第二章 旧交

 一夜が明けた大阪。オフィスドリームズの面々は朝からそれぞれの仕事に当たっていた。一つの命が失われても太陽は昇り、日常の波は変わらず押し寄せる。それが理不尽でも、情け容赦なくても、人はその中を泳がなくてはならない。羽間夏歩もラジオ局のロビーでいつものスーツに身を包んでいた。現在午後2時、山岡重司は新曲のプロモーションのため生放送の番組に出演中。
「羽間さん」
 椅子に腰掛けてスマートフォンでスケジュールを確認していた彼女を低い声が呼ぶ。顔を上げると、そこには昨日の刑事が立っていた。出で立ちも変わらずボロボロのコートとハット姿のままだ。
「おはようございます、刑事さん」
 やや力なくそう言ってから彼女は「あ、もうお昼ですからこんにちはですね、ごめんなさい」と訂正する。
「いえいえ、芸能界の方はいつでも『おはようございます』が挨拶ですもんね」
「ええ。それで癖になってしまって。でもやっぱりお昼や夜におはようは変ですよね。どうしてこんな文化なんでしょう」
「『こんにちは』や『こんばんは』は敬語にできないからじゃないでしょうか。ほら、『おはよう』なら『おはようございます』にできる」
「そうかもしれませんね」
 彼女は素直に納得した。それと同時にそんな世間話はどうでもいいとも内心思った。しかし不気味な刑事は笑顔で続ける。
「いやあ、今日も暑いですね。困ったもんです」
 夏場にそんな格好をして言われてもなあ…とあきれながらも彼女は応じる。
「そうですね、なんだか年々猛暑がひどくなってるみたいで。それより、こんな所でどうされたんですか? あ、山岡なら今ラジオの本番中なんですよ」
「知ってます、事務所で確認してきましたから。ここに来たのは少しあなたとお話がしたいと思ったからです。…お隣、よろしいですか?」
「ええ」
 活気なく答えるマネージャーの横に刑事は腰を下ろした。
「お疲れのようですね」
「夕べは眠れなくて。ごめんなさい」
「いえいえ、あんなことがあったのですから」
「まだ信じられなくて」
「そうですか」
 カイカンは少し間をおいてから尋ねた。
「羽間さんはどうして今のお仕事を?」
「それは…やっぱり音楽が好きだからでしょうか。学生の頃はバンドをやったり、ライブハウスに通い詰めたりもしました」
「ミュージシャンを目指してらっしゃったんですか?」
「いえいえ、私にはそんな才能はありません。それに自分はステージに立つよりも立ってる人を盛り上げる方が好きなんだって気が付きました。それでマネージャーになりたいって思ったんです」
「じゃあ夢が叶ったんですね」
「そう…ですね」
 彼女はせつなそうに目を細めた。
「でももう…続けられないかもしれません」
「中田さんが亡くなったからですか?」
 答える代わりに俯く夏歩。沈黙が通り過ぎる。そこでカイカンは咳払いして続けた。
「本当のところを教えていただけませんか、羽間さん」
 急に圧力を増した低い声に彼女は驚いて隣を見る。長い前髪のせいで刑事の表情はよくわからない。
「どういう意味でしょうか」
「中田さんとの関係です」
 カイカンは右手の人差し指を立てた。
「昨日事務所であなたとお会いして、気になったことがあったんです。中田さんが亡くなった夜、あなたは彼が空港に着いた午後8時に電話をもらったとおっしゃいましたね。最初は事務所で電話お受けたのかと思いました。しかしその後の会話であなたはその日お休みをもらっていたとおっしゃいました。
 つまりあなたは事務所にいたわけではない、個人の電話で中田さんからの連絡を受けたということになります。中田さんはどうしてわざわざあなたに帰国を伝えたのでしょう。自分のマネージャーでもないのに」
 唇を噛んで何も答えない彼女に、低い声は少し優しい響きを帯びて続けた。
「そもそも三日間過ごすためだけにどうして彼はわざわざ帰国したのでしょうか。日本にどうしても会いたい人がいたのなら納得がいきます。そして羽間さん、あなたは山岡の新曲発売の前日という忙しいタイミングでお休みを取った。それも…大切な人と会うためだとしたら納得です」
 カイカンはそこで言葉を止める。ラジオ局の外からは忙しない街の喧騒が聞こえた。
「…さすが刑事さんですね」
 夏歩がゆっくり顔を上げる。
「お願いです、このことは内緒にしておいてください」
「山岡にも?」
「言っていません」
 彼女の眼差しが厳しくなる。
「中田さんは今、とても大切な時期だったんです。彼の夢が大きく花開こうとしてたんです。そんな時につまらないゴシップで彼の足を引っ張りたくなかった…恋人が事務所の先輩のマネージャーだなんてマスコミに知れたら、面白おかしく書き立てられてファンだって離れてしまいます」
「わかります。あなたが空港まで彼を迎えに行かなかったのもマスコミに目撃されるのを避けるためだったんですね」
