第一章 再会

 東京。今日も太陽が昇っている。挑戦的な8月の日射しが道路のアスファルトや車のボンネットをジリジリ焦がしていても、新宿通りは足早な歩行者で溢れていた。平日のランチタイムということもあって、学生風の若者から年配のビジネスマン、談笑し合うオフィスレディたちまで、多くの顔が行き交っている。
 さて、そんな人込みを無表情で歩く女が一人。年の頃は20代後半、学生には見えないが会社勤めというふうでもない。淡く茶色に染めた肩までの髪をセンターで分け、切れ長の瞳が印象的な美人…なのだが、彼女にその美貌をひけらかすような振る舞いは一切ない。むしろ美しい容姿を疎むかのように、時折向けられる好機の視線、羨望の視線までも冷ややかにすり抜けている。
 そして彼女がたどり着いたのは東口近くのレコードショップ。自動ドアが開いて足を踏み入れると、クーラーの冷気と共に賑やかな音楽がどっと押し寄せてくる。慣れないその波の中をしばし漂うと、目当ての品はすぐに見つかった。曲名・アーティスト名が大きなパネルで飾られた専用コーナー、そこに山積みにされた本日発売のCD。その一枚を手に取って彼女はレジへ向かう。店内は客でひしめいていたが、カウンターはさほど込み合ってはいなかった。
「いらっしゃいませ」
 彼女と同世代の女性店員が明るい笑みで迎える。ポニーテールに征服の青いエプロンがよく似合っており、商品を手渡すとその笑顔はさらに花開いた。
「山岡重司(やまおか・じゅうじ)の新曲の『イシュタル』ですね。お預かり致します。いいですよね、この曲。ドラマの主題歌で聴いてからずっと発売が楽しみで…あたしもさっそく自分の分を買っちゃいました」
「そうなんですか」
「友達の中にはもう山岡重司はオワコンだとか言う子もいるんですけど、今回の新曲で返り咲きです。どうだ、山岡重司はすごいだろって今度会ったら言ってやりますよ。
 …あ、ごめんなさい、つい。1200円になります」
 熱弁したことを小さくはにかんでから、店員はそそくさとCDを袋に入れた。
「いえいえ、すごくファンでいらっしゃるのが伝わってきましたよ。はい、1200円ちょうどです」
「ありがとうございます。青春なんですよね、山岡重司はあたしの。だからずっと大好きで…。えっと、店舗特典でアーティストブックもついてますからレシートと一緒に袋にお入れしますね。ファンクラブの企画でやった好きな曲ベストテンも掲載されてますから見てみてください。今回の『イシュタル』もいいけど、あたしはやっぱり『花色』が一番かな。お客様の一番好きな曲は何ですか?」
「えっと…」
 彼女は言葉に詰まる。
「なかなか一つには絞れませんね」
「そうですよね」
 転院は嬉しそうに両手で袋を差し出す。
「山岡重司はいい曲がいっぱいありますもんね。はい、お待たせ致しました。じっくり楽しんでください」
「どうも」
 少々ぎこちない笑顔で受け取った彼女は内心申し訳なさを感じていた。きっと女性店員は同志を得たような気持ちで自分に話し掛けてくれたのだろう。しかし実際には自分はファンでも何でもない。一番好きな曲を教えてなんて言われても困ってしまう。
 小さく溜め息。自動ドアが開いて外へ出ると、真夏の熱気と太陽はまた彼女をうんざりさせた。

