仕事のあなたが、いつまでも腕時計の時刻をずれたままにしているのはあまりにも不自然です」
「時刻はスマートフォンでも確認できますから」
「であれば次のクエスチョン、どうしてあなたは毎日欠かさずその腕時計をしているのか。時刻の合っていない腕時計なんて何の役にも立たないでしょう」
 刑事はそこで右手の人差し指を立てる。
「私はこう考えました…その腕時計はちゃんと時刻を知るのに役立っているのではないか、と。そう、その時計が示している時刻は合っているんです。ただしそれは日本の時刻ではありません…2時半は午前2時半、日本より17時間遅いロサンゼルスの時刻です。
 つまりあなたは、恋人の中田さんがいるロサンゼルスの時刻を知るためにその腕時計をしていたんです」
 薄い紫色の入ったレンズの奥で彼女の瞳に涙が滲む。カイカンは優しく「違っていますか?」と尋ねた。夏歩はメガネをはずし、ハンカチを目に当てる。
「ごめんなさい…何か言い出しにくくて。刑事さんのおっしゃるとおりです。この腕時計はしばらく会えない彼が今どうしてるかわかるようにロスの時刻にしていたんです」
「別に責めているわけではありませんよ。とっても…素敵だと思います」
「いい歳して恥ずかしいです」
 照れ笑いする彼女にカイカンは少し身を乗り出す。
「狭間さん、ここが肝心なところなんですが。あなたがロスの時刻の腕時計をしていたということは、同じように中田さんも日本時刻の腕時計をしていたのではありませんか?」
「はい、彼が日本を発つ時に私がプレゼントしました。二人ともそれまでは腕時計をする習慣がなかったんですけどね、離れていてもつながっていられるように…アハハ、本当に恥ずかしいです。ペアウォッチなんて中学生カップルみたいで」
「あなたはそのことを誰かに言いましたか?」
「いいえ。彼との関係は絶対の秘密でしたから」
「警察の事情聴取でも?」
「言ってません…ごめんなさい」
「やはりそうでしたか」
 乗り出していた身を戻し、立てていた指も下ろしてから低い声は続けた。その顔にはもう微塵の笑みもない。
「大阪府警の捜査資料で確認しました。中田さんの遺体が発見された現場から腕時計は見つかっていません」
「じゃあ腕時計も強盗犯が持ち去ったということですか?」
「あなたは本当に中田さんは強盗に殺害されたと思いますか?」
「どういう…意味ですか?」
 怯えた声で彼女は尋ねた。
「これは強盗殺人などではありません。その証拠に、現場で発見された中田さんの傘は閉じた状態でした。傘を差して歩いているところを強盗に襲われたのなら、落ちた傘は開いたままになっているはずです。つまり彼は出掛けた先の家の中で殺害された、遺体と傘は後から裏路地へ運ばれたんです」
「そんな…」
「あなたはあの夜、中田さんが誰に会いに行ったのか、ご存知なのではありませんか? 少なくとも心当たりはある」
 低い声が圧力を増す。ビル風もさらに強さを増して吹き抜ける。刑事はハットを、マネージャーはワンレンの髪を抑えた。彼女が手にしていたハンカチが風にさらわれて地面に落ちる。
「狭間さん」
 凪を待ってからカイカンは決定的な問いを突きつけた。
「『イシュタル』は中田さんが作った曲ですね?」
 目を見開いて絶句する夏歩。それは質問が真であることを物語っていた。
「やはりそうでしたか」
 二人は苦い沈黙に浸る。刑事は重い息を吐き、マネージャーは落ちたハンカチを拾うこともなくただがっくりと頭を下げた。
「刑事さん…私、どうしたらいいですか」
 俯いたまま絞り出される声。
「ご存知のことを教えてください。それが…あなたの大切な人の死を明らかにするはずです」
「山岡さんも、私にとって大切な人です」
「だとしても、あなたは真実を話すべきです。中田さんのためにも、あなた自身のためにも、そして…あいつのためにも。このままにしては絶対にいけない」