「ええ、空港は特に危険ですから。ずっとそうやって気を付けてきました」
「でももう隠す必要はないのではありませんか? 中田さんはもう…その、この世におられないんですから」
「それは違いますよ」
 彼女は天井を見上げてきっぱりと言った。
「歌手は例えこの世からいなくなっても楽曲の中で永遠に生きてるんです。CDを再生すればいつでも元気な彼がそこにいるんです。ブレイクはできませんでしたけど、それでも彼を好きだと言ってくれたたくさんのファンのみんなにとってジョニー中田は永遠なんです。だから…こんな女のせいで、そのイメージを汚したくありません」
 刑事は立てていた指を静かに下ろす。
「羽間さん、あなたは楽曲の中で生きている彼のために…この先ずっとご自分の存在を押し殺すつもりですか?」
「だってもう…」
 薄い紫色の入ったレンズの奥で瞳から涙が溢れる。一粒は頬を伝って左手首の腕時計に落ちた。
「もうそれしか残ってないもん…私が彼にしてあげられること」
 彼女がメガネをはずし、会話は一度終わる。そしてクーラーの風が涙をおおよそ渇かした頃、メガネはまたゆっくりかけ直された。
「すいませんでした刑事さん、もう大丈夫です。他に何か訊きたいことがあればどうぞ」
「ありがとうございます」
 カイカンも穏やかに返す。
「それでは一昨日の夜のことを教えてください。本来なら中田さんはあなたと会う予定だったんですね?」
「そうです。でも空港からの電話で、一つ急用ができたと言ってました。用事が終わったら電話するって。でも…電話はかかってきませんでした」
「あなたの方からはかけなかったんですか?」
「もちろんかけました。0時を過ぎても連絡がないので心配になって…。でも何度かけても出てくれなくて、明け方彼の部屋へも行ってみましたけど留守でした。そうこうしてるうちに警察から事務所に電話が入って、社長から私にも事件の連絡が…」
 また溢れそうになる涙を彼女はぐっとこらえる。カイカンは再び人差し指を立てた。
「実は今朝、大阪府警の担当刑事に話を聞いてきたんです。中田さんの携帯電話は彼の部屋の充電器に差さったままだったそうです。一度帰宅した彼はどんな急用で出掛けたのか、空港からの電話では何かおっしゃっていませんでしたか? よく思い出してみてください」
「その…具体的なことは何も。ただ日本の雨が久しぶりで懐かしいとは言ってました。あの夜は土砂降りだったんで、何言ってんのって私は返したんですけど」
「ナルホド。懐かしかったから彼は雨の中を徒歩で出掛けたのかもしれませんね。羽間さん、彼が歩いて行ける範囲で行き先に心当たりはありませんか?」
 彼女は反射的に何か言葉を発送としたが、寸前で思いとどまったかのようにまた口をつぐんだ。それを見逃さなかったカイカンは更なる問いを投げようとしたが…。

「おーい、お二人さーん!」
 後ろから飛んでくる声。揃って振り返ると、エレベーターから降りてきた山岡が右手を上げていた。
「あ、お疲れ様です!」
 マネージャーは慌てて立ち上がり、隣の刑事もそれに合わせた。
「山岡さん、ラジオの本番中のはずじゃ」
「今はニュースの時間やから抜けても平気なんや。それで一服したろと想ってロビーに下りてきたんやけど…まさかお前がおるとはなあ」
 彼は右の口角をニッと上げて不敵にカイカンを見る。
「まだ大阪におったんかいな」
「ああ。府警に立ち寄って色々事件のことを聞いてきたんだ。自分なりに調べてみようと思ってね」
「物好きやなあ。それで俺のマネージャーを尋問しとったんか。サマーが事件と何か関係あるんか?」
「いやいや、君を待ってる間に世間話をしてただけだよ」
 カイカンは手を振って否定。隣で夏歩も大きく頷く。
「さよか。まあでも俺やサマーに尋問しても意味ないで。中田とはずっと会っとらんかったんやから」
「彼が帰国したことはいつ知ったんだ?」
「昨日の朝や。警察から事務所に連絡があって、それで社長から聞いた。あいつはてっきりロスにおるもんやと想っとったからたまげたわ。そういや鉾立はまだロスにおるんやろか」
「向こうの事後処理を終わらせて鉾立さんも明日には日本に戻ってくるそうです」
 夏歩が答える。
「鉾立さんっていうのが中田さんのマネージャーだね」
「そうや。結構おもろいオッサンやで」
「そう…」
 カイカンは改まって言った。
「ねえ、どこかでゆっくり話ができないかな」
「勘弁してくれ。事情聴取はもうええって昨日も言うたやないか」
「いや、事件のことだけじゃなくて、君と話がしたいんだ。頼むよ」
 今度は大袈裟に胸の前で手を合わせるカイカン。山岡は訝しげに眉根を寄せたが、すぐにまたニッと右の口角を上げた。