 警視庁、その職員食堂の片隅にはカレーを頬張る男が一人。夏場だというのにコートを着込み、屋内だというのにハットをかぶり、しかもそのどちらもが破れかけのボロボロ。明らかに異様な風貌であるが、特段周囲に男を気に留める者はいない。彼が迷い込んだ不審者ではなくここで勤務する刑事であることはこの時期もう新入職員にまでおおよそ知れ渡っているのだ。
「警部」
 と、その男に近付いてきたのは先ほどレコードショップで心苦しい買い物をしてきた彼女。彼女もまたここで勤務する刑事なのだが、その美しい容姿はボロボロのコートの男とは別方向で振り切れていてやはり警察官に見えない。そんな彼らは殺人などの凶悪犯罪を扱う捜査一課の所属である。
「やあムーン」
 男はスプーンを置くと良く通る低い声でそう返した。彼女は紛れもなく日本人、よってムーンというのは本名ではない。警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれているのだが、彼らが所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例なのだ。ちなみに上司である彼のニックネームはカイカン、これまた奇妙奇天烈な名前である。
「頼まれたCD、買ってきましたよ」
「悪かったね。今日が発売日だったのを思い出してさ」
「ちょうど外に出る用事がありましたから。はい、こちらです。特典のアーティストブックも入ってます」
「そりゃ嬉しい。本当にありがとう」
 カイカンは袋を受け取るとすぐに中から所望の品を取り出す。同時にコートのポケットからポータブルのプレイヤーも取り出してディスクをセットし始めた。
「警部、ここでお聴きになるんですか? ミットの部屋に戻ってからにされては」
「少しでも早く聴きたいんだよ…テレビで流れててもなるべく聴かないようにして発売をずっと楽しみにしてたんだから。何しろ彼の久しぶりの新曲だからね」
「そうですか」
 人の忠告などどこ吹く風の変人上司であることは百も承知。女刑事は小さく肩をすくめた。
「なんだか意外ですね。山岡重司といえば若い女性に人気のアーティストじゃないですか。警部がそのファンとは」
「彼は特別さ。それにしても若い女性にって、君だって若い女性でしょ」
「いえ、私は…異分子ですので」
「フフフ、君らしいね」
 不気味に笑うとカイカンはイヤホンを耳に装着。
「そういえば警部は時々イヤホンで音楽を聴いていらっしゃいますよね。あれも山岡重司ですか?」
「まあね。よし、準備完了。いざ聴かん、ミュージックスタート!」
 再生ボタンが押される。キュルキュルと快調に回りだすディスク、子供のようにはしゃいでいる上司を見ながら、部下はまた肩をすくめた。
 もうじき昼休憩も終わる時刻。食堂にいた職員たちも徐々に席を立っていく。雑談の声が減るにつれ、壁際に置かれた大画面テレビの音声が際立ってくる。
「では警部、私は先に部屋に戻っていますので」
 彼女はその場を離れようとしたが、そこで上司の表情が変化していることに気付く。もともと右目を隠す長い前髪のせいで表情がわかりにくいのだが、そこにある顔は明らかに先ほどまでの嬉しそうなものとは違っていた。神妙で真剣で、そして深刻な面持ち。どう見ても好きな歌手の新曲を楽しんでいる顔ではない。
「警部、どうかされましたか?」
 何も返事はない。その沈黙にテレビの音声が割り込む。
「次のニュースです。本日の早朝、大阪市郊外の路上で発見された男性の遺体がシンガーソングライターの中田一寿(なかた・かずとし)さんのものと確認されました」
 イヤホンをしたままテレビの方に向き直るカイカン。ムーンもそれに従った。
「警察の発表によりますと、中田さんは後頭部を殴打されており、金品を奪われた形跡もあるとのことです。今後関係者から詳しい事情を伺うとともに、強盗殺人の可能性も視野に入れて捜査を進めていく方針です。
 中田さんは昨年発表した楽曲がCMソングに起用されて注目を浴びその後もスマッシュヒットを連発、ファンからはジョニー田中の愛称で親しまれ、ブレイクも目前と期待されていました。そのため突然の訃報に大きな波紋が広がりそうです。
 所属事務所であるオフィスドリームズにはシンガーソングライターの山岡重司さんも所属されていますが、本日は山岡さんの新曲の発売日でもあり、悲しみの中でのリリースとなりました。まだ山岡さんからのコメントは発表されておりません。心より中田さんのご冥福をお祈り申し上げます」
 キャスターは一礼すると、途端に表情を明るくして「次はスポーツコーナーです」と番組を進行、同時に軽快なBGMも流れ始めた。そんな切り換えの速さに女刑事は辟易して言う。
「新曲の発売日に後輩の歌手が強盗殺人に遭うなんて…山岡重司はこれから大変ですね。マスコミがコメントを求めて押し寄せますよ」
 カイカンはやはり何も答えず、イヤホンをはずしてゆっくり腰を上げた。
「部屋に戻られます?」
「いや、今から有給を取る」
「えっ」
 あまりの突拍子のなさに思わず声が出た。
「早退されるんですか? どこかお体の具合でも…」
「いや。もし捜査の割り振りが来たら別のミットに回してもらって。ごめん、埋め合わせはする」
 そう言うと足早に出口へ向かっていくカイカン。もうどんな呼び掛けにも応じない。一度も振り返ることなく彼の背中は見えなくなった。その場に取り残された彼女はやれやれと大きな溜め息をつく。
「…ったくもう、何なのよ」
 そんな言葉も出てしまう。机の上にはせっかく買ってきたCDも食べかけのカレーもそのままだ。これを片付けるのも詰まるところは彼女がやるしかないわけだ。
「ああもう、CDのお金ももらってないし!」
 閑散とする職員食堂に美人刑事の嘆きの声だけが舞っていた。