 またしても沈黙。刹那に交叉するいくつもの感情。その果てに彼女は目の前の男の視線に正面から向き合う道を選択した。
「わかりました」
 膝の上で堅く拳を握ってから続ける。
「まず山岡さんの新曲ですが、確かにあれは中田さんが以前に作った曲です。山岡さんのデモを聴いた時、昔中田さんに聴かせてもらった曲と同じだと感じました」
 カイカンは黙って頷く。
「だから発売前の音源をロスの彼に送ったんです。そして電話で確認したら、確かに昔自分が山岡さんに渡したMDに入れてた曲だと言ってました」
「…盗作ですか」
 彼女は身を乗り出す。
「でも刑事さん、彼はちっとも怒っていませんでした! 山岡さんがスランプだったのは彼も知ってましたし、『山さんの役に立てたんなら嬉しい、やっと少し恩返しができた』って笑ってましたから。だから、だから…」
「そのことで二人がもめて、山岡が彼を殺すなんてありえないと?」
 彼女はせがむように何度も頷く。
「あの夜、空港からあなたに電話してきた中田さんは山岡のことを何か言ってませんでしたか?」
「彼はスケジュールを尋ねてきました。『今夜山さんがどこにいるのか教えて』って。だから家にいるはずって答えました。でも…」
「ナルホド」
 頷くカイカンに彼女の語調が強くなった。
「刑事さん! 仮にあの夜彼が山岡さんに会いに行ったとしても、そこで殺されたわけはありません。二人は本当に仲良しで…あの人は心から山岡さんを尊敬してました」
「もう結構です」
 カイカンはそっと腰を上げる。彼女も慌てて立ち上がった。
「ちょっと待ってください、刑事さん!」
 その涙声の絶叫に周囲の客の何人かがこちらを向いた。
「お願いします、もう…」
「狭間さん」
 前髪に隠れていない左目がじっと見つめ返す。
「この事件の犯人は…あいつなんです」
 彼女の勢いが止まる。
「あなたも本当はわかっている。長年苦楽を共にして、あいつがどんな奴か知っているあなたなら、あいつが何かを隠していると感じておられるはずです。だからあいつが中田さんの曲を自分の曲として歌う姿を見ていられなくて、あなたは今ここにいる」
 腰が砕けたように再び椅子に沈む夏歩。カイカンは背を向けた。
「ありがとうございました…ごめんなさい」
 小さく言うと刑事はその場を去る。ボロボロのコートの後ろ姿が夜の街に消えていくと、彼女はテーブルに突っ伏した。こちらを気にしていた客たちもまた自分の世界に戻る。微かに漏れる彼女のうめきはビル風と喧騒に掻き消され、落ちたハンカチはまたどこかへと飛ばされていった。

 午後10時半、テレビ出演を終えた山岡重司は自宅へ戻りソファで横になっていた。先ほどの演奏を振り返る…正直、自己採点は30点。コンサートと違ってテレビでのパフォーマンスはクオリティが下がりがちなのはわかっているが、それを差し引いてもひどい出来だった。唄もギターもけっして悪くなかった。もちろんミスなどしていない。それでも30点…もしくはそれ以下の出来。彼にはわかっていた、何よりも気持ちが乗っていなかった、想いが込められていなかったと。
 ギターをかき鳴らして歌い上げながらも頭の中ではずっと別のメロディが流れていた。はっきりとは聴こえない、でも片隅にちらつく懐かしい旋律。それはあの夜、中田一寿の遺体を路地に投げ捨てた時にも豪雨の中で聴いた曲だった。しかしそれが何の曲なのか…思い出せない。
「どないやねん」
 心を覆う濃霧がそんな言葉になって漏れる。アルコールでもあおろうかと身を起こしたその時だった。

 …ピンポーン。

 インターホンが鳴る。思考が整理できずそのまま固まっているとドアの向こうから声がした。低くてよく通るあの声だ。
「…山岡?」
 ソファを立つと険しい面持ちで玄関へ行き、ゆっくりドアを開ける。そこにはカイカンが立っていた。
「お前、まだ大阪におったんかいな。また遊びに来たんか? 今夜は疲れとるんやけどな」