「せやな、久しぶりに会えたのにこのまま別れるのも寂しいしな。けどいつがええかな。新曲を出した時っちゅうのは色々忙しくてな、今日もラジオの後に仕事が入っとる。そうやサマー、中田の葬式はどうなるんや?」
「まだご遺体は警察から戻ってきていないので日程はわかりません。ただ葬儀はご家族の希望で親族のみで行なうそうです。ですから私たちは参列できません」
「そうか。せやったら今夜飲むんはどうや刑事さん?」
「もちろん構わないよ、ありがとう」
 カイカンも笑む。すると彼女が「ちょっと山岡さん」と口を挟んだ。
「中田さんが亡くなられたばかりなんですよ」
「わかっとる。別にあいつを悼んどらんわけやない…むしろ逆や。こんな時やから一人でいたくないんや。それで旧友のこいつと話をしてたいんや。大丈夫、深酒はせえへんよ」
「…わかりました。マスコミにも気を付けてくださいね」
「おう、何でも難癖つけられて叩かれるご時世やからな。喪に服さずに飲み歩く冷徹歌手なんて報道されたらかなわんわ」
「だったら君の家に行くよ」
 と、カイカン。山岡はその提案に一瞬迷った…が、すぐに頷く。
「よっしゃ、俺の家に招待するわ。男二人なら熱愛報道が出ることもないやろ。
 おっと、ゆっくり話し過ぎた。サマー、今何時や?」
 マネージャーはスマートフォンを一瞥。
「もうすぐ午後3時です」
「そろそろスタジオに戻らな。今からリスナーと電話で話すコーナーなんや。じゃあ今夜9時に俺の家っちゅうことで、住所はサマーから聞いてくれ」
 そう言うとミュージシャンは駆け足でエレベーターに向かう。刑事は小さく「わかった」とだけ答えた。そしてマネージャーはエレベーターの扉が閉まるのを待ってからしみじみと言った。
「歌手って大変ですよね…こんな時でも明るくしてなきゃいけないんですから」
 カイカンは何も答えない。
「刑事さん、さっきはありがとうございました。中田さんとのことを…山岡さんに黙っていてくれて」
「いえいえ。じゃあ私はそろそろ失礼しますが、最後にもう一つだけ質問してよろしいですか?」
「何でしょう」
「いや、どうでもいいことかもしれないんですけどね」
 カイカンは彼女の顔を見た。
「一応教えてください。羽間さん、あなたどうして腕時計を見ないんですか? 今もそうでしたし昨日事務所でお会いした時もそうでした。時刻を尋ねられてあなたはわざわざスマートフォンを取り出して答えていた…せっかく腕時計をしてらっしゃるのに」
 夏歩は目を見開いた後、弱い笑みを浮かべる。
「刑事さんって本当に色々なことが気になるんですね。びっくりです」
「嫌な職業病ですよ」
「どんな業界にも職業病があるんですね。実はこの腕時計、時刻が狂ってるんですよ。早く直さなくちゃとは想ってるんですけど」
「ナルホド、確かに10時になってますね…かなりずれてます」
 カイカンが彼女の腕時計の文字盤を覗き込む。
「ええ、ただそれだけのことなんです」
「…わかりました。すいません、どうでもいい質問をしてしまって。それでは私はこれで」
 刑事は軽く一礼して正面玄関へ向かう。彼女ははっとしてその背中に声を投げた。
「あの、山岡さんの住所を」
「もう調べてあります」
 振り返らずに答える低い声。そしてカイカンはそのままラジオ局を出て行き、自動ドアが無機質な音を立てて閉まった。
 ロビーに残された彼女。そっと左手首の腕時計に触れる。込み上げるのは恋人を失った喪失感、葬儀にも参列できない疎外感、孤独感、そして…。
 自動ドアの向こうには陽炎に揺れる街、その中をどんな風景にもけっして溶け込むことのないボロボロのコートの後ろ姿が遠ざかっていく。込み上げる新たな感情は絶望感。正確に言うならその予兆の感覚。世界が崩壊する前日のような、夏歩はそんな底知れぬ胸騒ぎを覚えていた。

 午後9時、山岡は自宅のソファに腰を下ろしていた。自分が未来を奪った後輩、もう過去へ引き返せない自分、そして突如過去からやって来た友…三人の数奇な運命を彼はぼんやりと考えていた。

 …ピンポーン。

 インターホンが鳴った。脳裏にあの夜の光景が過る。しかし、もちろん今夜訪ねてきたのは中田ではない。彼は鼻で笑って立ち上がった。
「おう、入ってええで、鍵は開いとる」
「失礼します」
 現れるカイカン。出で立ちは相変わらずのコートとハットでその右手には買い物袋が提げられている。
「時間ぴったしやな」
「一応お酒とおつまみを買ってきたよ」
「すまんな。まあ上がってくれや」
 促されてカイカンはリビングの床に腰を下ろす。山岡もグラスと皿を持ってくるとテーブルの対面に座った。
「ほな、始めようや」
「ああ」
 カイカンが袋の中身をテーブルに広げると山岡は舌鼓。
「ジャックダニエルやないか。それにコーラも」
「君、好きだっただろ」