 大阪。食い倒れで知られる街から少し離れたビルの中に芸能事務所『オフィスドリームズ』はあった。1階は立ち食いそば屋で事務所が入っているのは2階と3階。現在午後6時。先ほどまでマスコミ各社がビルの周囲を取り囲んでいたが、そば屋の頑固親父の一喝が入ったこともあってひとまず解散したようだ。
「うるさい連中はようやっと帰ったか」
 3階の社長室の窓からおもてを確認する初老の男…その部屋の主、オフィスドリームズ代表取締役の野田である。彼は豊かにたくわえた口髭を苦々しげに歪ませた。
「ほんまにマスコミっちゅうんは褒めてくれる時はなんぼ騒がれても嬉しいもんやけど、こういう時はやかましゅうてかなわん」
「またすぐ押し寄せてくるんとちゃいますか。それよりこれからどうします?」
 そばで尋ねたのは副社長の景山。ラグビーでもやっていそうな大柄な体格に小さな丸メガネが印象的な男。野田は深く息を吐くと、窓辺を離れて自らの椅子にどっかり腰を沈めた。キャスターが大きく軋む。
「今は警察の捜査の進展を待つしかないやろ。秋から予定しとった中田のライブツアーもキャンセルや。チケットも払い戻しせな。ああ、頭が痛いわ」
「ロスでレコーディング中やったニューアルバムのリリースはどうします? 半分以上はもう録り終わっとったみたいですけど」
「延期や。プレミアムとかメモリアルとかそんな文句をくっつけたらそのうち発売はできるやろうけど…それにしたって事件のことがはっきりせな下手なこと書かれへん」
「そうですよね」
 副社長も手近なソファに座って頭を抱える。日中は警察とマスコミの対応に追われていた彼ら、業務上の事後処理にはほとんど手が着けられていない。東京ではなくあえて大阪に拠点を構え少しずつ実績を伸ばしてきたオフィスドリームズにとって、多くの投資をしてきた有望株を突然失ったのはこれ以上ない痛手であった。
「社長、ファンクラブに対しては…お別れの会を企画しますか?」
「それも警察の捜査が続いとるうちは無理やろな」
「中田を飛ばしたろと思って色々仕込んできたのに、これで全部パアですわ。社長、冗談抜きでこれはうちの存続の危機です」
 そこで景山はずっと壁際に立って黙っている男を見た。
「あんたにももっと頑張ってもらわんと」
 男は組んでいた腕を解き、右の口角だけを上げてニッと粘っこい笑顔を作った。
「わかっとります。二人ともそんな心配そうな顔せんといてくださいよ。俺があいつの分まで気張ります」
「まあ」
 野田が頷いてから答える。
「今日発売になった君の新曲は前評判も良かったし売り上げも好調なようや。君がスランプから脱したんがせめてもの救いやな。また当分うちの所属アーティストは君だけになるんやから頼むで」
「せや」
 そこで景山がポンと手を打つ。
「同情票が買えたらあんたの新曲のセールスにもっとつながるで。ラジオとかテレビに出る時のコメント、うまくやってくれよ」
「同情票なんかいらんわ」
 彼は吐き捨てるように言った。
「俺は俺の音楽で勝負したりますよ」
 顔は笑っていたがその瞳には有無を言わさぬ迫力、一瞬室内の空気が滞った。
 この男こそ山岡重司。自らで作詞作曲はおろか編曲までこなすシンガーソングライターで、オフィスドリームズを名の通る芸能事務所にまでのし上げた屋台骨でもある。両耳を隠す長めの茶色い髪に日焼けした肌、やや鰓の張った西洋風のハンサムだが、それが嫌味にならないのは身長が男性としては少々低めだからか。ここ数年ヒット曲には恵まれていないものの、それでもその名はまだ十分世間に通用する。
「そ、そうか、まあ君らしくてええわ。頑張ってくれ」
 野田は目で景山をたしなめてから山岡にエールを贈った。その時…。
「失礼します」
 控えめにドアがノックされた。野田が「どうぞ」と答えるとスーツ姿の女がお辞儀をして入ってくる。
「お話中にすいません。あの、山岡さんに面会の方が」
 彼女の名前は羽間夏歩(はざま・なつほ)、山岡の現場マネージャーである。細身だが山岡とは対照的に女性としては長身、ワンレンの黒髪でレンズに薄い紫色の入ったメガネをかけている。
「またマスコミか。それならあんたが対応せんかいな」
 鬱憤をぶつけるように景山が言った。
「いえ、警察の方だと」
「警察? 事情聴取はもうしこたま受けたやないか。何か進展があったんか?」
「いえその、警察の方なんですけど警察としていらっしゃったわけではないみたいで」
「どういうことや。わけわからんわ」
 歯切れの悪い彼女に野田もじれる。そんな二人を山岡がまあまあとなだめた。
「イライラしてもええことないですよ。サマー、お前ももっとストレートに報告せえ」
「すいません」
 マネージャーは頭を下げる。『サマー』というのは彼女の名前・夏歩に由来するニックネーム…といってもそう呼んでいるのは山岡だけだが。
「あの、その方刑事さんらしいんですけど、山岡さんのお知り合いみたいで」
「俺の? 刑事の知り合いなんておったかな」
「はい。これを見せればわかると」
 夏歩はポケットサイズで表紙が群青色の手帳を差し出す。怪訝な顔で受け取った彼はその表紙をめくるやいなや目を丸くした。そして今度は無邪気に笑む。
「こらたまげたな。本気でびっくりや」