「いや、ちょっと話したいことがあって」
 カイカンには表情がない。山岡は真意を推し量るように目を細めた。
「まあええわ、上がれや」
 中に招かれたカイカンはリビングに入ると、そのまま座らずに話し始めた。
「中田さんが殺された事件について…自分なりの結論が出たんだ」
「そら興味深いな、じゃあ教えてくれや」
 山岡も立ったまま答える。彼を正面から見据えて深く息を吸うカイカン。そして一度口にすればもう取り消せないその言葉を放った。
「殺したのは君だよ」
 声が部屋に重たく響く。山岡は不敵に右の口角をニッと上げた。
「相変わらずええ声やな。俺のハイトーンボイスにお前のバリトンボイス、また一緒に歌いたくなったわ。やっぱり今から二人で演奏せえへんか?」
「ふざけてる場合じゃないだろ」
「せやったら」
 笑みを消した山岡の瞳に敵意が浮かぶ。
「本気で言うてるんやな?」
「ああ」
「本気の本気やな? 後から冗談でしたとか言わへんな?」
「…ああ」
「よっしゃ!」
 全く引き下がらないカイカンに対して、山岡は場違いな軽快さで手をパンと打った。
「ほな言うてみいや、いったいどないな根拠でその結論になったんか」
「あの夜、君は中田さんに会ってる。でもそのことを隠している。それが一番の根拠さ」
「会ってへんわ。何度もそう言うたやろ」
「それは嘘だ」
 カイカンは右手の人差指を立てた。
「君は中田さんに会ってるんだよ。だって最初に事務所で話をした時、君はこう言ったじゃないか…『中田は殺されて金とか腕時計を奪われた』って」
「それがどないしてん! 事情聴取の時に警察からそう聞いたから言っただけや」
 語気を強めて山岡も食って掛かる。
「警察がそんなことを言うはずがないんだよ」
「なんでや? 捜査情報やからか? でもそんなんポロッと言うてまう奴だっておるかもしれへんやろ!」
「ポロッとも言えないんだ」
「なんでお前に断言できんねん!」
「だって…中田さんが腕時計をしていたことを警察は知らなかったんだから」
 怪訝な顔の山岡。カイカンは続けた。
「確かに事件当夜、中田さんは腕時計をしていた。でもその腕時計はロスに行く直前にプレゼントされた物なんだよ。君もそうだけど、ギターを弾く人間はあんまり腕時計をしない…演奏の邪魔になるからね。 今日中田さんのマネージャーの鉾立さんがようやく帰国して話が聞けたんだ。中田さんが腕時計をしたのは今回が初めてなんだよ!」
 何か言い返そうとする山岡にカイカンはその隙を与えない。まるで込み上げる感情を無理に抑えるかのように言葉は続けられた。
「わかるか? 警察も中田さんが腕時計をしていたことは知らなかった、事情聴取の時点ではそんな捜査情報はなかった、だから奪われたなんて言うはずがないんだよ。しかし君だけはそれを知っていた…中田さんにはずっと会っていなかったはずの君が、彼が今までしていなかった腕時計をしていたことを知っていたんだ。それは、それは君自身が腕時計を奪った犯人だからだよ…強盗の仕業に見せかけるためにね」
 山岡は一瞬だけ答えに窮したが、すぐに表情から険しさを抜くと挑発的に鼻で笑った。
「俺、ほんまにそんなこと言うたかな? 最近物忘れがひどうてなあ。お前の記憶違いとちゃうか?」
「…山岡」
 低い声にわずかに怒りの響きが混じる。
「仮に、仮にやで、俺がそんなこと言うてたとしてもそんなのただの勘違いやろ。中田が強盗に遭ったって聞いて、金だけやのうて腕時計も盗られたと連想しただけや。ただの思い込みや」
 余裕をアピールするかのように山岡は両手を腰に当てる。
「そんなんで俺が中田に会ったことになるんかいな、刑事さん?」
「それだけじゃ…ない」
 カイカンは立てていた指を下ろす。
「中田さんがあの夜、ここに来たっていう決定的な証拠が残ってる」
「アホ抜かせ、あいつは来てない言うてるやろ! そんなに言うなら鑑識でも警察犬でも何でも連れてこいや! でもなあ、中田はこれまでもしょっちゅうこの部屋に遊びにきてんねん、指紋とかが出てもおかしくないんやで」
