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私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
7月中旬。夜道に愛車を走らせて向かったのは都心から離れた人口二万人ほどの街。通報があったのは日曜日の午後11時07分。8階建てのマンションの一室から住人の男性が地上へ転落死したのだ。
私が現場に到着した頃には日付も変わり月曜日になっていた。所轄捜査員と見るも無残な現場検証を行ない、通報者からも話を聞く。そして鑑識作業もひと段落した午前2時、「やあムーン」といつもの重役出勤であの男が現れた。
「お疲れ様です警部。どうやってお越しになったんですか?」
そう、この人がカイカン警部。夏場でもボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪で右目を隠した警視庁きっての不審人物である。
「タクシーだよ。もう電車もなかったしね…でも想ったより遠かったな。帰りは君の車に乗せてもらおうかな」
低くてよく通る声でそう返すと、警部は地面にうつ伏せに倒れた遺体を一瞥する。そして導かれるように目の前のマンションを見上げた。今夜は曇り空で月明かりも射さない。唯一の光源である弱い外灯に照らし出された警部と遺体の構図はまるで西洋の宗教画のように見えた。
「概要は電話でもお伝えしましたが、改めて詳細をご報告してよろしいですか?」
「よろしく」
私は手帳を開き、ここまでの捜査で判明した事実を伝えていく。
死亡したのはこのマンションの801号室に住む緑川和彦、50歳男性。緑川はこのマンションのオーナーでもあるが、近年は家賃収入だけでは生計が立たずいくつか副業もしていたらしい。まあそれも無理はない。バブルの絶頂期に建てられたこの建物も歳月と共に老朽化しそれに比例して入居者も減少、現在はオーナーの暮らす8階とまだ入居者が残っている2階だけが稼動しており、それ以外のフロアは閉鎖されている状態だ。かつては都心へ通うビジネスマンたちのベッドタウンとして賑わったこの街も今は火が消えたように閑散としている。
「8階には緑川さん以外の住人はいないのかい?」
視線を地上の遺体に戻して警部が言う。
「はい、いません。もともと8階は住宅としては緑川さんの住む801号室しかなく、他のスペースは貸しオフィスとして会社などに貸していたそうですから。ただ近年はどこの会社も入っておらず本当に緑川さん一人だけのフロアになっていたようです。緑川さんは独身で同居人もおられません」
「ナルホド」
警部は独特のイントネーションでそう頷き、「この時刻によくそこまで調べたね」と少し微笑んだ。
「不動産屋さんから伺いました。あと九州に暮らしておられる緑川さんの弟さんと連絡がつきまして、そちらからも伺いました」
そう答えてから私は報告を続ける。
現在2階には十六世帯が入居している。3階から7階までのフロアは階段で上がることはできるが、階段から廊下に繋がるドアが施錠されているので実質フロアに入ることはできない。これも光熱費や清掃費の節約のためだろう、エレベーターも停止されており、2階の住人たちはみんな階段を利用して生活している。
「エレベーターも停止か。じゃあ何、緑川さんは8階まで階段で往復してるのかい?」
「いえ、8階までは別に直通の専用エレベーターがあるんです。かつては8階にオフィスを借りている人たちが使っていたようですが、現在それを利用できるのは鍵を持っている緑川さんだけです」
警部がそこでまた「ナルホド」と頷く。
「これだけ大きなマンションだ。貸しオフィスもやってたんならバブルの頃はきっと盛況だったんだろう。それが今じゃ2階に十六世帯だけか…世知辛いねえ」
「十六世帯の中には単身者もいれば家族で暮らしている人もおられます。人間の数で言うとおおよそ三十人ほどがこのマンションで暮らしていたことになります」
「そう…。ところで住人のみなさんは緑川さんの転落死についてもうご存じなのかい?」