「よう憶えとったな。おし、久しぶりに俺の作ったジャックコーク飲ませたるわ。それにつまみは…おう、野沢菜とチャンジャやないか。これもよう憶えとったな」
「フフフ」
 山岡は氷とマドラーを持って来る。そしてジャックダニエルとコーラをなみなみと調合して二人分のジャックコークを作ると片方のグラスを手渡した。
「再会を祝して乾杯や」
「中田さんの冥福を祈っての献杯でもあるけどね」
「…せやな。ほな」
 グラスが重なって音を立てる。ミュージシャンは一気に半分ほどを飲み干した。
「懐かしい味や。しっかし不思議な気分やで、今ここにこうしてお前とおるなんてな」
「そんなもんかな」
 カイカンも少しずつグラスに口をつける。
「そらそうやろ。ぎょうさんおった同級生の中でよりにもよってお前とおるんやで。最初に会った時は絶対こいつとは仲良くなんかならんと思うとったからなあ。学生服の上にけったいなコート着て、冒険家みたいなハットもかぶって…そんな高校生がどこにおる? どう考えても周りから浮いとったやろ」
「だからあれは刑事コロンボとインディ・ジョーンズなんだって。憧れのヒーローを真似してたんだよ。そっちこそ高2から転校してきて、茶髪のロン毛でしかもバリバリの大阪弁だったからみんなにひかれてたくせに」
「せやったか? 俺は最初っから人気者やったと思うけどなあ」
「よく言うよ」
 カイカンはグラスを置いて尋ねる。
「ねえ、最初に話したきっかけって憶えてる?」
「…当たり前や」
 山岡はステンレスの灰皿を引き寄せるとタバコをくわえて火をつけた。
「昼休みに俺が声を掛けたんや。お前は校舎の階段に座ってギター弾いて歌っとった。そう、屋上へ上がる階段や。その演奏をたまたま聴いて…こいつ、おもろいって思ったんや。俺もギターやっとったからな」
「でもいきなり現れて『これ聴いてくれや』ってテープを渡すんだもんな。驚いたよ。しかも自作のデモテープだなんて」
「ハハハハ、あつかましいんは大阪人のええとこやて。まあデモテープっちゅうてもただラジカセで自分の弾き語りを録音しただけやけどな。あの曲のタイトル、憶えとるか?」
「もちろん、タイトルは…」
 二人同時に言った。
「『無限の可能性のドリーム』」
 そして二人同時に吹き出す。
「ハハハハ、ダッサいタイトル、アホ丸出しや」
「フフフ、本当にね。こんな恥ずかしいの今なら思いつかないだろ。でも、結局この曲で二人で文化祭に出たんだよ」
「せやせや。周りのバンドはルナシーとかGLAYとかのコピーばっかりやのに、俺らだけオリジナルでな。しかも二人だけでステージに上がって…客席からあずさ2号かってつっこまれたりしてな。ほんまようやっとったわ。まあ今から思えばガキの遊びやけど」
「卒業まで毎年文化祭に出て、路上でも歌ってたよね。まあお客は全然増えなかったけど」
 カイカンはコートのポケットからおしゃぶり昆布を取り出してそれを口にくわえる。
「お、その昆布も相変わらずやな。ほんま、変わらんやっちゃなあ」
「お互い様」
 また二人同時に笑う。山岡はグラスを空けると再びジャックコークを作る。
「懐かしいな、高校時代か。俺ら一応は広島の名門校の生徒やったんやで。その名も天下のアカシア大学附属高等学校や」
「いつ天下を取ったんだよ」
「天下一のええ高校やろ」
「フフフ、そう思うよ」
 山岡が一服して頭上に煙を吐く。
「最初は卒業したら二人で東京に行こうって言うてたんや。二人でプロのミュージシャン目指そうってな。お前も最初はそう言うてた」
「…うん」
 カイカンはくわえていた昆布をタバコのように指に挟む。
「せやけどお前がどうしても大学行きたい言い始めて…大学出るまで待ってくれって言うたんや。そんで俺だけ先に上京して、お前は広島に残ってアカシア大学に進んだ」
 何も言わないカイカンに山岡は続けた。
「俺はバイトしながら音楽やっとった。お前も大学が休みの時は東京に来て一緒にスタジオ入ったりライブやったりしたよな。打ち上げではこうやってよう俺の部屋で飲んだよな。
 …せやから俺、大学卒業したらお前は必ず東京に来てくれるもんやと思うとった。その気持ちで俺も頑張っとったんや」
 少し語気が強まる。
「それやのに卒業前になって、急にお前は言うたんや…他にやることができたって。ショックやったで、正直」
「本当にごめん」
 カイカンはまた深く頭を下げて詫びる。
「やめてくれや。昨日も言うたやないか、もう気にしてへんって。お前はええ加減に生きる奴やない、むしろ人一倍生き方とかにこだわる性分や。そのお前が決めたことやから…別に俺はええねん」
「ありがとう」
 カイカンは頭を上げる。山岡は優しく笑んだ。
「それに安心したで。お前は何も変わっとらんかった、コートもハットも昆布もあの頃のまんまやった。嫌な奴になっとらんでほんまに嬉しかったで。まあ、相変わらずのド変人やけどな」