 山岡が2階の応接室に下りると、そこにはボロボロのコートとハット姿の男が背を向けて立っていた。カイカンである。彼はスローモーション映像のように異様なほどゆっくりと振り返る。
「こらすごい、ほんまにお前かいな」
「久しぶりだね」
 明るい彼とは対照的に低い声は感情なく返した。
「聞いたで、お前、今刑事なんやってな。それにもたまげたけど、こんなもん見せられたら腰抜かすわ」
 歩み寄って先ほどの手帳を手渡す。
「高校の時のお前の生徒手帳やないか。まあ確かにこれ見せられたら訪ねて来たのが誰なんか一発でわかったけどな」
「警察手帳より効果があると思ってね」
「そらそうやけど、相変わらず変な奴やなあ。まあええわ、とにかく座れや」
「失礼するよ」
 促されてソファに腰を下ろすカイカン。山岡も対面にさっそうと座った。ただそこからは両者とも相手の顔を見つめたまま何も発さなくなってしまう。室内は突如として重たい沈黙に陥った。視線だけはお互い微塵も逸らさずに、無言の時間だけが流れていく。
「フッ」
 鼻で笑って静寂を破ったのは山岡。
「それで? 二十年ぶりに現れて、自分で裏切った相棒に何の用や」
「…ごめん。君との約束を守れなかったことは本当にすまないと思ってる」
 頭を下げるカイカンを彼はさらに睨みつけた。
「そんな言葉で許されるとでも思っとるんか」
 強まる語気。そこから再びの沈黙。カイカンは黙って頭を下げたまま動かない。窓からは遠くで鳴るクラクションが時折聞こえた。
「ウヒャハハハ」
 途端に笑い出す山岡。
「冗談、冗談や。もうええて、頭を上げてくれ。懐かしくてついからかっただけや」
 ゆっくり体勢を戻すカイカン。
「心配そうな顔すんな。約束言うたかてあれやろ? 一緒にミュージシャンになるっちゅう…そんなガキの頃の戯言なんて気にしとらんわ」
「そう…か」
 山岡はポケットからライターを取り出しひょいと上に投げてまた自分でキャッチした。
「見てみ、デュポンのライターや。俺は見事に夢を叶えてこうして歌手になれたわけやし、お前かて自分で望んで刑事になったんやろ?」
「…ああ」
「せやったら二人とも成功や。何の問題もあらへん。そうやろ?」
「そうだね」
 ライターをしまって歯を見せて笑う山岡にカイカンもようやく笑みを返した。幾分空気も和らいでお互い少し身を乗り出す。
「それにしても何なんや、その格好は? よう見たらそのコートとハット、高校の時にも着とったやつやないか。それに前髪だけそんなに伸ばして警察で叱られへんのか?」
「そっちだっていい歳して茶髪でロン毛じゃないか。高校の時のまんまだよ」
「アホ、あの頃よりは短いわ。それにこれは仕事用や」
「こっちだって仕事用さ」
「ほなお互い様やな、ハハハハ」
「フフフ」
 今度は二人合わせて声を出して笑う。そこからしばらくは同級生や恩師の近況についての話題。あいつはどこにいる、あの先生はどうしてる、などの情報が共有された。
「あかんあかん、全然話が進んどらんやないか。それで? 結局用件は何やねん」
「実は…ちょっとニュースで見てね」
 カイカンは真顔になって少し座り直した。
「中田一寿さんのことさ。君の事務所の後輩だっていうのは知ってたから」
「それで俺を心配してくれたんか」
「まあね」
「そらありがとな。正直まだ信じられへんのや、あいつが死んでしもうたなんてな。俺にとっては初めての弟子やったし、あいつも師匠やって俺を慕ってくれてな、特に可愛がっとったから。曲作りの才能もあったと思うし…ほんま残念や」
 山岡がすっと目を伏せる。そして何かに導かれるように立ち上がるとそのまま窓辺に寄った。カーテンを開くと夕暮れ時だが真夏の陽光はまだ明るい。
「生きる意味やとか、別れの答えやとか、そんなんをを何曲も歌ってきたんやけどなあ…実際に直面するとさっぱりわからん。ミュージシャンなんてちっぽけなもんやな」
「刑事だって同じだよ」
 カイカンはソファに座ったまま山岡を見ずに答えた。
「もう少ししたら寂しさが込み上げてくるんかもな。今日は警察やマスコミが押し寄せてきてそれどころやなかったから」
「事情聴取はすんだのかい?」
「ああ、事務所の人間は一通りやられたわ。その時にこっちからも色々警察に質問したんやけど、あんまり教えてくれへんかった。わかったんは中田が家の近くの路上で倒れとったのを今朝ジョギングしてたオッサンが見つけたっちゅうことと、中田は後頭部を殴られとって、金とか腕時計とかが奪われとったっちゅうことくらいや」
「お金と腕時計か。死亡推定時刻については?」
「それも詳しくは教えてくれへんかったけど、おそらく夕べの11時前後やと思うで。やたらとその時間帯にどこで何しとったかを確認されたからな。テレビドラマにはちょっとだけ出たことあるけど、まさか現実でアリバイを訊かれるなんて思わんかった」
「ナルホド」
 独特のイントネーションで頷くカイカン。そして冷徹な声が尋ねた。
「ちなみにあなたはその時刻どこで何を?」
 山岡は驚きを見せて振り返る。
「お前、俺を疑っとるんか?」
「え? あ、ごめん、つい」
 刑事は口を押さえると焦ったように立ち上がる。
「職業病だね。いつもの調子で言っちゃって、ごめん」
「ええよええよ、ほんまにプロの刑事なんやな。…ちなみに俺はその時刻に自分の家におったから残念ながらアリバイはなしや。事情聴取でもそう答えたで」
「…そうか」
「お前本職やろ。俺なんかに訊かんでも捜査資料とか見たらええやないか」
「う~ん、管轄が違うからなあ」
「そういえばお前、今どこで働いとるんや?」
「警視庁」
「警視庁って東京やろ? お前そこからわざわざ大阪まで来たんかいな」
 また目を丸くする山岡。と、そこでドアがノックされて「お茶をお持ちしました」の声。
「現場マネージャーや。結構ええ女やで」
「羽間さんでしょ。さっき挨拶したよ」
「そうかそうか。俺はサマーって呼んどるんや。おいサマー、入ってええで」
 ドアが開いてお盆を持った夏歩が現れる。
「失礼します」
 彼女は二人が立ち上がっているのを見て戸惑いの顔。
「何をびっくらこいとんねん。俺らは高校の同級生なんや。おい、座って話そうや」
「そうだね。あ、羽間さん、よろしければご一緒にいかがですか? ちょっとお尋ねしたいこともあるので」
 カイカンは穏やかに微笑む。しかし夏歩からすればやはり彼の存在は不安でしかなかった。いくら警察でも、山岡の旧友でも、あまりに異様な風貌。それでいて前髪に隠れていないその左目は底知れない何かを秘めている。心の奥まで見透かされそうな恐怖。彼女の左手がお盆の下でわずかに震え、腕時計が擦れてカタカタと音を立てた。