「窓から顔を出したり外まで出てきたりした人は何人かいました。ただみんな現場を見てすぐ退散されましたね…まあ気持ちの良いものではないですから。あと時刻が時刻ですので気付かずに眠っておられる人も多いでしょう。一応マンションの入り口に警官を配置して住人の出入りはチェックしています」
「さっすがムーン、お見事!ではこの調子で緑川さんが転落した時刻や第一発見者についても詳しく教えてくれるかな?」
「 了解しました」
上司の大袈裟な褒め言葉は受け流して私は報告を続ける。
この転落死で特徴的だったのは、その発生時刻がかなり正確に判明していることだ。というのも、緑川が転落した際に空中で送電線に接触し一時的にマンションの停電が起こったからだ。先ほど修理が行なわれ現在は復旧しているが、この停電発生時刻がすなわち転落時刻となるわけであり、それは午後10時35分であった。
そして第一発見者は浅野という男性。201号室に住む名塚というサラリーマンの同僚で、たまたま部屋に来ていた。二人でパソコン作業をしていた時に突然の停電となり、五分ほど待ってみたが復旧しないため名塚は部屋を出て階段で8階に向かう。緑川の部屋のすぐ横にマンションのブレーカーがあるのを知っていたからだ。しかし特にブレーカーは落ちておらず、緑川の部屋に呼びかけてみても応答がない。彼は携帯電話でそのことを部屋の浅野に連絡、浅野は大規模停電かもしれないとマンションの外に出てみた。しかし周辺の建物には明かりが灯っている。おかしいと思いながらマンションの周りを歩いていたところで地面に倒れている緑川を発見した…という流れである。
「名塚さんはどうしてブレーカーの位置を知っていたの?」
「何年か前に停電になった時に緑川さんから教えてもらったそうです。もし自分が留守の時にブレーカーが落ちた時は直してくれてよいと。名塚さんはパソコン関係の仕事をしていて自宅での作業も多くて、だから停電は困るとくり返し緑川さんに言っていたそうです」
「警察に通報したのは浅野さんだったね」
「はい、11時07分です。倒れている緑川さんを見つけてすぐ救急と警察に通報されました。ただ緑川さんは即死で救急隊は手の施しようがありませんでしたが…」
「浅野さんが名塚さんの部屋に来たのは今夜が初めてかい?」
「いえ、これまでも何度か来ていて緑川さんの顔も知っていたそうです。現在二人とも部屋で待機してもらっていますが…お会いになりますか?」
「そうだね」
そこで言葉を止めると警部は地面に横たわる緑川を改めて観察した。遺体の近くに片膝をついて身体や衣類に触れていく。まだ自分で落ちたのかそれとも誰かに突き落とされたのかは特定できないが、遺体に表れている所見は転落死と考えて矛盾するものは何もない…それが監察医の見解であった。そのことを伝えると、警部はゆっくり立ち上がった。そしてまたマンションを仰ぐ。
「開いているあそこの窓が緑川さんの部屋?」
「そうです。遺体が発見された時もああやって窓は開いていました」
私も視線を送りながら答える。緑川が転落したのはマンションの裏側。夜中であることに加え表通りにも面していないため浅野がいなければ朝まで遺体は見つからなかったかもしれない。
「あんなに高い所から…自殺だとしたらすごい覚悟だ」
「そう…ですね」
私は少しためらいがちに返す。自殺…、緑川の転落死は確かに自殺かもしれない。しかし…やや不自然な状況証拠も残されているのだ。
生ぬるい夜風が吹いて微かに緑川の血が薫る。警部はそれが通り過ぎるのを待ってから、遺体の搬出と解剖の指示を出した。
2
201号室の居間で名塚と浅野の事情聴取が始まった。一人暮らしなら十分な広さのある室内には所狭しとパソコンやハードディスクがいくつもひしめき合っていた。名塚はスマートな体型に知的な眼鏡の短髪、浅野は対照的にやや眺めの髪に小太りな体型。年齢は共に31歳。二人とも警部の風貌には驚いていたが、簡単な挨拶を交わした後は落ち着いた様子で聴取に応じてくれた。
警部はまず、停電が緑川の転落によるものであること、よって停電が起こった午後10時35分が緑川の転落時刻であることを説明してから質問を開始した。
「もう一度確認します。停電になって五分ほどで名塚さんはすぐ8階に向かってこの部屋を出たんですね?」