「フフフ」
「俺も俺らしく生きたつもりや。結局東京では芽が出んかったけど、大阪に帰って今の事務所に巡り会えて、こうして好きな仕事ができとる。…せやから何も問題あらへん。ほら、作ったるからもっと飲めや」
「うん」
 カイカンもグラスを空ける。山岡はそれを受け取りながら上機嫌でジャックコークを調合する。
「文化祭言うたら、3年の時の憶えとるか? 音楽室が使わしてもらえんで物理教室でライブやったんやけど、正面の黒板にでっかく…」
「そうそう、『飲食厳禁』って書かれた紙が貼られてて、後から写真見たらまるでそういう名前のコンビみたいだった」
「勘弁してほしいわ、お笑いライブやないんやから。あれは物理の藤井先生が貼ったんやろ。まったく、神聖な音楽魂を侮辱しよって」
「まあまあ、先生からしたら神聖な教室でライブなんてけしからんってことだよ」
 そこから二人は遠い思い出の中を旅した。心の中で学生服に袖が通っていく。
「ほなあの頃よう聴いとったCDかけてみよか。全部置いてあるで」
「いいねえ」
 同じ場面の同じ記憶を持ち寄って、一緒に育てた夢を取り出して…アルコールよりも強い酔いに浸った。
「あ、このイントロ、懐かしい」
「それよりここやここ、ここの歌詞が最高やと思わへんか?」
「わかるなあ。その歌詞に合わせてギターの鳴らし方を少しだけ変えてるのがまたいいよね」
「鳴らし方だけやない、ここだけコードにテンションを入れてるんや」
「ナルホド、さすが!」
 瀬戸内海のさざ波のように柔らかに心は揺られ、懐かしい時間が寄せては返し、夜は穏やかに更けていった。

 深夜1時を回った頃、赤い顔の山岡がソファにもたれて言った。
「あかんあかん、サマーには深酒せんって約束したのに飲んでもうた。まあ楽しいんやからしゃあない。ほんまこんなに楽しいんは何年ぶりやろか」
「そうかい? 君は自分の夢を叶えて好きな仕事をしてるじゃないか。そんな人間はそうそういないと思うよ」
「…まあな」
 山岡はそっと目を閉じる。カイカンは少し間をおいてから尋ねた。
「中田さんは…どんな人だったんだい?」
 彼はすぐには答えず、目を閉じたままニコチンをゆっくり吸い込んだ。
「せやな…優しい奴やった」
 紫煙を吐いて言葉を続ける。
「人間味が滲み出とるっちゅうんかな、あいつがそこにおるだけでその場が和むんや。せやからあいつの作る曲も、歌うステージも…あったかくて優しい感じになる。俺みたいにはったりの勢いだけで売っとる歌手からすればうらやましい魅力なんやけど、本人はそれが悩みやとも言うてたわ。ロックの魂で体制批判とか社会風刺とかの曲を作っても全部ポップスになってまうってな。それで相談受けたりもしたな」
「君はどんなアドバイスをしたんだい?」
「アドバイスなんて上等なもんはしてへん、それがシンガーソングライターの苦しみやから曲を作り続けろって言うてやっただけや。実際そうやから。自分が表現したい味が必ずしも自分の持ち味とは限らんし、お客さんあってのプロやからお客さんの好きな味にも応えなあかんし。優しいラブソングを歌わせたらあいつは一級品やった。それで新人賞も獲ったんや」
「ナルホド」
「ほんまに才能のある奴やった。それにすっごく耳がええんや。ちょっとした音のズレとかノイズとかすぐにわかってまう。エンジニアの素質もあったんや。
 俺にも色々気を遣ってくれてな、まあ半分はお世辞やろうけど、俺に憧れてこの世界に入ったとかも言うてたわ」
 山岡の口元が緩む。
「じゃあ羽間さんはどんな人?」
「サマーか? あいつはお堅いしっかり者や。こまっしゃくれたクラス委員みたいな奴。真面目過ぎで時々うんざりするけど、まあ俺がだらしない分、あいつがきっちりしてくれて助かっとる」
「そう…」
 カイカンはグラスを置いた。
「少しだけ事件の話をしてもいいかい?」
「ええで、俺も聞きたいわ」
 山岡は目を開くとタバコを灰皿に置く。カイカンも昆布をポケットに戻すと伏せ目がちに始めた。
「事件の夜、中田さんは8時に空港に着いてそこからタクシーで一人暮らしの自宅まで戻った。自宅に着いたのは10字過ぎ、ここまではタクシー運転手の確認も取れてる。荷物を置いた中田さんはその後また出掛けた…大雨の中を歩いてね。
 彼がどこに何をしに行ったのか、それはわからない。ただ死亡推定時刻は11時前後、遺体は明け方に彼のアパート近くの路上で発見された。遺体のそばには中田さんの傘と財布が落ちていて、財布からは現金やクレジットカードが奪われていた」
 山岡は黙って話を聞いている。
「状況から見れば、中田さんは夜道で強盗に襲われたというのが一番わかりやすい解釈だ。でも、彼がどこに行こうとしていたのか、大雨の中に潜んでいる強盗なんているのか…謎はある」
 そして低い声は感情なく続けた。