 憤怒を爆発させる山岡とは対照的に、カイカンは冷静に言った。
「昨日話したピックの謎、憶えてるか? どうして中田さんは11枚のピックを買ったのか」
「それが何なんや」
「どうして10枚より1枚多かったのか…それがわからなかったけど、でもそもそもこの疑問が間違ってた。彼はロスにいたんだよ、そこでピックを買ったんだ。君も知ってるだろ? 欧米では10を1セットとする単位以外に、12を1セットとする単位が広く用いられている」
「ダースやろ、知っとるわ」
「そう、つまり中田さんはロスで1ダースセットのピックを買ったんだ」
 再び右手の人差指が立てられる。
「となれば11枚という数字は1枚多いわけじゃない、逆に1枚少ないことになる。君もギターを弾くからわかるだろ? ギタリストはピックを財布やポケットに入れて持ち歩く…つまり中田さんは1ダースから1枚取ってそれを持ち歩いていたんだ。でも現場の遺体からも、投げ捨てられた財布からもそんなピックは見つかっていない」
「せやったらお前の推理が的外れなんとちゃうか?」
「違う。ピックは犯行現場に残されてるんだ。本当の犯行現場…つまりこの部屋に」
 山岡は息を呑む。犯行の後、リビングも玄関も念入りに掃除した。しかしピックなど落ちていなかった。じゃあどこに? そんな彼の胸中を察するようにカイカンは言う。
「ピックはちょっとやそっとじゃ見つからない所に入ってしまったんだ。中田さんの何気ない行動によってね」
 山岡の脳裏にあの夜の光景がフラッシュバックする。豪雨の中、訪ねてきた中田がこのリビングでした行動は…。
「中田さんはあれを弾いたんじゃないのか?」
 立てられた指が傾いて壁際のフォークギターを示す。
「ヤマミネの新作モデル。ギタリストだったら触らずにはいられないはずだ。そして買ったばかりの慣れないピックで、初めて触る慣れないギターを中田さんが弾いたとすれば…あの現象が起きても不思議じゃない。そう、よくあるミスさ」
 カイカンは少し軽い口調でそう言うと壁際のギターに近付きそっと持ち上げる。山岡の余裕は完全に失われその唇は「まさか」と動いた。
「あいつのピックがギターホールの中に落ちたっちゅうんか?」
「そう。しかもギターの中に入ったピックって、うまくはまっちゃうとなかなか出てこないんだよね」
「嘘や…そんなアホな」
 怯える山岡を横目に、カイカンはギターホールを下に向けると思いきりギターを上下左右に振った。やがてギターの中でカチャカチャと何かが内壁にぶつかる音がして、ついに1枚のピックがホールから飛び出した。まるでスローモーション映像、花びらのように床へと落ちるピックを見た瞬間、山岡の全身から力が抜けた。
 カイカンはギターを壁際に戻すと、床に落ちたピックをそっとハンカチでくるんで拾う。
「中田さんのジャンパーにあった11枚と同じピックだ…彼の指紋も付着してるだろう」
 がっくりと肩を落としている男に低い声は説明した。
「君が先月買ったギターに、春先から日本を離れていた中田さんがロスで買ったピックが入ってる。…これがどういう意味かわかるかい?」
「わかるわ、アホ」
 残念そうに、しかしどこかいとおしそうに答える。山岡の脳裏にはまたあの夜の中田の姿がフラッシュバックしていた。確かにギターを弾いていた時、彼が「あっ」と急に声を上げた瞬間があった。あの時にピックはホールに落ちてしまったのだろう。
「中田が帰国した後でここに来たっちゅう決定的な証拠や。そうか…そういうことかいな。ハハ、あいつはまだまだギターがヘタクソやったからな。そういや高校の時にお前もしょっちゅうピックをギターの中に落としとった」
 山岡は優しい眼差しをかつての相棒に向ける。
「俺の負けや。ほんまにプロの刑事になったんやな…お見それしたで」