「そうです。三分もあれば緑川さんがブレーカーを上げる時間としては十分ですから。でも五分待っても何も変らないんで僕は部屋を出ました。きっと緑川さんはもう寝てるんだろうと思って」
名塚は警部の質問にスラスラと答える。
「ナルホド。しかし2階から8階まで階段を上がるのは大変でしょう」
「学生時代は体育会系ですからなんてことはありません。まあ中年太りが始まってる浅野だったらきつかったでしょうけど」
そう意地悪く言った名塚に浅野が「ほっとけ」とツッコミを入れる。
「体力よりもむしろ精神力の方が必要でしたね。僕、暗い所とかあんまり得意じゃないんですよ。なんだかお化けとか出そうで…。一応懐中電灯は持っていきましたけど、真っ暗な階段や廊下を歩くのは正直怖かったです」
「お前は子供化よ」
浅野がそう言い、今度は名塚が「ほっとけ」と返した。どうやらこの二人、プライベートでも仲が良いらしい。
「でもまあ停電のままだと仕事にならないんで行くしかありませんでした。暗中模索で8階のブレーカーまでたどり着きました。でもブレーカーは落ちてない。緑川さんの部屋をノックしても応答がない。それで浅野に相談したんです」
名塚から目でバトンタッチされ今度は浅野が説明を走らせる。
「ええ、そうです。名塚に電話でそう言われて、この辺り一帯の停電かなと思ってマンションから出てみました。でも近所の明かりとかは見えたのでおかしいなと思いながら歩いてたら、マンションの裏手で…」
そこで言葉が止まる。警部が「緑川さんの遺体を発見したんですね?」と問うと彼はこくんと頷いた。
「しかしわざわざ外に出なくても部屋の窓から確認できたのでは?」
「そうでもないんですよ、ほら見てください。こいつの部屋は機材で窓が隠れてるじゃないですか」
確かにそれは浅野の言うとおり。名塚も苦笑いした。
「それにこのマンションは廊下に出ても窓はありません。だから外に出るしかないんです」
そういえば廊下の両側に部屋のドアが並んでいる構造だったな、と私も記憶で確認する。警部も納得したように微笑むと再び名塚に視線を向けた。
「浅野さんが遺体を発見した後、あなたはどうされていたんですか?」
「そのまま8階にいましたよ。浅野から緑川さんが転落してるって電話で聞いて、なんだか怖くなってしまって…その場で動けませんでした。部屋に戻ろうにも、また真っ暗闇の中を進むのは正直足がすくんでしまって」
「そうですか。0時を過ぎた頃に警察が到着したと思うのですが、それまでに緑川さんの部屋から出てきた人はいませんでしたか?」
「誰もいませんでした。ドアには鍵もかかってましたし…それは間違いありません、ずっとドアの前にいたので」
「もう一つ確認します。停電の後、あなたがこの部屋を出て緑川さんの部屋まで行く間、誰かとすれ違ったりしましたか?」
「それもありません。階段も廊下も誰もいませんでした」
警部は小声で「そうですか」と呟くと、今度は浅野に問う。
「あなたはいかがです?マンションの外に出る時に誰かに会いましたか?」
「いえ、誰も…。2階の廊下にも、1階まで下りる階段にも人の姿はありませんでした。あ、もしかして刑事さん、緑川さんが誰かに突き落とされたと思ってます?それで犯人を見ていないかってことですか?」
意外にも…と言うと失礼だが、この浅野という男、かなり察しが良いらしい。警部も感心したように「まあそんなところです」と言った。
「やっぱり…でもそれはないんじゃないですかねえ。名塚も俺も誰の姿も見ていないわけですし」
「あなた方が部屋を出るより先に、犯人がマンションの外へ逃走したとは考えられませんか?五分あれば、8階から駆け下りて1階の出入り口から逃げられたかもしれませんよ」
浅野は名塚と一瞬顔を見合わせる。そして少し黙って考えてから思い付いたように手をポンと打った。
「あ、そうだ、俺がマンションの外に出ようとした時に出入り口の自動ドアは閉まってました。ほら、停電してたから動かなかったんですよ。こじ開けようかと思ったんですけど重たくて…。だから非常口から出ました。この非常口は普段鍵がかかってて、まあツマミを回せば簡単に開くんですけど、このツマミは内側にしか付いてないんです」