 夏歩の分のお茶も用意され、三人でテーブルを囲む。全員少しずつ口をつけたところで山岡が言った。
「ほな改めて始めようか。お江戸の刑事さんは何しにいらっしゃったんや?」
「だからさっきも言ったじゃないか、君の後輩の歌手が事件に巻き込まれたみたいだから心配になって」
「中田さんのことで?」
 夏歩の瞳に不安の色が濃くなる。カイカンは彼女の方を向いて頷いた。
「ええ、何か力になれることはないかと思いましてね」
「お前が解決してくれるんかいな?」
「まあ、それができたら一番いいんだけどね。それで羽間さんに伺いたいのですが、最近の中田さんの様子はどうでした? 何かトラブルを抱えておられたとか、悩んでおられたとか、マネージャーさんならご存知ですよね」
「おいおい、サマーは俺のマネージャーやぞ」
「あ、そっか。じゃあ中田さんのことはあまり詳しくないですね」
 彼女は「え、ええ」と少し困った顔をする。
「では中田さんのマネージャーさんはどちらに?」
「ロスや」
「ロス? 失われたってこと?」
「アホ、ロサンゼルスや。中田は春先からロスでニューアルバムのレコーディングをしとったんや。せやから俺も半年くらい会ってなかった。今日社長に聞いて知ったんやけど、中休みで日本に戻ってきとったんやて。そんで、あいつのマネージャーはまだロスに残っとる。こんなことになって、向こうでも事後処理が色々あるんやろ。なあ、サマー」
 水を向けられて彼女は頷く。
「はい、中田さんは昨年からじわじわ人気が出てきていて、弊社としても今年ブレイクしてもらおうと必死だったんです。それで、秋発売のニューアルバムで勝負をかけるつもりでした。そのために良いアルバムにしようとロスでレコーディングを」
「つまり会社は落ち目の俺に見切りをつけたっちゅうわけや」
「山岡さん、またそんな」
「冗談、冗談やから怒らんでくれ」
 笑って隣のマネージャーの肩をポンポン叩くミュージシャン。そんな二人のやりとりを見ながら刑事はお茶を一口飲み、また話を続けた。
「そうでしたか。しかし中休みで帰国したということはまたロスに戻る予定だったんですよね?」
「そうです。彼は昨日の夜日本に戻られまして、三日間過ごしたらまたロスに戻る予定でした」
「昨日の夜? 羽間さん、それは間違いないですか?」
 カイカンが身を乗り出す。
「はい、空港に着いたって電話があったのが午後8時でしたから。それがまさかこんなことになるなんて」
 感情が込み上げたのか、メガネを押さえて俯く夏歩。カイカンは右手の人差し指を立てた。
「ということは…中田さんは日本に戻ってすぐ被害に遭ったことになりますね」
「そうやな。夜の8時に空港におったんやったら、そこから車を飛ばしてあいつの家に着くのが10時過ぎ。殺されたんが11時やったら家に戻ってホンマすぐやで」
「遺体は彼の自宅近くの路上で発見された、だとすると帰宅してまたすぐどこかに出かけたのか…」
 立てた指に長い前髪をクルクル巻き付けながら低い声は独り言のように呟く。
「長旅で疲れてただろうに、いったいどこへ出掛けたのか。そもそもたった三日過ごすためだけにわざわざ帰国するか…」
 そこで指の動きを止めるとカイカンは二人を交互に見た。
「中田さんが帰国直後にどこへ出掛けたのか、中休みで帰国したのには何か用事があったのか、この辺りのことでご存じのことはないですか?」
 山岡も夏歩も答えない。
「何か心当たりは…ないですかね。例えば中田さんが会いに行きたい相手など」
 やはり返答はない。一つ咳払いしてから山岡が言った。
「なあ、一生懸命なのは有難いんやけどこっちも疲れとるんや。仲間が死んだ気持ちの整理もまだついとらんし。俺らが知っとることは昼間警察に全部もう話したんやから、これ以上事情聴取みたいなんはやめてくれ」
 カイカンはまた自分の口を押さえる。
「ごめん、つい」
「すまんな」
 その言葉を最後に会話が終わる。三人はしばらく黙って湯呑みを口に運んだ…それぞれの想いを胸に。