「中田さんの住んでるアパートはこの近くだよな。そして中田さんが発見された現場も」
「ああそうや。俺も中田も都会のマンションは苦手でな、あえて郊外に住んどるんや」
「ここに中田さんが来たことはあるかい?」
「何回もあるで。特にあいつが新人の頃はしょっちゅう遊びにきとった」
「事件のあった夜は?」
 山岡の口元から笑みが消える。目を細めて彼は訊き返した。
「なあ、お前…やっぱり俺を疑っとるんか?」
 カイカンは無言のままただ見つめ返す。
「何度も言うたけど、俺はあいつが帰国してたのは知らんかったんや。最後に会ったのは春先、あいつがロスに行く前や。当然事件の夜もあいつはここに来てへん」
「そうか…。いや、疑ってるわけじゃないんだ。ただ彼の携帯電話は部屋の充電器に差さってた、つまり彼は長時間部屋を空けるつもりじゃなかったはずなんだ。徒歩で出掛けてまたすぐ戻ってくるつもりだった。そんな行き先は君の所…つまりこの家くらいしか思い当たらなくてね」
「コンビニにでも行ったんとちゃうか?」
「いや、コンビニは空港から帰る途中で寄ってるんだ。タクシーの運転手が証言してる」
「ほなどこへ行ったんやろ。いくら久しぶりの日本でも帰国したばっかりで大雨の中を散歩するとは思えへんしな。でもあいつがもし俺に会いにこようとしてたんなら、事前に電話なりメールなりしてくるはずやないか? こういう仕事やから夜に家におらへんことも多いんや。一昨日あいつからの連絡なんかなかったで。なんなら調べてくれてもええ」
「実はそれも確認したんだけど確かにそんな履歴はなかった」
「確認したって…ほんまに俺を疑ってるやないか」
「ごめん、時々自分が嫌になるよ。でも…これも職業病なんだね、色んな可能性を考えてしまう。もしあの夜中田さんが君を訪ねてきていたとしたら、何らかのトラブルで君が彼を死なせてしまったとしたら…。
 ほら、君は今安いステンレスの灰皿を使ってる、ライターはデュポンの高級品なのに。そういうのも気になるんだ、ブランド好きの君なら灰皿も立派な物を使うんじゃないかって。例えば大理石の灰皿とかさ」
「おいおい、職業病が重症過ぎるやろ。俺がその大理石の灰皿で中田を殴ったとでも言うんか?」
「ここは郊外の一軒家だ。周囲に物音が聞かれるリスクは少ない。こっそり車で遺体を運んで路上に放置することだってたやすい。しかも事件の夜は土砂降りで出歩いている人もいないから目撃されるリスクも少ない、雨で足跡や車輪の跡も消えてしまう」
「…すごい話やな」
 山岡は平然と答える。しかしその指先はわずかに震えていた。無理もない、カイカンの推理はまさにあの夜彼がしたことそのものだったのだから。
 しばらく無言で向き合う二人。灰皿に置かれたタバコがジリジリと焦げる。そしてカイカンは静かに沈黙を破った。
「でも、これはあくまで空想の話だ。何の証拠もない。それにそもそも君がかわいがってた後輩を殺す理由がない。…そうだよね?」
「そのとおりや」
「じゃあ君が犯人なわけがない」
 山岡がふっと安堵の息を吐く。カイカンも合わせて頬を緩めた。
「刑事っちゅうんは大変な仕事やなあ」
「できればこんなこと考えた雲ないんだけど」
「まあわからんでもないわ。俺も誰かの不幸話とか悲しいニュースとかから曲のアイデアが浮かんだ時…自分が嫌になる」
 それには答えずカイカンは右手の人差し指を立てる。
「実はもう一つ謎があってね。本当に細かい話なんだけど、君の意見が聞きたいんだ。もちろん、君が犯人だとかそんな話じゃない」
「まあついでやし、ええで」
 山岡はそう言って壁際に立て掛けてあったフォークギターを手に取る。そしてポロンポロンとアルペジオを鳴らした。
「ヤマミネのアコギじゃないか。しかもかなり高いやつ」
「ああ、先月発売の新作モデルや。まあ商売道具やから金はかけとる。…それよりもう一つの謎っちゅうのは何やねん」
「実は中田さんの部屋から彼のジャンパーが発見されてるんだけど、そのポケットにピックが入ってたんだ…ギターを弾く時に使うピックが。このジャンパーは帰国した時も着ていた物で、部屋に帰った時に脱いでから出掛けたらしい」
「そうか、まあ蒸し暑い夜やったからジャンパーを脱いでもおかしくないやろ。それでピックがどうしたんや? あいつもギターを弾くんやから持っとって当たり前や」
「でもそのピック、日本じゃ売ってない物なんだ」
「ロスで買ったんやろ。何が謎やねん」
「その枚数がね…11枚なんだよ。中途半端だと思わないかい? 自分はピックを買う時は大抵5枚とか10枚とかで買ってた」
「謎っちゅうのはその11枚のことか? そらお前いくら何でも考え過ぎやで」
「そうかな」
「確かに10枚の方がきりがええけど、そんなん中田の自由やろ。10枚買ったら1枚サービスやったんかもしれへんし、11が好きな数字やったんかもしれへん」