「ナルホド、あなたが行った時、鍵はかかっていたんですね」
「はい。ですから誰も非常口から出た人はいないってことです」
私は頭の中で考える。となると、停電が発生してからマンションの外に出た者はいないわけだ。
「お見事な見解です…ありがとうございました」
警部はそう言って質問を終えた。その後はいくつか世間話のような会話をして緑川の人となりを確認したが、特に誰かに命を狙われるような話も、自ら命を捨てるような話も出てこなかった。
*
201号室を出た警部と私はそのまま階段で8階を目指した。二人横に並ぶのもきつそうな狭い階段、私は警部の数段後ろをついて歩く。
「ムーン、あの二人の話をどう思った?」
「特に矛盾も感じませんでしたし、事実を述べていると判断しました」
「私もだよ。彼らが緑川さんの死に関わっている可能性は低いね」
停電の直前まで彼らはパソコンで作業をしながらインターネットのテレビ電話でまた別の同僚と通話をしていたという。その点から考えても、彼らが部屋を抜け出して緑川をどうこうできたはずがない。
3
8階に到着した警部と私は廊下を進む。7階までの住宅フロアと異なりもともと貸しオフィスだったこのフロアは少し構造が違う。とはいえ廊下は一本道で何度か曲がり角はあるものの道なりに進めば特に迷うことなく801号室まで来られた。
「ここが緑川さんの部屋か。そしてそこにあるのがブレーカーだね」
警部が近くの壁を指差す。
「そうです。0時過ぎ、私と所轄の捜査員が到着した時は確かに名塚さんだけがここにいました。本当はすぐに中に入りたかったのですが鍵がかかっていました。1時頃に不動産屋さんから合鍵が届き、停電が復旧したのもこの頃です。名塚さんには部屋に戻ってもらい、私と捜査員で室内に入りました」
「玄関の鍵はかかっていた…」
そう言いながら警部は実際にドアを開けて中に進む。私も続いた。
「そしてここがすごく重要なんだけど、ムーン、室内には確かに誰もいなかったんだね?」
「はい、警部に電話で指示されたとおりその点は注意しながら室内を回りました。潜んでいた誰かが私たちの目を盗んで逃走することは不可能です」
そう、通報の時点で事故・自殺・他殺いずれの可能性もあった。そのため警部は室内に犯人が残っている可能性を指摘したのだ。
「となるとこれは事故か自殺…?」
低い声が呟いた。そして警部と私は奥の部屋まで来る。開け放たれた窓からは夜風が室内に弱弱しく迷い込んでいる。
「緑川さんがここから落ちたことも間違いないかい?」
「はい。遺体はこの真下にありました。監察医の先生の話でも少なくとも6階以上の高さから転落しているとのことでしたので、他に該当する窓はありません」
「そう…。それで、遺書が置かれていた机はこれかい?」
窓から離れる警部。私もその机に一歩歩み寄る。
そう、現場には遺書と書かれた封筒が残されていたのだ。中には一枚の便箋が入っていて、手書きで『人間として最低なことをしてしまいました。死をもって謝罪します。緑川和彦』と短く記されていた。私はそれを撮影した写真を警部に示す。
「遺書はパソコンの横に置かれていました。現物は今鑑識さんが調べてくれています。筆跡鑑定もしてもらっています」
警部は「了解」と少しだけ写真を見つめてからそれを返す。そして室内をゆっくり見回すと静かに言った。
「となるとやはり問題は…あれか」
警部が指差す。示されたのは鴨居から吊るされた特殊な形状のロープ。そう、これこそがこの転落死を不可解なものにしている一番の原因に他ならない。
*
801号室を出た警部と私はしばらくその場で黙り込む。警部はコートから取り出したおしゃぶり昆布を口にくわえ、立てた右手の人差し指をクルクルと長い前髪に巻き付け始める。考え事をする時の癖だ。私も思考を巡らせる。
果たして緑川の死の真相は?もしあの遺書が緑川の書いた本物だとすれば、これは完全な自殺。自殺であれば玄関のドアが施錠されていたことも説明がつく。彼は何らかの過ちを犯し、それに思い悩んで今夜部屋の窓から飛んだのだ。しかしそうなるとあのロープはどういうことなのだろう?