 そして彼はカイカンではない名前…その刑事の本名を呼んだ。久しぶりにそう呼ばれた男はようやく微笑む…誰よりも寂しそうに。
「そうだよ。君がプロのミュージシャンになったようにね、重司」

 その後二人は昨夜のようにテーブルを挟んで床に腰を下ろした。もう何も演じる必要がなくなった男はただ穏やかに語りかける。
「お前のことやから…俺がこんなことした動機も見当がついとるんやろ?」
「やっぱり盗作のこと?」
 山岡は頷いた。
「ああそうや。俺、やってもうたんや。どうしても昔みたいにええ曲のアイデアが浮かばんで…ついな。あの夜、中田はそのことで脅しにここに来たんや。俺、怖くなってもうて、それで発作的にあいつを…」
 彼の頬を涙が伝った。
「ほんま…アホなことしたで。今までもさんざんしてきたけど、今回が一番アホなことや」
「中田さんは本当に君を脅そうとしたのか?」
「そうや。あいつ笑顔で言うたんやで? 『この曲、疑われてますよ。でも僕が明日社長に言っておくから大丈夫です。後のことは頼みますね。これからもよろしくお願いします』って。どう考えても、盗作のことは庇ってやるからこれから先言うことを聞けっちゅうことやろ。
 まあせやから言うて人を殺してええことにはならんけどな」
「違うよ、そうじゃない」
 カイカンは残念そうに息を吐く。
「中田さんはこう言ったんじゃないか? 『疑われてる』じゃなくて『歌が割れてる』って…つまりあの新曲の君のボーカルの音が割れてるって」
「えっ?」
「よくよく聴かないと気付かない…正直ほとんどの人は言われてもわからない一瞬のノイズだけど、確かにあの曲にはそれがあった。きっと中田さんもそれに気が付いたんだ…彼は耳が良かったんだろ? 発売されたCDの音が割れてるなんて由々しき事態だから、それで彼は急いで君を訪ねた。社長に伝えようとしていたのもそのことだよ」
「じゃあ『後のことは頼みますね』って言うたのは…」
「音を直す作業のことだったんだよ」
 山岡は絶句して固まる。
「実は、中田さんの親しい人に話を聞いたんだけど、彼は確かに盗作のことには気付いてた、でも全く怒っていなかったそうだよ」
「そんな…そんな…」
 別の涙が溢れ出す。
「ほな俺は何のためにあいつを…」
 全身が震えだし、涙もさらに筋を増やす。カイカンは隣に座り直すと、そんな彼の肩にそっと手を置く。
「本当に悲しい勘違いだ。盗作をしたやましい気持ちが君の中にあったから…中田さんの優しい言葉が脅しに聞こえてしまったんだよ」
「う、ううう…あああ!」
 慟哭の声が舞う中、カイカンは彼の背中をそっとさすり続けた。

 一時間後、呼吸を整えた山岡は二人分のホットコーヒーを用意した。
「ありがとな、もう大丈夫や」
「そうか」
 カイカンはそれだけ答えてカップを口に運ぶ。山岡も少し飲んでから言った。
「なあ…お前、最初から俺を犯人やと推理して大阪に来たんか?」
「そうじゃないことを祈ってたけど、もしそうだったら少しでも早く自首してほしいと思ってね」
「自首? 逮捕せえへんのか?」
「管轄が違うからね。まあ君には一生嘘をつき通すなんて無理だったと思うけど」
「どういう意味や」
「だって昔からそうだったじゃないか。浮気がばれて修羅場になったことが何回あったっけ?」
「やかましいわ。考え過ぎて全然アタックできへんかった奴に言われとうないで」
 二人で笑う。
「まあね。運良く警察にばれなかったとしても殺人の罪に君はずっと苦しむことになる。だから遅かれ早かれ自首したと思うよ。ただ再出発するなら早い方がいいから」
 山岡がテーブルにカップを置いた。
「お前…そのために来てくれたんか」
「少しでも君にあの時の償いがしたくて。あの時君との約束が守れていたら…」
 次の瞬間、山岡はカイカンの頭を小突いた。かぶっていたハットが後ろに落ちる。