 そこで山岡の弦を爪弾く指が止まる。
「それとも何や? 1枚は俺へのプレゼントであいつはそれを届けにここに来たとでも言うんか?」
「いやいやそんなまさか」
 カイカンは立てていた指を下ろす。
「それなら部屋のジャンパーに11枚残ってるのはおかしいし、海外のお土産がピック1枚じゃさすがに」
「ほなどういうことやねん。1枚余分なピックが事件の解決につながるんかいな。俺は捜査は素人やけど、とてもそうは思えんぞ」
「いや、君の言うとおり考え過ぎ…だと思う。ごめんごめん、一応プロのミュージシャンに訊いたら何かわかるかなって思ってね。気にしないで」
 そこでゆっくり立ち上がる刑事。
「じゃあ…そろそろおいとまするよ」
「ちょい待てや。ギターはもう一本あるから久しぶりに二人で演奏してみいへんか? 奥に防音の部屋もある」
「現役ミュージシャンと合わせるなんて無理だよ。こっちはずっとやってなくて腕がなまってるし」
「そんなこと言うなや」
 山岡は立ち上がるとすぐに奥の部屋から別のギターを持って来てカイカンに握らせる。そして自身も先ほどのギターを構えた。
「どうや? うずうずしてきたやろ、ほれほれ」
 いくつかのコードが鳴らされた。カイカンも六本の弦に指を掛けようとしたが、そのまま鳴らすことなくギターを彼に差し出す。
「今夜はやめておくよ」
「つれへんなあ。もうちょっと遊ぼうや。泊まっていってくれてもええし」
「いや…また次の機会にするよ。君、明日も仕事だろ」
「お前、そういう真面目なとこはサマーにそっくりや。人生たまには羽目をはずすんも大事やで。おっと、そんなに恐い顔すんなって。わかっとる、こんな時にはしゃぐのはようないよな。お開きにするわ」
 ミュージシャンは二本のギターを壁際に置く。すると少しよろけた。
「大丈夫かい?」
「平気や平気。にしても酒に弱くなったもんや。昔やったら朝まででもヘッチャラやったのに」
「もうそんなに若くないよ。一歩まちがえたら中年だ」
「アホ、俺らは間違いなく中年やっちゅうねん」
「そうだね、まごうことなき中年だ」
 また二人同時に笑う。
「じゃあ、ゴミを片付けたら帰るから」
「ええって、そんなの俺がやっとく」
「悪いね」
 リビングを出て行くカイカン。山岡も玄関先まで見送った。
「ほんまに楽しかったで。お前、明日には東京に戻るんやろ。でもこれを機会にまた時々会おうや、お互い忙しいやろうけど…せっかく再会できたんやから。次の時は一緒に演奏もしようや」
「うん…おやすみ」
 振り向かずに答えてボロボロのコートの後姿は家を出て行った。ドアが閉まると山岡はふっと息を吐き、ソファに戻って横になる。
「ほんま…変わらん奴や」
 そう呟くと、ふいに瞳から涙がこぼれた。

 東京。夜も更けて自室のベッドにいたムーンはスマートフォンのコールでようやく入りかけた眠りから引き戻された。耳に当てるとあの低い声。変人上司からもう一日大阪にいることが告げられる。
「まだ帰らないんですか。 ちょっと警部、いい加減にしてくださいよ」
 女刑事は身を起こして苦言を呈する。
「ごめんごめん、どうしてもまだ片付かなくてね。もう少しだけ簡便してよ」
 そこでカイカンの声に風の音が混ざる。
「警部、外におられるんですか?」
「え? そうだよ、公園のベンチに座ってる。でも大丈夫、常夜灯もある明るい公園だから。噴水の周りには野良猫も集まってるみたいだし、フフフ」
 上司はのん気に笑う。
「もしかしてお酒を飲まれてます?」
「よくわかったね、君は名探偵だ。大丈夫、酔っ払ってはいないよ」
「警部は大丈夫でも私は眠いです。今何時だと思ってるんですか、もう2時ですよ」
 ムーンは壁の時計を一瞥。
「あ、そうか。警視庁を離れてるからそっちはまだ勤務中みたいな気がして」
「東京と大阪でそんな時差があるわけないじゃないですか!」
 ムーンはあきれてそう返す。しかし電話の向こうの声はそのまま黙り込んでしまった。風の音は聞こえているので通信が途切れたわけではない。
「警部? あの、聞こえてますか?」
 少し待ってから呼び掛けると低い声は「時差」と呟いた。
「時差がどうかされましたか?」
「そうか、もしかしたらあの時計は…」
 成立しない会話に部下は嘆息する。
「警部、用がなければ私は寝ます」
「あ、ごめんごめん。ちょっと考え事しちゃってね。まあそういうわけだから明日も留守番よろしくね」
「まったく…どういうわけだかこっちはさっぱりわかりませんよ。だいたい警部は大阪で何をされてるんですか? 府警にも顔を出されたとビンさんから伺いました。警部が挨拶周りなんかするわけないので、きっと捜査情報を聞きに行ったんですよね」