「さあて」
 山岡が大きく伸びをして沈黙を破った。
「茶もなくなったし、お開きにしようか。サマー、今何時や」
「午後7時ちょうどです」
 ポケットから取り出したスマートフォンを見て現場マネージャーは答える。山岡はそんな彼女の仕草に少し目を細めると、すっくと腰を上げた。
「もうそんな時間か。さすがに外も暗くなってきたな。サマー、明日はラジオの出演やったよな。あとは音楽雑誌の取材。お前だいぶショック受けとるみたいやし、休んでもええで。ラジオ局くらい俺一人でも行けるわ」
「いえ、大丈夫です。昨日もお休みもらってますし、会社が大変な時に休んでばかりいられません」
 そう言いながら彼女も起立、合わせてカイカンも立ち上がった。
「お前はこれからどうするんや? 東京に戻るんか」
「せっかく来たから今夜は大阪に泊まるよ。明日は府警に挨拶に行きたいし」
「そうか。ほんまやったら再会を祝して飲みに行きたいとこやけど、さすがに今日はな」
「わかってるよ」
「そんな顔すんなって。さっきはついきつく言うてもうたけど、会いにきてくれたんはほんま嬉しかった。ありがとな…俺のこと憶えててくれて」
 山岡はニッと右の口角を上げる。
「忘れるわけないだろ。これでも影ながら君をずっと応援してきたんだぞ。CDもインディーズ時代のから全部持ってる」
「そらありがたいな。おいサマー、ここにお得意様が一人おったで」
 彼女も笑顔を作り、「感謝致します」と頭を下げた。
「羽間さん、そんな大袈裟な」
「ええんや、ファンは大切にせなあかんからな。なんならサインでもしたろか?」
 三人で笑って室内に幾分かの明るさが戻る。そしてカイカンはまたスローモーション映像のようにゆっくりとドアへ向かった。
「じゃあまた。大変な時に押しかけてごめん」
「ええんや。全部落ち着いたらほんまに飲む機会作ろうな」
 腰に右手を当てて山岡が返す。
「あ、そうや、俺のCD全部持っとるんやったら、お前の一番好きな曲教えてくれや。今後の参考にするから」
 カイカンはドアの前で立ち止まる。
「ああ、今度ね」
 小さくそう答えて少しだけ振り返る。そして低い声は重たく告げた。
「今日発売の新曲だけど、君らしくなかったね」
 山岡も夏歩も笑顔のまま凍りつく。そんな彼らを一瞥すると、カイカンはそのまま応接室を出ていった。
 バタン、とドアが冷たい音で閉まる。足音が遠ざかっても、二人はしばらくその場を動けなかった。

 東京、警視庁の一室。一人残ってデスクワークに勤しんでいたムーンであったが、外がもうすっかり暗くなっていることに気付いてパソコンを打つ手を止めた。
「今日はこれくらいにしておきますか。はい、お疲れ様!」
 独り言で自らを労うと立ち上がって大きく伸びをする。するとそこに入ってくる初老の男。
「おう、まだいたのか」
「あ、どうも、お疲れ様です」
 慌てて無防備な姿勢と表情を立て直す美人刑事。
「ビンさんこそ、まだいらっしゃったんですね」
「ああ、たまたまね」
 穏やかに答えながら自分のデスクに戻った彼の名前はビン、もちろんこれもこのミットの慣例のニックネーム。警視の階級である彼はムーンだけでなくカイカンにとっても上司であり、このミットの長。とはいえ事件の捜査は全て部下二人に任せており、彼自身は提出された報告書にのんびり目を通すのが日課である。また席をはずしている時は、庁内の会議に参加したり、過去の未解決事件の関係者を当たったり、古い捜査資料を読み返したりなんてことをしているらしいが…詳しいことを知る者はいない。白髪が混じった頭髪を七三に分け、シワの多いその顔にはいつも何の主張もない。
「ビンさん、お茶入れますね」
「気を遣わなくてもいいぞ、それよりもう遅いから上がったらいい。疲れを溜めるのはよくない。先月の過労予防の研修会でも言われたろ」
「ありがとうございます。でも今日は捜査の割り当てもなかったんでエネルギーが余ってるんです。警部が突然どこかへ行ってしまって、ずっと一人でしたから」
「いつもカイカンのおもりをしてもらってすまんな」
「いえ、そんな」
「ハハ、冗談だよ。じゃあお茶をいただこうかな」
「はい」
 部下は慣れた手つきで用意すると上司のデスクに湯呑みを振る舞う。
「熱いので気を付けてください」
「ありがとう。そういえばさっきカイカンから電話あったぞ」
「そうでしたか。警部は何かおっしゃってましたか?」
 ビンはゆっくりお茶に口をつける。
「うん、うまい。そうそれでカイカンは今大阪にいるらしい」
「大阪ですか?」
 予想外の所在に思わずそうくり返す。
「どうしてまた大阪に?」
「よくわからんが、まああいつのことだから何か掴んだんだろう。明日も休むと言ってたよ。おまけに大阪府警に挨拶に行きたいからってその根回しまで頼まれた」
「普段挨拶回りなんかしないのに…」
「まったく自由な奴だよ。こんな勝手して、他のミットだったら絶対叱られるぞ」
「ビンさんもたまには叱ってくださいよ」
「ハハ、そうだなあ」
 上司は笑ってまた一口お茶を飲む。
「まあ、あいつはあれでバランスが取れてるんだろうからな」
 湯呑みを置くと優しい目が彼女へ向いた。
「それより君の方こそもう随分ここにいるが、今のままでいいのか?」
 意外な問いにムーンは固まる。
「例えば昇進試験を受けたいとか、海外研修に出たいとか、考えてないのか?」
「え、ええ、今のところは」
「急な欠員でこのミットに入ってもらったが、君には君の将来があるからね。いつまでもここに引き止めておくのはちょっと忍びない」
「私は満足しています。それに、まだ修行中の身で、何と申しますか、ここでとても勉強になっていますので」
 言葉を濁す部下に上司はそっと目を細める。
「そうか。いや、いいんだ。道を選ぶ理由は人それぞれだから」
「すいません」
「何を謝ってるんだ。むしろ助かるよ、君がいてくれるとミットが引き締まる」
 普通は上司が引き締めるものでは、と思ったが女刑事はそれを言葉にはせず窓の外を見た。そこには黒よりも灰色に近い濁った東京の空。
 道を選ぶ理由は人それぞれ…あの人はいつどんな理由で警察官になる道を選んだのだろう。400キロメートル西の空の下にいるという変人上司の心の中を、わかるはずもないと知りながら彼女は考えてしまう。席に戻って腰を下ろすと、デスクの隅のレコードショップの袋が目に入った。せっかく買ってきたのに置いていってしまったあのCDだ。
 そういえばこれを聴いてから様子がおかしくなったような…。そう思い至って彼女はそっと付属のアーティストブックを手に取る。そしてページを開き、その歌手の名を呟いた。
「…山岡重司」