「ふざけたこと抜かすな。そのことは気にしてへんって言うてるやろ。これは俺がしたことなんやから俺が責任とらなあかんねん。お前には負い目なんてあらへんねん!」
 不機嫌そうにコーヒーを飲むと、山岡はあたふたしている友人に優しく言った。
「でも…ありがとな、来てくれて」
 その言葉にカイカンも黙って微笑む。
「それにしてもお前の推理、ちょっとすご過ぎへんか? 昔から勘のええ奴やとは思うとったけど、事件のニュースを見ただけで俺が犯人やとわかるなんて」
「だってそれは」
 カイカンもコーヒーを飲んで答える。
「あの新曲は明らかに君の曲じゃなかった。そう思った矢先にニュースで君の後輩ミュージシャンが亡くなったって聞いたら、そりゃあピンとくるよ」
「ちょい待て、なんで俺の曲やないってわかったんや? そら確かに作風が違うかもしれへんけど、俺だって今まで色んな曲を作ってきたんやで」
「…わかるさ」
 カイカンはカップを置く。
「この世界の誰よりも長く君のファンをやってるんだから」
 驚いて言葉が出ない山岡。するとカイカンはコートのポケットをまさぐり始める。
「あ、そうそう…この前の君の質問にも答えなくちゃね」
「え? 何やったかな」
「事務所で話した時、言ってたじゃないか…『お前の一番好きな曲を教えてくれ』って」
「そうやったな」
 山岡は嬉しそうに腕を組む。
「ほんで? 俺の曲の中でお前が一番好きなのはどれやねん。やっぱドラマ主題歌になって紅白にも出たあれか?」
「それは…お、あったあった」
 ポケットから取り出されたのはイヤホンにつながれた四角い機器。
「何やこれ、テープレコーダーやないか」
「そう、テレコだよ。一番好きな君の曲はここに入ってる」
「アナログなやっちゃなあ。もう21世紀やで。CDの時代も終わってダウンロードっちゅう味も素っ気もないもんがはやってきとるご自制やのに、カセットテープかいな」
「これじゃないと聴けないんだよ」
 カイカンはイヤホンを抜いて再生ボタンを押す。するとテープがカタカタと回り始め、やがて明るいギターとハイトーンの歌声が聴こえてきた。
「お前…これ…」
「憶えてるかい?」
 そう、それは高校時代に山岡が初めてカイカンに声をかけた時、あつかましくも渡してきた自作のデモテープ。初めて二人で文化祭のステージで演奏したあの曲だった。
「『無限の可能性のドリーム』さ」
「ようこんなしょうもないの持っとったな」
「確かに歌詞もありきたりだし、歌もギターもヘタクソだ。そもそもチューニングだってちゃんとできてない。それでもね…こんなに幸せな気持ちになれる曲はないよ。だから今でもつらいことがあるとついつい聴いちゃうんだ」
 山岡もかつての自分の音楽に耳を傾ける。
「こんなに楽しそうやったんやな…俺」
 昔の彼は調子外れの歌声をただ嬉しそうに上げている。それを聴いている現在の彼の口元がほころぶ。そしてやっとわかった。ここ数日、ずっと頭にちらついて思い出せなかったメロディはこの曲だったのだと。この曲が遠い記憶の向こうから見失いかけた大切なことを伝えようとしてくれていたのだと。
「ずっとスランプや思うてたけど…やっとつっかえが取れた感じや」
 二人は黙ってそれを聴く。その演奏が終わったらそれぞれ別々の道を進まなくてはいけない…そのことを少しだけ忘れるために。
 やがてそのノイズだらけの演奏は終わり、テープが止まった。山岡はレコーダーをカイカンに手渡すと、ゆっくり立ち上がる。カイカンもそれをポケットにしまうと、ハットを拾って腰を上げた。
「ほんまにありがとな」
「いや、こっちこそありがとう」
 カイカンはハットをかぶる。山岡はそっと右手を差し出した。
「それに、最後に一緒に飲めて…ほんまにほんまに楽しかったわ」
 カイカンはその手を握って答えた。
「最後じゃないよ、別に。今度は一緒に演奏するんでしょ? ちゃんと練習して待ってるから」
 山岡も頷く。そしてさらに強く握り返した。
「せやな。ほなまた、必ずな」