「さっすがムーン、お見事! そう、ちょっと知りたいことがあってね。でもビンさんに根回しを頼んでおいてよかった。危うく不審人物として逮捕されるところだったから」
「やっぱりいつもの格好で行かれたんですね。やめてくださいよ、警視庁の刑事はみんな非常識だって思われるじゃないですか」
「相変わらずきついなあ、君は。フフフ」
 低い声はまた笑った。変人なのはいつもどおりだが、どこかいつもと様子が異なる雰囲気をムーンは感じる。それはアルコールのせいだけではない。口調をあらためて彼女は尋ねた。
「警部、一つよろしいですか?」
「何だい?」
「今、警部のされていることは警察官としての職務ですか?」
 低い声は笑うのをやめる。
「私は以前に警部から教わりました。人のことを詮索したり推理したりするのはおこがましいことだと。だから職務以外ではするべきではない、人間をそんなふうにしか見れなくなってはいけないと」
 それは事実だった。カイカンという刑事は時としてそんなことも口にするのだ。とりわけ職務外で捜査活動をすることを嫌っている…そんな印象があったからこそ、ムーンは今の上司の行動に違和感が拭えないでいる。
「そう…だったね」
 力ない声が答えた。ためらう気持ちもあったが部下は言葉を続ける。
「警部が置いていかれた山岡重司のアーティストブックにプロフィールが載ってました。彼は広島の高校を卒業されていますね。確か、警部も広島のご出身だったと」
「うん」
「では、もしかして彼は警部の…」
「同級生さ」
 低い声は懐かしそうに、そしてそれ以上に寂しそうに答えた。今夜の変人上司はやはりいつもと違う…彼女はそう確信する。それと同時に恐ろしい想像も頭に浮かぶ。この上司の明晰な頭脳は誰も気付かないことまで気付いてしまう、時に本人にとって望まない事実まで見抜いてしまうのだ。
「警部は中田一寿さんの事件を調べておられるんですね?」
 姿なき上司から無言の肯定が返される。部下は禁断の問いを投げた。
「犯人は山岡さんだとお考えですか?」
 数秒黙った後、カイカンははっきりと答えた。
「そうだね」
 スマートフォンを持つ手が震える。想像したことではあったが驚愕は免れない。ムーンの首筋にひんやりとした感覚がまとわりつく。そして次の言葉を見つける前に低い声は続けた。
「でもまだ証拠がない。確かに彼にはアリバイもなく犯行は可能だけど、それをやったという物的証拠がない」
「警部」
 考えるより先に口が動いた。
「失礼ですが、手を引かれた方がよいと思います。関係者に知り合いがいる事件の捜査に加わるのは捜査規定に反します。いや、正式な捜査ではないにしても、望ましくありません。何か気付かれたことがあるのならそれだけ大阪府警に伝えて、後はお任せした方が。何も警部が出向いてまで…」
「ありがとう、ムーン」
 穏やかな声で上司は部下の言葉を遮った。
「君が正しい。今、私のやっていることは…警察官として間違ってる」
「どうしてそこまでその事件にこだわるのですか? 山岡さんが同級生だからですか?」
「相棒だから」
 思わぬ答えが返される。
「昔一緒にギターを持って同じ夢を追いかけてた相棒だから。でも私は途中で知らん顔してしまった。だからね、今回はそうしたくないんだ」
 ボロボロのコートとハットを着込み、長い前髪で右目を隠し、昆布をくわえたり、突然動きが固まったり、かと思えばしっかり事件を解決したり…そんなわけのわからない警視庁きってのド変人。その下についてもう六年にもなるが、ムーンには今上司がどんな表情をしているのかわからなかった。
「了解です」
 わざと明るく伝える。
「気の済むまでやってください。ビンさんには私から言っておきます」
「助かるよ」
「職務外ということなんでもちろん有給扱いですから」
「ありゃ、了解ですってそういうこと?」
 上司と部下は合わせて笑う。
「それとも職務放棄で始末書をご用意しますか?」
「勘弁してよ。全部片付いたら君にもビンさんにもちゃんとお礼するから」
「それ以前に昨日のCDのお金もまだですから。でも…イメージできませんね、警部がギターを弾いて夢を追いかける青春を送っておられたなんて」
「まあ、ヘタクソだったけどね。しょっちゅう弦を切ったりピックを…」
 そこでカイカンの言葉がまた急に止まる。ムーンが呼び掛けても無反応。これは推理が着火して頭脳がフル回転している時の状態だと彼女は察する。こうなってしまうと思考回路が落ち着くまで待つしかない。そして普段ならその時こそが事件解決の始まりなのだが、上司が今解き明かそうとしている真実は…それを思うと部下はやはり不安だった。
「…ムーン、本当にありがとう」
 やがて静かに低い声は言った。
「警部…」
「もうじき東京に戻れそうだ」
 立てていた指が力なく鳴らされるペチンという音。
「謎は解けた…解けちゃったよ」
 そして通話は切れた。