 大阪。カイカンは賑やかな繁華街を歩いていた。日が落ちてもネオンライトで十分に明るく人通りも多い。行き交う者がその風貌に眉をひそめるが、彼はまるで気にする様子はない。
 大型レコードショップの前を通りかかると、発売されたばかりの山岡重司の新曲『イシュタル』が流れていた。モニター画面には曲のプロモーションビデオも映し出され、笑顔の彼が緑の草原でギターを手に歌っている。
 カイカンは少しだけ足を止めてそれを見ていたがすぐにすっと目を逸らす。そしてコートのポケットからイヤホンを引っ張り出すと耳に装着、また夜の街を歩き始めた。

 その頃、郊外の一軒家。山岡重司はリビングのソファで横になっていた。彼の頭の中ではカイカンの別れ際の言葉が何度もリピートされている。
『今日発売の新曲だけど、君らしくなかったね』
 君らしくない、そう言われた瞬間脳天を貫かれたような気がした。それも無理はない…なぜならあの曲は彼のオリジナルではなかったからだ。クレジットでは作詞作曲は山岡重司となっているがそれは偽りであった。
 ここ数年彼はスランプに陥っていた。今まで湯水のように溢れてきた歌詞もメロディもまるで浮かばなくなり、ストックの楽曲もついに底をついた。無理矢理作った曲もかつてのようなヒットにはつながらず、日に日に世間の注目が薄れていくことを肌で感じて彼は焦っていた。会社からはプレッシャーをかけられ、後輩の楽曲が少しずつセールスを伸ばし始めるにつれ、彼の精神はさらに追い詰められていった。そして、ついに禁断の果実に手を伸ばしてしまったのだ。
 それは盗作。他にストックの楽曲はなかったかと昔の資料を整理していta時に一つのMDを見つけた。そのMDは中田一寿がデビュー当時にアドバイスをくださいと彼に渡した物だった。何気なくそれを聴いてみた時、思ってしまった…これは使える、と。少し手直しして発表すれば今の時代に必ずヒットする、彼は鋭い嗅覚でそう確信したのだ。
 当然迷った。シンガーソングライターのプライドにかけて、盗作なんて惨めな真似はしたくないという思いは強くあった。しかし、このまま過去の存在として世間から忘れ去られるのも耐え難い屈辱。三日診晩懊悩しそして…彼は果実をかじった。今年の春先、中田がロサンゼルスに発ったタイミングを見て自作曲としてデモテープを作り、音楽プロデューサーの太鼓判も得てシングル発売にこぎつけたのである。
「…あいつ、なんでわかったんやろ、俺の曲やないって」
 ぼんやり天井を見つめたまま呟く。そして大きな溜め息を吐くと、ゆっくり体を起こして今度は玄関に視線を送った。脳内のスクリーンに昨夜の光景が悪夢のように映し出される。そう、ここに訪ねてきた中田一寿の姿が。

 昨夜は激しい雨だった。気温は30度を下らず、湿気を含んだ気色悪い熱気から逃れるにはクーラーを全開にするしかない状態であった。もうじき午後11時を回ろうかという時刻、そろそろ寝ようとテレビを消した山岡の家のインターホンが鳴った。