では仮にあの遺書が誰かが用意した偽物だとするとどうなる?緑川の転落には他殺の可能性が出てくる。犯人は力ずくで緑川を窓から突き落とした…あるいは何らかの方法で緑川の自由を奪ってから落としたのかもしれない。確かにそれも不可能ではない。しかしだとすると玄関の施錠はどうなる?801号室の鍵は予備も含めて室内から発見されている。犯人はどうやって合鍵を入手していたのか?
それに犯人がいたとしてもマンションの外には出ていない。出入り口の自動ドアは停電で動かず非常口も使われていなかったのだから。8階や1階のフロアに人が隠れられる場所はないし、3階から7階までは閉鎖されていてフロアそのものに入れない。となると必然的に犯人が逃げ込めるのは2階フロアだけ…犯人は2階に入居している住人ということになる。
しかし…可能だろうか?緑川が転落したことによって建物内は停電になった。そんな真っ暗闇の中を犯人は手探りで逃走したのか?停電が発生して僅か五分後には名塚が2階から8階に向かっている。彼は誰ともすれ違っていない。廊下も階段も狭くて犯人が身を隠して名塚をやり過ごせるような空間はない。となると犯人はその五分の間にこの8階から2階の自室に舞い戻ったことになる。突然の暗闇の中でそんな高速移動ができるものだろうか。私自身、現場に到着した時はその闇の中を歩いたが懐中電灯があってもとてもスムーズには進めなかった。
ふと見ると警部は黙ったまま考え続けている。時刻はもう午前4時を過ぎている。
「あの…」
これからどうするかを尋ねようとしたところで私の携帯電話が鳴った。急いで出てみるとそれは監察医からの報告だった。聞いた瞬間思わず「えっ」と声が漏れてしまう。
「どうかしたかい?」
電話を切った私に警部が話しかけてきた。
「はい、実は…解剖の前に遺体の衣類を調べていたら内ポケットから遺書が出てきたそうです」
「なんだって?」
警部の指の動きが止まる。
「それはさっき発見された遺書と同じ物?」
「違うそうです。今度は文面が全てワープロ打ちで、内容も『マンション経営がうまくいかず、自分には家族もいない。将来に光が見えないので死を選びます。緑川和彦』となっているそうで全く異なります」
「どういうことだ…」
警部が珍しく困惑の色を見せる。私も混乱していた。
…本当にどういうことだ?自殺にしろ偽装自殺にしろ遺書を二種類用意する意味がどこにある?しかも一方は机の上、もう一方は内ポケットなんてわけがわからない。
その場にまた沈黙が訪れたが、それを払うように警部が言った。
「わからない、わからないけど夜が明ける前にとにかく実験してみよう」
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ブレーカーを操作して8階フロアと階段を消灯する。辺りは再び闇に包まれた。
「本当に真っ暗だね。じゃあ行こうか」
漆黒の視界の中で低い声が動いていく。私もその気配を追って歩き出す。闇…これは深い闇だ。廊下には窓がないため外灯も差し込まない。何の光源もないのだ。警部も手探りで壁や曲がり角を探りながら進んでいく。できるだけ速足にはしているがほとんどスピードは出ない。名塚も言っていたがまさにこれは暗中模索。
何度か突っかかりながらようやく階段に到着。しかし暗闇の階段を下るというのはとてつもなく恐ろしい。踏み外したら奈落の底へ落ちてしまいそうだ。手すりがなければとても進めない。
警部は無言のまま私の前を歩く。それは慎重で正確な歩み。警部の背中を追いながら、ふと私は既視感に襲われた。
…あれ?前にもどこかでこんな話を聞いたような気がする。暗闇の中を歩く二人。ただ黙々と歩き続ける。後ろを歩く者はただ前の者について歩く…これって何だっけ?