 …ピンポーン。

「はい、どちら様?」
 少し警戒しながら応対する。数えるほどではあるが、これまでにも熱狂的なファンが自宅まで突撃してきたことがあった。
「山さん、僕です」
 返されたのは後輩の声。ロックを解除してドアを開けると、そこにはTシャツ姿の中田が立っていた。
「すいませんこんな時刻に」
 彼は腕時計を見ながらそう言うと、持ってきた傘を振って雨水を払う。その度に量の多い黒髪が揺れた。
「どないしてん、お前ロスにおったんやないんか?」
「中休みでさっき帰国したんですよ。それで山さんにも会いたいなと思って」
 後輩は人懐っこく笑む。
「まあええ、入れや」
「失礼します」
 傘を玄関に立てかけて中田はリビングに上がる。
「お前歩いて来たんか?」
「ええ、近所ですし…雨は大変でしたけど。わあ、この部屋に来るのも久しぶりですね」
「せやな、お前も忙しくなったからな。まあ適当に座れや」
 フローリングの床に腰を下ろすと、中田は壁際に置いてあるフォークギターに目を留めた。
「これ、ヤマミネのアコギじゃないですか。こんなの持ってましたっけ?」
「先月出た新作モデルや。つい衝動買いしてもうた。やっぱりアコギはヤマミネやな、低音の響きがたまらんわ」
「ちょっと弾かせてもらってもいいですか?」
「かまへんで」
 そう答えながらキッチンで麦茶を用意する山岡。リビングで後輩は無邪気にギターを鳴らしている。
「おいおい、もう夜遅いんや。あんまり大きな音出すなよ」
「あっ」
 中田が慌てた声を上げる。
「何や?」
「あ、いえ…何でもありません、すいません」
 二人分の麦茶を持っていくと、中田は少しバツが悪そうにギターを壁際に戻した。山岡も床に座る。
「よいしょっと。ビールの方がえかったか?」
「いえ、大丈夫です。いただきます」
 中田はテーブルに置かれたグラスを取ると一気に半分ほどを流し込んだ。山岡もライターを取り出すと大理石の灰皿を自分に引き寄せる。その後はお互いの近況報告、そして音楽談義が続いた。
「やっぱりロスのエンジニアはすごかったですよ。何手言うかフリーなんですよね、発想も技術も」
「そらお前、自由の女神がおる国やからな」
「世界は広いなって実感しましたよ。不思議です、言葉が通じなくても音楽は一緒にできるっていうのが」
「ええ経験しとるやないか」
 そんな受け答えをしながら山岡はタバコに火をつけるのも忘れて考えていた。そう、翌日発売の新曲『イシュタル』…あれが自身からの盗作であることを目の前の本人は気付いているのだろうか? 一度話題が尽きたタイミングで彼はさり気なく尋ねてみた。
「それで、俺に何か話でもあったんか?」
「あ、そうですね。あの、明日発売の山さんの新曲を聴かせてもらったんですけど」
 後輩は笑みを消す。
「ちょっと言いにくいんですけど…」
 山岡の鼓動が速くなる。思わず視線を逸らした彼の耳に聞こえた次の言葉は「あの曲、疑われてますよ」。
 …疑われてる? あれが盗作やと気付いた奴がおるっちゅうのか?
 山岡が視線を中田に戻すと、そこにはまた笑顔があった。
「でも、心配しないでください。僕の方から明日社長に言っておきますから。大丈夫ですよ、山さん」
 後輩は腕時計を見て立ち上がる。
「そろそろ失礼します。それじゃ、後のことは頼みますね。山さん、これからもよろしくお願いします」
「あ、ああ」
 ぎこちなく答えながら山岡も腰を上げる。その心臓は張り裂けそうなほど激しく脈打っていた。
 …中田はいったい何を言おうとしとるんや? いや、そんなのはわかっとる。こいつは俺の盗作に当然気付いとるんや。疑われてますよなんて持って回った言い方でそれをちらつかせながら、それでも大丈夫やと? これからもよろしくやと? 誰かが盗作やと騒いでも自分が社長に言って俺を庇うっちゅうことか? そうやって優位に立って俺をこれから先、ずっと脅迫でもするつもりか?
 漆黒の疑念だけがどんどん膨らんでいく。後輩ミュージシャンは何も言わず玄関で靴を履いていた。
 …あの曲は明日発売される。このタイミングで中田が余計なことを社長に言えば、確実に俺の立場はなくなる。会社は俺に見切りをつけて中田を全面的にバックアップするやろう。
「じゃあ山さん、また飲みましょう」
 このまま帰してはいけない、山岡にはもうそれしか考えられなくなっていた。
 中田が傘を持ってドアノブに手を掛けた瞬間、彼は大理石の灰皿を掴んだ。どれほど明確な殺意を自覚していたのか。むしろそれは発作…防衛反応に近かったのかもしれない。掴んだ灰皿は、そのまま自らの存在を脅かそうとする敵の後頭部に振り下ろされたのだ。
 鈍い音と小さなうめき声。その身体は玄関に崩れ落ちる。
「や、山さ…」
 それだけ言い残して中田はそのままピクリとも動かなくなった。血に染まった凶器を手に立ち尽くす山岡。ドアの向こうでは激しい雨が変わらず降り続いていた。

 フェードアウトしていく雨音。それと共に意識も昨夜の悪夢から現在に戻ってくる。今夜は快晴、聞こえるのはクーラーの音だけ。山岡は玄関を見つめながら考えていた…もう引き返せない、このまま突き進むしかないと。
 豪雨の中、動かなくなった中田を山岡は車で運んだ。なるべく目につかない路地裏に遺体を転がし、強盗の仕業に見せかけるためにその身体から財布と腕時計を奪った。足跡やタイヤ痕、不自然な血痕などは大雨が洗い流してくれるという目算もあった。そして自分の部屋に戻ると、ドアノブやフローリングの床、さらにギターに至るまで中田の指紋が残っていそうな箇所はすべて拭いた。中田の量の多い頭髪のおかげで血液が室内に飛び散らなかったのも彼には幸いした。
 そういえば…と彼は思い出す。遺体を放置した激しい雨の中で、どこかから流れてくるメロディを聴いた。あれはいったい何だったのか。昔どこかで聴いた気がする曲。しかし…やはりわからない。

 タバコをくわえて火をつける。そして深く深く吸い込む。
 …大丈夫、大丈夫や。中田が持ってきた傘もちゃんと現場に転がしたし、部屋の痕跡も遺体を運んだ車内の痕跡も全部綺麗に片付けた。凶器の灰皿も処分したし…大丈夫、俺は捕まらん。
 山岡は胸の中で何度も自分にそう言い聞かせた。実際この局面を乗り切れる自信もあった…今日、突然あの男が訪ねてくるまでは。
 紫煙と共に溜め息を吐くと再びソファに横になる。瞳を閉じてもなかなか寝付けそうにない。頭の中ではまたあの言葉がリピートした。

 『今日発売の新曲だけど、君らしくなかったね』