結局思い出せないまま2階までたどり着く。フロアに入るドアを開けたことでようやくその場に明るさが訪れた。二人とも光の世界に戻ったところで警部が振り返った。
「はあ、緊張したね。どうだいムーン、かかった時間は?」
私は指示されていたとおり携帯電話の時計を見、801号室からここまでの所要時間を算出する。
「…十一分と二十秒ってところですね」
「…十一分か。やっぱり五分以内にここまで移動するのはかなりのスピードだね」
「そうですね。明るい中であれば廊下を走ったり階段を跳んで下りたりできますからそれも可能でしょうけど、暗闇の中ではそんな芸当は難しいと思います」
「停電は犯人にとって予想外のものだ。事前に移動を練習したり暗視ゴーグルを用意したりしていたとは考え難い。となるとやっぱりこれは…自殺なのかな?」
警部はそこでまた昆布をくわえて思考を開始した。
*
ブレーカーを元に戻し、警部と私は一度マンションの外に出た。夜明けはもうそこまで来ているはずだが辺りはまだ暗い。
「これからどうされます?」
「さすがに眠気がきついから少し仮眠をとろうか。シャキッとしないといいアイデアも浮かばないしね。一度警視庁に戻ろう」
5
警視庁の駐車場に愛車を停めた頃には東の空が白やんでいた。カラスたちの泣き声も騒がしくなってきている。
警部と私はいつもの部屋に入る。カーテンを閉めていたので室内は真っ暗。私が壁のスイッチを押して電灯を点けると、警部はもういつものソファに横になっていた。仰向けで瞳を閉じ、口には昆布をくわえている。
あらあら素早いことで。それにしても寝る時くらいコートやハットを脱げばいいのに…なんて今更この人に言っても仕方ない。さて、私はどうしよう。ここで眠るのもなんなので一度自宅に戻ろうか。それとも当直室が空いていたらそこを借りようか。
そんなことを考えていると、警部が弾かれたようにガバッと上半身を起こした。突然の反応に私は驚く。
「け、警部?」
「そうか…その条件を満たす人なら犯行は可能か」
その言葉を最後に警部は人差し指を立てたまま微動谷しなくなってしまう。これはこの変人の思考回路に激しく電流が流れている証拠だ。まったく…いつもながら一体どこに着想の火種があったのか私にはさっぱりわからない。
…条件、と警部は言った。あの暗闇を高速移動できる犯人の条件だろうか?それは何だ?例えば競歩の選手とか?まさか犯人は窓から脱出したなんてことは言わないよね。ハンググライダーとかロッククライミングとか…忍者じゃあるまいしそんなわけないか。それにそれでは結局二通の遺書の謎もあのロープの謎もさっぱり解決しない。
やがて朝の静寂を打ち破って室内にパチンという音が響く。警部が立てていた指を鳴らしたのだ。
「ムーン、わかったかもしれない。私の推理が正しければ、犯人はあのマンションの住人だ」
「はい。私はどう動けばよろしいですか?」
こっちはわけがわからないがそう答えるしかない。
「裏付け捜査を頼むよ。ただし今すぐじゃない。運転もして疲れてるだろうから君もまずは睡眠だ。お互い9時までは仮眠をとってその後で動き出そう」
警部はそう言うとくわえていた昆布を一気に飲み込み、再びソファに倒れ込んだ。